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2012年12月

韓国政府もいい事いうね! 被害者の言葉にならない苦痛は竹島を返すことで癒される。

韓国外交通商省の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は27日、定例会見で、「日本政府は歴史的な事実と、被害者の言葉にならない苦痛を忘れてはならない。被害者の要望に基づき、十分な解決策を模索することを改めて求める」と話した。

まったく同意見だ。

因みに、慰安婦の大多数は日本人であるのに、言われもない中傷で日本人の多くが傷ついている。

多額の軍票がタダの紙屑になった事には同情を禁じ得ないが、それは日本人と多くのアジア人も同じで韓国だけが被害を受けた訳ではない。

さらに言うなら、朝鮮は日本と一緒に戦った国で、敗戦国であることを自覚してほしい。

戦勝国が主張する賠償請求権は朝鮮にない。

然るに、多くの賠償金を得ているのだがら、これ以上の要求は人としての道義から外れているというものだ。

また、日本の領土である竹島を奪われて、日本人の自尊心は傷つけられたままである。

この苦痛を和らげるには、「ごめんなさい」と謝って、竹島から退去するのが一番である。日本政府による竹島不法上陸者の強制退去も考えた行動を期待したい。

言葉にすると、

「日本政府は歴史的な事実と、被害者の言葉にならない苦痛を忘れてはならない。被害者の要望に基づき、十分な解決策を模索することを改めて求める」

韓国政府の主張と私の主張がまったく同じであるのに驚きを禁じ得ない。

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「慰安婦問題解決を」韓国政府、安倍内閣に注文=韓国
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2012&d=1228&f=politics_1228_005.shtml
2012/12/28(金) 11:10
  韓国外交通商省の趙泰永(チョ・テヨン)報道官は27日、定例会見で、「日本政府は歴史的な事実と、被害者の言葉にならない苦痛を忘れてはならない。被害者の要望に基づき、十分な解決策を模索することを改めて求める」と話した。複数の韓国メディアが報じた。
  趙報道官は、旧日本軍による慰安婦問題は「明らかな歴史的事実」と述べ、被害者たちには大きな苦痛を与えたと主張した。その上で、26日に発足した安倍内閣に対し、「周辺国との信頼を得て、歴史を直視しながら地域と国際社会に貢献することを期待する」と述べ、国家間、国民間での信頼関係の構築が重要だとの考えを示した。
  韓国メディアは「わが政府が、新しく発足した日本政府に慰安婦問題に対する積極的な解決策の模索を重ねて求めた」と伝えた。(編集担当:新川悠)

増える県外避難者を止める為に、県外避難支援を打ち切る福島県

県外の避難者57,954人
おそらく、これからも増えていくことでしょう。妊婦や子供いる家庭は半分以上が県外への避難を考えています。
原発村や環境省の職員の方は、「安全です」と繰り返すばかりです。

説明会などで、「こちらに引っ越して来て、一緒に家族と暮らして下さい」と言っている住民も多いと聞きますが、それを実行した職員は皆無です。
知事もこれ以上の県民を失いたくないという意味で、支援を打ち切りを決めたと思われます。
県民の安全より大切なモノがあるのでしょうか?

自公では、このような支援に積極的とは思えません。
しかし、福島県民の方は自民党議員を当選させました。
それでいいと思っている訳がありませんよね!?

-------------〇-------------
福島県外への避難に壁〜年末で住宅支援打ち切り
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1505
福島県は12月28日、県外へ避難する時の住宅支援である「借り上げ住宅」の新規受付を打ち切る。原発事故以降、高い線量が続いている福島県。今年5月に福島市が実施したアンケート調査では、回答者全体の33%の人が、また乳幼児や小学生のいる世帯の半分以上が「できれば避難したい」と考えていることが分かっている。
福島県が県外へ避難している人の呼び戻しに力を入れる中、「借り上げ住宅」の新規受付打ち切りの理由については、県は「国(厚生労働省)から再三要請された」と説明。しかし、厚生労働省は「打ち切りを決めたのは県であり、県の意向を尊重している」とし、意見は食い違う。
福島県郡山市で小学生の息子さんと中学生の娘さんと家族で生活する野口時子さんは、子どもの被ばくについて気をつかいながら避難するタイミングを待っている。今回の打ち切りで「県外避難の選択が奪われる」と訴える野口さんと、福島県の避難者支援課の藤田英明主幹に話しを聞いた。
 

月畢(ひつ)を探して

晴れた夜空を見ると、星を探してしまう。
今日は、おうし座ωが食になる。
月は見えても、どこにωがあるか判らない。
明るい星は木星だ。
その下の少し劣る星はアルデバランだろう。
アルデバランを探すには、いて座の三ツ星を見つけ、大きな弧を描くように右手に伸ばしてゆく。そこにある星がアルデバランだ。さらに伸ばすとプレアデスが見つかるハズだ。
しかし、ω星もプレアデスも見つけることはできない。
畢の横を通り過ぎる月を見るには、星の耀きが町の明るさに負けてしまうからだ。
目を閉じて、月がかかるを想い浮かべ、手を高く上げる。

畢(畢)とは、畢宿のことでヒヤデス星団をいう。
『詩経』の「周代の武人の行路難」(※)のように、月畢が掛かると雨を呼ぶと思われてきた。
三国志の有名な諸葛亮公明が、建興7年秋7月に司馬懿が蜀へ攻撃をかけた時に「畢星が太陰(月)の軌道にかかっているから大雨が降る、魏の大軍は攻め込んでこれない」と言っている。
また、江戸時代の【世間学者気質】巻二に「月畢にかかる、滂沱たらしむといえば、明日は雨が降るに決まった。」と節がある。
中国も日本も昔から畢星(牡牛座ヒヤデス群)をあめふり(雨降星:和名)と呼んでいる。

残念ながら、今回は月畢がかかることはない。

畢宿の横を月が横切るだけだ。
天の空は1年で一周し、1日は365分の一だけ景色が変わる。月は1日に約29分の一も移動するので食が発生する。
しかし、月は気まぐれのように黄道に対して上下に揺れる。
.Photo
月が約5.9度の傾きを持っているからそうなるのだが月は西へ西へと移動し、約18.6年で黄道を一周すると言われる。
それゆえにおうし座ωの食も何年ぶりなのかも判らないが、毎年見られる訳ではないのだ。
日食ほど珍しいものではないが、月食より貴重な食という訳だ。
ただ、星の食は隠れるだけで、月や太陽のように感動的な変化はない。

月畢も毎年見られるものとは決まっていない。
天文数学が詳しい方が要れば、建興7年秋7月が今から何年前かを推測することができる。
歴史と天体は切っても切れない関係で結ばれていたりする。

しかし、月畢を想う季節は寒さが身にしみる。

※.「周代の武人の行路難」
「漸々の石新れそれ卒(けわ)し、山川悠かに遠し、いつかそれ没(つ)きなむ、武人東を征(ゆ)きて他に遑(いとま)あらず。
豕あり白き蹄ありて、もろもろ波を涉(わた)る。月畢に離りて滂沱(ぼうだ)たらしめんとす。武人東を征きて他に遑あらず。」
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/478530/465045/84062344

選挙結果分析、反原発の減少でよかったのか?

選挙結果は、自公の圧勝で幕を閉じました。
普段から応援している議員のみなさんには、「おめでとう」と労いの言葉を送らせて頂きました。

元々自公の応援をしていたので嬉しくないと言えば嘘になりますが、
反原発でもある私としては、こんな勝たせて大丈夫?
本当に心配であります。

全体比率で推進派(自公維民み)が5088万票(70.7%)です。対する反対派は853万票(11.8%)とごくごく少数となりました。

この結果だけを見れば、反原発より実直な支援や復興を望む声が大きかったと読み取るべきなのでしょう。
現在、被災地である福島のみなさんの声を聞きたい気分であります。

本当にこでよかったと思っておりますか???

私は推進・反対のバランスとしては6対4くらいがいいと思うのですが、実際は自公で325議席と国会の3分の2(67.7%)を占めることなります。

M9.1のスマトラ沖地震(2004年)では、

翌年(2005年)にM8.6、

3年半後の2007年のM8.5の余震が起こっております。

さらに2年毎に余震が今も続いております。
福島第1原発の建造物や津波対策は万全なのでしょうか?
単に運がいいだけであり、ロシアンルーレットを続けているこの状態からの脱却はできるのはいつのことでしょうか。

これから経済対策とそれらを訴えていく予定です。

安部総理の言うように、「自民党が勝った」という訳ではありません。
前回1881万票の支持者から今回1622万票と200万票以上の支持を失っております。小選挙区と比例ですから100万人の支持者が脱落している訳です。
どんな苦しい状況でも自民に入れた前回の有権者100万人が返ってくるような政治をお願いしたいと願っております。

■各党の比例区の獲得投票数(万票)と増減率(%)

政党名 今回 前回 増減率 
自民党 1,662 1,881  ▲11.6
維 新 1,226 ーー   ーー
民主党  963 2,511  ▲61.6
公 明  712  805  ▲11.6
みんな  525  ーー  ーー
共 産  369  494  ▲25.3
未 来  342  ーー  ーー
社 民  142  237  ▲40.0
合 計 6,018 7,037  ▲14.5

自公 2374万票 支持率39.4% (有権者数から見た支持率 22.8%)

■比例得票数
前回 自民1881万票 民主2984万票
今回 自民1662万票(23.1%) 民主 963万票(13.4%) 維新・みんな・未来 2090万票
自民と民主の投票差 9.7%

有権者数 103,949,442票
投票者数  72,019,655票

■議席数 480議席 (小選挙区:300議席、比例代表:180議席)
自民党(選挙前119議席)294議席、
公明党(同21)31議席、
民主党(同230)57議席、
日本維新の会(同11)54議席、
みんなの党(同8)18議席、
日本未来の党(同62)9議席、
共産党(同9)8議席、
社民党(同5)2議席、
新党大地(同3)1議席、
国民新党(同2)1議席、
新党日本(同1)0議席

選挙に負けたのは、候補者一人一人の責任! しかし、それを副総理が言えば、ただの責任回避だ

以前も申しましたが、岡田副総理の言っていることは正論であります。

泥舟に残って、溺れ死んだ議員は、泥舟に残ることを選択したのですから野田総理に恨み節を言うのは筋違いであります。

もし、その気なら消費税を反対して除名されることによって再選の可能性もあった訳であります。

その可能性を捨てた時点で、候補者一人一人の責任です。

しかし、しかしです。

政府・党の責任者がそれを言ってなりません。

航海上を運行する船が座礁して、船の責任者である船長が「僕の責任じゃないもん!」と言っているようなものです。

見張りや船の設計など、問題は様々あります。

しかし、責任者が責任を取らないというのは、総理が総理でないと言っているような者です。

総理や副総理でもない者が国政を司っていたということは、国家的詐欺罪であり、国家反逆罪であります。

死活の判断が個人の判断にあるのは事実であり、正論でもあるのですが責任者が責任を放棄するのは本当に恥ずかしいことです。

昨日は前原大臣が無責任なことを言い。

今日は、岡田副総理が人間失格な発言と最後の最後まで駄目な政権でした。

「立つ鳥、跡を濁さず」と言いますが、

彼らは日本国籍こそ持っておりますが、そもそもその内実は日本人ですらないのかもしれません。
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岡田副総理「結果は候補者の責任」 早期解散への恨み節に苦言
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFL180L2_Y2A211C1000000/
岡田克也副総理は18日午後の記者会見で、衆院選で落選した閣僚から野田佳彦首相の年内解散の決断に対する
恨み節が相次いだことについて「選挙結果は最終的には候補者自身の責任だ」と述べ、苦言を呈した。

「首相が色々な思いを込めて決断したことを理由に自分が負けたというのは議員のとるべき態度ではない」
と野田首相の決断を支持。その上で「そういう執行部や他人の責任にするところは改めないと民主党は再生できない」と強調した。

22日に選出する党新代表に関して「単に参院選を戦いやすい顔を選ぶというだけで選んでしまうのは望ましくない」と指摘。
自身の立候補については「こういう場で述べるのは適当でない」と言及を避けた。

野党としての国会対応については「基本的には是々非々だ。特に社会保障と税の一体改革は協力してやっていかなければいけない」
と語り、「特例公債法(赤字国債発行法)を11月まで引っ張るような不毛な政局的なやり方は控えるべきだ」との考えを示した。

2012年12月衆議院投票結果 自民・公明で325議席獲得

戦後最低の投票率、59.32%です。
試食コーナーで、6種類程度の試食を行うと40%しか訪れないが、ジャムを買って帰った。
24種類の場合はもの多くの試食を行った場合、入店者の60%が試食に立ち寄った。迷った末に何も買わなかった。

私は選挙にはいきましたが、、
本来ならまよわず自公に入れていました。

しかし、原発問題があって大いに悩んでいました。

さて、結果ですが、
党の多さが完全に、試食実験のような結果を呼んだようです。

試食数が多いと投票に行かない。

結果、普段食べているものが多く売れる。

年内に総理指名がされ、年明けには今後に予定が発表されることになるでしょう。

経済政策では自公を応援していますが、原発問題では期待できません。
さて、どのような政権になえるのか。
楽しみであり、不安が付きまといます。

選挙の判断材料から外していますが、アニメなどの表現の自由にも制限しようとしているので、そのはちょっと止めてもらいたい!

知っていました?

雅楽に著作権料が掛かるなんて???

<1000年前の雅楽から著作権料? JASRACが見解公表>http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1212/14/news129.html

おかしな国にだけしないで下さい。

<選挙結果>

自民党(選挙前119議席)294議席、公明党(同21)31議席、民主党(同230)57議席、日本維新の会(同11)54議席、みんなの党(同8)18議席、日本未来の党(同62)9議席、共産党(同9)8議席、社民党(同5)2議席、新党大地(同3)1議席、国民新党(同2)1議席、新党日本(同1)0議席
・480議席 
小選挙区:300議席
比例代表:180議席

2012年の世代別有権者比率
 20代   12.92%
 30代   16.85%
 40代   16.62%
 50代   15.00%
 60代   17.55%
 70代   12.79%
80代以上  8.26%

・衆議院の小選挙区制が導入
2000年 神の国解散選挙(自民勝利)
2003年 自民党定年制導入選挙(自民勝利)
2005年 小泉郵政選挙(自民大勝)
2009年 政権交代選挙(民主大勝)

・自民と民主の得票差
2000年 投票率 64.45%、 自民と民主の得票差  9.52% 
2003年 投票率 59.86%、 自民と民主の得票差  3.58%
2005年 投票率 67.51%、 自民と民主の得票差  9.73%
2009年 投票率 69.28%、 自民と民主の得票差 11.35%
2012年 投票率 59.32%、 自民と民主の得票差 ?%

http://www.jiji.com/jc/election

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「品性・経営・人生」 Vol.479 
http://www.hinkeijin.jp/mgstock/No0479.htm
社会心理学専攻の学生であった、著者のアイエンガー氏は考えた。
「圧巻の品揃えによって、この店が注目されているのは間違いないとしても、
それがそのまま売り上げに結びついているだろうか?」と。

そこで、店の協力を得ながら、次のような実験を行った。すなわち、ジャム
に限定した独自の試食コーナーを買い物客の目を引きやすい入り口近くに設
置したのである。

まず、2種類の試食用ジャム群を取りそろえておく。そして、数時間ごとに、
この2つを変える。第1は24種類のジャムを取りそろえる。第2は6種類
のジャムである。

試食を勧める担当者は人好きのする若い女性2人で、これは交代させない。
同じ担当者でないと、実験結果に不当な差が出ることを恐れたためである。

そして、ジャムのメーカーはウィルキン&サンズという一流企業にした。誰
もが安心できる企業だからである。

試食用には、普通に好まれているイチゴ、ラズベリー、ブドウ、オレンジ、
ママレードの4種類は外した。おなじみのものを選ばれないようにするため
である。他にも用意周到な検討をして、実験結果に疑義が生じないように腐
心した。

さて、実験結果であるが、まず24種類の場合、入店者の60%が試食に立
ち寄った。そして、4種類の場合は40%しか訪れなかったことが判明した。

この結果は「豊富な品揃えが顧客を引きつける」ことを実証したとも言えよ
う。いわば、常識的な結果である。

さて、その間2人の女性が立ち寄った顧客に試食を勧める。興味深いことに、
24種類のときも6種類のときも、試食者が試食したジャムは平均2種類程
度だった。

この実験では試食コーナーに立ち寄った顧客全員に、ウィルキン&サンズの
どのジャムにも使える、1週間有効の1ドル引きクーポンを渡した。やって
みたら、実際にジャムを購入した人のほとんどがその日にクーポンを渡した
人であることが分かった。

試食コーナーではジャムは販売しないので、顧客はジャム売り場に行き、そ
こでジャムを選び、レジで支払いをする必要があった。

さて、次からが興味深い事実である。このジャム売り場付近に調査員を潜ま
せ、陰からこっそりと顧客の行動を観察してみたのである。次は前掲著から
の引用である。

“24種類のジャムを見た試食者は、(実際のジャム売り場で)とても戸惑っ
ていた。びんを次々と手にとっては調べ、連れがいる場合には、どの味がい
いだろうと相談を持ちかけた。こんなふうにして長いときには、10分も迷っ
た挙げ句、多くの人が手ぶらで去っていったのだ。

これに対し、6種類しか見なかった試食者は、自分の好みに合うジャムがはっ
きりわかっているようだった。通路を大股でやって来て、1分ほどでびんを
選び取り、それから他の買い物を続けた。”

自分の身に置き換えてみると、この2種類の人たちの行動はよく理解できる。
24種類ものジャムを見た人は自分の選択に自信が持てないのである。

「本当に自分は一番おいしいジャムを選んだのだろうか?他にもっとよいジャ
ムがあるのではないか?」と迷う。だから、時間をかけた挙げ句、何も買わ
ないで去ったのである。

しかし、6種類のジャムを見た人は「このジャムが一番おいしい」と、自分
の選択に確信を持つことが出来る。したがって、実際に購入する。しかも、
素早く

政治家とは反省しないものと見つけたり!

12月16日午後9時
開票は続きますが、民主党の惨敗だけは見えてきました。
前原氏が言っていますが、
国民が我々のやってきたことを見ていない。デフレは20年(15年)続いているが、自公でも脱却できていない。ようやく脱却しようとしているのに、その評価がないとダダを捏ねております。

以前の自公は本格的なデフレを認めていませんでしたので、テコ入れしては財政再建と申してブレーキを踏むというチグハグなことをしておりました。
麻生政権で経済アクセルを踏むと、「コンクリートから人へ」とブレーキを踏んだ民主党の経済失策をまったく認めておりません。

子供手当を増やしましたが、その他の控除を削減したのでプラスマイナス『ゼロ』効果でありました。
助かった人もいましたが、迷惑を掛けた方もいらっしゃる。
助けた方に感謝しろ!
迷惑を掛けた方は忘れてくれ!
そんな虫のいい事をダダと申します。

党の重役だった方が、小学生以下の知能しか持ち合わせていないのでは致し方ありません。

判ったことは、政治家は嘘を付く、間違った事は隠そうとする。
そして、反省しない『かんしゃく持ちの子供』と同じだと判りました。

「正しいことが判断できるように教育されなかった不幸な人だよ」と思ってしまいます。

しかし、そんな子供のような政治家が政治を行っている国の国民って不幸ですね。
って・・・自分達のことですけどね。

最高裁もみんな気に掛けてほしいのですが・・・無理でしょうね。

選挙前日、4年後の衆議院選の争点は放射能被害になっているだろう?

遂に選挙前日となりました。
悲しいことに、最後の最後まで放射能被害が争点にならない選挙できした。

放射能が危険か安全か?
その結論を私は持ち合わせていません。

判っていることは、
・外部被ばくなら1Sv/年でも成人なら安全だという事実
・内部被ばくでは5Bq/kgでも危険性があるという研究結果があるという事実
相反するような研究成果しか、証拠として上げられていないことです。

そして、福島の現実は、厳格な調査すらなされていないということです。

ソビエトも5年間も放射能被害を隠していた為に、評価できる研究資料が少なく、福島で今、何が起こっているか予測できません。
そして、福島でも事細かな調査がされていないので永久に放射能の影響を限定できないでしょう。

判らないから放射能の影響でないという暴論が続きます。
甲状腺ガンが放射能の影響と認めたのは、ヨウ素の半減期の性質上から判ったことです。
セシウムやストロンチウムは半減期が30年近くある為に特定できません。
特定できないから影響はない。
これは暴論であります。

影響の「ある」・「なし」に関わらず、
健康調査だけでもしっかりとして頂ければ、放射能安全基準もはっきりします。

結局、被害者がある程度拡大しないと、
本格的な調査に乗り出さないという元来の姿勢が、水俣病を起こし、被熱製剤によるエイズ患者を生み、尼崎公害訴訟を起こし、アスベスト問題も拡大化させた原因です。

もし、放射能が安全というならば、
「沢山の研究結果がある」という言葉ではなく、その知っている研究結果を公開して貰いたいものです。
そうして頂ければ、わずかしかない灰色の脳みそをフル活動して解析を試みます。
検証するデーターもなしに、どう判断しろというのでしょうか。

チェリノブイリに残っているのは、放射能被害者と思われる患者だけです。
ソビエトは故人の厳密な調査をしておりませんから断定できません。

沖縄でウリミバエ根絶にコバルト放射線を放射し、不妊虫放飼によって根絶しました。
人間などの動物は遺伝子が二重螺旋構造の為に影響がないと言っていますが本当でしょうか?
もし、影響がでるとしても、100~500年くらいのスパンが必要なだけかもしれません。
レントゲンが放射能を発見したのが1895年です。
核兵器の開発が1945年7月16日に完成してから67年です。
遺伝子への影響の結論を出すには早すぎると思います。

2011年3月11日三陸沖地震が起こって、1年と9ヶ月しか経っておりません。
チェリノブイリの実情を鑑みれば、2016年頃に甲状腺ガンの小児患者が急増するハズです。
私が注目しているのは福島ではなく、北東北と関東・東海です。
福島以外でも多くの患者がでるのではないかと心配しております。

外れてほしいと思う悪い予感ほど当たるもので、実際当たってほしくないと思っています。
ただ、2016年は次の衆議院選になり、その焦点が放射能被害者の対処でないことを祈りたいものです。

被害者がごく少数となる可能性もわずかにですがあります。
それは普段から昆布やわかめなどヨウ素を多く含む食品を多く摂取している民族であるという可能性です。ヨウ素が満たされていれば、放射性ヨウ素の吸収量が抑制され、被害者が激減する可能性があるのです。

逆にもっと深刻な危険性もあります。
平成24年7月24日から26日、熊本の下水汚泥からヨウ素131が検出されたことです。
ヨウ素131の半減期は8.04日です。
明らかに福島と違う放射能が飛散しております。

さらに、9月18~19日の千葉と東京の汚泥にもヨウ素131が検出されています。
これは福島311事故と別の放射能です。
出所が福島か、それ以外かも判りません。

このヨウ素131を吸った被害者が存在するハズです。
北東北と関東・東海に留まらず、全国規模で何かが起こっているのかもしれません。

2016年

それは不吉な年となりそうな予感がしてなりません。

クジラじゃないけど・・・イワシが大量に打ち上げられた?

縁起ワ~ル!?

千葉県白子町の南白亀川河口付近で大量のイワシが打ち上げられているのが見つかりました。

地震後も何度か打ち上げられたことがありましたので、直接関係はないかもしれませんが、スマトラ沖地震の3年後にM8.4の余震が起こっております。

無いとも言えませんが、あっても不思議でもありません。

ちょうど福島第1原発の4号基の貯蔵したプールのコンクリートがボロボロに痛んでおりというニュースを知らされて、調べている真っ最中です。

以前書いたことがありますが、F1のウラン燃料の量 2466tです。 広島型原爆の1233倍、チェルノブイリ 19倍の規模で4号基のプールがひっくり返ると、その放射能で近づくこともでいなくなるのはもちろん、菅総理が言ったように「首都圏3000万人避難」が現実になります。

悪夢です。

東電の報告では安全と言っています。(嘘を平気で言い続けた東電ですから、素直に信じることができません。)

いずれにしろ、縁起の悪いニュースが重なったことだけでも気分が悪くなります。

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河口砂浜100mに大量のイワシ…「原因不明」
http://www.yomiuri.co.jp/eco/news/20121214-OYT1T00293.htm?from=blist
 千葉県白子町の南白亀川河口付近で大量のイワシが打ち上げられているのが見つかり、町は14日朝から、撤去作業を行う。
 町は13日、住民から通報を受け、県勝浦水産事務所に連絡した。町などによると、同川河口の両岸の砂浜計約100メートルに、体長約20センチのマイワシの成魚などが何層にも重なり合って死んでいたという。同事務所では「原因はわからない」としている。
(2012年12月14日11時46分  読売新聞)
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ゴンドウ鯨が海岸に打ち上げられると大地震が起きるんです。
http://richardkoshimizu.at.webry.info/201103/article_125.html
●方向感覚失う?クジラ50頭が砂浜に…茨城
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110305-OYT1T00340.htm
茨城県鹿嶋市の下津海岸で4日夜、クジラ約50頭が打ち上げられているのが見つかった。
5日朝から地元住民や同市職員らが救出活動にあたったが、既に半数以上が死んでいた。
(2011年3月5日11時37分 読売新聞)
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4号機建屋の地盤は確かに不等沈下している
http://kaleido11.blog111.fc2.com/blog-entry-1739.html

村田光平さんは、元駐スイス大使。
現役の官僚時代から、たった一人で原発の危険性を訴えてきた方です。長い孤独の戦いを続けてきた“筋金入り”です。

村田さんの声は、霞ヶ関の無邪気な喧騒にかき消され、今まで私たちに届くことはありませんでした。
しかし、村田さんが過去に発した声が次々と現実化していくなかで、霞ヶ関の官僚たちはうろたえ、ますます幼児性をあらわに醜態を晒すばかりです。

(中略)
東京電力は補強工事をやって、震度6強まで大丈夫だと言っているわけです。
しかし、この点については、重大な疑問が残るわけです。

それは何かといえば、菅総理の元政策秘書が明らかにしたところによれば、80cmの不等沈下が発生しているということが判明しているわけです。
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岩上安身氏「福島第一原発4号機プールの冷却水ポンプ故障の件~村田光平元駐スイス大使」
http://ameblo.jp/heiwabokenosanbutsu/entry-11425227640.html
•村田光平元駐スイス大使から、先ほどメールで驚くべき情報が届けられた。福島第一原発4号機の使用済み核燃料を貯蔵したプールのコンクリートがボロボロに痛んできており、冷却水を送るポンプが故障し、秘かに復旧作業をしているという。
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原子炉建屋で燃料取り出し用カバー設置の本工事に4月17日より着手しました
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/f1/genkyo/fp_reactor/fp_no04/index.html
燃料の取り出しは平成25年12月開始を目標にしています。併せて4号機原子炉建屋への雨水浸入対策を進めてまいります。

■原子炉建屋健全性確認の第3回定期点検を実施しました

2012年11月19日~28日、原子炉建屋および使用済燃料プールの健全性を確認するため、第3回の定期点検を行いました。(年4回実施。第1回は2012年5月、第2回は2012年8月)
点検はこれまで同様に、水位測定による建物の傾きの確認などを行っております。
点検の結果、建屋は全体として傾いておらず、状態は、第1回、2回目定期点検時と比べて大きな変化はなく、安全に使用済燃料を貯蔵できる状態にありました。点検は今後も定期的に行ってまいります。詳しくは参考資料をご覧ください。(
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福島第一原子力発電所4号機「原子炉建屋」および「使用済燃料プール」の健全性について
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/images/handouts_120830_02-j.pdf

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「首都圏3000万人避難」のリアリティを共有せよ
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120914/236810/?rt=nocnt
菅氏は、極限状況で「首都圏3000万人避難」という最悪のシナリオを身を持って受けとめたことから、それまでの原発推進論者から一転、脱原発の先頭に立った。原発輸出にも「ノ―」を突きつける。議員立法として国会に提出された「脱原発基本法案」にも賛同者として名を連ねた。

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福島第一にあるウラン燃料の量って!? 2466t 広島型原爆の1233倍、チェルノブイリ 19倍
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/2466-224-73cf.html

だるまの目入れに文句付けた人は誰? 乙武節、ご苦労様です。

くだらないことを言う人間もいるものだ。
「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識を育てることにつながりかねない」と民主党が要請を受けたことで問題化しているらしいが・・・。

乙武氏も言っているが、こんなことに文句を言い出したらキリがない。

「あなたは幸福ですか?」

この幸という漢字は、両手を縛ると書いて『幸』という漢字が生まれた。

古代中国では、極悪な極刑が多かったことから、手足を縛られる程度の刑は幸せなことだという意味で『幸』という漢字が生まれた。

『福』は、「ネ」が神をまつる祭壇であり、「畐」はもののつまっている倉を表す。祭壇の倉に納めるということだ。

「あなたは幸福ですか?」(あなたの両手を縛って、(祭壇の倉に)拘束してもいいですか?)

「はい」と答えると拉致してもよいことになってしまう。

このように漢字の語源を調べると、使えない漢字だらけになってします。

機能的に差別用語であるかどうかが問題であって、行為を差別に結び付けるのは、それこそ逆差別というものです。

乙武氏が言うように、「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」などの手や足を使った慣用句などは、『五体不満足』が差別だと言い出したらキリがありません。

『五体満足』の私で御座いますが、未だに一度も乙武氏と対等に肩を並べることができたなどとは思ったことも御座いません。

彼もまた私が追いかける山の1つであります。

いずれにしろ、すべて常識と道徳というものがあり、過ぎたる及ばざるが如しということです。

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乙武洋匡氏 「だるまの目入れは差別か?」
http://yukan-news.ameba.jp/20121211-326/
12月10日に掲載した「だるまの目入れは差別か 選挙事務所からだるま撤去も」という記事が、
スポーツライターの乙武洋匡氏(36)のツイートにより拡散。

その後、乙武氏がツイッターで「障害と差別表現」について連続ツイートをしている。

同記事では、選挙の風物詩として知られる「当選者によるだるまの目入れ」が、
「ダルマに目を入れて選挙の勝利を祝う風習は、両目があって完全、という偏見意識を育てることにつながりかねない」
という要請が民主党に対し、視覚障害者団体から寄せられたことから問題化したと説明。

乙武氏は『五体不満足』の著者として知られるが、その立場からこうツイートする。

“だるまに目を入れるという風習が差別や偏見に当たってしまうというのなら、
世の中の多くのことがグレーゾーンになる。最近では、「ブラインドタッチ」「目が節穴」という言葉さえ使ってはならないのだとか”

そして、こう続ける。

“これを視覚障害ではなく、身体障害にあてはめると、えらいことになる。
「手を焼く」「手に負えない」「足を運ぶ」「足並みをそろえる」――手や足を使った慣用句は、枚挙にいとまがない。
手足のない僕が、これらの言葉を「差別だ」と騒ぎたてたなら、こうした表現も使えないということになる”

乙武氏はこのように、何でもかんでも配慮すれば良い、と考えることに疑問を抱いているものの、
「だるまの目入れ」を差別だと感じる人の気持ちも理解している。それは、幼少期にいじめに遭ったり
親に受け入れられなかった人は乙武氏のように障害のことを笑い飛ばせない、ということである。

今回の件で乙武氏は11のツイートをしているが、最後は「以上、エロだるまがお送りしました」と締めている。

森永卓郎氏、裏で金を貰ったね? だぶん・・・

森永卓郎氏の言っていることは、半分が本当で、半分が嘘。

<火力発電用の燃料増加は、購入者の無能を責めるべき!>
日本の貿易赤字拡大の一因が火力発電用の燃料ですが、安価に買えるのにめちゃくちゃ高いレートで購入をしています。
火力発電用の燃料による赤字幅は2分の1から4分の1に下げることができます。
燃料を言い値で買っている電力会社の無能を責めるべきでしょう。
電力会社を責めずに、電気料金が上がることだけを特筆するのは偏った見解です。

<水力・火力・地熱であまるエネルギー>
中長期的に再生可能エネルギーを増やしていけば、日本は破綻しますね。
短期に再生可能エネルギーを増やさなければいけません。
中長期と言っている時点で、『原発容認派』なのです。
因みに、再生可能エネルギーというのは、新技術でも新産業でもありません。
・水力(ダムサルベージ、小規模等)
・火力(コンバインドサイクル発電、薪等)
・地熱

すべて既存のエネルギーであり、原発がある為に推進されなかっただけです。
オーランチオキトリウムやメタンハイドレードやバイオエタノールのような画期的な新産業を差していません。
【水力の潜在能力】
水力発電は黒部ダムなど、旧ダムの発電量が著しく落ちております。これはダムの中に汚泥物が沈殿して、貯水量が激減したことが原因であります。
この貯水池の掘削・堆砂除去することでよって復活する電力(899万キロワット)は30%と言われております。全発電量に占める割合が7.3%ですから、2.19%(269.7万キロワット)の底上げを期待できます。
さらに小水力発電です。
小水力発電は一般的に発電能力が1万kW(=10メガワット)以下の設備を指し、「小水力」とはいえメガソーラーを上回る電力を供給できます。
中部電力の計画では、岐阜県の2か所のダムで2016年度までに540kWの発電を可能にする予定だ。年間の発電量は340万kWhを見込んでおり、1000世帯近い家庭に電力を供給できる規模になりますが、前倒し期待したいところです。
その潜在能力は国内の河川で1400万キロワット、農業用水路で30万キロワットと試算されており、原発一基が約100万kWの電力とすると、14~15基分を賄えることになります。(環境省の試算でも、400万キロ~500万キロワットとあります。)

【火力の潜在能力】
コンバインドサイクル発電は、炉圧と廃熱の二重で発電するシステムです。すでに川崎天然ガス発電所ではガスタービンと蒸気タービンを組み合わせた最新のコンバインドサイクル方式を採用されており、その熱交換率は一般の火力発電所の40%を大きく上回る59%です。つまり、5割増しの発電が可能になっております。
現在稼働している旧来の火力発電所は熱交換率が30%以下の効率の悪い発電施設ですから、改修あるいは立て直しを行えば、コストを2倍近く下げられる訳です。
2010年以前の日本では火力発電に活用する総燃料比率が、「石炭燃料」約40%、「天然ガス燃料」約40%、 「石油燃料」約15% 、「その他燃料」約5%となっていました。
2010年度の火力比率67%が、2012年度では86%に上がっております。19%が原子力発電の停止分ということになります。
燃料費の高騰を含めると、
2010年度が1兆4,821億円であり、2012年度では2兆4,704億円と9,883億円の増加となっております。
2~3年の内に火力発電をすべてコンバインドサイクル発電に転換すると、32.2%の燃料費カットが実現できますから1兆6,748億円に下がります。つまり、燃料費高騰分は1,927億円に圧縮できる訳です。
さらに、個人的意見を言わせてもらいますと、
福島の山林は放射能に汚染されております。
その山林の植替えが急務であり、すべての伐採と植林を永続的に100年間くらい続ける必要があります。
薪を燃料とした薪低出力火力発電によって、除染と発電を一気に行ってしまうのを提唱します。

〔すでに上げた水力と火力を2年以内に置換できるだけで、原子力分の燃料費高騰分を補ってもおつりがくることがお判り頂けましたでしょうか。火力発電所の建設工期は2年ですが、すでにある場所なら土地整備が終わっていますので建て替えなら1年で建設可能です。〕

【地熱の潜在能力】
地熱は主に3種類あり、従来型、高温岩体発電、マグマ発電であります。
マグマ発電は、これからの研究が必要ですが、潜在資源量は6TWと日本の全電力需要の3倍近くを賄えると言われています。近い未来が楽しみですね。
高温岩体発電は、アイスランドなどで実用研究中の方式です。技術的には問題をクリアーしており、近未来の技術あり、国内で大型発電所40基弱に相当が期待できる。こちらは中長期に分類されるエネルギーである。
火山資源国としては、アメリカ、インドネシアに次ぐ3位であり、資源量2347万kW(2010年度)が期待できる。

従来型の地熱発電の問題点は、国立公園などの上に点在していること、小規模にも大型発電所と同等の施設が必要などであり、環境・法律的問題のみが横たわっている。
2010年では、6万7246 ギガワット時が発電されており、70%、71%と安定していることが大きなメリットである。
現在開発済みの地熱発電所の設備容量は、日本は18地点で合計53.5万kWと潜在量からいうとわずかです。
(経済産業省の調査(2008年度)では、150℃以上の地熱資源量は約2000面kW、あるいはそれ以上と推定される。この内、約80%強が国立公園の特別保護地区・特別地域内にあり、開発できない。
開発できるのは、その外である約400万kWの内、53万kWを開発済み。)
経済産業省の調査を裏を読みすると、1600万キロワットが手付かずであり、すぐに開発可能な発電量212万キロワットはあるということだ。
原発2基分がすぐに着工でき、1000万キロワット以上が開発可能と思えば、かなり気分が変わるというものだ。

以上のように、従来の技術でも原子力分を補える訳です。
短期で再生エネルギーと省エネを実行すれば、燃料費の高騰分はちゃらにできます。何故、原発再稼働を言わなければならないのでしょうか?
燃料費の高騰が日本経済を壊滅させる要因ではないのです。

<原発云々ではなく、電力会社はすべて破綻企業!>
電気料金の値上げは、燃料の高騰ではなく。止めている原発の維持費を削減できないことにあります。
動いていなくての電気を必要とする原子力は、最悪のエネルギーシステムです。
事故が起こった場合の住民への補償費を誰が払うのでしょうか?
どこの保険会社も入札してくれないでしょう。
動かし続けたとして、放射能廃材の処理費用は誰が支払うのでしょうか。
倉庫を借りるにしても、10万年分の費用はどう捻出するのでしょうか。
つまり、それらの費用を組み入れると破綻するのです。
これは、前東電会長の勝俣氏が東電社長に就任したとき、「このままでは東電が潰れる」と言って原発の撤退を言ったことでも判ります。
経産省が補填することでその話は消えましたが、隠し負債は膨らんでおります。
国か電力会社のいずれかが負うことになります。
「燃料費で日本が破綻する」など嘘を言ってはいけません。
もし、日本が破綻するのなら「原子力の負債」で破綻するのです。

<原発を再稼働する為には・・・!?>
原発は夢のエネルギーです。
未だに夢のエネルギーであり、現実のものではありません。
無理をして使用するから問題が大きくなるのです。
中性子の活動を抑える技術。
放射能を排除する方法。
最低、この2つの技術の開発を待たなければ、原子炉を動かせません。
今はブレーキのない車のようなものです。
危なくて乗る気になりません。

さらに、放射性物質を抑制か、消滅させる技術がなければ、放射性廃棄物の行き場がありません。
原発こそ、長期的展望で技術開発が必要な分野なのです。

当面、廃炉を決め、放射能物質の置き場を念頭に活動するのが必要でしょう。それでも50年くらいのスパンが掛かります。
放射能の技術革命がなければ、核のゴミ問題の解決はないのですから、研究費はかなり大目にする必要があります。

経済アナリストも職を失いたくない為か、賄賂でももらったのか、いずれか知りませんが、

燃料費で日本が破綻するのは真っ赤な嘘、
しかし、日本が破綻するだけを取れば、嘘でもない。

まったく、ミスリードはやめて貰いたい。

原発推進派の方も何をすれば、再稼働できるか真剣に考えてもらいたいものです。

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経済アナリストの森永卓郎氏 「原発再稼働せねば日本経済は破綻しかねない」
http://www.news-postseven.com/archives/20121211_159276.html
2012.12.11 07:00
日本の貿易赤字拡大の一因となっているのが、原発の稼働停止に伴う火力発電用燃料の液化天然ガス(LNG)や
原油などの輸入量の増大だ。経済アナリストの森永卓郎氏は、「このままでは日本経済はガタガタになりかねない」と懸念する。

では、どうすればいいのか。森永氏が解説する。

中長期的にいえば、再生可能エネルギーを増やしていくしか手がないのですが、それには非常に時間がかかる。
政府は、2030年までに総発電量に占める再生エネ発電の比率を30%にするといっています。

しかし、現在の再生エネ発電の比率は約10%。そのうち約9割は水力発電が占めており、
これを除くと1%程度に過ぎないのです。つまり、現在の20倍まで増やさないといけない。

たとえば、政府案を実現するためには、住宅用太陽光は30年までに現在の約100万戸から
1000万戸へ設置拡大しなければなりません。現在は東京都の10分の1の面積に設置されている
風力発電の場合は、これを東京都の1.6倍の面積にまで拡大することが求められます。

そして、これだけのことがやれたとしても、総発電量の30%までしかいかないのです。

それはそれで重要な課題ですが、日本はそんな中長期レンジの話をしている余裕はありません。
日本経済は今まさに大きな危機に直面しているのです。

世論への対応の中で政治的に原発の再稼働は難しい状況となっていますが、
現実を直視すれば、再稼働しなければ日本経済は破綻に追い込まれかねません。

東京電力はすでに電気料金を値上げしましたが、その理由は原発事故補償のためではなく、
原発の稼働停止を受けた火力発電所の燃料費増によるものです。

今後は他の電力会社も軒並み電気料金を上げてくる事態は避けられません。

電気料金の値上げは一般家庭だけでなく、企業にも大きな悪影響を及ぼすので、
2012年度から2013年度にかけて日本の景気はさらに後退していき、日本株も下落する。
現状では、これが一番有力なシナリオといわざるをえないのです。
※マネーポスト2013年新春号

月畢(ひつ)に離(かか)りて

雨がしとしとと降るたびに寒さが厳しくなり、その風が身に沁みます。
朝、戸を開けて、路面が濡れているのを見ると、『月畢に離り』と呟いてしまいます。
『詩経』の小雅にある「周代の武人の行路難」を歌った中に、『月畢に離り』と書かれております。
武人は余りの苦しい行路難に嘆き、宙(そら)を見あげては、月が『畢』(ヒヤデス星団)に離り(掛かる)のを見て、滂沱(ぼうだ)〔雨の降りしきるさま〕するのかとさらに嘆いております。

「漸々の石新れそれ卒(けわ)し、山川悠かに遠し、いつかそれ没(つ)きなむ、武人東を征(ゆ)きて他に遑(いとま)あらず。
豕あり白き蹄ありて、もろもろ波を涉(わた)る。月畢に離りて滂沱(ぼうだ)たらしめんとす。武人東を征きて他に遑あらず。」

『畢』(ヒヤデス星団)は、おうし座アルデバランのすぐ横にあり、おうし座が天空に輝くのは、秋から春に掛けてです。
雨が降るたびに寒さが厳しくなる季節です。

月が畢宿(ヒヤデス星団)に掛かると、翌日は雨が降るという古くからの言い伝えがあり、武人は月を見て嘆き、私は路の濡れを悟って、月を思った訳であります。

そう思ってで星図を見ると、月畢が11月28日に離(かか)っていたりします。
もうそんな季節になったんだ。
そう思えば、この寒さも納得です。

次は、12月26日02時20分、おうし座ω1星(5.5等)の食になります。
27日の雨は嫌だね~!
と今から思わずにはいられません。もっとも雪かもしれませんが・・・。

<<月とおうし座>>
2012年11月上旬:おうし座流星群

2012年11月28日:月とヒヤデス星団が接近
Photo_4
<月とヒヤデス星団>


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<ヒヤデス星団>

2012年11月30日:オリオン座χ1星(4.4等)の食


.Photo_5
<オリオン座の星>

2012年12月3日に木星がおうし座で衝

2012年12月26日02時20分:おうし座ω1星(5.5等)の食になります。
東京 月出14:59 月入4:41
大阪 月出15:18 月入4:56

※月の公転周期は、27日7時間43.1分(約27.32日)、朔望月(さくぼうげつ)は、29日12時間44分(2012年で約29.5305845044日、2013年で約29.53058444631日)

番外 名君義元 東海一の弓取りの事(2)<<相模の穴熊を屈させた事>>

今川家と北条家の関係は複雑です

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ  

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北条家の初代、早雲は素浪人から身を起こした戦国大名と言われますが、近年の研究から名門伊勢氏の一族であったことが知られています。
早雲は、当時、伊勢新九郎盛時と名乗り、室町幕府の政所執事を務めていた。盛時の姉は義忠の正室で北川殿と呼ばれておりました。
今川家は、駿河今川家6代当主、義忠(よしただ)の戦死によって、嫡男の龍王丸と従兄弟の小鹿範満の間で家督争いが起こります。
範満の外祖父であった堀越公方執事の上杉政憲と扇谷上杉家家宰の太田道灌が兵を率いて駿河へ進駐して家督争いに介入します。
伊勢氏の幕臣であった盛時は、室町幕府の遺構を受けて、駿河の家督争いに介入した結果、範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着しました。
しかし、龍王丸が15歳を過ぎても家督を返さないどころか、危害を加えるようになります。
北川殿と龍王丸は盛時に助けを求め、盛時の助力もあり、範満を誅殺して氏親を今川家7代当主にします。
盛時は富士下方12郷と興国寺城を頂き、今川の家臣(守護代)となります。

「伊勢新九郎盛時」から「早雲庵宗瑞」に名を改めた早雲は、遠江、甲斐に出兵し、遂には三河まで進出します。
その後、転進して相模、武蔵まで兵を進めます。相模三浦氏を滅ぼし、相模平定した後に伊勢(後北条)氏として独立を果たします。

北条家は今川家にとって家臣であり、外縁親族であり、恩人の国だったのです。

<<相模の穴熊を屈させた事>>

北条早雲と呼ばれますが、相模伊勢氏が北条氏を名乗るのは、早雲の死後、大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏から北条氏(後北条氏)へと改めました。
今川氏親は、東は房総半島から西は三河、北は甲斐にまで勢力を伸ばしたことになります。
ただ、遠江を攻めたのは、総大将を早雲(伊勢氏)、副将を福島正成として攻めた。
さらに、、甲斐国都留郡にも出兵して郡内領主の小山田氏や守護の武田氏と戦い。関東進出にも進出し、扇谷上杉氏に味方して山内上杉家と戦った。
永正2年(1505年)頃に中御門宣胤の娘(後の寿桂尼)を正室に迎え、氏輝、彦五郎、玄広恵探、義元、氏豊、瑞渓院(北条氏康室)、娘(松平親善室、後鵜殿長持室)、娘(中御門宣綱室)、娘(関口親永室、築山殿の母)を生む。
永正13年(1516年)7月、早雲が三浦 義同・義意父子の篭る三崎城に攻め寄せ、相模全域を平定し、同年8月、引馬城の大河内貞綱を打ち取った氏親は、遠江を平定した。
氏親時代は、守護代の盛時(早雲)に支えられて当主の宗主権強化に努め、駿河・遠江・相模の3国を治めることになります。
遠江の検地を進め、安倍金山(井川・梅ヶ島・大河内・玉川の各金山の総称)の開発を進め、『追掘(おっぽり)』という河岸段丘に堆積した砂金を採取する方法から『問掘(といぼり)』という坑道を掘ることによって金鉱石を採取する方法に変えました。慶長3年の太閤検知(※1)から判るように田畑の石高が意外と駿河・遠江の財政を金山の育成で補った訳です。

しかし、大永6年(1526年)4月に分国法『今川仮名目録』を制定しているように、今川家の基盤は未だ脆弱でした。
その原因は、伊勢氏、福島氏に代表される家臣(国人)の権限が大きかったことです。
氏親の死去によって、14歳の嫡男、氏輝(うじてる)が第8代当主を家督相続します。
氏輝時代は、一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備することになります。しかし、三河で松平氏が活動を強めると、守勢に立たされた今川方は三河を放棄します。
氏輝が病弱だった為か、三河を放棄したことが要因か判りませんが、家臣(国人)の支持が低かったと思われます。
しかし、家督を相続してわずか10年で自殺か、将又、謀略か、いずれか判りませんが突然に他界します。

・「今月十七日、氏輝死去[廿四日、止々]、同彦五郎同日遠行」静岡県史 資料編7「為和集」(宮内庁書陵部所蔵)
(天文5年(1536年)、3月17日、氏輝死去。24日に止々。同じく彦五郎が同日遠行。)
・「十八日、例之建長・円覚之僧達、為今川殿不例之祈祷大般若被読、然而十七日ニ氏照死去注進之間、即夜中被退経席畢、今川氏親一男也、」静岡県史 資料編7「快元僧都記」

(18日、例の建長寺・円覚寺の僧たちが今川殿のため不例の祈祷で大般若経を読まれた。そして17日に氏輝が死去したとの報告があったので、すぐに夜中に経席を退出した。今川氏親の息子である。)
・「十七日、今川氏照・同彦五郎同時ニ死ス、」静岡県史 資料編7「高白斎記」
(17日、今川氏輝・同じく彦五郎が同時に死す。)
・「此年四月十日、駿河ノ屋形御兄弟死去被食候、」静岡県史 資料編7「妙法寺記」
(この年4月10日、駿河の屋形ご兄弟が死去なされました。)

資料に日にちのバラツキや氏輝と彦五郎の死亡日時にバラツキがあり、確証を得るにはほど遠いですが、当主と次期当主の二人がほぼ同時に亡くなったことで、家督争いが起こるのです。

家督争いに名を連ねたのは、3男の玄広恵探(母:福島正成の娘)と4男の栴岳承芳(母:寿桂尼)です。
正室の寿桂尼の子である栴岳承芳(義元)の方が正統な血筋であるが、側室と言えど、同じ氏親の子であり、栴岳承芳(義元)の兄にあたる玄広恵探を押した福島正成が反旗を翻し、花倉の乱(はなくらのらん)を起こします。

花倉の乱で、北条氏綱は正室寿桂尼の子である栴岳承芳(義元)を支持しますが、遠江を一緒に攻めた福島氏とも親しい間柄であったと思われます。
北条氏綱は、両家に親しい間柄を利用して、父早雲のように調停で乱を治めようとしたのではないでしょうか。
北条家が相模を治めているように、遠江、甲斐方面の外交や軍事を司っていた福島氏は遠江に勢力を張っていました。
最悪、駿河=今川、相模=北条、遠江=福島に分裂する危機でありました。

しかし、栴岳承芳(義元)の考えは違います。
氏輝と彦五郎の死亡を、福島氏の陰謀と考えていたのではないでしょうか?
そんな福島氏と調停を結ぶ気はさらさらありません。
当時、悪主人を見限り、善主人に仕え直すこと。二君に仕える事は美談とされておりました。
しかし、『今川仮名目録追加』第2~4、7条にあるように、義元は身分の厳格さに重きを置き、不忠に嫌悪を感じていることが伺えます。
栴岳承芳(義元)にとって、二君に仕えることは悪であり、況して、主人を亡き者にするような輩と手を結び、家臣に召し抱えるなど考えられなかったのではないでしょうか。

結果、福島氏と因縁深い、武田信虎を敵対させることで福島氏の排除を行ったのです。
しかし、甲斐と相模の国境付近で諍いのある武田と同盟を結ぶことは、北条として受け入れなれないとして、今川家から独立を果たします。
こうして、北条家と今川家は敵対する関係となって行きます。

■伊勢新九郎盛時は戦国大名でなかった。
伊勢新九郎盛時は戦国の父のように語られますが、実像は理想的な守護代でありました。
もし、盛時(早雲)が望んでいたなら相模一国ではなく、遠江、駿河、相模の3ヵ国を手に入れることが可能でした。しかし、盛時(早雲)は可愛い甥っ子の氏親の為に尽力します。
盛時(早雲)の中に下剋上はなく、守護代として遠江、駿河、相模の3ヵ国を想うようにできたことで十分満足していたのです。

盛時(早雲)は氏親を今川家7代当主に据えると、室町幕府のお家騒動に巻き込まれる形で相模に進出します。その一方で遠江の奪還を指揮し、北の虎、甲斐の武田信虎にも勢力を延ばします。
遠江、駿河、相模、甲斐を縦横無尽に駆け巡ります。
戦略家、戦術家、謀略家の本領をすべて出し尽くす充実した一生だったと思われます。
永正6年(1509年)、氏親が38歳になった頃から相模方面に集中し、遠江・甲斐は氏親が率いる福島氏らに任せるようになります。これは決別ではなく、氏親らの成長によって任せることができるようになったと考えるべきでしょう。
氏親にとって早雲が父のように巨大な存在であり、逆らうとか相反する行動を取る余地がなかったと考えるべきでしょう。
永正16年(1519年)に早雲が亡くなり、氏親ははじめて自らの意思で政権を担うようになって行きます。

文明5年(1473年)、盛時の姉、北川殿が嫡男龍王丸(後の今川氏親)を生む。
文明8年(1476年)、今川義忠は遠江の塩買坂の戦いで戦死。
文明8年(1476年)、龍王丸と小鹿範満の間で家督争いが起こり、盛時が仲裁に入り、範満が龍王丸の後見人として家督を代行することで決着する。
文明11年(1479年)、盛時は、幕府に申請して前将軍・足利義政の名による龍王丸の家督継承の内書を得る。
文明13年(1481年)、備中国に本拠を持つ細川京兆家の内衆庄元資の家臣渡辺帯刀丞が早雲に金を貸す。
文明14年(1482年)、渡辺帯刀丞が盛時に訴訟を起こす。
文明14年(1482年)11月27日、享徳の乱の収束。幕府と成氏との和睦が成立し、堀越公方(足利政知)は伊豆1国のみの支配者が伊豆一国の支配者となる。
文明15年(1483年)、盛時は、9代将軍足利義尚の申次衆に任命される。
文明19年(1487年)、範満が家督奪取の動きを見せて龍王丸を圧迫したので、北川殿と龍王丸は盛時に助けを求める。
長享元年(1487年)、盛時は、奉公衆となる。
長享元年(1487年)11月、盛時は石脇城を拠点に兵を集めて駿河館を襲撃して範満を誅殺する。
長享3年(1489年)、龍王丸は元服して氏親と名乗り今川家の当主となる。
延徳3年(1491年)、堀越公方(足利政知)が没すると、嫡男であったが素行不良の廉で父・政知の命により土牢に軟禁されていた茶々丸が、後嗣とされていた潤童子と継母の円満院を殺して、公方となる。

●延徳3年(1491年)5月~明応4年(1495年)、伊勢新九郎盛時は伊豆乱入に伴い幕府奉公衆からの退任し、出家して早雲庵宗瑞(そううんあんそうずい)を名乗る。(※2)
明応2年(1493年)4月、管領細川政元が明応の政変を起こして10代将軍義材を追放し、清晃(清晃は還俗して義遐を名乗り、後に義澄と改名する)を室町殿に擁立した。
明応2年(1493年)10月、11代将軍・足利義澄の命により、興国寺城にいた盛時は足利茶々丸を討伐して追い詰めてゆく。
明応3年(1494年)、長享の乱、山内上杉家と扇谷上杉家の抗争が再燃し、早雲は扇谷家の上杉定正に援軍を求められたが、定正が落馬して死去した為に兵を返した。
明応3年(1494年)、早雲は、遠江へ出兵し、遠江中部まで勢力下に収めた。
明応4年(1495年)、早雲は、茶々丸の討伐・捜索の為に甲斐の都留郡に攻め込み、郡内領主小山田氏や守護武田氏と戦っている。
明応4年(1495年)9月、相模小田原の大森藤頼を討ち小田原城を奪取する?
明応7年(1497年)、早雲は伊豆の国人を味方につけながら南伊豆の深根城を落として、伊豆国を手中にする。
明応8年(1498年)、早雲は茶々丸を捕捉し、殺害する。
文亀年間(1501年-1504年)、早雲は、遠江をさらに進軍し、三河国岩津城の松平氏を攻める。
永正元年(1504年)9月27日、武蔵立河原の戦い。上杉顕定・足利政氏らの連合軍と上杉朝良・今川氏親・北条早雲らの連合軍との間で行われた合戦で朝良は勝利する。(扇谷上杉家の当主となった朝良は、北条早雲に相模西部の中心である小田原城を譲ってその軍事支援を頼み、北条・今川軍の支援を受ける。)
永正2年(1505年)、顕定・能景の軍勢が河越城を包囲し、上杉朝良は3月に降伏を表明した。
永正3年(1506年)、早雲は相模で検地を実施する。
永正4年(1507年)、管領細川政元が家臣の香西元長・竹田孫七・薬師寺長忠に暗殺される。(永正の錯乱)
永正4年(1507年)、越後守護上杉房能が守護代の長尾為景(上杉謙信の父)に殺される。
永正6年(1509年)7月、顕定は大軍を率いて越後へ出陣。
永正6年(1509年)8月、早雲は扇谷朝良の本拠地江戸城を攻撃する。上野に出陣していた朝良は兵を返し、翌永正7年(1510年)まで早雲と武蔵・相模で戦う。
永正9年(1512年)、早雲は、岡崎城と住吉城を攻略し、三浦義同・義意父子を三崎城(新井城)に追い込む。
永正6年7月~永正13年(1516年)7月、扇谷朝良、相模三浦氏と戦い、早雲はこれを打ち破り、三崎城を奪って相模全域を平定する。
永正15年(1518年)、家督を嫡男氏綱に譲る。
永正16年(1519年)、早雲が死去する。

■守護大名から戦国大名へ
早雲の死によって今川氏親(48歳)に微妙な変化が現れます。
早雲の後を継いだ駿河守護代の伊勢氏綱(32歳)は、氏親より16歳も若いということです。
・今川 氏親     生誕 文明 3年(1471年)
・伊勢(北条)氏綱 生誕 長享元年(1487年)

氏綱は若武者というほど若くはありませんが老練な早雲と比べれば、可愛いものだったのでしょう。
氏親は、守護代に奪われていた権威を取り戻そうと躍起になります。
分国法『今川仮名目録』はその集大成とでもいうべきものです。
氏親は守護の権威を高めようとしましたから伊勢氏綱との軋轢となっていったに違いありません。

ここで考えられるのが、伊勢氏から北条氏への改名であります。
早雲の死から4年後、大永3年(1523年)6月から9月の間に氏綱は名字を伊勢氏の書状が消え、北条氏の書状へ変わっていることから、この期間に改名がなされたと考えられております。
氏綱は先鎌倉幕府の執権と同じ名前に改名し、さらに、執権北条家と縁がある官職を貰う為に多額の寄付を朝廷に納めております。
北条氏が自らの権威付けをなされているには訳でいります。

ここから考えられることは、駿河守護代から相模分国がなされたと考えるべきではないでしょうか。

〇駿河・遠江守護〔今川氏親〕
  駿河・遠江守護〔今川氏親〕- 駿河・遠江守護代〔伊勢氏綱〕- 駿河・遠江・ 相模家臣団〔国人衆〕
  ▽ 
〇駿河・遠江守護〔今川氏親〕、相模分国〔伊勢氏綱〕
  守護〔今川氏親〕- 駿河・遠江家臣団〔国人衆〕
  相模分国〔伊勢氏綱〕- 相模家臣団〔国人衆〕

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氏親は、伊勢氏綱に相模を分国して国主としました。
氏綱が今川の家臣であることは変わりませんが、完全な独立が認められたと考えれば、駿河・遠江守護代職を失う以上の成果であります。
また、氏親も相模を失うことになりますが、守護代を外すことで駿河・遠江の権威を高めることになります。
さらに、氏親の後盾として相模分国があり、氏綱の後盾として駿河・遠江守護がいる。
氏親と氏綱の双方が納得いく解決策であったと思われます。
こうした権威付けをした氏親は、守護大名から戦国大名へ変貌していったのです。

大永6年(1526年)4月に分国法『今川仮名目録』を制定しているのは、体調優れない氏親が急ぎ制定したものですが、氏親が目指すべき大名への形がそこにあります。

■今川家の押しこめ
今川氏親によって今川 氏輝(いまがわ うじてる)が14歳で家督を継承し、今川家8代当主となります。当初、若年の氏輝に変わって、母の寿桂尼が後見人として政治を司ります。
遠江において検地〔天文2年(1532年)〕、江尻湊の振興、御馬廻衆の創設、専制君主制から一門衆や有力被官の合議制を確立させ、分国統治を整備しました。
しかし、家督を継いだ直後に三河を失い。遠江でも天野氏が反旗を翻す。和睦していた甲斐国守護武田信虎が攻めて来る。相模の北条氏綱と連携し、家臣団(国人衆)の協力を得て戦いを何とか凌ぎます。
そんな家中の中で、天文5年(1536年)3月17日、氏輝は24歳の若さで突然没することになります。

・大永6年(1526年)世良田次郎三郎(徳川家康の祖父:松平清康)は))、山中城を攻撃して西郷信貞を屈服させ、信貞の居城であった旧岡崎城を手に入れる。
・享禄2年(1529年)5月28日、世良田次郎三郎は、東三河にも進出して牧野氏の今橋城を攻め落とした。
・享禄2年(1529年)、北遠江最大の国人領主だった天野氏が今川氏輝から独立し、南信濃の国人らと共に遠江の中尾生城城主二俣昌長を攻める。
・享禄2年(1529年)11月4日、世良田次郎三郎は、三河の東端八名郡に在った宇利城の熊谷氏を攻め落とす。(今川家は三河での勢力をすべて失う)
・天文4年(1535年)8月、武田信虎は国境の万沢口に攻め込み、今川氏輝と合戦する。
・天文4年(1535年)8月、北条氏綱は今川の後詰として、籠坂峠を越えて甲斐領へ侵入。武田軍の小山田氏や勝沼氏を打ち破った。「妙法寺記」
・天文4年(1535年)9~10月、武田信虎と同盟をしていた扇谷上杉朝興が氏綱の留守の相模へ出兵。北条は相模湾沿いの大磯・平塚・一宮・小和田・鵠沼などの郷村に大きな被害を受ける。
・天文4年(1535年)10月、今川氏輝は、中尾生城の城主を二俣昌長から匂坂長能に交替させ、奥山郷支配の了承と同地の下人等の使役を認めている。(天野氏との抗争は続いていたと思われる)
(天野氏は天文22年南信濃の国人遠山孫次郎を天野氏を介して武田信玄の配下にしている。天野氏が武田に降っていることから享禄2年(1529年)の独立に武田が関与している可能性もある。)

氏輝が家督を継いでから、三河を失い、遠江は世情不安が続き、甲斐と不和となり攻められる。
その上、専制君主から合議制に変わったと言っても、家臣団(国人衆)には不満が募ります。
氏輝のままで今川家は安泰なのだろうか?
甲斐を退けた天文5年(1536年)3月17日に当主氏輝と次期後継者である彦五郎が亡くなります。
そして、福島正成の娘が生んだ3男、玄広恵探を擁立したのです。
福島正成を初めとする一部の家臣団の『押し込め』ではないでしょうか。

鎌倉期から武家社会に見られた主君の『押し込め』は謀反ではありません。
主君を討滅、あるいは隠居させ、新たな君主を迎える。
家臣団の衆議・意向を無視あるいは軽視した主君は廃位の憂き目に遭っても致し方ない。
今川家を想う福島正成を初めとする家臣団は忠義の士であり、何ら恥ずべきところがない。
少なくとも実行した者はそう思っていたに違いありません。

記録に残っておりませんが、病弱と思われる当主氏輝の隠居を願い出ていた。
もちろん、史実に残っていないのは不都合な事実を義元がすべて消し去ったからと思われます。
隠居されない氏輝に対して、業を煮やした福島正成らが決起を行ったと考えられます。
偶々、一緒にいた彦五郎も災難にあったのでしょう。

さて、北条氏綱は朝廷・幕府に多額の献金を行っていることより分国した相模の守護になりたいという願望があったと思われます。
今川の家臣であり、幕府(足利氏)の一族である今川宗家と権大納言中御門宣胤を父に持つ寿桂尼には好を通じて置きたかったことでしょう。
今川氏輝、彦五郎の死によって、寿桂尼は正室(寿桂尼)の子である栴岳承芳(義元)を次期当主と決めました。氏綱もそれに従うのは当然のことだったのです。

■栴岳承芳(義元)の性格と智謀
今川義元は氏親うじちかの五男として生まれ、童名を方菊丸といった。
今川家は家督争いを防ぐ為か、嫡男と次男以外をすべて出家させている。次男の彦五郎が出家させられなかったのは、嫡男が病弱であったと言われております。
方菊丸は4歳で善得寺という臨済宗の寺に入れられて、九英承菊(※)(きゅうえいしょうぎく)〔後の太原崇孚(たいげんそうふ、雪斎)〕に養育されます。方菊丸は得度し栴岳承芳と名乗ると禅の修行の為に京に上り、建仁寺の「臨済禅」を学びます。しかし、飽き足らない栴岳承芳は、「祖師禅」に惹かれて妙心寺に移っております。
臨済禅は、「公案」といわれる問題を師家(しけ)から与えられ、それに取り組むことによって「見性成仏」(けんしょうじょうぶつ)の実を挙げることを目指しております。要するに、肝心なことは、公案を頭であれこれ考えることではなくて、公案そのものに成り切ってしまうべく、全身全霊を挙げて、しかも間断無く工夫することです。つまり、四六時中・行住坐臥を通じて「無、無、無」と成り切ることです。
しかし、栴岳承芳はこれに飽きて妙心寺に移っております。
祖師禅は、公案的な形式はない。その場、その場で問答を行い答えを導いてゆく。
たとえば、師が「般若心経の講義をしてくれぬか」と言う。弟子は知る限りの知識を披露する。話が進み「色即是空、空即是色」に掛かると、師は「ちょっと待ってくれ、そのウチワを使いながら話してくれ」と言う。弟子がウチワを持つと「貴公の持っているそのウチワは色か空か」と聞いてくる。ウチワには形があるので『色』である。ゆえに「色です」と答えると、師は「よろしい、色は判った。今度は空のほうを見せよ」と呟いた。弟子は言葉を失った。これが祖師禅である。
より実践的に答えを求めてゆく。
輪廻万象、文字で覚えるのでは体現することによって悟りに近づいてゆく。建仁寺から妙心寺に移ったことは、栴岳承芳が秀才型の人物ではないことを物語っている。
父の氏親が亡くなると、駿河の善得寺に呼び戻されることになります。

天文5年(1536年)3月に氏輝死去すると、栴岳承芳(義元)を還俗させ、足利将軍から偏諱(へんき)を賜り、義元を名乗ります。
偏諱とは、朝廷・将軍・守護などの君主、または父などの一字を頂くことで、この場合は室町幕府第12代将軍(在職:1521年 - 1546年)足利 義晴(あしかが よしはる)から『義』の字を頂いたことになります。
駿河と京を往復し、将軍より偏諱を頂く間に数日を要します。しかも書状は二通あったと思われます。
一門衆、あるいは有力被官だった福島正則(福島氏)が反対し、外戚に当たる氏親の側室が福嶋助春の娘の子、玄広恵探(今川良真)を擁立して対抗しました。
玄広恵探(今川良真)は逃げる過程で、花倉城を西に下って高山寺、さらに瀬戸川西向いの普門寺に逃げ込み、そこで近臣と共に自害したと言われます。
花倉城を西に下った瀬戸川東側沿いは稲葉郷であります。
稲葉郷には藤原氏北家閑院流三条家の分家である正親町三条家の荘園があり、三条家と言えば、正親町三条実望の妻、今川氏親の姉北向殿やその子正親町三条公兄がおります。玄広恵探(今川良真)を押す福島氏も三条家を頼って、家督相続の義を将軍家にお願いしていたに違いありません。

・栴岳承芳(今川義元):氏親正室の寿桂尼は、父の権大納言中御門宣胤の中御門家を頼り、将軍に家督相続の義。

・玄広恵探(今川良真):今川氏親の姉北向殿やその子正親町三条公兄の三条家を頼り、将軍に家督相続の義。

正室の子の方が分が良かったのは間違いありませんが、世情は常に常識に従うとは限りません。利害関係が絡み合えば、逆転も無きにしもあらずというのが現実です。

・「(天文5年5月)十日甲子、(中略)一仮殿御遷宮事、六七月之間可然由、自小田原雖有之、駿州之其逆乱材木不調間、八月迄申延畢、材木者両月ニ可罷着之由註進有之、今川氏輝卒去跡、善徳寺殿・花蔵殿、依争論之合戦也、」『快元僧都記』
(天文5年5月10日。一、仮殿への御遷宮のこと。6~7月の間に執り行うべきこと。小田原より指示があったものの、駿河国のその戦乱で材木が調達できず、8月まで延長しました。材木は両月に到着するとの報告があったが、今川氏輝が卒去した後、善徳寺殿・花蔵殿が争論によって合戦となったものである。)

・「同五月廿四日夜、氏照ノ老母、福嶋越前守宿所へ行、花蔵ト同心シテ、翌廿五日従未明於駿府戦、夜中福嶋党久能へ引籠ル、」『高白斎記』(←武田方の駒井高白斎)
(5月24日夜、氏輝の老母が福嶋越前守の宿舎に行き、花蔵と同心。翌25日未明より駿府にて戦闘、夜中に福嶋党は久能山に立て篭もった。)

・「其年六月八日、花倉殿・福島一門皆相模氏縄ノ人数か責コロシ被申候、去程ニ善徳守殿ニナホリ被食候、」『妙法寺記』
(その年の6月8日、花倉殿・福島一門は皆相模国の氏綱の軍勢が攻め殺された。それを受けて善徳寺殿が守護になられた。)

・「六月十四日、花蔵生涯、」『高白斎記』
(玄広恵探、自害する)

5月24日に寿桂尼が「花蔵ト同心シテ」とありますが、寿桂尼に義元と敵対する理由が見当たりません。

ここで5月24日の武田方の駒井高白斎の記録が重要です。「花蔵ト同心シテ」と勘違いしておりますから、5月24日までに武田信虎が義元に助力していることが伺えます。
将軍より家督相続を認められ、晴れて偏諱(へんき)を賜った義元は、北条と武田も味方にしていると言うことです。
ここに至って寿桂尼が寝返る意味がありません。おそらく、話し合いで降ると踏んでいた思惑を裏切られ、『人質』的に捕えられたのではないでしょうか。
ただ、5月24日の降伏に関して義元は否定的であったと思われます。
上記にも書いてあるように、義元は二君に仕えること、裏切ることを『良し』としません。福島氏を討つつもりだったと思われます。
その意に反して、寿桂尼の単独、あるいは、北条氏の手引きで密会が行われます。
それを見ていた武田方の駒井高白斎には、寿桂尼が裏切ったように思われても致し方ないのではないでしょうか。

何故、北条氏が手引きしたのかと考えるのは、積極的に花倉殿・福島一門を責めたのが北条氏だからです。大抵、人は後ろめたい事があると張り切るものです。義元に忠義を示さなければならない何かがあったのは間違いないでしょう。

こうして今川の家督争いは、氏輝死去した3月から5月24日頃までに勝負が決まっていたということです。

もう一度、振り返って確認して置きます。

氏輝を死に至らせた原因は、以下の3つです。
▲三河松平の脅威
▲北遠江天野氏の反乱
▲甲斐武田信虎の侵攻

天野氏は武田家の後盾を得ています。猛獣のような信虎は、家督争いを長引かせれば、いつ攻めてくるかもしれません。
北条は口で支持すると言っていても栴岳承芳が家督を継承するまで、正式には軍を動かすことはないでしょう。

普通の凡人であれば、時間を浪費して事態を悪化させたかもしれません。

義元の戦略は、まず、敵より有利な状況を作ることに尽力します。
・外交による同盟
・外交による挟み打ち
・外交による寝返り
・情報戦による敵方の内紛を誘う
・情報製による敵同士の疑心暗鬼
・商戦による敵方の経済破綻を誘う
勝つべくして勝つ。義元の戦略は戦う前に勝利を確実にすることを目的としているようにしか思えません。
後に信長が模範し、特に秀吉が義元の戦略を熟知したように思われます。

そして、義元の戦術は、敵方の心を意のままに扱うような戦い方をします。最もこれは太原雪斎がそういった戦いを好んだのかもしれません。
太原雪斎の戦い方がよく表れているのが、第2次小豆坂の戦いです。

【第2次小豆坂の戦い】
織田軍 約4000人
今川軍 約10000人、松平軍 不明?

織田軍 大将 織田信秀 先鋒 織田信広
今川軍 大将 太原雪斎 副将 朝比奈泰能 先鋒 松平広忠

今川軍は織田軍より大軍を擁し、坂の上に布陣します。
織田信広は先鋒として戦いを挑みますが、劣勢を悟って無理をせずに兵を下げます。そして、本隊の信秀隊と合流します。
下がる織田軍を見て、勝機を見出した今川軍は坂を下りて追撃に入ります。
これは信秀の策で、今川軍による坂の上の優位性を奪う為に策略でした。信秀と信広の軍は一斉に今川軍に襲い掛かります。
今川方先鋒である松平広忠軍は総崩れになって退却を開始します。
逃げる広忠軍を追いながら今川軍に雪崩込めば、混乱した今川軍は総崩れになって敗走すると信じて疑わない信秀は、一気に倒しに掛かります。
長く延びた織田軍の横っ腹に、今川の伏兵が襲い掛かります。
4000の織田軍を半分に分断し、2000に10000の大軍が襲い掛かります。そして、2000を片づけた後に、残りの2000を打ちのめす。
典型的な各個撃破戦であります。

織田信秀は矢作川を渡って安祥城まで敗走することとなったと書かれています。

織田信秀の心を見透かしたような心理戦。
これが太原雪斎の戦い方なのです。そして、その教えは義元に継承されたと考えるべきでしょう。

義元が実践経験のない戦下手だという方もいますが、一対一の武に関してだけであり、指揮官として無能と言うには、乏しすぎる説明です。
そもそも戦略と戦術、どちらに重きがあるかと言えば、
敵より多くの兵を集める方、戦略が重要であり、優れた戦略家が愚かな戦術家であった試しがありません。

戦略を軽視する武将は、
「少数で大軍を破る。」
という、この麻薬にも似た甘い蜜を知り、常に国を危うくしております。
義元はそれに該当しません。

さて、義元の智謀は、この家督争いの危機を回避する方法を導き出します。

>>武田信虎を味方にする。

まるで赤耳の一手です。(※5)
武田家を味方にすれば、甲斐の脅威を取り除くばかりか、北遠江天野氏は後盾を失い勢力を失います。
さらに、扇谷上杉氏と甲斐の武田に睨まれて十分な兵を動かせない北条の敵を1つ消すことになります。
さらに、さらに、福島に付こうと考えていた国人衆も武田と北条が義元に付いたとなると、義元方に寝返ってきます。
一瞬にして大勢を決めてしまいました。

義元は信虎をどう言って包め込んだのか?

これには実に興味深いのですが、残念ながら記録が見当たりません。
秀吉が家康と対したように、密かに対面した時に首を下げて哀願したかもしれません。
今川家が奪い取った籠坂峠の甲斐側の領土(実際は北条が奪った甲斐領土)を返すと言ったかもしれません。そうであれば、今川と北条の決別も納得いくというものです。
いずれにしろ、義元が信虎を味方にしたことで、家督争いは決したのです。

天文6年(1537年)、義元は従四位下治部大輔兼駿河守を叙します。

しかし、義元が本当に天文6年(1537年)に従四位下を賜ったかどうかは判りません。

最も早い記録で、
1549年2月 叙 従四位下 、1560年5月 任 三河守 『歴名土代』『公卿補任』その他の家伝文書等(今谷明 『戦国大名と天皇』 講談社学術文庫 P257~259 )とあります。(未確認)
また、
『今川義元願文写(神宮文庫所蔵文書)』に「十一月廿六日 従四位下行治部大輔源朝臣義元(花押)」(※4)と書かれているので、天文20年前後には、間違いなく従四位下治部大輔兼駿河守になっていたことが伺われます。
また、
『富士山大縁起(東泉院本)』に「今川義元判物. 天文十九 八月六日 治部大輔(花押)」ともあります。

■義元の誤算と北条氏綱の奮戦
『花倉の乱』では、挙兵する前に勝負を決めた義元は、武田との同盟に着手します。
北条氏綱がこの同盟に最初から反対していたとは思われません。
もし、そうなら義元と福島氏が対立している時に、福島氏に寝返っているハズです。当初、氏綱も今川・武田同盟を支持していたと考えるべきでしょう。
武田が味方に加われば、氏綱の関東進出に弾みが付くというものです。

しかし、ここで義元と氏綱に亀裂が生じます。
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氏綱は今川と武田が同盟すれば、当然のことながら、武田と扇谷上杉の同盟が破棄されると考えておりました。北条と武田が協力して関東進出を考えていたのではないでしょうか。一方、義元は武田の嫡男嫡男勝千代(晴信)と上杉朝興の娘(この時点では亡くなっている)の婚礼があり簡単に同盟が崩せないと考えておりました。むしろ、武田を通じて今川・扇谷上杉の和睦、後には同盟を結ぶつもりでした。扇谷上杉家を味方にすれば、山内上杉家、古河公方、小弓公方を無力化できると考えていたのです。
そうすると、今川は遠江、北条は房総半島、武田は信濃に兵力を集中できます。義元は氏綱に何度も同盟の意義を説明したハズです。
しかし、氏綱は納得しない。
現在のところ何ら物証がありませんが、今川・武田同盟に際して、天文4年(1535年)の万沢の合戦のおり、籠坂峠を越えて奪われた北条の山中領の返還を求めたのではないでしょうか。
失うよりも得るものが大きいと考えた義元は、同盟の話を進めます。

天文6年(1537年)2月下旬、富士川以東の地域(河東)に兵を進めます。(第1次河東一乱)
遠江の堀越氏と井伊氏等も刻を同じくして反旗を翻します。
・天文6年3月29日 氏綱より奥平定勝へ「遠江国平定の上、同国において500貫の地あたえる。井伊氏との協力し、早急に「御行」が簡素であること」『松平奥平家古文書』
御行とは、軍事行動のことなのです。
氏綱は2月下旬に軍を動かし、3月に遠江で反旗を翻させ、4月に富士下方の者に謀反を起こさせます。

しかし、遠江で対応したのが天野氏です。
・天文6年(1537年)4月28日、義元より天野虎景へ「今月26日、遠江見付城の「端城」を攻略したことを賞す」『天野文書』
義元の読み通り、天文6年には北遠江最大の国人、天野氏は今川家に従っております。武田の仲介により、「花倉の乱」のおりにでも降っていたのでしょう。

5月には義元が富士下方を制圧し、6月なって北条軍が駿河に侵入します。6月14日、氏綱を退けたものの、河東を失った義元は苦々しく思ったことでしょう。

その後、氏綱は東へ進出します。
・天文7年(1538年)、葛西城を攻略、房総への足がかりを築く。
・天文7年(1538年)10月7日、第一次国府台合戦。
・天文8年(1539年)、氏綱は娘(芳春院)を晴氏に嫁がせ、足利氏の「御一家」の身分も与えられる。
・天文10年(1541年)7月19日、氏綱は病に倒れて死去する。(享年55歳)
・天文14年(1545年)7月下旬、第2次河東一乱。(今川義元・武田晴信の連合軍と山内・扇谷連合軍の挟撃)
・天文15年(1546年)4月20日、河越城の戦い。(上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍)

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北条氏綱は良くも悪しくも武田信虎、織田信秀と同じ戦国武将でありました。外交的勝利より戦さを好み、強さを誇示することに意義を感じています。
東西南北を駆け巡り、戦術的勝利によって領土を広げてゆきます。3代当主、北条氏康もその戦いを継承し、「河越城の戦い」を制して、関東の長となったのです。

■穴熊北条を屈させる義元
北条氏康は関東を治め、「北条五色備え」と呼ばれる五家老に城を委ねます。
北条氏康<五色備> 小田原城
笠原康勝<白備> 下田城
多目元忠<黒備> 平手城
富永直勝<青備> 栗橋城
北条綱高<赤備> 甘縄城(玉縄城)
北条綱成<黄備> 河越城

北条氏康の兵力(※6)は、1万5000~3万人と推測されます。
「河越城の戦い」では、 籠城している河越城3000人で、援軍の北条氏康が8000人と合計1万1000人です。その他の城や砦などが守備兵が4000~1万9000人を段取りできると思われますが、四方を敵に囲まれている北条にはその兵を動かすことはできません。
上杉憲政・上杉朝定・足利晴氏の3者連合軍の8万人によって敗北の危機を奇襲によって逆転させます。

・天文15年(1546年)12月松山城の上田朝直が北条に下り、滝山城の大石定久、天神山の藤田邦房も北条に下りました。
・天文16年(1547年)1月18日には、岩付城の太田資正も北条に下ることとなり、資正の子・氏資に娘・長林院を嫁がせました。
・天文16年(1547年)7月には、下総相馬に軍勢を派遣しております。

「第2次河東一乱」で敗れたとは云え、武蔵の国を手中した北条氏は日の出の勢いがあったハズです。しかし、天文17年(1548年)3月以前に今川と北条が和議を取り交わします。

天文17年(1548年)3月19日に「第2次小豆坂の戦い」が起こっておりますが、織田信秀が北条氏康に手紙を送り、その返書を受け取っております。
・天文17年(1548年)3月11日「駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、」『北条氏康書状案写』
(特に駿河国とこちらの関係でお尋ねいただきました。近年和平を結びましたが、あの国から疑心が止むことがなく困惑しております)
と今川この返書には、氏康は義元を信じられないと書いていながら、今川と北条の和議(一和)と書かれております。

家督を継いだ義元は、兵も整っていない状態で氏綱の敵ではありませんでした。
しかし、戦うほどに強化されてゆく今川軍は、天文14年「第2次河東一乱」では北条を破るほど強くなっていました。

北条の戦術は、籠城持久戦で敵を引き付け、騎馬隊重視して機動力で野戦に持ち込みます。特に近戦を得意としたようです。
一方、今川の戦術は、外交などを利用した挟撃を多用し、伏兵を多様する釣り野伏せを得意とします。しかも数の優位を確保するという念の入りようです。

個々の武では北条に劣る今川ですが、今川と武田を合わせると常に2万人近い兵力が相模の後に控えております。
氏康は益々小田原から兵を裂くことができなくなってゆきます。

「第2次小豆坂の戦い」で織田信秀が敗北したことで今川は三河の支配権を得ることになりました。遠江・駿河の兵力をすべて投入することができる条件が整いました。

天文23年(1554年)2月、北条氏康は今川義元が留守なのを狙って、今川氏の領国駿河へ攻め込みました。
「第3次河東一乱」と言われる方をいますが、私は義元が氏康を誘ったと思われてなりません。

三河などで軍事行動を起こすという偽情報を流し、氏康を誘い出します。
情報通りに義元が駿河を出立し、その報告を受けた氏康が小笠原を出ます。
頃合いを見て、義元は軍を反転。
駿河に入った氏康は、いないハズの義元の軍が目の前にいることにびっくりします。
同時に、武田軍が富士川に出陣しており、氏康は挟撃の危機に瀕します。
そこに白旗を持った太原崇孚が現われて、講和の話を持ち出されれば、乗らない方が嘘になるでしょう。

天文23年(1554年)3月、太原崇孚と建乗が講和をすすめ、「甲相駿三国同盟」が達成されます。
義元は籠城好きな穴熊北条を遂に攻略したのであります。
天文6年「第1次河東一乱」から17年、義元が描いていた三国同盟の達成です。

■もし、北条氏綱が強情でなかったなら!?
もし、北条氏綱が強情を張らずにいたなら、義元の敵は織田信秀・信長ではなく、松平清康(徳川家康の父)がライバルになっていたかもしれません。
義元の脳裏に『天下布武』はありません。
もしそうなら、北条氏康を討って、相模に雪崩れ込むことでしょう。むしろ、頼りになる盟友を増やすことに意義を感じていたように思えてなりません。
室町幕府を再建するには、天下に轟く武力を必要とされます。
幕府を再興し、幕府に逆らう者のみ討伐する。その為の三国同盟であり、三国の武力を合わせて天下一の『武』としたのかもしれません。
上杉謙信は『義』の人物と言われるますから、当然、幕府に従い、武田信玄・上杉謙信が二人並んで奥州討伐という光景が見れたかもしれません。
考えれば、ワクワクしますね。

いずれにしろ、義元の構想は、北条氏綱によって大きく後退させられ、最強のライバル織田信長が育つ時間を与えます。
義元と信長の対決は、圧倒的に義元有利に進んで往きます。
味方の道三を失い、家中は分裂し尾張の半分ほどしか制しておりません。背後には義龍が狙っており、兵力差は4倍以上違います。
しかし、桶狭間の戦いで何故!?
信長が勝つことができたのかは、未だに謎のままなのです。

■穴熊とは?
将棋の戦略に、玉を最初に囲い、後にその他の駒で一気に攻める戦法を穴熊戦法と呼びます。
北条の戦略は、責められたときは城に籠って籠城をします。そして、各支城から援軍が集まり、一気に敵を蹴散らすという手法を取っております。
騎馬軍団で有名な武田騎馬隊と称されますが、武田信玄の時代で騎馬兵含有率8%くらいで、北条氏康の時代でく騎馬兵含有率は10%程度と北条の方が多いくらいです。ただ、歴史的文献からの算出ではありませんせんから、定かではありません。
『甲陽軍鑑』の元亀2年の河窪信実に宛てた軍役定書で騎馬3、鉄砲5、持鑓5、長刀5、長柄10、弓2、旗3となっており、戦場での騎馬率は1割を下回っております。
ただ、武蔵の国は、平原で馬の移動が便利な土地柄と鎌倉時代の新田騎馬武者と言われますように、騎馬武者と言えば、「坂東武者」のことでしょう。
平将門の坂東大乱や平安末期のように馬上で弓を射る時代では無くなっていましたから、どうやって戦っていたかは不明です。

北条家は槍の長さが二間半(4.5メートル)と短く、防御を考えない接近用です。
移動に騎馬を用い、乱戦のおりは下馬して戦っていたのかもしれません。

八幡台菩薩の旗を掲げる黄色備えはでは、綱成は部下たちに突撃に際して「勝った! 勝った!」と叫ぶ、『勝鬨戦術』というのを使っていたそうです。
勝ってもいない内に「勝った! 勝った!」という叫びを聞いて、敵が逃げすのを狙っていたのでしょうか?
河越の戦いでは、1万1000で8万の敵に向かったのですから、『黄色備え』を身にまとい「勝った! 勝った!」と叫び回ったことでしょう。連合軍の脆い心理が8万の惨敗に繋がったのかもしれません。

いずれにしろ、穴に籠って籠城、四方に分散していた武将が騎馬を使って素早く移動して、烈火の如く敵の玉を狙う。まさに穴熊戦法が北条の戦術であります。
最も、上杉謙信の『武』にけんもほろろ討ちのめされ、小田原城で兵糧が尽きるまで、がっちりと守りきるイメージも少なからずあったりします。
『穴熊北条』とは、そんな意味であります。

※1.慶長3年の太閤検知、美濃(50万石)、尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)
※2.伊勢新九郎盛時、早雲庵宗瑞の明記は、その時代に応じて盛時と早雲と書き分けております。早い時期が盛時。晩年になると早雲という具合です。
※3.太原崇孚(たいげんそうふ、雪斎)のことで、僧名を九英承菊(きゅうえいしょうぎく)という。臨済宗の僧侶(禅僧)で、今川家譜代家臣 庵原左衛門尉政盛(いはらさえもんのじょうまさもり)の子であったが、嫡子ではなかったため、富士山善得寺の舜琴渓(しゅんきんけい)に預けられ僧となった。承菊は、京都五山の建仁寺に入り、常庵龍崇(じょうあんりゅうそう)という高僧のもとで修行している。
※4.「志摩国人等依無道、奪取商旅之財宝、号関路横悩参宮之道者、寔以暴悪之至也。近有仮義元力欲追伐彼悪徒之輩、即差遣人数事、併国土安穏万民和楽之起本也、然者長官神人等、蒙神慮合其力、令治罰賊党、於遂本意者、為義元存知之地、偈仰神威停止諸関、就中所々御神領之事、於皆済之地者不及是非、近年且神納且未済之地者、以其一倍可奉納之、一向無沙汰之地者、以其年貢十分一可奉納之、其外之土貢者、警固之武士可為在国之下行、是折衷上古下世覇者之権道也。弥奉仰寔感加被之願文、仍如件。十一月廿六日、従四位下行治部大輔源朝臣義元(花押)敬白。伊勢太神宮御宝前」
※5.「耳赤(みみあか)の一手」、本因坊秀策と井上幻庵因碩の囲碁の一局で、打たれた妙手のことを言います。上辺の模様を拡大し、右辺の白の厚みを消し、下辺の弱石に間接的に助けを送り、左辺の打ち込みを狙う一石四鳥の手で打たれるまで気づかない。打たれてハッとした井上幻庵因碩が、耳を赤くしたと言われる黒127手目の一手のことを言います。普通は気が付かないのですが、そうされると誰もが納得せざる得ないことを言います。
※6.北条の兵力は、伊豆  69,832石、相模 194,204石、武蔵 667,126石(半分とする)と北条の石高597,599石と約60万石である。旧参謀本部の『桶狭間役』では、『1万石あたり250人』を当てはまる。豊臣軍の小田原攻め時の動員数は、100石あたり5人の軍役が基準であった。1万石あたり250人として、1万5000人。100石あたり5人として、3万人が最大と思われる。

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番外 名君義元 東海一の弓取りの事(1)<<甲斐の虎を制した事>>

今川義元は、越前の朝倉宗滴に「国を持ち、家臣を使っている人物で、よき手本となる人物は、今川義元・武田信玄・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就・正木時綱だ」と筆頭で評価されているように、人使いの名君であった事は間違いないありません。

義元の家督相続は、『花倉の乱』と呼ばれる福島兵庫正成の反乱から始まります。しかも氏輝と上位継承者である弟の彦五郎が同日に死ぬという不幸も重なっております。

義元は、人を使うことに細心の注意を払ったに違いありません。その努力の成果が武田晴信を制し、北条氏康を抑える事となり、

その手腕から『東海一の弓取り』と讃えられています。

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<<甲斐の虎を制した事>>

武田を制したというと「何を大げさな!」と言われそうですが、信玄(晴信)は駿河から諏訪・村上へと目標を定め直します。同盟などと言っておりますが、この時代はいつ破棄されても可笑しくない時代です。義元をそこまで信用していたのでしょうか?

■獰猛な野獣 武田信虎
武田信虎は、非常に獰猛な性格であったと言われます。
『甲陽軍鑑』、『勝山記』などによれば、「信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにした」、「信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いていた」とあります。
『小説 鳥獣戯話』(※1)では、トラは国内統一の為に強引な手段を取っていたと書かれていますが、このトラは信虎らしく、一般的な信虎の性格と思われております。
『甲陽軍鑑』は信玄を讃えたものですから、相対的に信虎が悪でなければなりません。
“信玄”=“神”、信玄と戦った家康も偉大。
この論法が江戸時代に盛んに勧められましたので、信虎が猛獣のような悪人と決められたようです。

実際の信虎は、どうでしょうか?
1563年には、『氏真は取るに足らない小人物で、今川家は明らかに弱体化している。今こそ、駿河を切り取る好機である』と信玄に密書を送っております。これは事前に察知され、京都三条夫人の実家に逃げることになったと言われています。
その逃走の途中、志摩国で起きた伊勢国司・北畠家と志摩の豪族達の争いに北畠側の軍師として参戦し、北畠軍を勝利に導いたと伝えられています。
京に上がった信虎は、御相伴衆(※2)に任命されます。
1568年、寿桂尼が亡くなり、武田信玄はいよいよ駿河を侵略を開始します。 

一方、晴信(信玄)は優秀な武将だったのでしょうか?
『甲陽軍鑑』には、「天文五年丙申十一月二十一日晴信公十六歳のとき、信虎公は甲府を出発して信州へ攻勢をかけたが、信虎公は敵を包囲したのに、軍を解いて退かれたことがある。それは信州の海野口という城で、三十四日間とりまいたけれども、大雪のため信虎勢は攻め落とせずに、同十二月二十六日に甲府へ帰陣し、御馬を入れてしまわれた。子息・晴信公はしんがりをつとめたとあって、後に残り、甲府へは行かずして海野口へ戻り、その勢三百ばかりで、御父・信虎公が八千の軍勢でも落城かなわなかった城を乗っ取りなさった。これ信玄公十六歳で信濃守大膳大夫と申されていた時であったが、初陣の手柄は以上のごとくであった。」と華々しい晴信(信玄)の初陣が書かれています。
父、信虎が中々攻略できなかった海野口城をわずか300騎余りで奇襲を掛けで落城させる。恐ろしいほどの若武者の登場です。この晴信の出現に恐れを抱いた信虎が晴信を追放させようと画策するのですが、『勝山記』にも『高白斎記』にも、この戦いのことは乗っておりません。
おそらく、後年、信虎が落とせなかった海野口城を晴信が落としたという説が、初陣に差し替えられたのでしょう。
晴信(信玄)が優秀な武将だったというのは、後の功績から若い頃から優秀であったに違いないという思い込みに過ぎません。

■武田信虎の甲斐統一とその後
室町期に上杉禅秀の乱により守護武田氏が衰退し国内外の国人勢力や守護代の跡部氏が台頭していおり、また、郡内領主小山田氏や河内領主穴山氏など、新勢力の台頭を招いていました。
武田 信縄(たけだ のぶつな)が甲斐守護職・武田家第16代当主となった当時は、守護武田氏と穴山氏、東郡の栗原氏、西郡の大井氏など有力国人勢力の抗争から乱国状態になっており、さらに信縄の異母弟である油川信恵(彦八郎)を後継者にしようと画策する動きがあります。(『王代記』では「兄弟争論」と書かれている。)
そんな紛争の中、永正4年(1507年)2月14日に信虎の父、信縄は病死します。
家督を継いだ信虎は、永正5年(1508年)10月4日に坊峰合戦で勝利すると、武田宗家の統一を成し遂げるのです。

・永正6年(1509年)、小山田氏を従属させ、永正12年10月17日に信直が大井信達・信業父子の拠る西郡上野城を攻め、救援に来た今川の小山田氏と戦った結果、永正14年(1517年)に今川と和睦。1520年(永正17年)には制圧した大井氏の娘を室として迎えた。
・永正16年(1519年)、躑躅ヶ崎館を築き城下町を整備して、城下に家臣を住まわせる(『高白斎記』)などの政策を行っている。
大永元年(1521年)、今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢と戦い、辛勝を得る。
・大永2年(1522年)、甲斐国内の統一に成功する。
(享禄元年(1528年)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している)
・大永4年(1524年)、関東における両上杉氏と新興勢力の後北条氏の争いに介入する。
・大永6年(1526年)、梨の木平で北条氏綱勢を破るが、その後は一進一退を繰り返す。
・大永7年(1527年)、佐久郡出兵を行い、駿河国の今川氏親と和睦する。
・永正8年(1511年)、神門を再建する。(窪八幡)
・享禄元年(1528年)、信濃諏訪攻めを行うが敗戦。諏訪氏の後盾で甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗するが、河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破した。
・天文元年(1532年)、如法教塔を造立する。(窪八幡)
・天文2年(1533年)、武蔵国の扇谷上杉家の当主、上杉 朝興(うえすぎ ともおき)の娘を嫡男勝千代(晴信)の正室として貰い受ける。
・天文3年(1534年)、勝千代(晴信)の正室は、難産の末、母子共に死去する。
・天文3年(1534年)、拝殿を造立する。(窪八幡)
・天文4年(1535年)、今川を攻め、万沢で合戦を行うが、後北条氏が籠坂峠を越え山中へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。背後を脅かされたくない信虎は、諏訪氏と和睦を執り行う。
・天文5年(1536年)、駿河国で今川氏輝死去し、花倉の乱が発生し、義元を支援する。
・天文6年(1537年)、長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男・晴信の室に公家の三条家の娘を迎える。

この年表を見ると、武田宗家の争いをわずかな期間で収拾した信虎の軍才に見る物がある。
その後に、大井氏、小山田氏、穴山氏等々と次々と有力国人衆を15年ほど掛けて傘下に納めてゆきます。
甲斐の国は、山梨・八代(やつしろ)・巨摩(こま)の3つの郡から成り立っており、この3つの郡を併(あわ)せて「三郡(さんぐん)」と呼んでいるそうです。さらに、都留郡(※3)は、武蔵相模の国境に接しており、国境紛争が絶えない。
国単位で見れば、信濃の国、武蔵の国、相模の国、駿河の国に接しており、常に他国との紛争に巻き込まれ易い国内事情を考えれば、甲斐統一は困難を極めたことでしょう。
永正16年(1519年)に躑躅ヶ崎館の付近に家臣を住まわせるとあり、「軍役衆」(※4)と呼ばれる年貢の一部負担を免除された者がいたことは間違いありません。つまり、軍政において武田軍は、基本的に信虎の時代に完成していたと思われます。
ただ、太閤検地時で22万7千石余とありますので、信虎の時代では、20万石切っていたことは間違いありません。もしかすると15万石程度だったかもしれません。
晴信(信玄)の功績は、今川の今川仮名目録を真似て『甲州法度次第』を制定ししたこと。釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫防止の治水工事や新田開拓を進んで行ったこと。および、金山の開拓によって財政基盤を確立したことにあります。
軍政を信虎、経政を晴信が作り上げたことによって、武田軍団が最強軍団と呼ばれるようになった所以ではないでしょうか。

■信虎追放と押しこめ
室町時代、得宗専制の下で守護の権力を支えました。しかし、室町幕府の権威の低下と共に守護の権威は失われ、守護代や奉行や国人がそれに代わってきました。
守護であった斯波氏や土岐氏、畠山氏、京極氏などは下剋上によって没落し、小笠原氏や大崎氏、北畠家、扇谷上杉氏、大内氏などは隣国の脅威によって淘汰され、今川氏や伊達氏、大友氏、島津氏などは守護大名から戦国大名へと躍進しました。
武田氏も信虎によって、戦国大名へと躍進した訳です。
信虎の戦術・戦略家としての才能豊かな武将であったと思われます。そして、1つ1つの国人衆を打破した信虎は権威を高める為にも自分を頂点とした専制主義を確立しようとしていたと思われます。
鎌倉時代から続く守護領国制という調停役であった守護が武力を持って支配者に変わる。一国一城の主であった国人が信虎の一家臣になるという大名領国制の移行はかなり抵抗があったと思われます。しかし、信虎の恐怖に反旗を翻すことができないでいました。
今川義元も同じで、桶狭間で戦死した後に遠江の国人衆が一斉に反旗を翻し、氏真はその沈静に困難を極めます。義元の恐怖によって不満や不平を押さえ付けていた訳です
晴信(信玄)の心労は、まさにそれでした。
守護領国制から大名領国制への移行の不満を一身に受けることとなったのです。もし、信虎が戦死、あるいは流行病などで病死するようなことがあれば、甲斐の国は再び内乱が起こることは必至でありました。
それを回避する為に、信虎を今川へ追放するしかなかったのです。

実際、晴信が主体的に行ったのか?
家臣団が率先して行ったのかは不明です。

室町時代の末期から横暴な当主を押し込め、新しい当主を迎えるという政治手法を取られていたようで、一般的には『主君の押し込め』というようです。これは謀反ではなく、これは正当な理由による当主の交替を実力行使によって願い出たという体裁を整えています。
謀反人として、討伐されたくないという良心の呵責でしょうか。
いずれにしろ、家臣団(国人衆)からすれば、正当な行為と考えられていたようです。
晴信が本当に優秀な次期棟梁であったかは疑わしいところです。

晴信はそういった苦難の中で、専制主義から合議主義への変更を余儀なくされたのであります。
合議制というのは、国人から家臣になった家臣団が互い意見を交換し、合議の下で物事を決してゆくという手法であり、平安時代の朝義(朝廷の会議)や鎌倉幕府による評定衆に近いものですから比較的受け入れ易い手法であったと思われます。
しかし、晴信(信玄)や元就のように、会議を支配するカリスマがある大名では、「統裁合議制」と呼ばれるように、独裁者と変わらない絶対的な支配力を発揮できる制度であったようで、頭角を発揮してゆく晴信は自らの意思で戦う家臣団、最強軍団を作り上げて往きます。
武田信玄と毛利元就は、この制度によって国人衆を家臣化していったのであります。

■今川義元の陰謀説
今川義元が信虎追放の首謀者であったという陰謀説は尽きません。
しかし、首謀者であったかどうかは別として、義元が家督争いを扇動したのは間違いないことでしょう。
越前の朝倉宗滴に人心を掌握する名手として詠われている一方で、『北条氏康書状案写』に「就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、」(特に、駿河殿と私(氏康)との関係についてお尋ねですが、最近一時的な休戦になりました。しかし、私(氏康)は、どうしても今川家への疑念は拭い去ることができない。貴殿にあらぬ疑いを掛けられるのは心外です)とあります。
義元が策謀に余念がない伺わしい人物であって、簡単に信用できる人物ではなかったことは間違いないと思われます。

さて、当時は情報網が発達していません。
現代人なら地球の裏側まで、テレビやインターネットでタイムリーに情報を個人が入手できますが、近代の電信が発達するまで情報は貴重な資源でありました。
特に文字は、公家や高級武家、僧侶、商人の独占品であり、あの秀吉もひらがなが書けるという程度であり、下級武士や農民は自分の名前が書ければ、かなり器量人と思われておりました。
ただ、平安仏教の浸透から庶民信仰へ移行によって文字が庶民にも広がっており、平安末期の後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられます。また、『平家物語』で有名な琵琶法師は、平安中期から盲目僧に芸人として発生している事から見ても、文字文化の浸透は早あったと考えられます。
鎌倉仏教の発展が庶民宗教への移行となり、さらに文字文化が庶民に浸透しますが、庶民が一般的に読み・書き・算盤が浸透するのは、江戸の寺子屋時代を待たなくてはなりません。
ゆえに、文字を書き、情報網を持っている者は貴重でした。

京には、全国から情報が舞い込んで来ます。公家はその情報を独占できる貴重な亜種でありました。
また、全国に散らばった名家などは、独自の情報網を持っております。
忍者で有名な伊賀・甲賀ですが、鎌倉時代までは守護や地頭による支配を受けない集団で、主に荘園で木材などの供給を行っていたと考えられます。それが室町後期の荘園の崩壊と共に夜盗、悪党、あるいは地侍化して行きます。そして、劣勢な地侍は独自の情報網を形成することによって生き残りを図ったと考えれます。
商人は取引を通じで情報を交換していました。
そして、僧侶も修行僧や山伏を通じて独自の情報網を形成しておりました。

僧侶出身の今川義元は、このすべてに通じております。
頻繁に公家を招き、名家の者を家臣に取り立て、伊賀者を雇っております。
『藤林家由緒書』には、藤林長門守が今川義元に雇われていたと記載されており、「大久保彦左衛門の三河物語には、今川方は伊賀集を忍び込ませて信近の首を討ち取ったが、城兵に反撃されて、伊賀衆も八十人討ち取られ、信近の首も取り返されたとある。」と書かれております。その内容の真偽はともかく、義元が伊賀者を重用していたと思われます。
また、東宣坊(とうせんぼう)に駿河・遠江全土の山伏を支配させています。
情報のすべてを掌握しようとした義元が、その情報を利用しないということは考えられません。

「花倉の乱」で勝利した義元は、信虎に利用価値があることを示すかのように、天文5年(1536年)に室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改め、官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されるという栄誉が与えられます。さらに晴信(信玄)の側室に左大臣・三条公頼の娘を推挙します。将軍家と同族の今川家の助力あってのことです。武田家の権威を上げるのに躍起になっている信虎の心を燻っております。
しかし、信虎は猛獣な虎と同じで弱みを見せれば、いつ噛みつくか判らない輩です。
甲陽軍鑑によると、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話も残っております。
わずか2年ばかりで、親子関係が険悪化したと考えるべきでしょうか。

この信繁が信虎の寵愛を受けていたという点において、私心ではありますが、事実ではないかと考えております。
信繁の死に際して、信玄が号泣し、上杉謙信からも惜しまれたと言われておりますから、才覚豊かな次男として頭角を見せていたのではないでしょうか。正に長男の太郎(晴信)が霞むかのような輝きではなかったかと推測しております。
ただ、それが直接家督争いや廃嫡という要因ではなく、唯々、その才覚を愛されていたというだけではないかと思うのです。

さて、「人の口に戸は立てられない」と言いますように、そんな些細なことですら世間は面白おかしく騒ぎ立てるものです。
人の噂で、「嫡長子の太郎より次郎の方が優れている」と騒ぐようになります。
そんなことで家督が動く訳もございませんが、その土地の神主や高僧までも口々に言うようになれば、家臣の心中も穏やかならざるものになります。
情報は正確な情報9に対して、扇動の偽情報を1混ぜると正否の判定ができなくなると申します。
僧侶の情報網は、旅の修行僧や全国を巡礼する山伏に依存するところが大きく、その山伏を掌握しているのが義元であります。
義元にすれば、専制主義を進める信虎と国人衆の中が巧くいっているとは考えていません。
そこに、君主と嫡長子の中が悪いという噂の楔を打ち込みます。
巧くいけば、武田家の勢力を削ぐことができます。巧くいかなくても今川家に何ら障害が生まれる訳でもありません。
唆された家臣団(国人衆)が嫡長子(晴信)の元を頻繁に訪れるようになる頃を見計らい。
今度は、「晴信様が、国主様を押し込めるそうだ」とでも噂を流します。
こうなると信虎も晴信をそのままにしておけません。
晴信にすれば、座していれば廃嫡の可能性もでてくる訳です。

重臣である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らが率先したのか?
晴信自身の画策であったのか?
将又、大河ドラマ『風林火山』のように、晴信・信虎の双方が今川義元に書状を送ったのか?
その真実は明かされることはないでしょうが、義元は熟した果実を手に取るが如く、信虎の追放に手を貸します。

今川義元がどこまで関与したのかは定かではありませんが、情報を操作して戦わずして勝つというのは、義元の戦略であったことは間違いありません。
戦国時代、情報戦の先駆者。それが今川義元であります。

■今川を真似た信玄
今川家は、大永6年(1526年)4月の『仮名目録』に定めるように氏親の時代から水上運輸税や関所通行税を廃止し、商工業を支援する形で国人衆の財を削る政策が取られている。
これは天文22年(1553年)2月の『仮名目録追加21条』で楽市・楽座を定めることにより強化されている。今川家に営業税を支払わさせ、国人衆が勝手に税や商業権を酷使できないように定めております。これでは勝手に税を課して、財を溜めることができません。
さらに、義元は寄親寄子制を採用し、その身分と責任を明文化しております。
(今川における寄親とは、国人クラスの一族を差します。)
検地を行い年貢と軍役を定め直し、他国との婚姻・手紙のやり取りなどを規制し、今川家の支配体制を確実なモノとして行きました。
特に特筆すべき所は、第20条の「不入特権の廃止」であり、今川領国における秩序は今川家で在って将軍家ではないと書かれております。この一文で将軍家から保障されていた約定をすべて無効化したのです。国人、神社・寺の特権を引き剥がした訳です。
相当の抵抗があったハズですが、義元はそれを巧く丸めている所を見ると、剛柔を巧く使い分けた交渉術に長けていたことが判ります。

今川の財政は、安倍・日影沢金山から採掘される金が大きく関与します。
享禄年間(1528~1531)に大量の砂金を産出してたびたび朝廷や公爵に寄進したとあります。
天正3年(1575)金鉱脈に発見され、砂金採取から坑道堀に移行します。最新技術であった灰吹き法も取り入れた今川家は大いに財政が潤っていたと思われます。
そして、商工業を支援していることからも銭を基盤とした税制を基準に定めていたと思われます。
安倍川の治水工事などや今川仮名目録 第1条「名田の没収禁止と年貢増を条件とする名田の競望」による積極的な開拓を推進しております。

また、今川の情報網は公家・名家・甲賀衆・商人・山伏などによって構成され、本格的な情報戦を行った最初の戦国大名だったかもしれません。

【今川家の主な体制】
1.分国法の制定(法整備)
・領国支配の基本法
・家臣団統制
2.内政
・農作地の把握(検地)
・農民の直接支配
・治水・灌漑・開拓事業
3.経済政策
・市場の開設(独占営業税)
・宿駅・伝馬制、関所廃止
・新技術の採用(金採掘)
・商工業の統制(楽市楽座)
4.情報網
・公家による全国の情報
・名家による内情に詳しい情報
・甲賀衆による貴重な情報
・商人による物価などを含む諸国の情報
・山伏による遠方・近隣の詳細な情報

今川家を見た晴信(信玄)は、進歩的な国家運営に驚愕したことでしょう。
武田軍も寄親寄子制であったことは、今川を真似たと思われます。さらに、天文16年(1547年)に分国法である『甲州法度次第』(上巻は57条、下巻は家訓)も作られています。又、『甲州金』で有名な甲斐の金山の採掘法は、新技術である「灰吹法」が駿河から取り入れたと思われます。また、通貨基準を定め“甲州一分金”を作成したことも、すべて今川家を模したのではないかと思われるのです。
特に、武田の「歩き巫女」は、今川の山伏に対抗して組織されたのではないかと考えずにはいられません。
いずれにしろ、今川義元という2歳年上のライバルの存在が、武田晴信(信玄)を戦国最強武士の一人として成長させた要因と思われます。
武田晴信(信玄)が義元との直接対決を避け、諏訪・村上へと転進を余儀なくされたのは間違いないことでしょう。ゆえに、桶狭間で信長に討たれたと聞いた信玄は、唯々信じられないという思いが過ったに違いありません。ただ、歴史的資料としては、『信長公記』の首巻21「信玄入道  天沢長老物かたりの事」で、信玄が信長公のことに興味を持っていたという以外にはありません。

【今川家の家臣団】
〇家臣団
1.一門(血縁)御由緒衆
2.今川庶流
3.今川家臣
4.駿河国衆
5.遠江国衆
6.その他(三河国衆、尾張国衆、他国衆、駿河海賊衆)

【武田家の制度と政策】
〇家臣団
1. 武田親族衆
2. 譜代家臣団
3. 外様家臣団
4. その他(地域武士団)
〇行政=職=
公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。
勘定奉行…財政担当官。
蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。
侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。
足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。
浪人頭…諸国からの浪人を統率する。
〇軍政 =職=
旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝ちどきの儀などの責任者か。
旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。
鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。
使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。
奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。
諸国使番衆…諸国への使者を務める。
海賊衆…海軍。
御伽衆…御話衆とも。側近。
新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。
〇財政=税制=
“地頭役”、“代官役”、“田地役・田地諸役”、“郷次の普請役”、“罰銭利倍役”、“棟別銭”、“陣夫”、“押立夫”、“山口銭”、“市役”、“関役(木戸役)”、“商売の役”、“工職の役”、“僧侶妻帯役”、“御印判”、“布役”、“鍵役”、“窓役“、“樹木役”、“竹の年貢”、“塩役”、“後家役”
などがあり、主なものに分別すると、
”本年貢”、“公事(年貢以外の税)”、“棟別諸役(家一軒毎にかかる諸役)”の3つに分かれる。
多様な税制から判るように、貨幣による税制を主に行っていたと思われる。
“棟別銭”は、家屋税であり、一軒当たり200文を春秋二回徴収したらしいが、当時の賃金が30~50文なので随分と高額である。奥州伊達氏で100文、関東後北条氏は50文(一時、35文まで減税)だった。
しかし、農作人には“大小切税法”を適用した。田畑の貢租を三等分し、その内3分の2(大切)を物納、残りの3分の1(小切)を金納する。(計全体の9分の5を金納) 金1両につき米4石1斗4升という相場が固定されていたので、開墾により農作物の収穫量が増えると税率の割に軽い税となっていった。
信玄の「終世、変えるべからず」の言葉があり、江戸時代に改正しよと試みたが、農民の反対にあり頓挫。明治政府も1万規模の大暴動の末に改正を成し遂げた。
〇内政=通貨=
甲州武田家独特の金貨である“甲州金”を制定し、
一両=四分=八半分=十六朱=三二半朱=一〇〇〇文(又は四〇〇〇文)という通貨レートを定めた。
徳川家康もこれを見習い、
一両=四分=十六朱=一〇〇〇文(又は四〇〇〇文)という通貨レートを採用している。
〇鉱業=金採掘=
黒川金山は武田信虎の祖父、信昌の時代から金の採掘は始まっていたが、信玄の時代に黒川千軒と呼ばれる密集した家屋が建ち並ぶ最盛期を迎える。
今川から取り寄せた「灰吹き法」を取り入れたことが要因と思われる。
黒川金山や湯之奥金山などから作られ、領国貨幣となった「甲州一分金」は、武田家の財政を支えた。
〇情報=三ツ者、素破=
間見、見方、目付の三職に携わる者の総称で、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行う。
中でも武田の「歩き巫女」は、武田信玄の命にて甲賀五十三家の筆頭である上忍の家柄 「甲賀望月氏」の出身の望月 千代女(もちづき ちよめ)を甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任されて作られた集団で、孤児や捨て子となった少女達数百人を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術の他、色香で男を惑わし情報収集する方法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませたと言われる。
歩き巫女達は、「ののう」と呼ばれていたらしい。
(望月 千代女は、信濃国望月城主望月盛時の妻)

※1『小説 鳥獣戯話』(一九六二年)花田清輝著:事実上の主人公、トラは武田信虎をイメージしており、暴力に明け暮れたトラが悲惨な運命の後に改心して、仏の境地に達してゆく話。
※2御相伴衆(おしょうばんしゅう):将軍の供周りをする家臣、事実上の権力は無い名誉職でしたが、普通は血筋の良い守護大名家出身の者にしか任命されない名誉職。
※3天平宝字5年(761年)12月23日付甲斐国司解『正倉院文書』(『大日本古文書』4、『山梨県史資料編3』-史料53)で、『日本後紀』延暦16年(797年)3月2日条には甲相国境争論における国境策定で「都留郡□留村東辺砥沢」の地が国境に定められたと記されている。
※41563年(永禄6)武田氏が行った恵林寺領検地の場合,大名と主従関係を結んでいる軍役衆と,結んでいない非軍役衆(惣百姓)とに区別し,軍役衆には従来からの本年貢分にあたる本成方を検地の対象から外し,検地増分にあたる踏出分も全額年貢免除とするのに対し,非軍役衆である惣百姓の場合,本成方・公事諸役・踏出分を総計し,その4割を年貢免除とした。このように異なった方式をとるにあたっては,それ以前の由緒のいかんによらず,検地施行の時点で武田氏と主従関係があれば軍役衆,なければ惣百姓と認定されたのである。

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ

目から鱗、福島は維新に入れない!? ごもっともです。

福島では維新などという党名に入れる人間はいないらしい。

維新というと良い意味で捉える日本人が多いが、幕藩を支えた保科正之公を祀る会津若松では悪名である。

私も保科公を尊敬する人間なので、思わず『ごもっとも』と頷いてしまった。

会津藩は最後まで幕府を支え、白虎隊で有名な維新軍と戦った歴戦の地です。

江戸幕府第15代征夷大将軍 徳川 慶喜公で幕府は終わりますが、第12代くらいの時代に保科正之公のような幕臣が出ていれば、薩摩・長州・土佐・会津を取り込んだ江戸幕府は今もまだ続いていたかもしれません。

保科正之公はそれほど素晴らしいお方だったのです。

維新に投票するのは、もう会津の人間じゃないと言ってもいいかもしれません。

因みに、

『維新』とは、因命のことでスムーズに変化しながら社会に新しいものを取り入れることを言います。軍政から文政に江戸の政治を変えた保科公こそ、因命士であります。大量の血を欲した江戸から明治への乱は『維新』に相応しくありません。

『維新』の言われは、『詩経』大雅文王の「周という国はずいぶんと古い国ですが、維(こ)れ新たなり」(周と古くから続く国ですが、昔から伝わる悪習を改めて、常に新たなのです。)と書かれています。

保科公は古くから伝わる殉死という君主が死ぬと一緒に家臣がお供するという悪習を廃止しました。家督も養子を認め、藩の取り潰しを軽減しました。不必要な慣習を改正した保科公こそ、因命士として褒め称えるべきです。

すべてぶっ壊すなどと言っている橋下は、維新を語る人物ではありません。

公共事業をカットし、文化事業もカットし、市バス・市地下鉄も民営化、公共サービスは民営に請け負わせて区民が利用できなくする。

赤バスという区のバスも赤字という理由で廃止。利用者の多い図書館も2つあるのは無駄と言って廃止。

大阪府の最古の建築物を取り壊そうとするので止めようとすると、「府の予算がありませんから」と言って取り壊しを支持する。

交響楽団、文楽も予算をカット・・・しよう思うと市民から大きな反発があったので減額に留めましたが、反発がなければカット確実。

言わせて頂ければ、

黒字化できる事業は多くあり、運営に問題があるのであって民営化すればいいもんじゃない。

たとえば、

区の公共施設、職員が管理すると給与で大赤字。民間(大阪ガス)に管理させると区民が利用できなくなる。ならば、区の老人クラブ団体(ボランティア)に委託すれば、施設の維持費のみになるので利用料で黒字化できるのです。

赤バスも、老人ホームや保育園などと提携し、バス停を設けることを条件にスポンサー契約を取り付ければ、赤字を黒字化できます。また、自動車学校や専門学校などの受講生を利用者としてターゲットにすれば、黒字路線も増えるハズです。しかし、そんな議論もなく、採算が赤字だという理由で廃止です。

そもそも赤バスは老人などの足として設立されましたが、市役所や議員などの家近隣に停留所を設けるという採算度外視事業です。黒字になっている方が不思議なのです。物事を良く観察しないで、予算書だけを見る典型的な改悪です。

図書館も利用率80%以上という人気スポット、利用者が多いのに1つに統括すれば、あぶれた市民はどこかに放浪することになります。

赤字縮小は大いに結構ですが、それがすべて市民に苦労させる結果に返ってくる廃止論は迷惑なだけです。

黒字にできる施設を格安で民間に売って、赤字削減は本末転倒です。

責めて、同じ売るにしても黒字化してから売れば、高値で売れるのですから財政充当になります。まずは黒字化が先でしょう。

はっきり言って、日本『維新』の党の橋下徹氏は経済音痴で無能ですよ。

PS.言うだけのつもりはありませんが、

『そんなに言うのなら、自分でヤレよ!』と言って頂ける方もいません。

残念なことにそう言った機会もありませんので致し方ありません。

選挙云々とは言いませんが、

やる気があれば、誰でも政治に参加できるような社会を作りたいものです。

竹中平蔵は多様な価値を認められない可哀そうな方だ。しかし、それに影響される我々も同じか!?

物事には多様な価値観があり、必ずしもその時代の価値観に合っているとは限らない。

社会の価値を金銭にしか換算できない方は、心の貧しい方だ。

どんな美しい光景を目にしても、『古臭い』と色眼鏡を掛けてみると、その中にある素朴な良さに気付くことはないだろう。

西洋社会学、資本主義に染まった色眼鏡を掛けている方がお金がすべてであり、それ以外の価値観を認めようとしない。

竹中平蔵、橋下徹などもその一例である。

私は大阪の建築物高さ制限を重視している。

高い高層ビルやタワーなど、巨大な墓石にしか見えない。見苦しいと思っている。

その逆に、屋久島の縄文杉などに感動を覚える。

自然と共有、共生しての人間社会である。

傲慢な建築物は大嫌いである。

町を再開発するとき、昔からある井戸や池、古木や古い屋敷に配慮して、町の設計をした住宅がある。

そう言ったものを見ると素晴らしいと感動するが、一般的にはすべて破壊して新しくする。

なんと傲慢なことだろう。

<<傲慢な竹中平蔵>>

東洋経済のインタビューで竹中平蔵はこう言っている。

「みなさんには貧しくなる自由がある」

「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」

常に自分は成功者であるという発言である。

最近、考古学でひらがなが半世紀時代を遡ったというニュースを覚えておいでか。

考古学は何十年も土を掘って出てくるものを検証するのが普通で、評価されたり、ニュースになる方が稀な学問である。

考古学や民俗学で成功したという話は聞いたことがあまりない。

成功してもお金持ちになる可能性はほとんどない。

お金にしか価値観がない人間は、極論を言えば、お金を得る為に人を殺しても何とも思わない人間である。

金を稼げない奴は、金を稼げる奴の足を引っ張るな!

これほど傲慢な言葉があるだろうか。物価値を知らない愚か者である。

<<傲慢な人間ほど、物を知らない>>

江戸時代の人間が科学以外の分野で、現代人に劣っているかというとそうでもない。

最近、映画になったりした『天地明察』の安井算哲は、天文学が天才である。

授時暦を解析し、大和暦を作り上げた。

しかし、これを理解するには天文の知識が入り、星々の運行を知らなければならない。

現代科学でも、人工衛星や探査機を打ち上げるには天文の知識が必要である。

観察技術を除けば、安井算哲の知識は現代人となんら変わりない。

竹永平蔵はそんな知識をお持ちだろうか?

天体の知識は、空を見上げて星々を観察するところから始まる。何十年、何百年の知識の集合体が天体知識である。過去の偉人が居なければ、存在しないものである。

その知識を使って、軌道計算を行い。

我々は今の暮らしを維持している。

平蔵さん、人工衛星の軌道計算を過去の数式なしに起ち上げることができますか?

人工衛星がなければ、気象予測も、衛星通信も、GPPも使用できない。

過去の偉人、それも大多数が報われることがなかった方々の努力の結晶が我々の生活を支えている。

そんな恩人に、『成功した人の足を引っ張るな』と言うつもりなのだろうか。

金銭だけの価値観で、成功者と脱落者のレッテルを貼るのはよして貰いたい。

少しは禅や美術鑑賞、山登りなどを経験して、新しい価値の探索も見て貰いたいものである。

私達の不幸はそんな価値観も判らない愚か者が、この国の中枢近くにいる。

そして、そんな者の為にそんな価値観を強制されていることだろう。

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竹中平蔵(下)「リーダーは若者から生まれる」
http://toyokeizai.net/articles/-/11927

日本の新しいモデルを創る「新世代リーダー」とはどんな人なのか。どんな能力、教養、マイ ンドセット、行動が必要となるのか。国内外のリーダーを知り尽くした、各界の識者たちに「新世代リーダーの条件」を聞く。

第3回目は、小泉内閣において、経済財政政策担当大臣、金融担当大臣、総務大臣を務めた、竹中平蔵・慶応大学教授が、優れたリーダーの共通点を語る。

昔の民主主義は、もっと厳しかった

今の日本には、問題解決のための案を出さず、批判ばかりしている人が多い。小泉内閣の中にいて批判ばかりされているときに、批判のパターンは3つしかないことに気がついた。

1つは、反対のことを言えばいい。金利が下がれば、「金利が下がったら、年金生活者が困る」と言い、金利が上がれば「中小企業が困る」と言う。このやり方であれば、いつも批判することができる。

2つ目は、永遠の真理を言えばいい。たとえば、「もっと戦略的に考えないと駄目だ」とか、「もっと目線を低くして考えないと駄目だ」といった正論を言う。戦略的に考えなくていい、という人は誰もいないので、否定しようがない。

3番目は、相手にラベルを貼ってしまえばいい。「あいつはアメリカ原理主義者だ」とか。これはもう思考停止だ。

どうしても人を批判しなければならないときは、この3つのパターンのどれかを使えばいい。この3つには明らかな共通点がある。それは、どうすればよいかという対案がないということだ。

昔の民主主義は、もっと厳しいものだった。自分が何かを主張したら、「じゃあ君やってみろ」と言われるし、「あなたは死刑の執行に賛成か? 反対か?」と聞かれて、「賛成だ」と答えれば、「では、あなたが執行してください」と言われかねなかった。そうした厳しさが、民主主義の一つの原点だった。

ところが今の日本には、人の批判だけをしていればいい、心地良い空間ができてしまった。「あのお年寄りかわいそうじゃないか。何とかしろ」と主張はするが、「では、しばらくの間、あなたがお小遣いを削って支えてください」と言われると、「いやいや、それは俺の問題ではない」と逃げることができる。

批判に耐える力は、リーダーにとってもっとも重要だが、批判に耐えるのは本当に大変だ。

小泉政権時代、不良債権処理のために公的資金注入を決めた翌日、新聞の論調は反対のほうが多かった。それを小泉さんに伝えたところ、「気にしなくていい。そのうちわかるから」と一言だけ言った。これこそが、腹の太さだ。しかし、普通はみな、周りにどう思われているかが気になってしまう。結局、批判に耐えて、自分が信じた事を信じる力こそが、信念だと思う。

批判に耐えるために大事なのは、「捨てる力」だ。今の地位を失ってもいい、いつ辞めてもいい、と思えるかどうかで、批判に対する対抗力が違ってくる。大臣時代も、私はケンカする必要があれば、いつでも受けて立つ覚悟だった。私には守るものはなかったが、守るものがある人は大変だと思う。

成功者の足を引っ張るな

これからのリーダーは、しがらみのない、若い人から出てくるはずだ。「英雄は若者から学ばなければならない」という言葉があるが、それは正しいと思う。

今、慶応大学で、「イノベーション&リーダーシップ」という寄付講座をやっている。そのスポンサーになってくれているのは、着メロなどを手掛けるフェイスの平澤創社長。彼は、いろいろなところから講演を依頼されるが、大人相手にやってもムダだから、講演しないと決めているそうだ。彼は、「自分が起業できたのは、若くてリスクを感じなかったから。失うものがないというのは、すばらしいこと。だから、若い人の前では講演をする」と言っていた。

私が、若い人に1つだけ言いたいのは、「みなさんには貧しくなる自由がある」ということだ。「何もしたくないなら、何もしなくて大いに結構。その代わりに貧しくなるので、貧しさをエンジョイしたらいい。ただ1つだけ、そのときに頑張って成功した人の足を引っ張るな」と。

以前、BS朝日のテレビ番組に出演して、堺屋太一さんや鳥越俊太郎さんと一緒に、「もっと若い人たちにリスクを取ってほしい」という話をしたら、若者から文句が出てきたので、そのときにも「君たちには貧しくなる自由がある」という話をした。

若い人は、日本が貧しくなることにリアリティがないのかもしれない。しかし明らかに、日本中にウェイクアップコールが鳴っている。

日本の株価は、過去5年で半分になった。リーマンショックが起きたアメリカでも、株価は5年前とほぼ同じ水準だ。世界を見回しても、日本のような状況の国はない。

しかも、日本は貿易赤字になった。貿易赤字になったのは、地震でサプライチェーンが壊れて、原子力発電所が止まり、鉱物性燃料の輸入が増えたという理由もあるが、それだけでは説明できない。2012年8月の日本の輸出を5年前と比べると、なんと25%も減っている。対米輸出に限ってみると、36%も減っている。これは明らかに産業の空洞化が起きている。

ハーバード大学教授のロナルド・ハイフェッツが書いた『最前線のリーダーシップ』という本の中に、「リーダーはバルコニーに駆け上がれ」という言葉が出てくる。これは要するに、「鳥の目で見ろ」ということだ。ダンスホールで踊っているときに見える光景と、バルコニーに上がって、上から見える光景は違うことがよくある。

日本の貿易構造についても、一歩引いて俯瞰して見ることで、こうした大きな変化が起きていることに気付く。このように、鳥の目でリスク管理する力がないと、リーダーは務まらない。この「バルコニーに駆け上がれ」というハイフェッツの教訓は、リーダーにとって、ものすごく重要だ。とくに、若い人はゆとりがなくて、汲々としているだけに、このメッセージを意識した方がいい。

(以下略)
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9世紀後半の土器にひらがな 京都
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20121129/t10013835831000.html

京都市にある平安時代の貴族の邸宅跡から出土した9世紀後半の土器に、多数のひらがなが書かれているのが見つかりました。
ひらがなは、これまで10世紀になって確立したと考えられていて、専門家はひらがなの歴史が半世紀ほどさかのぼることを示す第1級の貴重な資料だとしています。

ひらがなが書かれた土器は、京都市埋蔵文化財研究所が去年4月から京都市中京区にある平安時代の貴族、藤原良相の邸宅跡で行った発掘調査で見つかりました。
土器は9世紀後半の皿や高つきなど20点で、その表面に合わせて150字ほどのひらがなが書かれていました。
研究所によりますと、このうち直径14センチの皿の破片の裏に書かれたひらがなは「うとましい」という意味の「ひとにくしとおもわれ」(人憎しと思われ)と読めるということです。
また、別の皿の破片に残る「かつらきへ」という文字は、当時の歌でよく使われたことばだということです。
研究所によりますと、これまでひらがなは「土佐日記」や「古今和歌集」などがつくられた10世紀になってから確立されたと考えられていて、9世紀に書かれたものはほとんど見つかっていませんでした。
当時、文化の中心だった京都で9世紀後半のひらがながまとまって見つかったことで、専門家は、ひらがなの歴史が半世紀ほどさかのぼることを示す第1級の貴重な資料だとしています。
京都市埋蔵文化財研究所の吉崎伸調査課長は「当時、平安京は、文化的にはいちばん進んでいた場所で、当時の貴族がひらがなを使いこなしていたことが分かる。ひらがなの発生や発展を知るうえで、非常に重要な資料だ」と話しています。

岡田副総理はお馬鹿 まずは公務員(国会議員)の給与を291万円にしますと言いなさい!

民主党の岡田克也副総理が28日、県内の3選挙区を回り、集会などで支持を訴えたらしい。

「日本がギリシャのようになったらどうするのか」

そう言って、消費税への理解を求めた。

第16代の仁徳天皇は、即位されて4年目に高台にのぼって見渡されました。
すると家々から炊事の煙が立上っておらず
国民は貧しい生活をしているのだと気づかれました。
そこで3年間年貢などを免除されました。
そのため天皇の着物や履物は破れてもそのままにし、宮殿が荒れ果ててもそのままにしていました。
そうして3年、気候も順調で国民は豊かになり、高台に立つと炊事の煙があちこちに上がっているのが見えました。

これが有名な『民のかまど』である。
景気が悪いときは、税の負担を軽くする。雇用対策などで収入を増やす。収穫が増えるように苗を多くする。
難しいことではなく、昔から故人が行ってきた事です。

私が尊敬する保科正之公は、少しでも多くの者を雇用できるように、藩の給金を低めに設定して家臣を多く召し抱えております。

明暦で江戸の大火が起こったとき、炎は浅草にあった幕府の御用蔵にも及びます。

蔵には旗本に支給するための米俵が大量に保管されていたので、全焼すれば深刻な被害になる。

知らせを聞いた老中たちが「すぐに火を消せ」とあわてたのも無理はない。

正之が下した決断は、まさに逆転の発想で、「江戸中が大火に包まれている今、蔵の消火に人足を回すべきではない。それより、被災者は路頭にまよい、食料にも困っている。米が必要な者はだれでも蔵に行って火を防ぎ、持ち出した分だけの米を与えると布告すれば、火消と被災者救済の両方がかなう」と主張しました。

幕閣の賛同でお触れが出ると、被災者たちは喜び勇んで浅草に殺到し、火消に励んで米を運び出した。

正之の大胆な発想によって、蔵米は丸焼けになることなく、救済米としても役に立った訳です。

鎮火後、幕府は粥の炊き出しを行ない、一日1000俵が給付されました。加えて、旗本・御家人たちには合計16万両もの作事料が支給されています。
このように救済と消火を行ってしまったのです。

また、この火事の再建では、
「戦国の武断政治から太平の文治政治へと転換すべきときに、役に立たない旧時代の遺物ともいえる天守閣は不要であり、町屋の復興こそ優先されるべきである」
と主張され、両国橋は増築するが、天守閣は再建しない。
民の生活に必要なものを優先して再建すれば、国土が潤って国が立ち直るのです。

岡田克也副総理の言うように、
「日本がギリシャのようになったらどうするのか」
日本をギリシャのようにしないと言う意見は同じなのですが、

日本をギリシャのようにしない為に消費税は上げてはいけないのです。

民の暮らしをまず豊かにすることが大切であり、倉の金が無くなることを心配するのは全く無駄な発想です。
倉に金を残しているのは、こんな風に民が苦しくなる困難な時こそ、倉を開放して民を救済することが大道なのです。

日本の財政には、まだ多くの預託金が残っており、まずそれを放出すれば、増税の必要はありません。
次に、民の生活に直結する事業、必要な雇用、将来の為の投資に集中して資本を投下することが大切なのです。

少しでも多くの雇用を生む為に、日本の財政が黒字化するまで、全国所得平均291万円まで公務員(国会議員)の給与を下げて、その余った分を投下すれば、
国家公務員の平均年収は628万円くらいですから、国家公務員(約64万1千人)と地方公務員(約281万4千人)の合計345万5千人程度の雇用が確保できます。

つまり、2012年10月の完全失業者273万人をすべて雇用できる予算が存在するのです。

日本の各部署に残されている預託金を事業に投資し、公務員の給与を失業者に充填すれば、当面の危機はすべて回避できる訳です。

ハイテク部門なら手塚治が描いた『アトム』の国、一家に1台メイドロボ、子供の養育に老人の介護、これで安心して女性が働きに出掛けられます。自動車はオート、老後は自家菜園が新三種の神器になれば、国土は大いに潤うことでしょう。
また、資源エネルギー部門は、小笠原諸島などに広がる海底資源の採掘、メタンハイドレートが有力な採掘資源です。人間が地上でロボットを操作して採掘するようになれば、雇用も生まれるでしょう。
電気部門は、ダム土砂のサルベージ、小水力発電、地熱発電とコストが安く永続的な電気エネルギーが生産できます。
ガソリン部門は、オーランチオキトリウムとバイオエタノールの生産によって、自動車社会を破壊せずに置換できます。

さて、これだけ多くの将来への投資が目の前にあるのです。
技術を進化させる資金が投入されれば、近未来の産業は明るいと思いませんか?

加えて言うなら、現在は災害復興と高度成長期建造物の補修工事時期が重なっております。
当面の土木工事は目白押しであります。

さらに、今回の大震災の教訓から20万人の自衛隊投入の危険性を考えて、自衛隊予備軍、あるいは、自衛隊救援隊とでも呼ぶべき人員を確保する必要があります。
生活保護などで就職口がない若者などを、震災の救済者補助を目的した訓練を行うようにすれば、いざという時の補助人員になり、職業訓練と精神養生も兼ねることができます。

2011年度の生活保護者が205万人です。その内、20代 3.8%、30代 7.0% 40代 11.0%ですから20~40代が21.8%を占めます。つまり、44万6千9百人は自衛隊救援隊に編入できる訳ですね。
食っちゃ寝を繰り返す日々を、自衛隊で震災時に国民を助ける技術を学ぶ。
雇用とはいきませんが、無為に施しを受ける訳ではないので、堂々と生活もできます。
自衛隊では、重機・2種の免許などが取得できますから、職業訓練にもなります。
適度な運動(かなりハード)と規則正しい生活は、精神の養生とどんな仕事にも付けるという自信になります。
経済状況が好転するまでは、公務員の給与を充填するとすれば、財政上の負担にもなりません。
1石3鳥の一手です。

岡田副総理さん。
消費税を上げる前にすることがありましたね。

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衆院選:岡田副総理お国入り 解散後初、3選挙区で演説と報告会 /三重
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121129-00000097-mailo-l24
毎日新聞 11月29日(木)12時14分配信

 民主党の岡田克也副総理が28日、県内の3選挙区を回り、集会などで支持を訴えた。

 解散後、初めてのお国入り。岡田氏の事務所によると、投票日まで「あと1、2回は三重に入れるかもしれない」という過密スケジュールだ。
 この日、岡田副総理はまず5区入り。前職とともに、南伊勢町、志摩市の交差点、鳥羽市の漁港前、伊勢市で相次いで演説した。伊勢では約150人の前で「借金が増え、財政の立て直しに取り組まなくてはいけない。だから社会保障の一体改革が必要」と訴えた。さらに「国は揺らいでいる。地に足をつけて、問題を一つ一つ乗り越えていく政治でなければ、国民の未来は危うい」と強調した。
 続いて4区では、松阪市のホテルで開かれた党の国政報告会で、約120人の支援者を前に講演した。岡田副総理は「消費増税について追及されたら謝るしかない。しかし、日本がギリシャのようになったらどうするのか。国の予算の半分は借金。与党としての責任であり理解してほしい」と述べた。また、経済対策については「予備費を使って経済対策第2弾を出す。自然エネルギー、省エネ、医療、農林水産などで投資を増やしていく」などと主張した。
 さらに夜には四日市のホテルで後援企業、団体の総会に出席した。【木村文彦、橋本明】
〔三重版〕
11月29日朝刊

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県民所得、初の全都道府県マイナス 08年度
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS2602A_W1A420C1EE2000/

“内閣府が26日発表した2008年度の県民経済計算によると、都道府県の1人当たり所得額(県民所得)の全国平均は前年度比6.0%減の291万6000円だった。マイナスは5年ぶりで、減少率は統計を比較できる1975年度以降で最大。リーマン・ショック後の世界的な不況で輸出産業を中心に企業の所得や賃金が減り、全都道府県で前年を下回った。

1人当たり県民所得は、雇用者報酬、企業所得、財産所得を合計し、人口で割って算出する。1位は東京の415万円で、以下、愛知(323万円)、静岡(321万円)、神奈川(319万円)まで前年度と同じ順位だった。最下位は沖縄(203万円)。

北海道238万 青森236万 岩手226万 宮城247万 秋田229万 山形232万
福島274万 茨城294万 群馬270万 埼玉293万 千葉297万 東京415万
神奈川319万 新潟261万 富山291万 石川281万 福井272万 山梨272万
長野271万 岐阜265万 静岡321万 愛知323万 三重282万 滋賀298万
京都292万 大阪300万 兵庫274万 奈良252万 和歌山254万
鳥取230万 島根224万 岡山266万 広島283万 山口284万 徳嶋268万
香川257万 愛媛228万 高知204万 福岡264万 佐賀245万 長崎215万
熊本226万 大北256万 宮崎213万 鹿児島225万 沖縄203万
全国平均291万”
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完全失業率と有効求人倍率
http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_eco_jobless-rate
2012年11月30日
総務省が同日発表した10月の労働力調査によると、完全失業率(季節調整値)は前月と同じ4.2%だった。就業者(同)は前月比31万人増の6300万人、完全失業者(同)は横ばいの273万人となった。

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