番外 名君義元 東海一の弓取りの事(2)<<相模の穴熊を屈させた事>>
今川家と北条家の関係は複雑です。
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番外 名君義元 東海一の弓取りの事(2)<<相模の穴熊を屈させた事>>
北条家の初代、早雲は素浪人から身を起こした戦国大名と言われますが、近年の研究から名門伊勢氏の一族であったことが知られています。
早雲は、当時、伊勢新九郎盛時と名乗り、室町幕府の政所執事を務めていた。盛時の姉は義忠の正室で北川殿と呼ばれておりました。
今川家は、駿河今川家6代当主、義忠(よしただ)の戦死によって、嫡男の龍王丸と従兄弟の小鹿範満の間で家督争いが起こります。
範満の外祖父であった堀越公方執事の上杉政憲と扇谷上杉家家宰の太田道灌が兵を率いて駿河へ進駐して家督争いに介入します。
伊勢氏の幕臣であった盛時は、室町幕府の遺構を受けて、駿河の家督争いに介入した結果、範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着しました。
しかし、龍王丸が15歳を過ぎても家督を返さないどころか、危害を加えるようになります。
北川殿と龍王丸は盛時に助けを求め、盛時の助力もあり、範満を誅殺して氏親を今川家7代当主にします。
盛時は富士下方12郷と興国寺城を頂き、今川の家臣(守護代)となります。
「伊勢新九郎盛時」から「早雲庵宗瑞」に名を改めた早雲は、遠江、甲斐に出兵し、遂には三河まで進出します。
その後、転進して相模、武蔵まで兵を進めます。相模三浦氏を滅ぼし、相模平定した後に伊勢(後北条)氏として独立を果たします。
北条家は今川家にとって家臣であり、外縁親族であり、恩人の国だったのです。
<<相模の穴熊を屈させた事>>
北条早雲と呼ばれますが、相模伊勢氏が北条氏を名乗るのは、早雲の死後、大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めました。
今川氏親は、東は房総半島から西は三河、北は甲斐にまで勢力を伸ばしたことになります。
ただ、遠江を攻めたのは、総大将を早雲(伊勢氏)、副将を福島正成として攻めた。
さらに、、甲斐国都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦い。関東進出にも進出し、扇谷上杉氏に味方して山内上杉家と戦った。
永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎え、氏輝、彦五郎、玄広恵探、義元、氏豊、瑞渓院(北条氏康室)、娘(松平親善室、後鵜殿長持室)、娘(中御門宣綱室)、娘(関口親永室、築山殿の母)を生む。
永正13年(1516年)7月、早雲が三浦 義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せ、相模全域を平定し、同年8月、引馬城の大河内貞綱を打ち取った氏親は、遠江を平定した。
氏親時代は、守護代の盛時(早雲)に支えられて当主の宗主権強化に努め、駿河・遠江・相模の3国を治めることになります。
遠江の検地を進め、安倍金山(井川・梅ヶ島・大河内・玉川の各金山の総称)の開発を進め、『追掘(おっぽり)』という河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法から『問掘(といぼり)』という坑道を掘ることによって金鉱石を採取する方法に変えました。慶長3年の太閤検知(※1)から判るように田畑の石高が意外と駿河・遠江の財政を金山の育成で補った訳です。
しかし、大永6年(1526年)4月に分国法『今川仮名目録』を制定しているように、今川家の基盤は未だ脆弱でした。
その原因は、伊勢氏、福島氏に代表される家臣(国人)の権限が大きかったことです。
氏親の死去によって、14歳の嫡男、氏輝(うじてる)が第8代当主を家督相続します。
氏輝時代は、一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備することになります。しかし、三河で松平氏が活動を強めると、守勢に立たされた今川方は三河を放棄します。
氏輝が病弱だった為か、三河を放棄したことが要因か判りませんが、家臣(国人)の支持が低かったと思われます。
しかし、家督を相続してわずか10年で自殺か、将又、謀略か、いずれか判りませんが突然に他界します。
・「今月十七日、氏輝死去[廿四日、止々]、同彦五郎同日遠行」静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)
(天文5年(1536年)、3月17日、氏輝死去。24日に止々。同じく彦五郎が同日遠行。)
・「十八日、例之建長・円覚之僧達、為今川殿不例之祈祷大般若被読、然而十七日ニ氏照死去注進之間、即夜中被退経席畢、今川氏親一男也、」静岡県史 資料編7「快元僧都記」
(18日、例の建長寺・円覚寺の僧たちが今川殿のため不例の祈祷で大般若経を読まれた。そして17日に氏輝が死去したとの報告があったので、すぐに夜中に経席を退出した。今川氏親の息子である。)
・「十七日、今川氏照・同彦五郎同時ニ死ス、」静岡県史 資料編7「高白斎記」
(17日、今川氏輝・同じく彦五郎が同時に死す。)
・「此年四月十日、駿河ノ屋形御兄弟死去被食候、」静岡県史 資料編7「妙法寺記」
(この年4月10日、駿河の屋形ご兄弟が死去なされました。)
資料に日にちのバラツキや氏輝と彦五郎の死亡日時にバラツキがあり、確証を得るにはほど遠いですが、当主と次期当主の二人がほぼ同時に亡くなったことで、家督争いが起こるのです。
家督争いに名を連ねたのは、3男の玄広恵探(母:福島正成の娘)と4男の栴岳承芳(母:寿桂尼)です。
正室の寿桂尼の子である栴岳承芳(義元)の方が正統な血筋であるが、側室と言えど、同じ氏親の子であり、栴岳承芳(義元)の兄にあたる玄広恵探を押した福島正成が反旗を翻し、花倉の乱(はなくらのらん)を起こします。
花倉の乱で、北条氏綱は正室寿桂尼の子である栴岳承芳(義元)を支持しますが、遠江を一緒に攻めた福島氏とも親しい間柄であったと思われます。
北条氏綱は、両家に親しい間柄を利用して、父早雲のように調停で乱を治めようとしたのではないでしょうか。
北条家が相模を治めているように、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏は遠江に勢力を張っていました。
最悪、駿河=今川、相模=北条、遠江=福島に分裂する危機でありました。
しかし、栴岳承芳(義元)の考えは違います。
氏輝と彦五郎の死亡を、福島氏の陰謀と考えていたのではないでしょうか?
そんな福島氏と調停を結ぶ気はさらさらありません。
当時、悪主人を見限り、善主人に仕え直すこと。二君に仕える事は美談とされておりました。
しかし、『今川仮名目録追加』第2~4、7条にあるように、義元は身分の厳格さに重きを置き、不忠に嫌悪を感じていることが伺えます。
栴岳承芳(義元)にとって、二君に仕えることは悪であり、況して、主人を亡き者にするような輩と手を結び、家臣に召し抱えるなど考えられなかったのではないでしょうか。
結果、福島氏と因縁深い、武田信虎を敵対させることで福島氏の排除を行ったのです。
しかし、甲斐と相模の国境付近で諍いのある武田と同盟を結ぶことは、北条として受け入れなれないとして、今川家から独立を果たします。
こうして、北条家と今川家は敵対する関係となって行きます。
■伊勢新九郎盛時は戦国大名でなかった。
伊勢新九郎盛時は戦国の父のように語られますが、実像は理想的な守護代でありました。
もし、盛時(早雲)が望んでいたなら相模一国ではなく、遠江、駿河、相模の3ヵ国を手に入れることが可能でした。しかし、盛時(早雲)は可愛い甥っ子の氏親の為に尽力します。
盛時(早雲)の中に下剋上はなく、守護代として遠江、駿河、相模の3ヵ国を想うようにできたことで十分満足していたのです。
盛時(早雲)は氏親を今川家7代当主に据えると、室町幕府のお家騒動に巻き込まれる形で相模に進出します。その一方で遠江の奪還を指揮し、北の虎、甲斐の武田信虎にも勢力を延ばします。
遠江、駿河、相模、甲斐を縦横無尽に駆け巡ります。
戦略家、戦術家、謀略家の本領をすべて出し尽くす充実した一生だったと思われます。
永正6年(1509年)、氏親が38歳になった頃から相模方面に集中し、遠江・甲斐は氏親が率いる福島氏らに任せるようになります。これは決別ではなく、氏親らの成長によって任せることができるようになったと考えるべきでしょう。
氏親にとって早雲が父のように巨大な存在であり、逆らうとか相反する行動を取る余地がなかったと考えるべきでしょう。
永正16年(1519年)に早雲が亡くなり、氏親ははじめて自らの意思で政権を担うようになって行きます。
文明5年(1473年)、盛時の姉、北川殿が嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生む。
文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで戦死。
文明8年(1476年)、龍王丸と小鹿範満の間で家督争いが起こり、盛時が仲裁に入り、範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着する。
文明11年(1479年)、盛時は、幕府に申請して前将軍・足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を得る。
文明13年(1481年)、備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸す。
文明14年(1482年)、渡辺帯刀丞が盛時に訴訟を起こす。
文明14年(1482年)11月27日、享徳の乱の収束。幕府と成氏との和睦が成立し、堀越公方(足利政知)は伊豆1国のみの支配者が伊豆一国の支配者となる。
文明15年(1483年)、盛時は、9代将軍足利義尚の申次衆に任命される。
文明19年(1487年)、範満が家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫したので、北川殿と龍王丸は盛時に助けを求める。
長享元年(1487年)、盛時は、奉公衆となる。
長享元年(1487年)11月、盛時は石脇城を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を誅殺する。
長享3年(1489年)、龍王丸は元服して氏親と名乗り今川家の当主となる。
延徳3年(1491年)、堀越公方(足利政知)が没すると、嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁されていた茶々丸が、後嗣とされていた潤童子と継母の円満院を殺して、公方となる。
●延徳3年(1491年)5月~明応4年(1495年)、伊勢新九郎盛時は伊豆乱入に伴い幕府奉公衆からの退任し、出家して早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)を名乗る。(※2)
明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材を追放し、清晃(清晃は還俗して義遐を名乗り、後に義澄と改名する)を室町殿に擁立した。
明応2年(1493年)10月、11代将軍・足利義澄の命により、興国寺城にいた盛時は足利茶々丸を討伐して追い詰めてゆく。
明応3年(1494年)、長享の乱、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争が再燃し、早雲は扇谷家の上杉定正に援軍を求められたが、定正が落馬して死去した為に兵を返した。
明応3年(1494年)、早雲は、遠江へ出兵し、遠江中部まで勢力下に収めた。
明応4年(1495年)、早雲は、茶々丸の討伐・捜索の為に甲斐の都留郡に攻め込み、郡内領主小山田氏や守護武田氏と戦っている。
明応4年(1495年)9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取する?
明応7年(1497年)、早雲は伊豆の国人を味方につけながら南伊豆の深根城を落として、伊豆国を手中にする。
明応8年(1498年)、早雲は茶々丸を捕捉し、殺害する。
文亀年間(1501年-1504年)、早雲は、遠江をさらに進軍し、三河国岩津城の松平氏を攻める。
永正元年(1504年)9月27日、武蔵立河原の戦い。上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲らの連合軍との間で行われた合戦で朝良は勝利する。(扇谷上杉家の当主となった朝良は、北条早雲に相模西部の中心である小田原城を譲ってその軍事支援を頼み、北条・今川軍の支援を受ける。)
永正2年(1505年)、顕定・能景の軍勢が河越城を包囲し、上杉朝良は3月に降伏を表明した。
永正3年(1506年)、早雲は相模で検地を実施する。
永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される。(永正の錯乱)
永正4年(1507年)、越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される。
永正6年(1509年)7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。
永正6年(1509年)8月、早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城を攻撃する。上野に出陣していた朝良は兵を返し、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵・相模で戦う。
永正9年(1512年)、早雲は、岡崎城と住吉城を攻略し、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。
永正6年7月~永正13年(1516年)7月、扇谷朝良、相模三浦氏と戦い、早雲はこれを打ち破り、三崎城を奪って相模全域を平定する。
永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲る。
永正16年(1519年)、早雲が死去する。
■守護大名から戦国大名へ
早雲の死によって今川氏親(48歳)に微妙な変化が現れます。
早雲の後を継いだ駿河守護代の伊勢氏綱(32歳)は、氏親より16歳も若いということです。
・今川 氏親 生誕 文明 3年(1471年)
・伊勢(北条)氏綱 生誕 長享元年(1487年)
氏綱は若武者というほど若くはありませんが老練な早雲と比べれば、可愛いものだったのでしょう。
氏親は、守護代に奪われていた権威を取り戻そうと躍起になります。
分国法『今川仮名目録』はその集大成とでもいうべきものです。
氏親は守護の権威を高めようとしましたから伊勢氏綱との軋轢となっていったに違いありません。
ここで考えられるのが、伊勢氏から北条氏への改名であります。
早雲の死から4年後、大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏の書状が消え、北条氏の書状へ変わっていることから、この期間に改名がなされたと考えられております。
氏綱は先鎌倉幕府の執権と同じ名前に改名し、さらに、執権北条家と縁がある官職を貰う為に多額の寄付を朝廷に納めております。
北条氏が自らの権威付けをなされているには訳でいります。
ここから考えられることは、駿河守護代から相模分国がなされたと考えるべきではないでしょうか。
〇駿河・遠江守護〔今川氏親〕
駿河・遠江守護〔今川氏親〕- 駿河・遠江守護代〔伊勢氏綱〕- 駿河・遠江・ 相模家臣団〔国人衆〕
▽
〇駿河・遠江守護〔今川氏親〕、相模分国〔伊勢氏綱〕
守護〔今川氏親〕- 駿河・遠江家臣団〔国人衆〕
相模分国〔伊勢氏綱〕- 相模家臣団〔国人衆〕
.
氏親は、伊勢氏綱に相模を分国して国主としました。
氏綱が今川の家臣であることは変わりませんが、完全な独立が認められたと考えれば、駿河・遠江守護代職を失う以上の成果であります。
また、氏親も相模を失うことになりますが、守護代を外すことで駿河・遠江の権威を高めることになります。
さらに、氏親の後盾として相模分国があり、氏綱の後盾として駿河・遠江守護がいる。
氏親と氏綱の双方が納得いく解決策であったと思われます。
こうした権威付けをした氏親は、守護大名から戦国大名へ変貌していったのです。
大永6年(1526年)4月に分国法『今川仮名目録』を制定しているのは、体調優れない氏親が急ぎ制定したものですが、氏親が目指すべき大名への形がそこにあります。
■今川家の押しこめ
今川氏親によって今川 氏輝(いまがわ うじてる)が14歳で家督を継承し、今川家8代当主となります。当初、若年の氏輝に変わって、母の寿桂尼が後見人として政治を司ります。
遠江において検地〔天文2年(1532年)〕、江尻湊の振興、御馬廻衆の創設、専制君主制から一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備しました。
しかし、家督を継いだ直後に三河を失い。遠江でも天野氏が反旗を翻す。和睦していた甲斐国守護武田信虎が攻めて来る。相模の北条氏綱と連携し、家臣団(国人衆)の協力を得て戦いを何とか凌ぎます。
そんな家中の中で、天文5年(1536年)3月17日、氏輝は24歳の若さで突然没することになります。
・大永6年(1526年)世良田次郎三郎(徳川家康の祖父:松平清康)は))、山中城を攻撃して西郷信貞を屈服させ、信貞の居城であった旧岡崎城を手に入れる。
・享禄2年(1529年)5月28日、世良田次郎三郎は、東三河にも進出して牧野氏の今橋城を攻め落とした。
・享禄2年(1529年)、北遠江最大の国人領主だった天野氏が今川氏輝から独立し、南信濃の国人らと共に遠江の中尾生城城主二俣昌長を攻める。
・享禄2年(1529年)11月4日、世良田次郎三郎は、三河の東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏を攻め落とす。(今川家は三河での勢力をすべて失う)
・天文4年(1535年)8月、武田信虎は国境の万沢口に攻め込み、今川氏輝と合戦する。
・天文4年(1535年)8月、北条氏綱は今川の後詰として、籠坂峠を越えて甲斐領へ侵入。武田軍の小山田氏や勝沼氏を打ち破った。「妙法寺記」
・天文4年(1535年)9~10月、武田信虎と同盟をしていた扇谷上杉朝興が氏綱の留守の相模へ出兵。北条は相模湾沿いの大磯・平塚・一宮・小和田・鵠沼などの郷村に大きな被害を受ける。
・天文4年(1535年)10月、今川氏輝は、中尾生城の城主を二俣昌長から匂坂長能に交替させ、奥山郷支配の了承と同地の下人等の使役を認めている。(天野氏との抗争は続いていたと思われる)
(天野氏は天文22年南信濃の国人遠山孫次郎を天野氏を介して武田信玄の配下にしている。天野氏が武田に降っていることから享禄2年(1529年)の独立に武田が関与している可能性もある。)
氏輝が家督を継いでから、三河を失い、遠江は世情不安が続き、甲斐と不和となり攻められる。
その上、専制君主から合議制に変わったと言っても、家臣団(国人衆)には不満が募ります。
氏輝のままで今川家は安泰なのだろうか?
甲斐を退けた天文5年(1536年)3月17日に当主氏輝と次期後継者である彦五郎が亡くなります。
そして、福島正成の娘が生んだ3男、玄広恵探を擁立したのです。
福島正成を初めとする一部の家臣団の『押し込め』ではないでしょうか。
鎌倉期から武家社会に見られた主君の『押し込め』は謀反ではありません。
主君を討滅、あるいは隠居させ、新たな君主を迎える。
家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は廃位の憂き目に遭っても致し方ない。
今川家を想う福島正成を初めとする家臣団は忠義の士であり、何ら恥ずべきところがない。
少なくとも実行した者はそう思っていたに違いありません。
記録に残っておりませんが、病弱と思われる当主氏輝の隠居を願い出ていた。
もちろん、史実に残っていないのは不都合な事実を義元がすべて消し去ったからと思われます。
隠居されない氏輝に対して、業を煮やした福島正成らが決起を行ったと考えられます。
偶々、一緒にいた彦五郎も災難にあったのでしょう。
さて、北条氏綱は朝廷・幕府に多額の献金を行っていることより分国した相模の守護になりたいという願望があったと思われます。
今川の家臣であり、幕府(足利氏)の一族である今川宗家と権大納言中御門宣胤を父に持つ寿桂尼には好を通じて置きたかったことでしょう。
今川氏輝、彦五郎の死によって、寿桂尼は正室(寿桂尼)の子である栴岳承芳(義元)を次期当主と決めました。氏綱もそれに従うのは当然のことだったのです。
■栴岳承芳(義元)の性格と智謀
今川義元は氏親うじちかの五男として生まれ、童名を方菊丸といった。
今川家は家督争いを防ぐ為か、嫡男と次男以外をすべて出家させている。次男の彦五郎が出家させられなかったのは、嫡男が病弱であったと言われております。
方菊丸は4歳で善得寺という臨済宗の寺に入れられて、九英承菊(※)(きゅうえいしょうぎく)〔後の太原崇孚(たいげんそうふ、雪斎)〕に養育されます。方菊丸は得度し栴岳承芳と名乗ると禅の修行の為に京に上り、建仁寺の「臨済禅」を学びます。しかし、飽き足らない栴岳承芳は、「祖師禅」に惹かれて妙心寺に移っております。
臨済禅は、「公案」といわれる問題を師家(しけ)から与えられ、それに取り組むことによって「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)の実を挙げることを目指しております。要するに、肝心なことは、公案を頭であれこれ考えることではなくて、公案そのものに成り切ってしまうべく、全身全霊を挙げて、しかも間断無く工夫することです。つまり、四六時中・行住坐臥を通じて「無、無、無」と成り切ることです。
しかし、栴岳承芳はこれに飽きて妙心寺に移っております。
祖師禅は、公案的な形式はない。その場、その場で問答を行い答えを導いてゆく。
たとえば、師が「般若心経の講義をしてくれぬか」と言う。弟子は知る限りの知識を披露する。話が進み「色即是空、空即是色」に掛かると、師は「ちょっと待ってくれ、そのウチワを使いながら話してくれ」と言う。弟子がウチワを持つと「貴公の持っているそのウチワは色か空か」と聞いてくる。ウチワには形があるので『色』である。ゆえに「色です」と答えると、師は「よろしい、色は判った。今度は空のほうを見せよ」と呟いた。弟子は言葉を失った。これが祖師禅である。
より実践的に答えを求めてゆく。
輪廻万象、文字で覚えるのでは体現することによって悟りに近づいてゆく。建仁寺から妙心寺に移ったことは、栴岳承芳が秀才型の人物ではないことを物語っている。
父の氏親が亡くなると、駿河の善得寺に呼び戻されることになります。
天文5年(1536年)3月に氏輝死去すると、栴岳承芳(義元)を還俗させ、足利将軍から偏諱(へんき)を賜り、義元を名乗ります。
偏諱とは、朝廷・将軍・守護などの君主、または父などの一字を頂くことで、この場合は室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)足利 義晴(あしかが よしはる)から『義』の字を頂いたことになります。
駿河と京を往復し、将軍より偏諱を頂く間に数日を要します。しかも書状は二通あったと思われます。
一門衆、あるいは有力被官だった福島正則(福島氏)が反対し、外戚に当たる氏親の側室が福嶋助春の娘の子、玄広恵探(今川良真)を擁立して対抗しました。
玄広恵探(今川良真)は逃げる過程で、花倉城を西に下って高山寺、さらに瀬戸川西向いの普門寺に逃げ込み、そこで近臣と共に自害したと言われます。
花倉城を西に下った瀬戸川東側沿いは稲葉郷であります。
稲葉郷には藤原氏北家閑院流三条家の分家である正親町三条家の荘園があり、三条家と言えば、正親町三条実望の妻、今川氏親の姉北向殿やその子正親町三条公兄がおります。玄広恵探(今川良真)を押す福島氏も三条家を頼って、家督相続の義を将軍家にお願いしていたに違いありません。
・栴岳承芳(今川義元):氏親正室の寿桂尼は、父の権大納言中御門宣胤の中御門家を頼り、将軍に家督相続の義。
・玄広恵探(今川良真):今川氏親の姉北向殿やその子正親町三条公兄の三条家を頼り、将軍に家督相続の義。
正室の子の方が分が良かったのは間違いありませんが、世情は常に常識に従うとは限りません。利害関係が絡み合えば、逆転も無きにしもあらずというのが現実です。
・「(天文5年5月)十日甲子、(中略)一仮殿御遷宮事、六七月之間可然由、自小田原雖有之、駿州之其逆乱材木不調間、八月迄申延畢、材木者両月ニ可罷着之由註進有之、今川氏輝卒去跡、善徳寺殿・花蔵殿、依争論之合戦也、」『快元僧都記』
(天文5年5月10日。一、仮殿への御遷宮のこと。6~7月の間に執り行うべきこと。小田原より指示があったものの、駿河国のその戦乱で材木が調達できず、8月まで延長しました。材木は両月に到着するとの報告があったが、今川氏輝が卒去した後、善徳寺殿・花蔵殿が争論によって合戦となったものである。)
・「同五月廿四日夜、氏照ノ老母、福嶋越前守宿所へ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠ル、」『高白斎記』(←武田方の駒井高白斎)
(5月24日夜、氏輝の老母が福嶋越前守の宿舎に行き、花蔵と同心。翌25日未明より駿府にて戦闘、夜中に福嶋党は久能山に立て篭もった。)
・「其年六月八日、花倉殿・福島一門皆相模氏縄ノ人数か責コロシ被申候、去程ニ善徳守殿ニナホリ被食候、」『妙法寺記』
(その年の6月8日、花倉殿・福島一門は皆相模国の氏綱の軍勢が攻め殺された。それを受けて善徳寺殿が守護になられた。)
・「六月十四日、花蔵生涯、」『高白斎記』
(玄広恵探、自害する)
5月24日に寿桂尼が「花蔵ト同心シテ」とありますが、寿桂尼に義元と敵対する理由が見当たりません。
ここで5月24日の武田方の駒井高白斎の記録が重要です。「花蔵ト同心シテ」と勘違いしておりますから、5月24日までに武田信虎が義元に助力していることが伺えます。
将軍より家督相続を認められ、晴れて偏諱(へんき)を賜った義元は、北条と武田も味方にしていると言うことです。
ここに至って寿桂尼が寝返る意味がありません。おそらく、話し合いで降ると踏んでいた思惑を裏切られ、『人質』的に捕えられたのではないでしょうか。
ただ、5月24日の降伏に関して義元は否定的であったと思われます。
上記にも書いてあるように、義元は二君に仕えること、裏切ることを『良し』としません。福島氏を討つつもりだったと思われます。
その意に反して、寿桂尼の単独、あるいは、北条氏の手引きで密会が行われます。
それを見ていた武田方の駒井高白斎には、寿桂尼が裏切ったように思われても致し方ないのではないでしょうか。
何故、北条氏が手引きしたのかと考えるのは、積極的に花倉殿・福島一門を責めたのが北条氏だからです。大抵、人は後ろめたい事があると張り切るものです。義元に忠義を示さなければならない何かがあったのは間違いないでしょう。
こうして今川の家督争いは、氏輝死去した3月から5月24日頃までに勝負が決まっていたということです。
もう一度、振り返って確認して置きます。
氏輝を死に至らせた原因は、以下の3つです。
▲三河松平の脅威
▲北遠江天野氏の反乱
▲甲斐武田信虎の侵攻
天野氏は武田家の後盾を得ています。猛獣のような信虎は、家督争いを長引かせれば、いつ攻めてくるかもしれません。
北条は口で支持すると言っていても栴岳承芳が家督を継承するまで、正式には軍を動かすことはないでしょう。
普通の凡人であれば、時間を浪費して事態を悪化させたかもしれません。
義元の戦略は、まず、敵より有利な状況を作ることに尽力します。
・外交による同盟
・外交による挟み打ち
・外交による寝返り
・情報戦による敵方の内紛を誘う
・情報製による敵同士の疑心暗鬼
・商戦による敵方の経済破綻を誘う
勝つべくして勝つ。義元の戦略は戦う前に勝利を確実にすることを目的としているようにしか思えません。
後に信長が模範し、特に秀吉が義元の戦略を熟知したように思われます。
そして、義元の戦術は、敵方の心を意のままに扱うような戦い方をします。最もこれは太原雪斎がそういった戦いを好んだのかもしれません。
太原雪斎の戦い方がよく表れているのが、第2次小豆坂の戦いです。
【第2次小豆坂の戦い】
織田軍 約4000人
今川軍 約10000人、松平軍 不明?
織田軍 大将 織田信秀 先鋒 織田信広
今川軍 大将 太原雪斎 副将 朝比奈泰能 先鋒 松平広忠
今川軍は織田軍より大軍を擁し、坂の上に布陣します。
織田信広は先鋒として戦いを挑みますが、劣勢を悟って無理をせずに兵を下げます。そして、本隊の信秀隊と合流します。
下がる織田軍を見て、勝機を見出した今川軍は坂を下りて追撃に入ります。
これは信秀の策で、今川軍による坂の上の優位性を奪う為に策略でした。信秀と信広の軍は一斉に今川軍に襲い掛かります。
今川方先鋒である松平広忠軍は総崩れになって退却を開始します。
逃げる広忠軍を追いながら今川軍に雪崩込めば、混乱した今川軍は総崩れになって敗走すると信じて疑わない信秀は、一気に倒しに掛かります。
長く延びた織田軍の横っ腹に、今川の伏兵が襲い掛かります。
4000の織田軍を半分に分断し、2000に10000の大軍が襲い掛かります。そして、2000を片づけた後に、残りの2000を打ちのめす。
典型的な各個撃破戦であります。
織田信秀は矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなったと書かれています。
織田信秀の心を見透かしたような心理戦。
これが太原雪斎の戦い方なのです。そして、その教えは義元に継承されたと考えるべきでしょう。
義元が実践経験のない戦下手だという方もいますが、一対一の武に関してだけであり、指揮官として無能と言うには、乏しすぎる説明です。
そもそも戦略と戦術、どちらに重きがあるかと言えば、
敵より多くの兵を集める方、戦略が重要であり、優れた戦略家が愚かな戦術家であった試しがありません。
戦略を軽視する武将は、
「少数で大軍を破る。」
という、この麻薬にも似た甘い蜜を知り、常に国を危うくしております。
義元はそれに該当しません。
さて、義元の智謀は、この家督争いの危機を回避する方法を導き出します。
>>武田信虎を味方にする。
まるで赤耳の一手です。(※5)
武田家を味方にすれば、甲斐の脅威を取り除くばかりか、北遠江天野氏は後盾を失い勢力を失います。
さらに、扇谷上杉氏と甲斐の武田に睨まれて十分な兵を動かせない北条の敵を1つ消すことになります。
さらに、さらに、福島に付こうと考えていた国人衆も武田と北条が義元に付いたとなると、義元方に寝返ってきます。
一瞬にして大勢を決めてしまいました。
義元は信虎をどう言って包め込んだのか?
これには実に興味深いのですが、残念ながら記録が見当たりません。
秀吉が家康と対したように、密かに対面した時に首を下げて哀願したかもしれません。
今川家が奪い取った籠坂峠の甲斐側の領土(実際は北条が奪った甲斐領土)を返すと言ったかもしれません。そうであれば、今川と北条の決別も納得いくというものです。
いずれにしろ、義元が信虎を味方にしたことで、家督争いは決したのです。
天文6年(1537年)、義元は従四位下治部大輔兼駿河守を叙します。
しかし、義元が本当に天文6年(1537年)に従四位下を賜ったかどうかは判りません。
最も早い記録で、
1549年2月 叙 従四位下 、1560年5月 任 三河守 『歴名土代』『公卿補任』その他の家伝文書等(今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社学術文庫 P257~259 )とあります。(未確認)
また、
『今川義元願文写(神宮文庫所蔵文書)』に「十一月廿六日 従四位下行治部大輔源朝臣義元(花押)」(※4)と書かれているので、天文20年前後には、間違いなく従四位下治部大輔兼駿河守になっていたことが伺われます。
また、
『富士山大縁起(東泉院本)』に「今川義元判物. 天文十九 八月六日 治部大輔(花押)」ともあります。
■義元の誤算と北条氏綱の奮戦
『花倉の乱』では、挙兵する前に勝負を決めた義元は、武田との同盟に着手します。
北条氏綱がこの同盟に最初から反対していたとは思われません。
もし、そうなら義元と福島氏が対立している時に、福島氏に寝返っているハズです。当初、氏綱も今川・武田同盟を支持していたと考えるべきでしょう。
武田が味方に加われば、氏綱の関東進出に弾みが付くというものです。
しかし、ここで義元と氏綱に亀裂が生じます。
.
氏綱は今川と武田が同盟すれば、当然のことながら、武田と扇谷上杉の同盟が破棄されると考えておりました。北条と武田が協力して関東進出を考えていたのではないでしょうか。一方、義元は武田の嫡男嫡男勝千代(晴信)と上杉朝興の娘(この時点では亡くなっている)の婚礼があり簡単に同盟が崩せないと考えておりました。むしろ、武田を通じて今川・扇谷上杉の和睦、後には同盟を結ぶつもりでした。扇谷上杉家を味方にすれば、山内上杉家、古河公方、小弓公方を無力化できると考えていたのです。
そうすると、今川は遠江、北条は房総半島、武田は信濃に兵力を集中できます。義元は氏綱に何度も同盟の意義を説明したハズです。
しかし、氏綱は納得しない。
現在のところ何ら物証がありませんが、今川・武田同盟に際して、天文4年(1535年)の万沢の合戦のおり、籠坂峠を越えて奪われた北条の山中領の返還を求めたのではないでしょうか。
失うよりも得るものが大きいと考えた義元は、同盟の話を進めます。
天文6年(1537年)2月下旬、富士川以東の地域(河東)に兵を進めます。(第1次河東一乱)
遠江の堀越氏と井伊氏等も刻を同じくして反旗を翻します。
・天文6年3月29日 氏綱より奥平定勝へ「遠江国平定の上、同国において500貫の地あたえる。井伊氏との協力し、早急に「御行」が簡素であること」『松平奥平家古文書』
御行とは、軍事行動のことなのです。
氏綱は2月下旬に軍を動かし、3月に遠江で反旗を翻させ、4月に富士下方の者に謀反を起こさせます。
しかし、遠江で対応したのが天野氏です。
・天文6年(1537年)4月28日、義元より天野虎景へ「今月26日、遠江見付城の「端城」を攻略したことを賞す」『天野文書』
義元の読み通り、天文6年には北遠江最大の国人、天野氏は今川家に従っております。武田の仲介により、「花倉の乱」のおりにでも降っていたのでしょう。
5月には義元が富士下方を制圧し、6月なって北条軍が駿河に侵入します。6月14日、氏綱を退けたものの、河東を失った義元は苦々しく思ったことでしょう。
その後、氏綱は東へ進出します。
・天文7年(1538年)、葛西城を攻略、房総への足がかりを築く。
・天文7年(1538年)10月7日、第一次国府台合戦。
・天文8年(1539年)、氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、足利氏の「御一家」の身分も与えられる。
・天文10年(1541年)7月19日、氏綱は病に倒れて死去する。(享年55歳)
・天文14年(1545年)7月下旬、第2次河東一乱。(今川義元・武田晴信の連合軍と山内・扇谷連合軍の挟撃)
・天文15年(1546年)4月20日、河越城の戦い。(上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍)
.
北条氏綱は良くも悪しくも武田信虎、織田信秀と同じ戦国武将でありました。外交的勝利より戦さを好み、強さを誇示することに意義を感じています。
東西南北を駆け巡り、戦術的勝利によって領土を広げてゆきます。3代当主、北条氏康もその戦いを継承し、「河越城の戦い」を制して、関東の長となったのです。
■穴熊北条を屈させる義元
北条氏康は関東を治め、「北条五色備え」と呼ばれる五家老に城を委ねます。
北条氏康<五色備> 小田原城
笠原康勝<白備> 下田城
多目元忠<黒備> 平手城
富永直勝<青備> 栗橋城
北条綱高<赤備> 甘縄城(玉縄城)
北条綱成<黄備> 河越城
北条氏康の兵力(※6)は、1万5000~3万人と推測されます。
「河越城の戦い」では、 籠城している河越城3000人で、援軍の北条氏康が8000人と合計1万1000人です。その他の城や砦などが守備兵が4000~1万9000人を段取りできると思われますが、四方を敵に囲まれている北条にはその兵を動かすことはできません。
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍の8万人によって敗北の危機を奇襲によって逆転させます。
・天文15年(1546年)12月松山城の上田朝直が北条に下り、滝山城の大石定久、天神山の藤田邦房も北条に下りました。
・天文16年(1547年)1月18日には、岩付城の太田資正も北条に下ることとなり、資正の子・氏資に娘・長林院を嫁がせました。
・天文16年(1547年)7月には、下総相馬に軍勢を派遣しております。
「第2次河東一乱」で敗れたとは云え、武蔵の国を手中した北条氏は日の出の勢いがあったハズです。しかし、天文17年(1548年)3月以前に今川と北条が和議を取り交わします。
天文17年(1548年)3月19日に「第2次小豆坂の戦い」が起こっておりますが、織田信秀が北条氏康に手紙を送り、その返書を受け取っております。
・天文17年(1548年)3月11日「駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、」『北条氏康書状案写』
(特に駿河国とこちらの関係でお尋ねいただきました。近年和平を結びましたが、あの国から疑心が止むことがなく困惑しております)
と今川この返書には、氏康は義元を信じられないと書いていながら、今川と北条の和議(一和)と書かれております。
家督を継いだ義元は、兵も整っていない状態で氏綱の敵ではありませんでした。
しかし、戦うほどに強化されてゆく今川軍は、天文14年「第2次河東一乱」では北条を破るほど強くなっていました。
北条の戦術は、籠城持久戦で敵を引き付け、騎馬隊重視して機動力で野戦に持ち込みます。特に近戦を得意としたようです。
一方、今川の戦術は、外交などを利用した挟撃を多用し、伏兵を多様する釣り野伏せを得意とします。しかも数の優位を確保するという念の入りようです。
個々の武では北条に劣る今川ですが、今川と武田を合わせると常に2万人近い兵力が相模の後に控えております。
氏康は益々小田原から兵を裂くことができなくなってゆきます。
「第2次小豆坂の戦い」で織田信秀が敗北したことで今川は三河の支配権を得ることになりました。遠江・駿河の兵力をすべて投入することができる条件が整いました。
天文23年(1554年)2月、北条氏康は今川義元が留守なのを狙って、今川氏の領国駿河へ攻め込みました。
「第3次河東一乱」と言われる方をいますが、私は義元が氏康を誘ったと思われてなりません。
三河などで軍事行動を起こすという偽情報を流し、氏康を誘い出します。
情報通りに義元が駿河を出立し、その報告を受けた氏康が小笠原を出ます。
頃合いを見て、義元は軍を反転。
駿河に入った氏康は、いないハズの義元の軍が目の前にいることにびっくりします。
同時に、武田軍が富士川に出陣しており、氏康は挟撃の危機に瀕します。
そこに白旗を持った太原崇孚が現われて、講和の話を持ち出されれば、乗らない方が嘘になるでしょう。
天文23年(1554年)3月、太原崇孚と建乗が講和をすすめ、「甲相駿三国同盟」が達成されます。
義元は籠城好きな穴熊北条を遂に攻略したのであります。
天文6年「第1次河東一乱」から17年、義元が描いていた三国同盟の達成です。
■もし、北条氏綱が強情でなかったなら!?
もし、北条氏綱が強情を張らずにいたなら、義元の敵は織田信秀・信長ではなく、松平清康(徳川家康の父)がライバルになっていたかもしれません。
義元の脳裏に『天下布武』はありません。
もしそうなら、北条氏康を討って、相模に雪崩れ込むことでしょう。むしろ、頼りになる盟友を増やすことに意義を感じていたように思えてなりません。
室町幕府を再建するには、天下に轟く武力を必要とされます。
幕府を再興し、幕府に逆らう者のみ討伐する。その為の三国同盟であり、三国の武力を合わせて天下一の『武』としたのかもしれません。
上杉謙信は『義』の人物と言われるますから、当然、幕府に従い、武田信玄・上杉謙信が二人並んで奥州討伐という光景が見れたかもしれません。
考えれば、ワクワクしますね。
いずれにしろ、義元の構想は、北条氏綱によって大きく後退させられ、最強のライバル織田信長が育つ時間を与えます。
義元と信長の対決は、圧倒的に義元有利に進んで往きます。
味方の道三を失い、家中は分裂し尾張の半分ほどしか制しておりません。背後には義龍が狙っており、兵力差は4倍以上違います。
しかし、桶狭間の戦いで何故!?
信長が勝つことができたのかは、未だに謎のままなのです。
■穴熊とは?
将棋の戦略に、玉を最初に囲い、後にその他の駒で一気に攻める戦法を穴熊戦法と呼びます。
北条の戦略は、責められたときは城に籠って籠城をします。そして、各支城から援軍が集まり、一気に敵を蹴散らすという手法を取っております。
騎馬軍団で有名な武田騎馬隊と称されますが、武田信玄の時代で騎馬兵含有率8%くらいで、北条氏康の時代でく騎馬兵含有率は10%程度と北条の方が多いくらいです。ただ、歴史的文献からの算出ではありませんせんから、定かではありません。
『甲陽軍鑑』の元亀2年の河窪信実に宛てた軍役定書で騎馬3、鉄砲5、持鑓5、長刀5、長柄10、弓2、旗3となっており、戦場での騎馬率は1割を下回っております。
ただ、武蔵の国は、平原で馬の移動が便利な土地柄と鎌倉時代の新田騎馬武者と言われますように、騎馬武者と言えば、「坂東武者」のことでしょう。
平将門の坂東大乱や平安末期のように馬上で弓を射る時代では無くなっていましたから、どうやって戦っていたかは不明です。
北条家は槍の長さが二間半(4.5メートル)と短く、防御を考えない接近用です。
移動に騎馬を用い、乱戦のおりは下馬して戦っていたのかもしれません。
八幡台菩薩の旗を掲げる黄色備えはでは、綱成は部下たちに突撃に際して「勝った! 勝った!」と叫ぶ、『勝鬨戦術』というのを使っていたそうです。
勝ってもいない内に「勝った! 勝った!」という叫びを聞いて、敵が逃げすのを狙っていたのでしょうか?
河越の戦いでは、1万1000で8万の敵に向かったのですから、『黄色備え』を身にまとい「勝った! 勝った!」と叫び回ったことでしょう。連合軍の脆い心理が8万の惨敗に繋がったのかもしれません。
いずれにしろ、穴に籠って籠城、四方に分散していた武将が騎馬を使って素早く移動して、烈火の如く敵の玉を狙う。まさに穴熊戦法が北条の戦術であります。
最も、上杉謙信の『武』にけんもほろろ討ちのめされ、小田原城で兵糧が尽きるまで、がっちりと守りきるイメージも少なからずあったりします。
『穴熊北条』とは、そんな意味であります。
※1.慶長3年の太閤検知、美濃(50万石)、尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)
※2.伊勢新九郎盛時、早雲庵宗瑞の明記は、その時代に応じて盛時と早雲と書き分けております。早い時期が盛時。晩年になると早雲という具合です。
※3.太原崇孚(たいげんそうふ、雪斎)のことで、僧名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。臨済宗の僧侶(禅僧)で、今川家譜代家臣 庵原左衛門尉政盛(いはらさえもんのじょうまさもり)の子であったが、嫡子ではなかったため、富士山善得寺の舜琴渓(しゅんきんけい)に預けられ僧となった。承菊は、京都五山の建仁寺に入り、常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)という高僧のもとで修行している。
※4.「志摩国人等依無道、奪取商旅之財宝、号関路横悩参宮之道者、寔以暴悪之至也。近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事、併国土安穏万民和楽之起本也、然者長官神人等、蒙神慮合其力、令治罰賊党、於遂本意者、為義元存知之地、偈仰神威停止諸関、就中所々御神領之事、於皆済之地者不及是非、近年且神納且未済之地者、以其一倍可奉納之、一向無沙汰之地者、以其年貢十分一可奉納之、其外之土貢者、警固之武士可為在国之下行、是折衷上古下世覇者之権道也。弥奉仰寔感加被之願文、仍如件。十一月廿六日、従四位下行治部大輔源朝臣義元(花押)敬白。伊勢太神宮御宝前」
※5.「耳赤(みみあか)の一手」、本因坊秀策と井上幻庵因碩の囲碁の一局で、打たれた妙手のことを言います。上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う一石四鳥の手で打たれるまで気づかない。打たれてハッとした井上幻庵因碩が、耳を赤くしたと言われる黒127手目の一手のことを言います。普通は気が付かないのですが、そうされると誰もが納得せざる得ないことを言います。
※6.北条の兵力は、伊豆 69,832石、相模 194,204石、武蔵 667,126石(半分とする)と北条の石高597,599石と約60万石である。旧参謀本部の『桶狭間役』では、『1万石あたり250人』を当てはまる。豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役が基準であった。1万石あたり250人として、1万5000人。100石あたり5人として、3万人が最大と思われる。
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