1月19日 平治の乱 平清盛とデフレ
1160年1月19日(平治元年12月9日)と言えば、去年の大河ドラマになった平清盛で描かれた平治の乱が起こった日です。
これに勝利した平清盛は平家の世を謳歌するのですが、何故、平家があれほどの財力を蓄えたのかは描かれていません。
平清盛のおいて、平家の財を与えたのは宋との貿易で、偽物の粗悪な和銭を廃止し、通貨を安定させる為に宋銭を用いたことが大きいのです。
粗悪和銭は銅の量が少なく、誰でも偽物を作ることができた為に安心して、取引に使えませんでした。
それゆえに、朝廷や地方の領主は、米や絹を通貨の代わりに使っていたのです。
しかし、米や絹は持ち運びに便利とは行きません。
経済を活性化する為には、偽造できない通貨の登場が必須だった訳です。
平清盛は宋銭によって通貨の安定させたことで国内の産業が盛んになり、その富を一手に手に入れることに成功した。まさに我が世の春でありました。
しかし、平家を滅亡に追いやったのも宋銭です。
宋銭の偽造が困難であった為に通貨の安定を図れたのですが、国が落ち着き産業が盛んになると通貨の量が追い付かなくなったのです。
使う人が増えたのに、お金の量が同じなら通貨不足が発生する。
つまり、デフレが起こったのです。
需要が多くと供給が足りない、そんなお金が足りない状況をデフレといいます。
お金が足りないのでお金の価値が上がってゆきます。宋銭1文で買える絹・米の量が2倍・3倍に膨れ上がってゆきます。米や絹を持っている朝廷や荘園領主、地方武士が富を奪われる形なり、平家の不満が増大してゆきました。
清盛も宋から購入する宋銭の量を増やすのですが、宋貿易は1年で1周しかできませんので絶対量が不足したままでした。
遂に「宋銭は(日本の)朝廷で発行した貨幣ではなく、私鋳銭(贋金)と同じである」と平家への不満が爆発し、公家や荘園領主は後白河法皇を担ぎ出しました。
平清盛は後白河法皇を幽閉したのです。
大河ドラマでは、こういった背景を描いていないので、どうして反乱が成功したのか謎でしょう。
特に西国よりも東国の方が宋銭の流れが悪かったので、平氏への反感も高まります。
奥州藤原氏のように金を産出しない東国はよりデフレに苦しまられます。
平家打倒に立ち上がったのが、何故東国武将なのか?
宋銭は西国より入ってきます。デフレで一番苦しめられたのが、東国武将だったからです。
その不満が源氏の御曹司を担ぎ出し、デフレ解消の為に平家を滅ぼしたのです。
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