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さくらさく この花の起源

<桜咲く3部>
さくらさく この花の起源
さくらさく 桜文化と桜の伝搬
ポトマック河畔にさくらさく

淡いピンクに囲まれて、散歩道を歩いてゆく。

散り逝く花びらがちらりちらりと降り注ぐ。

今年はホンの少しだけ長く楽しめた。

今日の雨で散ってしまうかもしれないと思いながらも空を見上げた。

あもりつく  あめのかぐやま  かすみたつ  はるにいたれば  まつかぜに  いけなみたちて  さくらばな  このくれしげに

おきへは  かもつまよばひ  へつへに  あぢむらさわき

ももしきの  おほみやひとの  まかりでて  あそぶふねには  かぢさをも  なくてさぶしも  こぐひとなしに 

鴨君足人香具山歌一首

万葉の歌人、鴨君足人は櫻花が木の下が暗くなるほど満開になっているのに、舟に乗って遊ぶ人も泳ぐ人もいなくなって寂しいと嘆いております。

この詩は葛城を中心として繁栄した鴨氏(注1)は、今は見るものもなく寂しいものだと嘆いている歌なのです。

この「あめのかぐやま」は「あまのかぐやま」と呼ばれ、天から降ってきた山という意味です。この香具山で有名な歌が持統天皇の詩です。

春すぎて 夏来(き)にけらし 白妙(しろたへ)の 

    衣(ころも)ほすてふ 天(あま)の香具山(かぐやま)

訳:いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきたようですね。夏にな

 ると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香具山に(あの

 ように衣がひるがえっているのですから)。

非常に情感に溢れた歌ですね。

洗濯ものひらひらと棚引いている景色がありありと見えるようです。強い日差しが照りつけて、手を翳して、指の合間から香久山を覗いて、「あぁ、もう夏だな!」と呟いているような気がしませんか。

しかし、正しく読むと可笑しなところが沢山あります。

「天の香具山」は神々が天から降ってくる聖地に、下着を干すというのは如何にも不遜な気がしませんか?

伊勢神宮や靖国神社の境内に洗濯物を干している情景を描いてみて下さい。

奇妙な気がしますね。

では?

この聖域に干してある衣とは何でしょうか?

それは天の衣しかありません。

天女の羽衣と言えば、『羽衣伝説』が残されております。

天女の羽衣を奪い取り、天女を手に入れた話です。

感のいい方はもうお判りですね。

持統天皇の父は天智天皇で母が蘇我遠智娘です。夫は天武天皇です。

天武天皇が天智天皇の政権を倒して、わが世の春が来たかと思っていると、いつの間にか繁栄して、真夏のように盛り上がっている。

しかし、

気が付けば、夫(天武天皇)が病魔に倒れ、香具山に天女の羽衣が目の前にひるがえっているではないでしょうか。

そういう政権奪取の詩なのです。

怖いですね。

怖い話と言えば、

崇峻天皇の「天皇指猪而詔曰。如断猪頸、何時断朕思人。」と歌うと、蘇我馬子に逆に暗殺されました。

歌の裏読みは、時として命取りになり兼ねない時代だったようです。

それはともかく、

この7世紀後半から8世紀後半ころにかけて集められた歌集が万葉集です。

万葉集には、桜の詩が40首ほどありますが、やはり春とは梅のことで梅の詩は119首と萩に次いで2番目に多く使われております。

春を待つ喜びは梅で、桜は散り際の哀愁を歌っているような気がします。

この万葉集に詠まれた歌は、天平期(729749年)に集中していることが特徴である。

ところで『古事記』には梅(モ)が確認されていません。

『日本書紀』には、モ(mo)が13字確認されており、内の1つ梅(モ)が含まれています。

巻九の以下 

故時人号其処、曰梅豆羅国。今謂松浦訛也。

神功皇后が細鱗魚(年魚)を獲る話です。これは、「松浦」(マツラ)という地名の起源説話であり、もともとは【梅豆羅】(メヅラ)と命名された。

【梅豆羅】(メヅラ)から連想される語源は、“めずらしい”と考えられるので、『梅』は珍しいと訳すべきでなのでしょう。

つまり、古代日本において、梅は貴重な植物であり、自然に生育されていなかったことが伺えます。

古文書の中で、梅が最初に使われたと言われるのは、

『懐風藻』の葛野王の作に「春日翫鶯梅」に詠まれています。一般に7世紀後半に中国から食用・薬用にする為に輸入されたという説を裏付けとされていますがどうでしょうか。

そうなると『民のかまど』(注2)で有名な仁徳天皇が詠われた

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

王仁(わに)、和邇吉師(わにきし)〔古事記〕(注3)

訳:難波津に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、  

今はもう春になったので、咲いたよこの花が。

百人一首になっているこの詩は、仁徳天皇が自らの即位を春の枕言葉に表した一首です。

さて、この中に描かれる『この花』は何の花なのでしょう。

一般的には、梅と言われていますが、

梅が7世紀後半に入ってきたと推測すると、奇妙なことになってしまいます。

仁徳天皇は第16代天皇で、第26代継体天皇507?-531?の10代も前の天皇です。少なくとも6世紀以前の人物と思われます。

つまり、梅の渡来に100年余りの誤差がある訳です。

梅は、早い春を告げる白や桃色の花をつけ、何とも言えない香りをはなち、こよなく愛する花木です。

梅の原産地は中国の四川省や湖北省と言われます。

発音は、日本語が梅(うめ)、中国で梅(メヲ)と呼ばれます。漢字の中に『母』と字が隠されています。

中国の書物における梅の記載は、この梅は実は徐福ともつながりがありそうです。梅が中国の書物に記載されたのは、孔子が編んだ最古の詩集である『詩経』に「標有梅」とあるのが最初です。

『詩経』は紀元前11世紀から7世紀にかけての500年間の詩を集めたものですが、そこに書かれている梅は、女性が男性に梅の実を投げて愛情を表現した歌です。

 投げる梅の実 その実は七つ あなたわたしが欲しいなら 良いお日柄をはずさずに

 投げる梅の実 その実は三つ あなたわたしが欲しいなら 今この時をはずさずに

 投げる梅の実 もうないわ  あなたわたしが欲しいなら 今すぐ言葉をおかけなさい

熟した梅を熟女となぞらえて、梅を投げることが求婚の証とされていたようです。

縄文時代の遺跡に梅の遺跡はありません。

そのことからも梅が日本原産の植物でないことは明らかです。

中国では、紀元前11世紀から7世紀の『詩経』に梅の記述が載っていたということは、梅の木が普及していたことを表しています。

では、春秋戦国・秦・漢時代から日本に渡ってきた可能性はないのでしょうか?

ありました。

弥生時代と古墳時代の遺跡に梅の遺物が残っていました。

  弥生時代前期 山口県平生町 岩田遺跡(モモとともに)

  弥生時代前期 大阪府八尾市 亀井遺跡(梅の自然木の断片)

  弥生時代前期 山口県綾木郷 台地遺跡

  弥生時代中期 山口県熊毛町 岡山遺跡

  弥生時代中期 京都府綾部市 青野遺跡

  弥生時代後期 奈良県榛原市 高塚遺跡(モモ・クリと共に)

  弥生時代後期 東京都板橋区 前川泥炭層(梅の破片2個)

  古墳時代前期 山口県平生町 吹越遺跡

  古墳時代前期 奈良県桜井市 大西遺跡

  古墳時代前期 愛知県豊田市 伊布遺跡

梅が日本に渡って来たのは弥生時代前期となります。

最も古いのが山口と考えられ、そこから日本全国に広まっていったとも思えます。

そうそう、山口県には、徐福が上陸した土井ヶ浜遺跡があるので、もしかしたら徐福伝説とも共に上陸したのかもしれません。

梅が入ってきたのは7世紀後半ではなく、弥生時代ということが判りました。

しかし、5世紀の倭の五王(わのごおう)時代には、梅豆羅から推測されますように珍しい植物で大王(おおきみ)などの有力豪族にしか手に入らない貴重なものだったに違いありません。

しかし、7世紀後半から描かれる万葉の歌で119首も詠われるのを見ますと、7世紀後半には普及していたと考えられます。6世紀後半から7世紀に掛けて、輸入あるいは育成が盛んになったのでしょう。

6世紀と言えば、

513年に百済より五経博士が日本に来日し、儒教が日本に伝わる。

538年に百済の聖明王が仏像と経論を朝廷に送り、日本に仏教伝来する。

587年に排仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子の間で丁未の乱が起こり、蘇我氏の物部氏を滅ぼす。

593年に聖徳太子が推古天皇の摂政となる。

600年に日本が第1回遣隋使を派遣する。

このように蘇我、聖徳太子の時代になってから、仏教を始め新しい文化を導入することに熱心になった時代です。

梅の木もその頃に多く輸入され、さらに育成の技術も入って来たのでしょう。

梅は桜より早く咲くことから春を表す代名詞となり、こうして7世紀後半には万葉集に梅の詩が多く歌われたのでしょう。

さてさて、桜が起源はどこなのでしょう。

<桜の起源>

どこかの国が、日帝時代に自国より持ち帰ったんだ。

なんていう法螺を言っていますが、これはまったくの嘘です。

1000年以上も前の万葉の歌になっている桜が、タイムスリップでもしない限り、118年前の日清戦争1895年以後に持ち帰った桜が万葉集に載ることはありません。

詳しくはこちらの方に書いておきおります。

『ポトマック河畔にさくらさく』

http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-32f9.html

植物界バラ目バラ科のサクラ属は約400種からなると言われます。また、固有種・交配種を含め600種以上の品種が存在しまう。その中で果実の特徴からサクラ亜属 subg. Cerasus と呼ばれます。日本に自生するサクラ亜属は57種類ほどが認められており、変性や交雑などから数十種類の自生種が存在するそうです。が、難しくて良く判りません。

サクラの原産地はヒマラヤ近郊と考えられており、北半球の温帯に広範に分布しております。ヒマラヤ原産の桜は中国に渡り30種の原種を作り、その内の9種が日本に来たと考えられます。

その内で、ヤマザクラ、オオシマザクラ、エドヒガンなど10種ほどが自然種と認められており、ソメイヨシノの片親であるオオシマザクラは伊豆大島など南部暖帯に自生する固有種で少なくとも数百万年前から自生していると考えられます。それを裏付けるように鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっています。

また、日本三大桜の一つ、野生のエドヒガンザクラである神代桜(じんだいざくら)は推定樹齢は2000年と言われ、1922 (大正11年) 1012日に日本最初の国指定天然記念物に指定されています。

  

Photo_4

01

(山梨県北杜市武川町の実相寺内)

言い伝えでは、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征の折に植えたと言われ、それが名前の由来になっています。

また、13世紀ごろ、日蓮聖人がこの木の衰えを見て、回復を祈ったところ再びう命の躍動を取り戻したことより、「妙法桜」ともいわれています。

さらに、『古事記』、『日本書紀』には、

木の花(桜の花とされる)が咲くように美しい女性という意味で、桜の名を持つ木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)、木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)がいます。

木花之佐久夜毘売は、オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、オオヤマツミは神産みにおいて伊弉諾尊と伊弉冉尊との間に生まれた神です。

さらに、木花之佐久夜毘売は天照大神の孫天孫ニニギノミコトと結婚し、ホデリ・ホスセリ・ホオリ)の三柱の子を産みます。

ホオリ(火遠理命:ほおりのみこと)は海神の娘のトヨタマビメ(豊玉毘売)を妻とし、「日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)(神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと)の父)」をもうけた。

この日子波限建鵜葺草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)こそ、初代天皇の神武天皇(じんむてんのう)であります。

つまり、桜の名を持つ木花之佐久夜毘売(コノハナサクヤビメ)は、日本の系図に深く関わっていることが伺われるのです。

また、オオヤマツミが「コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろう」と言っていることから、桜は繁栄の象徴でもあるのです。

その中に桜の文字が現われるのは、『日本書紀』です。

花はぐし 桜の愛で 同愛でば 早く愛でず 我が愛づる子ら

これは桜の最古と言われる歌で、允恭天皇が衣通郎姫を思って詠んだものと言われています。衣通郎姫は、『古事記』、『日本書紀』に書かれている衣通姫伝説(そとおりひめでんせつ)です。木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)、軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)という兄妹が愛し合い、別れ、再会し、愛し合いながら自害するという悲しいラブロマンスです。允恭天皇は二人の兄妹の父なのです。

“はぐし”にはつっかえ棒が外されたという意味があり、花を外されたと読むべきなのでしょうか。花はずしは繁栄から外れたという意味で、花が咲く蕾とでも読むのでしょうか。

“愛()”が4回も書かれえおり、“同(こと)”と読みますから“ことめ”と読めます。“ことめ”は、小姑(こじゅうとめ)と書き、夫の姉妹にあたる人を差します。同じように、“コトメ子”はコトメの子どもといい夫の甥・姪に当たります。

当然、“同愛”は木梨軽皇子と軽大娘皇女のことでしょう。

允恭天皇が自らの子供達を“道を外した可愛い子供達だが、それでも愛さずにいられない”と言った感じの歌なのでしょう。

桜の観賞は、9世紀前半に嵯峨天皇が南殿に桜を植えて,宴を催したのが最初と言われています。平安時代に移り、春の花が桜へと変わっていったのです。野生の桜を都市部に移植して、桜の花見の風習が始まり、その後,貴族から武士や大衆へ,そして都から地方へと広まっていきました。

豊臣秀吉が我が故郷吉野と醍醐(京都)で盛大な花見を催したのは有名な話です。

3代将軍家光が上野に寛永寺を建てて吉野の桜を移植し,隅田川河畔にも桜を植えました。8代将軍吉宗が飛鳥山を桜の名所にしました。歌舞伎の忠臣蔵で「花は桜木、人は武士」という台詞が平然と言われるくらい、日本の花となっていきました。

おかげで江戸時代末期に登場したソメイヨシノは日本中に花見の風習を広く普及に貢献し、日本全国の文化となっていったのです。

その為に、春の訪れとともに咲くのが桜の80%がソメイヨシノと言われております。しかし、自生種(山桜を代表とする桜)、一重の里桜(染井吉野が代表)、そして、里桜(八重~半八重桜)があり、大きく分けて9種類、全部で400種類以上の桜が春を彩っているのです。

さて、あなたの桜の名所はどこですか?

春といへば誰も吉野の花をおもふ心にふかきゆゑやあるらん 

訳:春と言えば,誰でもまず吉野の桜を思うはずだ。その気持ちに何の深い訳などあるだろう。

注1:鴨は賀茂とも呼ばれる安部氏に並ぶ陰陽の祖先、「沖の方では鴨が妻」母神の多紀理毘売の命、「岸の方では味鴨」阿遅鋤高日子根命 、「船には梶も棹もなく」は妃の天御梶日女命を祀る出雲の多久社で大船大明神と呼ばれ、葛城を中心として繁栄した。

注2:高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどは賑ひにけり

注3:応神天皇の時代に百済より来朝。『論語』『千字文』を伝来し、皇太子宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)に典籍を講読したと伝わる。書首(ふみのおびと)などの祖とされる。楽浪郡の豪族の王氏の後裔とする説や、百済第16代辰斯王の子辰孫王とする説などがある。

■万葉集で桜(さくら)を詠んだ歌

 

0829: 梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや

 

<藥師張氏福子(くすしちょうしのふくし)

 

 

 

烏梅能波奈 佐企弖知理奈波 佐久良婆那 都伎弖佐久倍久 奈利尓弖阿良受也

 

 

 

梅の花が咲いて散ったら、すぐに続いて桜(さくら)が咲きそうになっているではないですか。

 

<平2年1月13日、大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅で催された宴会のときに詠まれた歌の一首>

 

 

 

1212: 足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで<作者:不明>

 

 

 

足代過而 絲鹿乃山之 櫻花 不散在南 還来万代

 

 

 

足代(あて)を過ぎて糸鹿(いとか)の山まで来てしまいました。私が戻ってくるまで桜が散らないで欲しい。

 

(注):「足代(あて)」は、現在の和歌山県有田市、有田郡あたり

 

 

 

1425: あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも<春雑歌 山部赤人>

 

 

 

足比奇乃 山桜花 日並而 如是開有者 甚恋目夜裳

 

 

 

山桜が連日満開だ、こんなに長く満開が続けば山桜をひどく恋する事などないだろう。

 

 

 

1430: 去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも(若宮年魚麿 わかみやのあゆまろ)

 

 

 

去年之春 相有之君尓 戀尓手師 櫻花者 迎来良之母

 

 

 

去年の春にお会いしたあなたのことが恋しくて、桜の花が咲いて迎えているようですね。

 

<はおとめらのかざしのためにみやびをの...の反歌>

 

 

 

0257: 天降りつく 天の香具山 霞立つ 春に至れば 松風に 池波立ちて 桜花 木の晩茂に

 

   奥邊は 鴨妻呼ばひ 邊つ辺に あぢ群騒き

 

   ももしきの 大宮人の 退り出て 遊ぶ船には 楫棹も 無くて寂しも 漕ぐ人なしに

 

 (鴨君足人(かものきみ たりひと)の香具山の歌一首 并に短歌)

 

 

 

   人漕がず あらくもしるし 潜きする

 

          鴦とたかべと 船の上に棲む

 

 

 

   何時の間も 神さびけるか 香山の

 

          桙杉の本に 苔生すまでに

 

 

 

   右、今案(かむが)ふるに、都を寧樂(なら)に遷(うつ)しし後、舊(ふる)きを怜(あはれ)びてこの歌を作るか。

 

 

 

<原文>

 

原文と読み

 

鴨君足人香具山歌一首

 

天降付  天之芳来山  霞立  春尓至婆  松風尓  池浪立而  櫻花  木乃晩茂尓

 

あもりつく  あめのかぐやま  かすみたつ  はるにいたれば  まつかぜに  いけなみたちて  さくらばな  このくれしげに

 

奥邊波  鴨妻喚  邊津方尓  味村左和伎 

 

おきへは  かもつまよばひ  へつへに  あぢむらさわき 

 

百礒城之  大宮人乃  退出而  遊船尓波  梶棹毛  無而不樂毛  己具人奈四二 

 

ももしきの  おほみやひとの  まかりでて  あそぶふねには  かぢさをも  なくてさぶしも  こぐひとなしに 

 

 

 

反歌二首

 

人不榜  有雲知之  潜為  鴦与高部共  船上住

 

ひとこがず  あらくもしるし  かづきする  をしとたかべと  ふねのうへにすむ

 

 

 

何時間毛  神左備祁留鹿  香山之  鉾榲之本尓  薜生左右二

 

いつのまも  かむさびけるか  かぐやまの  ほこすぎがもとに  こけむすまでに

 

右今案遷都寧樂之後怜舊作此歌歟

 

 

 

 

 

天降って来た天の香具山は、霞の立つ春になると、松風に池の波が立ち、桜の花は木の下が暗くなるほど繁り、沖辺では鴨が妻を呼び、岸辺ではあじがもの群れが騒いで、かつて大宮人が宮殿から退出して遊んだ船には、今は梶も棹も無くて淋しい。漕ぐ人も無くて。

 

反歌

 

水にくぐるオシドリとコガモとが舟の上に住んでいるのを見れば、人が漕がずに捨ててあることがはっきりわかることだ。

 

何時の間にまあこんなに古めかしくなっていまったのだろうか。香具山の鉾杉の根元に苔の生えるほどに。

 

 

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