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番外 名君義元 東海一の弓取りの事(1)<<甲斐の虎を制した事>>

今川義元は、越前の朝倉宗滴に「国を持ち、家臣を使っている人物で、よき手本となる人物は、今川義元・武田信玄・織田信長・三好長慶・長尾景虎・毛利元就・正木時綱だ」と筆頭で評価されているように、人使いの名君であった事は間違いないありません。

義元の家督相続は、『花倉の乱』と呼ばれる福島兵庫正成の反乱から始まります。しかも氏輝と上位継承者である弟の彦五郎が同日に死ぬという不幸も重なっております。

義元は、人を使うことに細心の注意を払ったに違いありません。その努力の成果が武田晴信を制し、北条氏康を抑える事となり、

その手腕から『東海一の弓取り』と讃えられています。

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『信長公記の軌跡 首巻 』 目次へ 

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<<甲斐の虎を制した事>>

武田を制したというと「何を大げさな!」と言われそうですが、信玄(晴信)は駿河から諏訪・村上へと目標を定め直します。同盟などと言っておりますが、この時代はいつ破棄されても可笑しくない時代です。義元をそこまで信用していたのでしょうか?

■獰猛な野獣 武田信虎
武田信虎は、非常に獰猛な性格であったと言われます。
『甲陽軍鑑』、『勝山記』などによれば、「信虎の可愛がっていた猿を家臣に殺されて、その家臣を手打ちにした」、「信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いていた」とあります。
『小説 鳥獣戯話』(※1)では、トラは国内統一の為に強引な手段を取っていたと書かれていますが、このトラは信虎らしく、一般的な信虎の性格と思われております。
『甲陽軍鑑』は信玄を讃えたものですから、相対的に信虎が悪でなければなりません。
“信玄”=“神”、信玄と戦った家康も偉大。
この論法が江戸時代に盛んに勧められましたので、信虎が猛獣のような悪人と決められたようです。

実際の信虎は、どうでしょうか?
1563年には、『氏真は取るに足らない小人物で、今川家は明らかに弱体化している。今こそ、駿河を切り取る好機である』と信玄に密書を送っております。これは事前に察知され、京都三条夫人の実家に逃げることになったと言われています。
その逃走の途中、志摩国で起きた伊勢国司・北畠家と志摩の豪族達の争いに北畠側の軍師として参戦し、北畠軍を勝利に導いたと伝えられています。
京に上がった信虎は、御相伴衆(※2)に任命されます。
1568年、寿桂尼が亡くなり、武田信玄はいよいよ駿河を侵略を開始します。 

一方、晴信(信玄)は優秀な武将だったのでしょうか?
『甲陽軍鑑』には、「天文五年丙申十一月二十一日晴信公十六歳のとき、信虎公は甲府を出発して信州へ攻勢をかけたが、信虎公は敵を包囲したのに、軍を解いて退かれたことがある。それは信州の海野口という城で、三十四日間とりまいたけれども、大雪のため信虎勢は攻め落とせずに、同十二月二十六日に甲府へ帰陣し、御馬を入れてしまわれた。子息・晴信公はしんがりをつとめたとあって、後に残り、甲府へは行かずして海野口へ戻り、その勢三百ばかりで、御父・信虎公が八千の軍勢でも落城かなわなかった城を乗っ取りなさった。これ信玄公十六歳で信濃守大膳大夫と申されていた時であったが、初陣の手柄は以上のごとくであった。」と華々しい晴信(信玄)の初陣が書かれています。
父、信虎が中々攻略できなかった海野口城をわずか300騎余りで奇襲を掛けで落城させる。恐ろしいほどの若武者の登場です。この晴信の出現に恐れを抱いた信虎が晴信を追放させようと画策するのですが、『勝山記』にも『高白斎記』にも、この戦いのことは乗っておりません。
おそらく、後年、信虎が落とせなかった海野口城を晴信が落としたという説が、初陣に差し替えられたのでしょう。
晴信(信玄)が優秀な武将だったというのは、後の功績から若い頃から優秀であったに違いないという思い込みに過ぎません。

■武田信虎の甲斐統一とその後
室町期に上杉禅秀の乱により守護武田氏が衰退し国内外の国人勢力や守護代の跡部氏が台頭していおり、また、郡内領主小山田氏や河内領主穴山氏など、新勢力の台頭を招いていました。
武田 信縄(たけだ のぶつな)が甲斐守護職・武田家第16代当主となった当時は、守護武田氏と穴山氏、東郡の栗原氏、西郡の大井氏など有力国人勢力の抗争から乱国状態になっており、さらに信縄の異母弟である油川信恵(彦八郎)を後継者にしようと画策する動きがあります。(『王代記』では「兄弟争論」と書かれている。)
そんな紛争の中、永正4年(1507年)2月14日に信虎の父、信縄は病死します。
家督を継いだ信虎は、永正5年(1508年)10月4日に坊峰合戦で勝利すると、武田宗家の統一を成し遂げるのです。

・永正6年(1509年)、小山田氏を従属させ、永正12年10月17日に信直が大井信達・信業父子の拠る西郡上野城を攻め、救援に来た今川の小山田氏と戦った結果、永正14年(1517年)に今川と和睦。1520年(永正17年)には制圧した大井氏の娘を室として迎えた。
・永正16年(1519年)、躑躅ヶ崎館を築き城下町を整備して、城下に家臣を住まわせる(『高白斎記』)などの政策を行っている。
大永元年(1521年)、今川氏配下の土方城主・福島正成を主体とする今川勢と戦い、辛勝を得る。
・大永2年(1522年)、甲斐国内の統一に成功する。
(享禄元年(1528年)には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している)
・大永4年(1524年)、関東における両上杉氏と新興勢力の後北条氏の争いに介入する。
・大永6年(1526年)、梨の木平で北条氏綱勢を破るが、その後は一進一退を繰り返す。
・大永7年(1527年)、佐久郡出兵を行い、駿河国の今川氏親と和睦する。
・永正8年(1511年)、神門を再建する。(窪八幡)
・享禄元年(1528年)、信濃諏訪攻めを行うが敗戦。諏訪氏の後盾で甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗するが、河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破した。
・天文元年(1532年)、如法教塔を造立する。(窪八幡)
・天文2年(1533年)、武蔵国の扇谷上杉家の当主、上杉 朝興(うえすぎ ともおき)の娘を嫡男勝千代(晴信)の正室として貰い受ける。
・天文3年(1534年)、勝千代(晴信)の正室は、難産の末、母子共に死去する。
・天文3年(1534年)、拝殿を造立する。(窪八幡)
・天文4年(1535年)、今川を攻め、万沢で合戦を行うが、後北条氏が籠坂峠を越え山中へ侵攻され、小山田氏や勝沼氏が敗北している。背後を脅かされたくない信虎は、諏訪氏と和睦を執り行う。
・天文5年(1536年)、駿河国で今川氏輝死去し、花倉の乱が発生し、義元を支援する。
・天文6年(1537年)、長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男・晴信の室に公家の三条家の娘を迎える。

この年表を見ると、武田宗家の争いをわずかな期間で収拾した信虎の軍才に見る物がある。
その後に、大井氏、小山田氏、穴山氏等々と次々と有力国人衆を15年ほど掛けて傘下に納めてゆきます。
甲斐の国は、山梨・八代(やつしろ)・巨摩(こま)の3つの郡から成り立っており、この3つの郡を併(あわ)せて「三郡(さんぐん)」と呼んでいるそうです。さらに、都留郡(※3)は、武蔵相模の国境に接しており、国境紛争が絶えない。
国単位で見れば、信濃の国、武蔵の国、相模の国、駿河の国に接しており、常に他国との紛争に巻き込まれ易い国内事情を考えれば、甲斐統一は困難を極めたことでしょう。
永正16年(1519年)に躑躅ヶ崎館の付近に家臣を住まわせるとあり、「軍役衆」(※4)と呼ばれる年貢の一部負担を免除された者がいたことは間違いありません。つまり、軍政において武田軍は、基本的に信虎の時代に完成していたと思われます。
ただ、太閤検地時で22万7千石余とありますので、信虎の時代では、20万石切っていたことは間違いありません。もしかすると15万石程度だったかもしれません。
晴信(信玄)の功績は、今川の今川仮名目録を真似て『甲州法度次第』を制定ししたこと。釜無川、笛吹川の二大河川の氾濫防止の治水工事や新田開拓を進んで行ったこと。および、金山の開拓によって財政基盤を確立したことにあります。
軍政を信虎、経政を晴信が作り上げたことによって、武田軍団が最強軍団と呼ばれるようになった所以ではないでしょうか。

■信虎追放と押しこめ
室町時代、得宗専制の下で守護の権力を支えました。しかし、室町幕府の権威の低下と共に守護の権威は失われ、守護代や奉行や国人がそれに代わってきました。
守護であった斯波氏や土岐氏、畠山氏、京極氏などは下剋上によって没落し、小笠原氏や大崎氏、北畠家、扇谷上杉氏、大内氏などは隣国の脅威によって淘汰され、今川氏や伊達氏、大友氏、島津氏などは守護大名から戦国大名へと躍進しました。
武田氏も信虎によって、戦国大名へと躍進した訳です。
信虎の戦術・戦略家としての才能豊かな武将であったと思われます。そして、1つ1つの国人衆を打破した信虎は権威を高める為にも自分を頂点とした専制主義を確立しようとしていたと思われます。
鎌倉時代から続く守護領国制という調停役であった守護が武力を持って支配者に変わる。一国一城の主であった国人が信虎の一家臣になるという大名領国制の移行はかなり抵抗があったと思われます。しかし、信虎の恐怖に反旗を翻すことができないでいました。
今川義元も同じで、桶狭間で戦死した後に遠江の国人衆が一斉に反旗を翻し、氏真はその沈静に困難を極めます。義元の恐怖によって不満や不平を押さえ付けていた訳です
晴信(信玄)の心労は、まさにそれでした。
守護領国制から大名領国制への移行の不満を一身に受けることとなったのです。もし、信虎が戦死、あるいは流行病などで病死するようなことがあれば、甲斐の国は再び内乱が起こることは必至でありました。
それを回避する為に、信虎を今川へ追放するしかなかったのです。

実際、晴信が主体的に行ったのか?
家臣団が率先して行ったのかは不明です。

室町時代の末期から横暴な当主を押し込め、新しい当主を迎えるという政治手法を取られていたようで、一般的には『主君の押し込め』というようです。これは謀反ではなく、これは正当な理由による当主の交替を実力行使によって願い出たという体裁を整えています。
謀反人として、討伐されたくないという良心の呵責でしょうか。
いずれにしろ、家臣団(国人衆)からすれば、正当な行為と考えられていたようです。
晴信が本当に優秀な次期棟梁であったかは疑わしいところです。

晴信はそういった苦難の中で、専制主義から合議主義への変更を余儀なくされたのであります。
合議制というのは、国人から家臣になった家臣団が互い意見を交換し、合議の下で物事を決してゆくという手法であり、平安時代の朝義(朝廷の会議)や鎌倉幕府による評定衆に近いものですから比較的受け入れ易い手法であったと思われます。
しかし、晴信(信玄)や元就のように、会議を支配するカリスマがある大名では、「統裁合議制」と呼ばれるように、独裁者と変わらない絶対的な支配力を発揮できる制度であったようで、頭角を発揮してゆく晴信は自らの意思で戦う家臣団、最強軍団を作り上げて往きます。
武田信玄と毛利元就は、この制度によって国人衆を家臣化していったのであります。

■今川義元の陰謀説
今川義元が信虎追放の首謀者であったという陰謀説は尽きません。
しかし、首謀者であったかどうかは別として、義元が家督争いを扇動したのは間違いないことでしょう。
越前の朝倉宗滴に人心を掌握する名手として詠われている一方で、『北条氏康書状案写』に「就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、」(特に、駿河殿と私(氏康)との関係についてお尋ねですが、最近一時的な休戦になりました。しかし、私(氏康)は、どうしても今川家への疑念は拭い去ることができない。貴殿にあらぬ疑いを掛けられるのは心外です)とあります。
義元が策謀に余念がない伺わしい人物であって、簡単に信用できる人物ではなかったことは間違いないと思われます。

さて、当時は情報網が発達していません。
現代人なら地球の裏側まで、テレビやインターネットでタイムリーに情報を個人が入手できますが、近代の電信が発達するまで情報は貴重な資源でありました。
特に文字は、公家や高級武家、僧侶、商人の独占品であり、あの秀吉もひらがなが書けるという程度であり、下級武士や農民は自分の名前が書ければ、かなり器量人と思われておりました。
ただ、平安仏教の浸透から庶民信仰へ移行によって文字が庶民にも広がっており、平安末期の後白河法皇による『梁塵秘抄』の編纂や、芸能化され貴賤問わず大流行した田楽のように、貴族と庶民の文化交流も広汎にみられます。また、『平家物語』で有名な琵琶法師は、平安中期から盲目僧に芸人として発生している事から見ても、文字文化の浸透は早あったと考えられます。
鎌倉仏教の発展が庶民宗教への移行となり、さらに文字文化が庶民に浸透しますが、庶民が一般的に読み・書き・算盤が浸透するのは、江戸の寺子屋時代を待たなくてはなりません。
ゆえに、文字を書き、情報網を持っている者は貴重でした。

京には、全国から情報が舞い込んで来ます。公家はその情報を独占できる貴重な亜種でありました。
また、全国に散らばった名家などは、独自の情報網を持っております。
忍者で有名な伊賀・甲賀ですが、鎌倉時代までは守護や地頭による支配を受けない集団で、主に荘園で木材などの供給を行っていたと考えられます。それが室町後期の荘園の崩壊と共に夜盗、悪党、あるいは地侍化して行きます。そして、劣勢な地侍は独自の情報網を形成することによって生き残りを図ったと考えれます。
商人は取引を通じで情報を交換していました。
そして、僧侶も修行僧や山伏を通じて独自の情報網を形成しておりました。

僧侶出身の今川義元は、このすべてに通じております。
頻繁に公家を招き、名家の者を家臣に取り立て、伊賀者を雇っております。
『藤林家由緒書』には、藤林長門守が今川義元に雇われていたと記載されており、「大久保彦左衛門の三河物語には、今川方は伊賀集を忍び込ませて信近の首を討ち取ったが、城兵に反撃されて、伊賀衆も八十人討ち取られ、信近の首も取り返されたとある。」と書かれております。その内容の真偽はともかく、義元が伊賀者を重用していたと思われます。
また、東宣坊(とうせんぼう)に駿河・遠江全土の山伏を支配させています。
情報のすべてを掌握しようとした義元が、その情報を利用しないということは考えられません。

「花倉の乱」で勝利した義元は、信虎に利用価値があることを示すかのように、天文5年(1536年)に室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜り、「晴信」と改め、官位は従五位下・大膳大夫に叙位・任官されるという栄誉が与えられます。さらに晴信(信玄)の側室に左大臣・三条公頼の娘を推挙します。将軍家と同族の今川家の助力あってのことです。武田家の権威を上げるのに躍起になっている信虎の心を燻っております。
しかし、信虎は猛獣な虎と同じで弱みを見せれば、いつ噛みつくか判らない輩です。
甲陽軍鑑によると、天文7年(1538年)正月の元旦祝いのとき、信虎は晴信には盃をささず、弟の信繁にだけ盃をさしたという逸話も残っております。
わずか2年ばかりで、親子関係が険悪化したと考えるべきでしょうか。

この信繁が信虎の寵愛を受けていたという点において、私心ではありますが、事実ではないかと考えております。
信繁の死に際して、信玄が号泣し、上杉謙信からも惜しまれたと言われておりますから、才覚豊かな次男として頭角を見せていたのではないでしょうか。正に長男の太郎(晴信)が霞むかのような輝きではなかったかと推測しております。
ただ、それが直接家督争いや廃嫡という要因ではなく、唯々、その才覚を愛されていたというだけではないかと思うのです。

さて、「人の口に戸は立てられない」と言いますように、そんな些細なことですら世間は面白おかしく騒ぎ立てるものです。
人の噂で、「嫡長子の太郎より次郎の方が優れている」と騒ぐようになります。
そんなことで家督が動く訳もございませんが、その土地の神主や高僧までも口々に言うようになれば、家臣の心中も穏やかならざるものになります。
情報は正確な情報9に対して、扇動の偽情報を1混ぜると正否の判定ができなくなると申します。
僧侶の情報網は、旅の修行僧や全国を巡礼する山伏に依存するところが大きく、その山伏を掌握しているのが義元であります。
義元にすれば、専制主義を進める信虎と国人衆の中が巧くいっているとは考えていません。
そこに、君主と嫡長子の中が悪いという噂の楔を打ち込みます。
巧くいけば、武田家の勢力を削ぐことができます。巧くいかなくても今川家に何ら障害が生まれる訳でもありません。
唆された家臣団(国人衆)が嫡長子(晴信)の元を頻繁に訪れるようになる頃を見計らい。
今度は、「晴信様が、国主様を押し込めるそうだ」とでも噂を流します。
こうなると信虎も晴信をそのままにしておけません。
晴信にすれば、座していれば廃嫡の可能性もでてくる訳です。

重臣である板垣信方や甘利虎泰、飯富虎昌らが率先したのか?
晴信自身の画策であったのか?
将又、大河ドラマ『風林火山』のように、晴信・信虎の双方が今川義元に書状を送ったのか?
その真実は明かされることはないでしょうが、義元は熟した果実を手に取るが如く、信虎の追放に手を貸します。

今川義元がどこまで関与したのかは定かではありませんが、情報を操作して戦わずして勝つというのは、義元の戦略であったことは間違いありません。
戦国時代、情報戦の先駆者。それが今川義元であります。

■今川を真似た信玄
今川家は、大永6年(1526年)4月の『仮名目録』に定めるように氏親の時代から水上運輸税や関所通行税を廃止し、商工業を支援する形で国人衆の財を削る政策が取られている。
これは天文22年(1553年)2月の『仮名目録追加21条』で楽市・楽座を定めることにより強化されている。今川家に営業税を支払わさせ、国人衆が勝手に税や商業権を酷使できないように定めております。これでは勝手に税を課して、財を溜めることができません。
さらに、義元は寄親寄子制を採用し、その身分と責任を明文化しております。
(今川における寄親とは、国人クラスの一族を差します。)
検地を行い年貢と軍役を定め直し、他国との婚姻・手紙のやり取りなどを規制し、今川家の支配体制を確実なモノとして行きました。
特に特筆すべき所は、第20条の「不入特権の廃止」であり、今川領国における秩序は今川家で在って将軍家ではないと書かれております。この一文で将軍家から保障されていた約定をすべて無効化したのです。国人、神社・寺の特権を引き剥がした訳です。
相当の抵抗があったハズですが、義元はそれを巧く丸めている所を見ると、剛柔を巧く使い分けた交渉術に長けていたことが判ります。

今川の財政は、安倍・日影沢金山から採掘される金が大きく関与します。
享禄年間(1528~1531)に大量の砂金を産出してたびたび朝廷や公爵に寄進したとあります。
天正3年(1575)金鉱脈に発見され、砂金採取から坑道堀に移行します。最新技術であった灰吹き法も取り入れた今川家は大いに財政が潤っていたと思われます。
そして、商工業を支援していることからも銭を基盤とした税制を基準に定めていたと思われます。
安倍川の治水工事などや今川仮名目録 第1条「名田の没収禁止と年貢増を条件とする名田の競望」による積極的な開拓を推進しております。

また、今川の情報網は公家・名家・甲賀衆・商人・山伏などによって構成され、本格的な情報戦を行った最初の戦国大名だったかもしれません。

【今川家の主な体制】
1.分国法の制定(法整備)
・領国支配の基本法
・家臣団統制
2.内政
・農作地の把握(検地)
・農民の直接支配
・治水・灌漑・開拓事業
3.経済政策
・市場の開設(独占営業税)
・宿駅・伝馬制、関所廃止
・新技術の採用(金採掘)
・商工業の統制(楽市楽座)
4.情報網
・公家による全国の情報
・名家による内情に詳しい情報
・甲賀衆による貴重な情報
・商人による物価などを含む諸国の情報
・山伏による遠方・近隣の詳細な情報

今川家を見た晴信(信玄)は、進歩的な国家運営に驚愕したことでしょう。
武田軍も寄親寄子制であったことは、今川を真似たと思われます。さらに、天文16年(1547年)に分国法である『甲州法度次第』(上巻は57条、下巻は家訓)も作られています。又、『甲州金』で有名な甲斐の金山の採掘法は、新技術である「灰吹法」が駿河から取り入れたと思われます。また、通貨基準を定め“甲州一分金”を作成したことも、すべて今川家を模したのではないかと思われるのです。
特に、武田の「歩き巫女」は、今川の山伏に対抗して組織されたのではないかと考えずにはいられません。
いずれにしろ、今川義元という2歳年上のライバルの存在が、武田晴信(信玄)を戦国最強武士の一人として成長させた要因と思われます。
武田晴信(信玄)が義元との直接対決を避け、諏訪・村上へと転進を余儀なくされたのは間違いないことでしょう。ゆえに、桶狭間で信長に討たれたと聞いた信玄は、唯々信じられないという思いが過ったに違いありません。ただ、歴史的資料としては、『信長公記』の首巻21「信玄入道  天沢長老物かたりの事」で、信玄が信長公のことに興味を持っていたという以外にはありません。

【今川家の家臣団】
〇家臣団
1.一門(血縁)御由緒衆
2.今川庶流
3.今川家臣
4.駿河国衆
5.遠江国衆
6.その他(三河国衆、尾張国衆、他国衆、駿河海賊衆)

【武田家の制度と政策】
〇家臣団
1. 武田親族衆
2. 譜代家臣団
3. 外様家臣団
4. その他(地域武士団)
〇行政=職=
公事奉行…公事と訴訟を担当する。ただし、この公事奉行が全ての裁判を審議したわけではなく、下部で収まらなかった訴訟を審議した。後述。
勘定奉行…財政担当官。
蔵前衆…地方代官。同時に御料所と呼ばれる武田氏直轄地の管理を行った。
侍隊将…出陣・警護の任務に当たる。
足軽隊将…検使として侍隊将の補佐を勤める旗本隊将と、領地境界の番手警備を行う加勢隊将に別れる。
浪人頭…諸国からの浪人を統率する。
〇軍政 =職=
旗本武者奉行…弓矢指南とされる。最上位に記される事から出陣の儀や勝ちどきの儀などの責任者か。
旗奉行…諏訪法性の旗などを差配する。
鑓奉行…騎馬足軽が付随したとある。旗本親衛隊の統率者か。
使番衆…百足の旗を背負う伝令役。使番と奥使番に分けられる。
奥近衆…奥近衆小姓とも記される。基本的には領主クラスの子弟から選ばれる。
諸国使番衆…諸国への使者を務める。
海賊衆…海軍。
御伽衆…御話衆とも。側近。
新衆…工兵集団。架橋や陣小屋作成など。
〇財政=税制=
“地頭役”、“代官役”、“田地役・田地諸役”、“郷次の普請役”、“罰銭利倍役”、“棟別銭”、“陣夫”、“押立夫”、“山口銭”、“市役”、“関役(木戸役)”、“商売の役”、“工職の役”、“僧侶妻帯役”、“御印判”、“布役”、“鍵役”、“窓役“、“樹木役”、“竹の年貢”、“塩役”、“後家役”
などがあり、主なものに分別すると、
”本年貢”、“公事(年貢以外の税)”、“棟別諸役(家一軒毎にかかる諸役)”の3つに分かれる。
多様な税制から判るように、貨幣による税制を主に行っていたと思われる。
“棟別銭”は、家屋税であり、一軒当たり200文を春秋二回徴収したらしいが、当時の賃金が30~50文なので随分と高額である。奥州伊達氏で100文、関東後北条氏は50文(一時、35文まで減税)だった。
しかし、農作人には“大小切税法”を適用した。田畑の貢租を三等分し、その内3分の2(大切)を物納、残りの3分の1(小切)を金納する。(計全体の9分の5を金納) 金1両につき米4石1斗4升という相場が固定されていたので、開墾により農作物の収穫量が増えると税率の割に軽い税となっていった。
信玄の「終世、変えるべからず」の言葉があり、江戸時代に改正しよと試みたが、農民の反対にあり頓挫。明治政府も1万規模の大暴動の末に改正を成し遂げた。
〇内政=通貨=
甲州武田家独特の金貨である“甲州金”を制定し、
一両=四分=八半分=十六朱=三二半朱=一〇〇〇文(又は四〇〇〇文)という通貨レートを定めた。
徳川家康もこれを見習い、
一両=四分=十六朱=一〇〇〇文(又は四〇〇〇文)という通貨レートを採用している。
〇鉱業=金採掘=
黒川金山は武田信虎の祖父、信昌の時代から金の採掘は始まっていたが、信玄の時代に黒川千軒と呼ばれる密集した家屋が建ち並ぶ最盛期を迎える。
今川から取り寄せた「灰吹き法」を取り入れたことが要因と思われる。
黒川金山や湯之奥金山などから作られ、領国貨幣となった「甲州一分金」は、武田家の財政を支えた。
〇情報=三ツ者、素破=
間見、見方、目付の三職に携わる者の総称で、僧侶や商人など様々に扮装して諸国で情報収集を行う。
中でも武田の「歩き巫女」は、武田信玄の命にて甲賀五十三家の筆頭である上忍の家柄 「甲賀望月氏」の出身の望月 千代女(もちづき ちよめ)を甲斐・信濃の巫女の統帥「甲斐信濃二国巫女頭領」を任されて作られた集団で、孤児や捨て子となった少女達数百人を集め、呪術や祈祷から忍術、護身術の他、色香で男を惑わし情報収集する方法などを教え、諸国を往来できるよう巫女としての修行も積ませたと言われる。
歩き巫女達は、「ののう」と呼ばれていたらしい。
(望月 千代女は、信濃国望月城主望月盛時の妻)

※1『小説 鳥獣戯話』(一九六二年)花田清輝著:事実上の主人公、トラは武田信虎をイメージしており、暴力に明け暮れたトラが悲惨な運命の後に改心して、仏の境地に達してゆく話。
※2御相伴衆(おしょうばんしゅう):将軍の供周りをする家臣、事実上の権力は無い名誉職でしたが、普通は血筋の良い守護大名家出身の者にしか任命されない名誉職。
※3天平宝字5年(761年)12月23日付甲斐国司解『正倉院文書』(『大日本古文書』4、『山梨県史資料編3』-史料53)で、『日本後紀』延暦16年(797年)3月2日条には甲相国境争論における国境策定で「都留郡□留村東辺砥沢」の地が国境に定められたと記されている。
※41563年(永禄6)武田氏が行った恵林寺領検地の場合,大名と主従関係を結んでいる軍役衆と,結んでいない非軍役衆(惣百姓)とに区別し,軍役衆には従来からの本年貢分にあたる本成方を検地の対象から外し,検地増分にあたる踏出分も全額年貢免除とするのに対し,非軍役衆である惣百姓の場合,本成方・公事諸役・踏出分を総計し,その4割を年貢免除とした。このように異なった方式をとるにあたっては,それ以前の由緒のいかんによらず,検地施行の時点で武田氏と主従関係があれば軍役衆,なければ惣百姓と認定されたのである。

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