済南事件
事件の中で、日本人居留民12名(男10、女2)が殺害され、日本人居留民のその他の被害は、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。
日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある。
・1927年(昭和2年)3月 南京事件
・1927年(昭和2年)4月3日 漢口事件
●1928年(昭和3年)5月3日 済南事件(さいなんじけん)
・1931年(昭和6年、民国20年)9月18日 満州事変
・1932年(昭和7年、民国21年) 満州国建国
・1932年(昭和7年)1月~3月 第一次上海事変
・1936年(昭和11年)9月23日 日本人水兵射殺事件
・1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件
・1937年(昭和12年)7月25日から26日 廊坊事件(ろうぼうじけん)
・1937年(昭和12年)7月26日 広安門事件
・1937年(昭和12年)7月26日 平津作戦
・1937年(昭和12年)7月29日 通州事件
・1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
・1937年(昭和12年)南京事件(なんきんじけん) 「南京大虐殺」
済南事件(さいなんじけん)は1928年(昭和3)5月3日、中国山東省の済南における、国民革命軍の一部による日本人襲撃事件、および日本の権益と日本人居留民を保護するために派遣された日本軍(第二次山東出兵)と、北伐中であった蒋介石率いる国民革命軍(南軍)との間に起きた武力衝突事件。蒋介石は日本軍による北伐の妨害であったと後に非難している。藤田栄介青島総領事は、南軍による組織的に計画された衝突と述べている。
事件の中で、日本人居留民12名が殺害され、日本側の「膺懲」気運が高まった。一方、日本軍により旧山東交渉公署の蔡特派交渉員以下16名が殺害されたが、中国側はこれを重く見て、日本軍の「無抵抗の外交官殺害」を強く非難した。さらにこれを機に、日本軍は増派(第三次山東出兵)を決定した。
衝突はいったん収まったものの、5月8日、軍事当局間の交渉が決裂。日本軍は司令部と城壁に限り、砲撃を開始。安全地帯と避難路を指定したため、南軍は夜陰に乗じて城外へ脱出し北伐を続行した。5月11日、日本軍は抵抗なく済南を占領した。中国側によれば、その際、中国軍民に数千人の死者が出たとされる。藤田栄介青島総領事によると、中国商民らは日本軍の正確な砲撃によって被害のなかったことに感謝していた。
・朝日新聞 五月五日と六日の朝日新聞 「邦人虐殺数二百八十」と実際の二〇倍以上にのぼる誇大な数字を報じた。
〔強硬派の酒井隆少佐が打電したものを陸軍省が流したものといわれている。〕
実際の虐殺数は十二名、この時点では必ずしも南軍の仕業とは断定できない。「膺懲」世論を煽るための作為的な情報操作と思われても致し方ない。
臨時済南派遣隊第六中隊の手によって十二名の遺体が確認されたのは、5日午後3時であり、五月五日の新聞に載せることは不可能だったのです。
・内容
膠済鉄道は日本の借款鉄道であり、同鉄道沿線の鉱山は日中合弁会社が経営するなど、山東省には日本の権益も存在した。
山東省における日本人居留民数は、昭和2年末の外務省調査によれば、総計約16940人に達し、そのうち青島付近に約13640人、済南に約2160人であり、投資総額は約1億5千万円に達していた。
・被害状況
日本側の参謀本部が編纂した『昭和三年支那事変出兵史』によれば、被害人員約400、被害見積額は当時の金額で35万9千円に達したという。日本人居留民の被害、死者12(男10、女2)、負傷後死亡した男性2、暴行侮辱を受けたもの30余、陵辱2、掠奪被害戸数136戸、被害人員約400、生活の根柢を覆されたもの約280、との記録が残っている。なお、日本軍の損害は、死者26名、負傷者157名。[10] 被害者の治療は同仁会 済南病院にて行われ、軍、警察、中国側の立会いの下に同病院内で検死が行われた。
日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割木を挿し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱し居れるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある。なお、居留民の虐殺については、「(犠牲者の)多くがモヒ・ヘロインの密売者であり、惨殺は土民の手で行われたものと思われる節が多かった」(佐々木到一少将、「ある軍人の自伝」)との見方もある。ただし佐々木到一氏は1928年5月3日の事件当時、他の被害者同様に中国側の兵士、民衆に暴行を加えられた上略奪も受けており、所持していた総司令部の護照のおかげで殺されずに済んだことを当時の陸軍省軍務局長 阿部信行宛の報告書「被害状況に関する件報告」(昭和3年5月8日 陸軍省歩兵中佐 佐々木到一)にて述べている。[12]
中国側の資料によれば、中国側の被害は、軍・民あわせて、死者は「中国側済南事件調査代表団」の報告では「約3,000人」、「済南惨案被害者家族連合会」の調査では「6,123人」。負傷者数は「中国側済南事件調査代表団」では「1,450名」、「済南惨案被害者家族連合会」では「1,701名」とされている。
虐殺された日本人の遺体が済南病院で検死されている写真が、中国の新華出版社から出された『日本侵華図片史料集』や吉林省博物館に、731部隊が中国人に細菌人体実験をしている写真として掲載され、そのイラストが中学生用の歴史教科書にも掲載された。同様の写真は『朝日ジャーナル』(昭和59年11月2日号)の「東京裁判への道」(粟屋憲太郎)にも、日本軍が進めた細菌による人体実験の一場面として掲載された。また、平成4年11月21日夜10時からテレビ朝日が報じた「戦争とはかくも非人間的な行為を生むものか」と題した番組では、元軍医と元衛生兵が、吉林省博物館に掲げてある「七三一部隊細菌戦人体実験」(実際は、済南事件で虐殺された日本人の遺体が済南病院で検死されている写真)にひたすら謝罪した。
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済南事件
邦人虐殺数二百八十 言語に絶する暴戻
【天津電通四日午後九時半発至急報】天津に入電せる確報によれば三日南軍に虐殺された邦人は二百八十名でこれは皆我軍の警備区域外居住のものである
【北京特派員四日発】南軍兵士の暴行言語に絶し尚調査中なるも日本婦人を裸体として虐殺せるを始めとしてこれに類せる酸鼻を極めた事件が甚だ多いと
【北京特派員四日発】済南邦人虐殺の事実は濃厚で我軍諜者の情報によれば館駅街地方の邦人虐殺されたとのことなれど同方面は今尚我軍の力およばず真偽取調べ難きも各方面の状況より判断すれば同地に居残つたものは絶望と見る外ない、同地居住邦人は約十家族である
『東京朝日新聞』 昭和三年五月五日 第二面、上段中、四段見出し
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済南事件
五月三日午前八時頃東地区警備隊に於ては 隊長(小泉中佐にして副官随行)城内に南軍総司令を往訪し 不在の為第四中隊長(大尉難波元吉)は隊長代理として師団長の巡視を迎へんとし 東地区警備隊本部(旧朝鮮銀行社宅)に在り
然るに午前九時三十分済南日報社(普利門、街)より「麒趾門街一の日本人住宅に支那兵闖入し掠奪を開始せり 速に来援を請ふ 現地に案内すへきに依り先つ済南日報社に来られたし」との電話に接し 直に部下中隊に警急集合を命し 取敢す第一小隊長(中尉久米川好春)をして小銃二分隊軽機関銃一分隊(長以下二十七にして外に田中、辻両曹長同行す 以下久米川小隊と称す)を率ゐ 先つ済南日報社に急行せしむ
是より先緯の派出所に在りし我総領事館警察巡査二(岡田静雄 山下茂一)は署長より掠奪地に急行を命せられ 吉房方に到りしに 同家は午前九時二十分頃より南軍暴兵約三十の為掠奪せられ主人は暴行を受け逃れて現地に在らさるも 南軍兵尚十数名同家に留れるを以て退散を要求せしに 却て彼等の為銃剣を以て威嚇せられ 山下巡査隙を見て報告に赴くや 岡田巡査は暴兵の為殴打せられ叉将に佩剣を奪はれ且射殺せられんとせしとき 恰も久米川小隊現場に到著せしかは 暴兵は忽ち東方約百米なる其兵舎に向つて遁走し 岡田巡査は辛うして危難を免れたり
小隊長は後日の証拠として掠奪兵を逮捕せんとし逃くるを追うて其兵舎(市中に散在し其構造一般民家と大差なし)前に達するや門内舎前に立哨中の二名の銃前哨俄然我に向つて射撃し遁入せし掠奪兵も亦加りて射撃を開始す
小隊は一物の掩護なき路上に於て射撃を蒙り已むなく之に応戦するに決し直に射撃を開始し我に射撃を加へし敵歩哨を射殺す 時に午前十時なり
然るに敵は兵舎及圍墻を利用して我を猛射し小隊は之に応戦して戦闘激烈となる 是に於て小隊長は責任者の徹底的膺懲を必要と認め田中曹長をして状況を中隊に報告せしむると共に中隊主力の出動に関する意見を具申せり
此小闘を端緒として各所一斉に南軍部隊の射撃及掠奪は開始せられ瞬時にして全商埠地内に波及するに至れり 之を五月三日事件の発端となす
参謀本部『昭和三年支那事変出兵史』P225~P226より
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済南事件
西田畊一(こういち)在済南総領事代理が酒井少佐とともに蒋介石と会見していた五月三日の午前九時半頃、事件が発生した。
日本側の説明だと発端は、国民革命軍の正規兵約三〇人が城外の商埠地内で満州日報の取次店を営む在留邦人の吉房長平宅を掠奪したことにはじまる。そして、この知らせを受けた久米川好春中尉が率いる日本軍約三〇人と襲撃した中国兵約三〇人との間で銃撃戦が開始され、近辺でも複数の個所で射ちあいが発生したとしている。
実態は、国民革命軍の反日宣伝をめぐる紛糾かと推定できるが、吉房宅は、日中両軍が激戦を交わした麟趾門街からは七〇〇メートルほど離れた場所であり、軍事衝突の直接的な誘因とは考えにくい。
一方、中国側の見解だと、病気の第四〇軍兵士一人を病院につれていく途中で、日本兵に阻止されて言い争いとなり、発砲されたという(この時、中国兵一人と中国人人夫一人が死亡)。
いずれの言い分が正しいか検証は困難であるが、第四〇軍第三師歩兵第七団の将兵約一二〇〇人のうち、一〇〇四人までが約二時間の間に捕虜となっており、日本側一〇人に対して一五〇余人もの死者を中国側が出していることから、中国軍にとってこの銃撃戦は突発事であり、計画的だったとは考えにくい。
問題の居留民虐殺は、この軍事衝突の合い問に生じたが、死者一六人とも一三人(うち九人が虐殺)ともいわれる被害者の多くは朝鮮人の麻薬販売人や売春業者で、一般居留民のように避退せず、残留していたものらしい。
ところが、五月五日と六日の朝日新聞などは「邦人虐殺数二百八十」と実際の二〇倍以上にのぼる誇大な数字を報じた。大規模出兵を望んでいた強硬派の酒井隆少佐が打電したものを陸軍省が流したものといわれている。こうした情勢を背景に、現地の第六師団長は責任者の処刑や関係部隊の武装解除など五ヵ条の期限付要求を中国側に交付した。
予想しない事態に中国側は驚き、回答期限の延期を要求したが、日本軍側は、「軍の威信上已むなく断然たる処置に出て要求を貫徹」すると通告したのち、八日早朝から済南城に対する大規模な攻撃を開始し、済南周辺を占領した。
この攻撃により、中国側には、一般市民をふくむ三六〇〇人の死者と一四〇〇人もの負傷者が出たとされる(日本軍の死者は二六人、負傷者一五七人であった)。
このような日本側の強硬姿勢は、北伐軍の進攻を遅らせ、張作霖政権との間で懸案となっている中国東北地方における鉄道問題等の契約交渉の成立をも視野に入れたものといえよう。
これに対し、日本軍との決戦を回避した蒋介石は、中国軍を撤退させ迂回して北京へ向かい北上したため、交戦は短期間で終わった。そして外交交渉に移り、二九年三月に合意が漸く成立し、日本軍は撤兵する。
『世界戦争犯罪辞典』 P62~P63より
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8 通州事件(四)
通州事件は、飼犬に手を噛まれたような事件であり、不幸な事件であるとともに不名誉な事件であった。松村秀逸少佐は、陸軍省の新聞班に所属し、盧溝橋事件が起るとともに天津へ出張してきていたが、通州事件の報に接した支那派遣軍司令部の狼狽ぶりをしるした―
その報、一度天津に伝わるや、司令部は狼狽した。私は、幕僚の首脳者が集っている席上に呼ばれて、<この事件は、新聞にでないようにしてくれ>との相談を受けた。
「それは駄目だ。通州は北京に近く、各国人監視のなかに行われたこの残劇(ママ)が、わからぬ筈はない。もう租界の無線にのって、世界中に拡まっていますヨ」
「君は、わざわざ東京の新聞班から、やってきたんじゃないか。それ位の事が出来ないのか」
「新聞班から来たから出来ないのだ。この事件をかくせなどと言われるなら、常識を疑わざるを得ない」
あとは、売言葉に買言葉で激論になった。私は、まだ少佐だったし、相手は大、中佐の参謀連中だった。あまり馬鹿気たことを言うので、こちらも少々腹が立ち、配下の保安隊が叛乱したので、妙に責任逃れに汲々たる口吻であるのが癪にさわり、上官相手に激越な口調になったのかもしれない。
激論の最中に、千葉の歩兵学校から着任されて間もなかった矢野参謀副長が、すっくと立上がって<よし、議論はわかった。事ここに至っては、かくすななどと(ママ)姑息なことは、やらない方がよかろう。発表するより仕方がないだろう。保安隊に対して天津軍の指導宜しきを得なかった事は、天子様に御詫しなければならない>と言って、東の方を向いて御辞儀をされた。この発言と処作で、一座はしんとした。
<では発表します>と言って、私が部屋を出ようとすると、この発表を好ましく思っておらなかった橋本参謀長(秀信中佐)は「保安隊とせずに中国人の部隊にしてくれ」との注文だった。勿論、中国人の部隊には違いなかったが、私は、ものわかりのよい橋本さんが、妙なことを心配するものだと思った。
―かくして通州事件はあかるみに出たが、新聞は逆に「地獄絵巻」を書き立てて日本の読者を煽りたてた。
信夫信三郎氏「聖断の歴史学」(P116~P117)
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参考
・済南事件
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/478530/465045/81885138
・南京事件-日中戦争 小さな資料集
http://www.geocities.jp/yu77799/
<マイブログ>
通州事件とプロパガンダ
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-031a.html
膺懲:よう‐ちょう、うちこらすこと。征伐してこらしめること。
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