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2012年11月

4780ミリシーベルト 福島第1原発3号基に突入したら、2時間で死亡確実!?

4.78Sv/hは脅威の数字だ。
JCO(ジェー・シー・オー)の東海村臨界事故が想い出される。
高速増殖炉の研究炉「常陽」用核燃料の製造工程で、起こるハズのない臨界が起こった。
濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を大量に貯蔵した容器の周りの冷却水が中性子の反射板となって、溶液が臨界を起こしたのだ。
ステンレスバケツで溶液を扱っていた作業員の一人が「約16kgのウラン溶液を溶解槽に移している時に青い光が出た」と言っている。
その青い光を浴びた作業員は、推定1グレイ・イクイバレント以上の大量の中性子を浴びたと推測される。

4.78Sv/hはイクイバレント(瞬間的に大量に浴びる)ではないが、推定の5倍弱である。
一般に4Svで50%、7Svで99%の人が死亡すると言われる。
(シーベルトは加算可能性の数値)

放射能を浴びても細胞はほとんど死なない。しかし、細胞核が破壊され、細胞分裂ができなくなる。
一定期間の細胞の寿命を終えた機関から障害が始まる。

最初に白血球が失われ、ウイスルや細菌への抵抗力を失います。
最も活動的な腸内細胞から始まってゆきます。粘膜細胞が死滅して腸から剥がれてゆく。当然、何も吸収できなくなるのでいずれ下痢が始まります。
そして、皮膚の細胞です。
皮膚は外の細胞が剥がれ落ちた分を内から補充するのだが補充がなくなる。皮膚がすべて無くなり、剥きだしの肌が晒される。べろりべろりと皮膚が剥けてきて、大火傷の後のような状態になり、遂には生肉がむき出しの理科室の標本みたいな人体になってゆくのです。
免疫機能も失われ、肺や腸などの消化器、むき出しの肌から侵入し人体を蝕んでゆきます。
戦争映画で、傷口から蛆が湧いているシーンを見たことはないだろうか?
それが全身に起き、生きながら肉体が腐ってゆくのである。
崩れた肉体から水分と血が滲み出て来る。
しかし、脳と神経細胞は生きているので痛みだけは全身を走る。
爪を全部剥がすという拷問があるが、身体の内外を剥ぎ取る拷問は、至上最悪の拷問ではないだろうか。

臨界事故の被爆者、大内さんは83日間、心臓停止と強制復活を繰り返しながら生かし続けられた。
大内さんは痛みから出ない声を上げて、
「俺を殺してくれ!」
そう叫んでいたと思えてなりません。
実際、話せなくなる前のノートには「やめてくれ」、「おふくろ」、「家に帰る」と書かれています。
大内さんの身体は治療を続けていましたから蛆が湧くようなことはありません。
しかし、痛みはあったと思われます。
たとえ、痛いという表情ができなくなっていても・・・。

さて、4.78Sv/hという数字をどう捉えるべきなのでしょう。

少なくとも人が近づくことを許される数値ではありません。今後の工程にも影響するようなニュースが、こんな片隅の報道でよいのでしょうか?
「臭いモノには蓋」と言いますが、蓋すらできていないこの状態を恐ろしいと感じないことが恐ろしいのです。

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3号機で4780ミリシーベルト=昨年11月より高く、福島第1-東電
http://www.jiji.com/jc/eqa?g=eqa&k=2012112800887
東京電力は28日、福島第1原発3号機原子炉建屋1階の北東エリアにロボットを投入し、放射線量を測定したところ、床表面付近で毎時最高4780ミリシーベルトに上ったと発表した。昨年11月にほぼ同じ場所の線量を計測した際は同1300ミリシーベルトだった。
東電によると、調査は27日に実施。ロボット2台を入れ、約1時間40分にわたり、線量の測定や状況確認を行った。東電社員や協力企業の作業員計12人で調査を行い、最大の被ばく線量だった人は0.52ミリシーベルトだったという。(2012/11/28-20:08)
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東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故 1
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&hl=en&v=pXxV8nDau4Q&gl=US
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・2
http://www.youtube.com/watch?v=Ve1nG9is8Bg
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・その3
http://www.youtube.com/watch?v=wg8qzdmA1Ew
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・4
http://www.youtube.com/watch?v=XX2-DxR2JxM
東海村JCOバケツ臨界ウラン放射線・放射能被爆事故・5
http://www.youtube.com/watch?v=InbMd385z9k

『国民の声、第一主義』をスローガンにされては如何ですか!?

滋賀県の嘉田知事が、「日本未来の党」を結成しまた。
反原発が1つにまとまったことは嬉しい限りです。
しかし、政治的な利用をされているのではないかという疑念は残ります。

私は、ここで「日本未来の党」の重要公約を提言します。

『国民の声、第一主義』

重要な問題ほど、国民に直接問い掛ける。
政府・議員は、羅針盤となって国民に進むべき道を指し示す。
官僚は、決まったことを命がけで実行する。

「できること」、「できないこと」
その判断材料となる情報を公開し、国民に判断を委ねる。

国民の声を拾う方法はいろいろありますが、どういう選択をするかはお任せします。

私は既存の自治体を利用するのが最も効率的であり、簡単だと思います。

政府、または、「日本未来の党」が国民に問い掛け、
町内会で集まって決議する。結果を連合、市(区)、県、政府と上げます。
結果のデーターすべてをインターネットで公開すれば、不正のチェックもできます。

国民の声を聞くというのが第一目的ですから、基本は全員一致であります。
少数の声を無視しないことが重要です。
反対の少数派を減らす議論を行い。時間の許す限り修正案を何度も国民に問い掛けることが大切です。

何度もでも修正案で問い質す。反対の少数派を減らすことが『国民の声を無視しない』とそんな公約が出されれば、集結する候補者の合意が頂ければ、原発問題、景気問題、TPP参加問題等々のすべてに国民が参加できます。

意見が異なる事が問題でなくなります。

異なる意見の持ち主は、国民の羅針盤として情報を発信する者となるだけです。

決めるのは国民、責任を負うのも国民

国民が政党を信じるのではなく、政党が国民を信じて判断を任せる。そんな政党が生まれてほしいのです。

放射能の対応に特別を求めていない。法律に乗っ取って厳格に行ってほしいだけだ!

11月26日、国連人権員会の「健康に対する権利に関する特別報告者」のアナンド・グローバー氏が記者会見を開き、声明を発表した。

【年間20ミリの避難基準を非難~国連特別報告者】
http://www.youtube.com/watch?v=DeWz2Xj8jH0&feature=player_embedded

・ヨウ素剤を配布しなかった。
・情報を住民に知らせなかった。
・避難区域のホットスポットを無視した。
・年間100mSv以下の放射能被ばくのリスクを正しく伝えていない。
・放射線管理区域内、年間20mSv(50mSv)を超えてはならない。5年間で100mSvを超えてならないという法律を守っていない。
・放射線管理区域内、3ヶ月で1.3mSvに達する区域の一般人の立ち入りを禁止するという法律無視。
・放射線管理区域内、作業員の飲食や睡眠も禁止されているのに、一般人がそこに居住している。
・チェリノブイリ事故で100mSv以下でも免疫学でにガン、その他の疾患が発生されていると指摘されているのに、限界値と業界の安全基準の限界は反映されていない。
・モニタリングポストと現地の実測に異差があり、住民は独自に放射線を計測しなければならない事態となっている。
・政府・民間の測定データーを取り入れたものを公に公開する必要がある。
・健康調査が福島に限定されているのは問題がある。同調査対象を広域に広げる必要がある。
・汚染地帯の把握をしっかりする必要がある。
・福島の健康管理調査の回答率はわずか23%と低い過ぎる。しかも、子供の甲状腺検査、全体的な健康調査、精神面、生活習慣に関する調査、妊婦に関する調査は限られ過ぎている。
・チェリノブイリの経験も生かせていない。
・医師の情報にアクセスするのが困難で、調査には煩雑な情報公開法の手続きが必要だった。
・作業員の健康被害に対しても無頓着過ぎる。極めて高濃度な放射線に被曝している彼らの調査を行うべきだ。
・食品の基準を500Bqから100Bqに下げたことは評価します。更なる食品安全基準の強化をすべきです。
・放射能除染が行われていますが、1mSvまで下げる計画が決まっておりません。住民には安全に暮らす権利があります。日本政府は放射線レベルを年間1mSvに下げる明確なスケジュールを示すべきです。除染計画を出すべきです。
・除染には専用の作業員を雇用し、正しい知識の元で行うべきです。しかし、何の知識もない住民が被爆の情報もなく行われています。
・避難は自分の意思で判断できるようにするべきです。日本政府の信用が掛かっています。
・滞在中、多くの人々が東電の原発事故責任を果たしてしないと言っています。日本政府が東電の株式を大量に所有していることから、納税者がつけを払わされる可能性があります。
・法的な責任を免れない行為をした関係者に対して説明責任を定めていますが、日本政府・東電も説明責任を果たすべきです。

当たり前のことを言っているだけですが、当たり前のことが成されていない。
それが今の日本の現状です。
私は法律に乗っ取って、普通に運営して貰いたいと思っているだけなのですが、アナンド・グローバー氏のような意見は少数派なのでしょうか。
それとも日本の支配者層というものが存在し、その意見と違うだけなのでしょうか。
ただ、私の脳裏にはアン・シャーリーの言葉(※1)が巡るだけです。
『God's in his heaven,all's right with the world!』
(神は天にいまし、すべて世は事もなし)

※1:ピッパが通る(Pippa passed)という劇詩の最後の2行です。赤毛のアンの最後に、マシューの死とマリラの失明寸前という経済的事情から大学を辞めなくてはならなくなったアンが恋人のギルバートに言います。
「いろいろなことがあったが、すべて神の導きのままにある」
訳.困難も、苦労も、楽しいことも、嬉しいことも、すべて神の摂理が成せることで、大したことではない。すべては大いなる意思の元で行われている。私たちは唯与えられた人生を生きるだけだ。

<春の朝 ブラウニング 上田敏訳>

Pippa's  Song 春 の 朝
          Robert  Browning

The year's at the spring 時は春、
And day's at the morn;   日は朝、
Morning's at seven;    朝は七時、
The hill‐side's dew‐pearled; 片岡に 露みちて、
The lark's on the wing;  揚雲雀(あげひばり)名のりいで、
The snail's on the thorn; 蝸牛(かたつむり)枝に這(は)ひ、
God's in his heaven ―   神、空に しろしめす、
All's right with the world!  すべて世は 事もなし。

独裁者の前では、市民の声は届かない!「岩手の広域ガレキが大阪に搬入されました。」

橋下市長は、『広域がれき』受け入れ賛成者です。

「苦しむ岩手県民を見捨てることはできない。いつからこんな勝手な国民が増えたのか。専門家の意見をきいて、(がれき受け入れの)安全はしっかりチェックする」

東北を助けることに反対を述べるつもりはありませんが、『広域がれき』受け入れが岩手県民の助けになるのでしょうか?

大阪の市税を使って、岩手県にゴミの焼却場を建設した方が喜ばれるでしょう。

そもそも『広域がれき』に掛かる費用が誰が受け取るのでしょう。

橋下市長が知っているかどうかは知りませんが、

大阪におけるゴミの回収業者は完全な縄張り制度になっております。そのゴミの回収事業の多くに同和が関係しております。

橋下市長は、このゴミ回収も民営化しようとしております。

さて、誰が一番利権を得るのでしょうか?

同和関係らしい方が橋下市長の後援会にいたと『週刊朝日』に書かれています。

『週刊朝日』は眉唾な雑誌であり、その真偽には疑問を持たざる得ませんが、私も少々疑問を持っていることがあります。

■ゴミの民営化

■広域ガレキの受け入れ

■私立5小学校で土曜授業復活
(平野南小学校、福島小学校、鶴橋小学校、日吉小学校、港晴小学校はすべて同和問題がある小学校)

■西成特区構想(同和地区)

このように橋下徹市長主導で同和関係が多く含まれています。私は同和問題を終結させるには、同和の保護政策を中止し、普通の市民と同じように扱うことが、逆差別を解消し、問題の解決になると思っているのですが、橋下市長の考えは違うようです。

いずれにしろ、『広域がれき』受け入れは決定事項であり、市長の中で変更の余地はありません。

食品や交通において、まったく規制する気がない政府の対応を考えれば、『広域がれき』を焼却しようがしまいが、いずれ日本全国放射能まみれになるのは間違いありません。

遅いか、早いか、その程度の違いです。

ですから、ゴミを焼却する云々より、放射能の非拡散・完全隔離する意識の無さに愕然としております。

たしか、チェリノブイリに行ったこともないドイツ人が、ドイツで放射線障害にあった事例があります。

その原因は、乗っていた自動車がチェリノブイリで使われており、そのフィルターが高濃度の放射線を発していたのが原因だったそうです。

・放射能を拡散しない。

・放射能を隔離する。

この意識に欠けた政府において、放射能はどこに居てもやってきます。
(※1.随分以前に書いたことがあるが、放射能を除去するという意識がなければ、『経済流通の渦』によって放射能の濃度は上がってゆく。)

その危機感の欠けた橋下徹氏は「橋下徹と大阪を変えませんか。」と衆議院選挙の為に、今日もアジっています。

演壇でヒトラーがアジっている。 ※2
ヒトラー「民衆は豚だ!」
子供「父ちゃん、民衆って何?」
父「壇の上に立っている人さ」

(※1)日本全国放射能汚染地帯、数値はともかく大阪も、北海道も安全で無くなったのが証明された!? そして、3次汚染も始まっている。
http://donnat.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-8380.html
(※2)アジるの『アジ』とは扇動・運動・論議といった意味の英語「アジテーション(agitation)」の略
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岩手の震災がれき、大阪に陸揚げ 約百トン試験焼却へ
http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112201000877.html

東日本大震災で発生した岩手県の震災がれきを積んだコンテナ船が22日午前、大阪市此花区の人工島「夢洲」に着岸し、陸揚げされた。大阪府によると、約100トンが今月中に試験焼却される予定。

 がれきは木くずなどが主の可燃物で、岩手県から、此花区の人工島「夢洲」に運搬された。同区にある別の人工島「舞洲」で焼却する。本格的な焼却を来年2月から始め、2014年3月までに最大3万6千トンを処理する計画。

 がれきの入ったコンテナは10個。海上保安庁や大阪府警の船が警戒する中、コンテナ外側から放射線量を測定し、府の基準を下回ることを確認した上、巨大クレーンで陸揚げされた。

2012/11/22 12:49   【共同通信】
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橋下市長、がれき受け入れ説明会を強制終了。住民の質問に答えず
http://www.youtube.com/watch?v=PCTKQPRBv2A
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震災がれき受け入れ反対派に「勝手な国民増えた」 橋下氏の街頭演説で騒然
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121119/trd12111923260019-n1.htm
2012.11.19 23:22
日本維新の会代表代行の橋下徹大阪市長が19日、大阪・難波の高島屋前で街頭演説を行った。大阪市の岩手県からの震災がれき受け入れに反対するグループが沿道の一角を占めて抗議の声を上げたのに対して、橋下氏が「いつからこんな勝手な国民が増えたのか」と挑発。橋下氏に賛同する歓声、反対する怒声が飛び交い、騒然となった。

 橋下氏や維新幹事長の松井一郎大阪府知事らが演説を行ったが、少なくとも10人は超える反対派が抗議の文字を書いた大きな紙を広げ、「焼却反対」などと叫び声を上げ続けた。

 橋下氏は約15分に及ぶ自身の演説の終盤、反対派が占める沿道の一角に体を向け、「がれきは大変申し訳ないが受け入れる。これはやる」と言及。反対派が抗議の声を強めたが、橋下氏は言葉を続けた。

 「苦しむ岩手県民を見捨てることはできない。いつからこんな勝手な国民が増えたのか。専門家の意見をきいて、(がれき受け入れの)安全はしっかりチェックする」

 沿道では「いいぞ」「その通りや」などの歓声と拍手が広がり、橋下氏は「反対を叫ばれている皆さん。大変申し訳ないが、これが善良なる大阪市民の声だ」とたたみかけた。

 沿道付近は、警備担当の警察官とみられるスーツ姿の男性らが反対派に向かい合うように立つなど、緊迫した雰囲気に。反対派の女性は「なんでみんな拍手するの」と悔しそうに話していた。

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同和と差罰の再生産
http://d.hatena.ne.jp/oguogu/20060728/1154100469
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同和対策審議会答申 昭和40 年8 月11 日
http://www.city.higashiosaka.lg.jp/cmsfiles/contents/0000003/3506/3kuni.pdf
(前略)
昭和26 年11 月、近畿、中国、四国、九州などの地方公共団体の同和対策関係職員
を中心とする「全日本同和対策協議会」が生まれた。当初の数年間、全日本同和対策協議会は、
部落解放同盟と連携協力し、政府に対して同和対策の積極的実施を要請する運動を行なった。
しかし、結局指導理念を異にする両者の意見が対立し、ついに袂を分つにいたったのである。
その後、昭和35 年5 月、同和地区住民を中核とし、全国民運動をめざす「全日本同和会」が結
成された。
(中略)
地方公共団体における各種同和対策の水準の統一をはかり、またその積極的推進を確保する
ためには、国は、地方公共団体に対し同和対策事業の実施を義務づけるとともに、それに対す
る国の財政的助成措置を強化すること。この場合、その補助対象を拡大し、補助率を高率にし、
補助額の実質的単価を定めることなどについて、他の一般事業補助に比し、実情を配慮した特
段の措置を講ずること。
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大阪市従業員労働組合が“ごみ収集事業民営化反対”チラシを市民に配布
http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1225.html
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週刊朝日「橋下徹は同和で先祖の血が汚れているから人格異常者特集」連載打ち切り&朝日新聞が謝罪
http://birthofblues.livedoor.biz/archives/51386812.html
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敢えて週刊朝日を擁護してみる
http://subzero.iza.ne.jp/blog/entry/2901211/

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土曜授業:橋下市長意向で復活 大阪市の5小学校で試行
http://mainichi.jp/select/news/20121118mog00m040025000c.html

野田首相、福島県民のことは忘れました!?

11月16日 午後6時頃から始まった記者会見で、この1年半を振り返った野田首相は、思い出の中にリーマンショックは覚えていても、福島原発事故のことは記憶になかったらしい。

首相の中では、原発で苦しむ人々は存在しない。政府は十分やっている。

「俺って、すごい!」とでも思っているのだろう。

原発問題は将来のエネルギー問題であって、放射能で騒いでいる馬鹿者どもを相手にする気はないと私には受け止められた。

「大きな音」を出す集団も、物事を判らないヒステリーとでも思っているのだろう。

放射能の苦しむ国民はいない。

1000人に1人程度は交通事故にあったようなモノ。放射能障害で苦しむ者、あるいはこれから苦しむことになるかもしれない者のことは完全に無視してくれた。

福島で除染を続けている。

政治空白を作らないだけで、福島の県民に対して、十分に尽くしているという態度がよく伝わった会見だった。

馬鹿にするな!

無能を通り越して、害にしかならない人間もいると改めて認識させられた。

カエルが妊娠の隠語とは知らなかった!?

語源はどうやら「使徒聖ペテロ伝」にある。
“妊娠の道具”=“蛙”という意味だ。

「使徒聖ペテロ伝」にこう書かれている。
 皇帝ネロが「男である私を妊娠させよ」と医師たちに命ずる。
 医師たちは、蛙を飲み物に混ぜてネロに飲ませ、医術を用いて蛙をネロの体内で成長させる。
 ネロは腹が膨らみ「陣痛で苦しい」と訴え、医師たちはネロに吐き薬を処方する。
 ネロは、血と反吐にまみれた蛙を口から吐き出し、それを本当に自分が産み落としたものと思った。

女性と蛙を並べると『妊娠したい』ということになるようだ。

※ペトロ:イエス・キリストに従った使徒の一人。シモン・ペトロ。ペテロ、ケファともいわれる。キリスト教諸教派(正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)において聖人とされている。
外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝ではローマへ宣教し、ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。

前代未聞の総理解散宣言!?

党首選で「16日解散」を野田首相が宣言をした。
考えてみれば、『TPP参加』を言い出した頃から野田首相は、民主党を諦めていたのかもしれない。
公約では『脱原発』と言っているが、中身は自民党と変わらない。
TPP反対者を党から追い出して、自民党・公明党に相乗りを考えていたとしか思えない。

野田首相の想いは、自公で過半数に至らず、50~120議席程度の野田民主党が合流する3党連合である。
政権に居座わろうとする悪臭がここまで匂ってきそうである。

最も対立軸の維新・太陽・みんなの方もパッとしない。

『詐欺師集団』VS『暴力ヤクザ集団』のような対立構造になってきた。

どこにも入れても、地獄一丁目だ。

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解散先送りなら不信任案
http://news.nifty.com/cs/headline/detail/kyodo-2012111401000952/1.htm
2012年11月14日(水)10時1分配信 共同通信

自民、公明両党は14日午前、野田佳彦首相が年内の衆院解散・総選挙に踏み切らない場合、内閣不信任決議案の提出を検討する方針で一致した。首相が年内衆院選の意向を関係者に伝えたことに民主党内から反対論が噴出しているのをけん制する狙い。一方、首相は午後に政府・民主三役会議を招集し、今後の対応を協議する。衆院解散をめぐる駆け引きは激しさを増した。
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16日解散を野田首相が決断 定数削減に自民応じる方針
http://jp.reuters.com/article/JPpolitics/idJPTYE8AD03720121114
 野田佳彦首相が特例公債法案、一票の格差是正と定数削減を今国会で処理できるなら16日に解散すると明言した。自民党はこれに応じる姿勢を示しており、16日に衆議院は解散され、12月16日にも投開票となる見通しだ。

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野田首相「16日解散」宣言 自民・石破氏「定数削減などに協力」
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00235377.html
自民党は14日午後、幹部らが党本部で対応を協議したが、石破幹事長は夕方、記者団に対し、「野田首相の姿勢を重く受け止め、定数削減などについて協力することに決定した」と述べた。
党首討論のあと、自民党の幹部の1人は、「野田首相が、まさか解散時期を明示するとは夢にも思わなかった」と述べる一方、「野田首相が解散の日付を明言したことは、もう取り消すことはできない」と、解散が現実のものになったとみている。

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「16日解散」宣言 野田首相に近い近藤経産副大臣に聞きました。
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00235378.html
野田首相は14日午後、党首討論の中で、自民党の安倍総裁に対して「次の通常国会で定数削減を必ずやると決断してもらえるなら、16日に衆議院を解散する」と表明しました。
野田首相に近い近藤洋介経済産業副大臣が、「スーパーニュース」に生出演しました。

(野田さんに大変近い立場として、きょう、16日に解散ということを明言するとご存じだった?)
いえ、予想外でした。正直驚きました。

集会の自由を保障しないのは国民主権を放棄したのと同義だ!? 

反原発の公園使用を認めないのは法の精神を認めないと言っているようなものだと、裁判官は判って判決を出したのだろうか?

日比谷公園の反原発デモが、都側が公園管理上の支障を理由に不許可としたのは適法であると東京地裁が認めた。

これは明らかに政府に擦り寄った判決であることが明白である。

まず、第一に国民主権に反している。

日本国憲法 第1条 「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」

この国の主権は『日本国民の総意』であって、国会はある訳ではない。

国会はあくまで代行者でしかない。

日比谷公園の使用目的は反原発デモではないが、そこに国民の総意が存在する。あるいは、存在する可能性がある限り、この意思を無視することは、憲法第一条に反している。

よって、裁判所は使用許可を認めないという判決をするなら、国会が『国民の総意』を汲む政治ができていないことを指摘するべきであった。

次に、

▲日本国憲法 第21条 「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」

東京地裁の判決は、この憲法にも抵触してくる。

集会、結社及び言論の自由を保障しながら、集会する場所を制限する?

これは、下の第12条、第13条に抵触されなければ許されるものであって、公共の福祉に反しないかどうかが問題になってくる。

▲日本国憲法 第12条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」

▲日本国憲法 第13条 「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」

もし、反原発デモが暴力と規制を一切受け付けない団体であるなら、この集会の解散を国家が請求するのは当然の義務である。

しかし、ここでその他のイベントや都が開催しない催しができないことを理由に、公共と名乗るのは横暴な話である。

反原発は、国民の生命と財産を掛けて訴え掛けているものだ。

国民の生命と財産よりも、重要な都の日比谷公園使用目的とはいったい何なのであろう。

▲日本国憲法 第25条 [生存権、国の社会的使命]「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」

▲日本国憲法 第29条 [財産権]「財産権は、これを侵してはならない 」

原発事故が起これば、福島のように生存権と財産権が強制的に奪われる。

その危険性を国会が十分に説明していない。

少なくとも国民はそう思っている。反原発デモに参加している方々も同じだ。

裁判官は日比谷公園に拘っているようだが、日比谷公園でデモをしているのではない。国会前でデモをしてるのだ。

国家の最高決定機関である国会に訴えかけているということを無視して判決を認めるのは、法の精神を傷つけるものである。

もう一度、裁判官には『日本国憲法前文』から読み直して頂きたい。

「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。」

代行者の反乱に、主権者が怒っているのだ。

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日比谷公園の反原発デモ「制限
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2012110602000110.html
東京都心の憩いの場・日比谷公園(千代田区)は、日本の民主主義と縁深いところだ。デモの集合場所にも使われてきたが、都は「管理上の支障」を理由に使用を制限し始めた。このため、十一日に行われる官邸前や国会周辺などを占拠する反原発抗議の先陣を切るデモが中止の瀬戸際に立たされている。草の根の民主主義は大丈夫か。 (荒井六貴、上田千秋)
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官邸前の脱原発デモ 公園使用認められず、即時抗告
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2012/11/03/kiji/K20121103004473030.html
 首相官邸前で毎週金曜日に行われている脱原発抗議行動の主催団体、首都圏反原発連合は2日、今月11日に予定しているデモで東京・日比谷公園の使用が東京都に認められなかったとして、都に対し使用許可を仮に義務付けるよう東京地裁に申し立て、却下されたと明らかにした。申し立ては10月30日付。団体側は即時抗告した。
 申立書によると、団体は11日に国会や霞が関で脱原発を訴えるデモや抗議行動を企画。日比谷公園を集合場所として、9月に公園事務所に使用申請したが「公園管理上の支障がある」などとして拒否された。団体は今年3月と7月にもデモを実施し、その際には同様の申請をして認められた。
[ 2012年11月3日 06:00 ]
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反原発デモでの日比谷公園使用認めず…東京地裁
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20121102-OYT1T01715.htm
首相官邸前で反原発デモを続ける「首都圏反原発連合」が11日に予定しているデモ行進を巡り、東京都側が日比谷公園の使用を許可しなかったのは不当として、団体側が都に使用を認めるよう求めた申し立てについて、東京地裁(川神裕裁判長)は2日、却下する決定をした。
団体側は同日、即時抗告した。
団体側は10月26日、デモの集合地点とするため、同公園を管理する都側に使用を申請したが不許可となり、処分取り消しを求めて提訴。デモが近いため、「表現の自由を行使する機会が失われる」などと緊急的に使用を認めるよう求めていた。
しかし、地裁は、デモ当日に公園内でイベントが予定されていることや、数千人のデモ参加者が予想されることなどから、「収容能力を超えており、都側が公園管理上の支障を理由に不許可としたのは適法だ」と結論づけた。
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1553年 正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(3)

<<信長公記の軌跡シリーズ、10、正徳寺の会見>>
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(3)

山城道三と信長御参会の事
一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯
間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、
申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、
道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、
山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用
捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田
と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、
美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実日にな
き人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、古老の者、七、
八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居
させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍
び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせ
んに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をは
づし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、
ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧
袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、
御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばか
り、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立
を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消
し、各次第貼に斟酌仕り侯なり。御堂へする貼と御出でありて、縁を御上り侯の
ところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へ
ども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り侯て、縁の柱にもた
れて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。叉、是れも知らぬか
ほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、であ
るかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ
御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃参り、道
三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会
すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみ
じかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさ
ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪
子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申
し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬
を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人
と云ふ事、申す人これなし。
(信長公記 町田本をデジタル化より転記)

信長公記の軌跡 目次

■正徳寺の会見は、2度在った
“小豆坂の戦い”から“正徳寺の会見”の勢力図をもう一度ご覧下さい。
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『信長公記』の“山城道三と信長御参会の事”では、たわけと呼ばれる信長見物から始まり、美濃でたわけと呼ぶ人はいなくなったと締めくくっております。
話の内容も、道三が信長を驚かせようとし、信長も道三の肝を消そうとしております。
まるで芝居掛かった紙芝居のようです。
天文22年(1553)4月下旬の織田崩壊の危機を前に何と優雅なことをしているのでしょうか?
同盟が不成功に終われば、信長を支えていた家臣や国人衆、または守護や守護代が先に今川に降る可能性もある訳です。
書き手の太田牛一には、緊張感がなかったのでしょうか。
そう思っていみると、どう考えても天文18年(1549)4月下旬の会見であったとしか思えません。

しかし、天文22年(1553)4月下旬に“正徳寺の会見”はなければなりません。
織田と斉藤の同盟は、今川の脅威に対抗する手段です。内外に広く同盟関係を伝えるには、会見を行うのが一番です。織田も美濃も仰々しい行列を引き連れて国を横断するのですから、さぞ人々が語り草になることでしょう。
そういう意味では、加納口の戦いの後に同盟を成した証に、天文18年(1549)4月下旬の“正徳寺の会見”も会っても不思議ではないのです。

この二つの交差する疑問を解決するには、1つしかありません。

“正徳寺の会見”は2度あった。

天文18年(1549)と天文22年(1553)の両方に会見が整えられていたと考えれば、すべての謎が解ける訳です。

太田牛一著が書く仰々しい“正徳寺の会見”が2度あったかどうかは判りません。
しかし、それならば『信長公記』の陽気な会見と、書状が示す天文22年(1553)の会見の事実の両方が問題なく凍解するのです。

知恵くらべの会見は天文18年(1549)なら納得できます。
鳴海城離反と萱津合戦が正徳寺の会見の後になっていることの疑問が消えます。
信秀の死の後に正徳寺の会見が来ているのは天文22年(1553)と考えれば、辻褄が合います。
この会見を機に鉄砲隊を考え直した信長が、国友村に鉄砲を注文をしたことも合点がいきます。
天文18年(1549)にも行列があったとすれば、2度目は破天荒な恰好をする必要がなくなります。天文22年(1553)の行列では、信長自身が伊勢平氏(※4)の紋を付けた羽織を身に付けていたかもしれません。そうすれば、津島衆がさぞ喜んだことでしょう。

結論を申しますと、太田牛一著の順列に議論の焦点に当てないことが大切であり、状況と検証文献、明記されている年号を手掛かりに探ることが肝要ということです。

『信長公記』の内容を見るに付け、天文18年(1549)に会見が在ったということが事実に思え、
天文22年(1553)の前後に会見に関する書状があることを察すると、天文22年(1553)の会見も存在しなければならない。
二人が2度会っていけないというルールがない以上、会見が2度在ったと結論付ける方が合理的と考える次第です。

さて、さて、天文18年(1549)に“正徳寺の会見”があったと示す書状でも発見されれば、会見は2度あったという証拠になるのですが、それはこれからの研究ということになります。

(※4)伊勢平氏:鎌倉幕府に対抗した後醍醐天皇は味方を集める為に、平家の子孫の家に声を掛けています。後醍醐天皇に従った忠臣で伊賀伊勢近辺は平家がらみが特に多かったようです。信長が平氏を名乗っていたの
信長の平氏説:元亀2年6月吉日付の越前白山別山権現に寄進された鰐口で、その銘文には「信心大施主平信長」云々と刻されてある。

■信長の忌部氏説・藤原氏説・平氏説

江戸時代に作られた織田氏の系図を見ると、源平藤橘(※5)の一つ平氏・清盛の孫、資盛の子、親実(※6)に始まるとされている。
平親実は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物で、織田氏・津田氏の祖とされる。又の姓を忌部(いみべ)、名を親真という。
親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、神職についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛と号したとされている。
(親実が資盛の子であるかどうかは疑われている。)

越前の二ノ宮“剱神社”のご由緒によると、
織田の祖先は、越前丹生郡織田の庄、織田神社(剱神社)の神官斎部某が養子を貰い受けられた。名を親真という。
親真の子孫常昌が越前守護斯波義重に見出されて、尾張の国に派遣されます。常昌は苗字を故郷の地名をとって織田を名乗るようになった。
織田氏の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、“剱神社”の神紋も同じ紋章であることから間違いないと思われる。

また、明徳四年(1393)六月十七日付 剣神社宝前に奉納した藤原信昌・兵庫助将広父子置文には、
織田庄は皇室領荘園であるが、その荘官か、あるいは剣神社の神官から出発して、しだいに土豪として成長したものであろう。神官出身とすれば、本姓は忌部氏ではなかったかと書かれております。

これを見れば、織田は平家の子孫と思われそうだが、

加藤秀一氏旧蔵文書によると、
天文18(1549)年11月 熱田八ヶ村に制礼を下し「藤原信長」と署名している。特に珍しい訳ではなく、その他の織田家の面々も藤原の姓を名乗っていた。

しかし、問題がこの天文18年である。

間違いなく、この当時まで信長の姓は藤原を名乗っていた。しかし、天文22年頃は平氏を名乗っていたと考えられることから、藤原から平への乗り換えの意味するところを考えると、信長の心情が判るかもしれない。

(※5)源平藤橘:貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめたものである。
もっとも古いのは藤原氏で、中臣鎌足から始まっていることはよく知るところです。
平氏は桓武天皇の第5の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男・・・云々、高見王らが臣籍に下って平朝臣姓を賜った。平家物語、祇園精舎でお馴染みです。
源氏はもっとも新しく、嵯峨天皇が皇子に源姓を与えて臣下に降したことに始まります。

(※6)平親実・親真:福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日))とある。
平 資盛が保元3年(1158年)から寿永4年3月24日(1185年4月25日)とあるので、1185年に生まれたとしても親真は75歳あるいは105歳で亡くなったことになる。当時としては長寿であったことなる。最も105歳なら今でも長寿だ。

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1553年 正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(2)

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10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(2)

正徳寺の会見は、様々な方面に大きな影響を与えます。
「御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ」
学校の教科書なら“信長は軍の改正を行い常備軍とした”と一言で片づけてしまいますが、この1行には信長の並々ならく決意が隠されております。
現代人にとって警察署長と知事が別組織であることは珍しいことではありません。
しかし、当時の日本は、組長が警察署長と知事を兼ねておりました。
そして、農民は皆、警察の職員を兼ねていたのです。

もし、あなたが明日から「あなたは警察の職員になりました。警察車両に乗って警戒パトロールをしなさい」と言われれば、びっくりするでしょう。
警察職員になったあなたは、事件が起これば、ナイフや銃を持った凶悪犯と戦わなくてはなりません。
急に言われるとびっくりしませんか?

信長はこの逆を行おうとしたのです。
今日からあなたは市民になった。戦場に行かなくていいので、税(米等)を納めなさい。
兵士はお米を作りませんから、その分を余分に税(米等)で収めなくてはなりません。
あなたの家に国から税が2倍になりましたという催促状が届けば、怒りを覚えませんか。

常備軍を編成するということは、今までの生活をすべて変えることになるのです。
勝手に決めるな!
怒り出す国人衆が多くいたことでしょう。

信長公記の軌跡 目次

■“半士半農から常備軍へ” と“国人衆”
信長が常備軍の構想を考え出したのはいつの頃でしょう。
『今川仮名目録』大永6年(1526年)4月、『甲州法度之次第』天文16年(1547年)などを学んでいたのではないでしょうか。
また、『今川仮名目録追加』天文22年(1553年)2月の寄親・寄子制も参考にしながら、“加納口の戦い”をどう戦えば勝利できたかと考えた結果、『兵糧攻め』という結論に達したのでないでしょうか。
織田信長を育てたのは、父の信秀と宿敵の道三、義元であったと思えます。
しかし、信長は常備軍をすぐに実行した訳ではありません。あくまで構想のみだったと思われます。

その信長が軍の改革を必要と決断させたのは、“横山麓合戦”と“赤塚の戦い”であったと思われます。
父の信秀が作ってきた『国人衆連合』は、勝ち戦にはめっぽう強いのですが、負け戦になると急に脆さを見せます。
今川義元という強敵を迎え、最強の軍の必要性を感じずにはいられなくなったのです。

■国人衆連合
織田信秀は、尾張国南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城の城主であり、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人でした。
津島五ケ村にある独立自治だった津島衆を傘下に納めることで、信秀は一気に経済的に優位な武将となりませた。
当時、国人と呼ばれる小規模の領主が点在し、様々な問題を抱えていました。
室町の後期から守護、守護代の勢力が衰えると共に、実力者に問題を武力で解決してもらうのが通例となり、経済的に優位な信秀を頼る国人衆が多くいました。
そんなおり、三河の松平清康(まつだいら きよやす)が三河を統一して、尾張に進出してきました。
利権を奪われたくない国人衆はこぞって信秀を頼り、こうして『国人衆連合』が成立したのです。

尾張の正当な支配者は守護の難波氏です。難波氏から尾張を任されているのが、守護代の織田大和守家です。建前として、守護代の奉行として信秀が尾張の支配を実行するということになっていました。

そして、国人衆が信秀に逆らわないのは、絶大なカリスマがあったからです。
しかし、カリスマは武力だけでは手に入れられません。
そのカリスマを支えたのが、林佐渡守秀貞と平手監物政秀でした、

林佐渡守秀貞は、林家は南北朝期に南朝方に忠節を尽くした河野一門の末裔で元々は四国伊予の国人だったのですが、新田義貞の軍団で常に先陣を賜った一族の末裔です。その林家は美濃・尾張・三河・遠江などに残存しており、各大名家にて重く用いられる名門でありました。林家代々の先祖の名を汚すまいと、決して戦場で敵から背中を見せて逃げない秀貞のプライドを信頼し、「我が典偉」と褒め讃えています。
平手監物政秀は、源氏の名門・世良田家の末裔です。斯波家、駿河今川家、尾張石橋家(足利一門)にも負けない名門です。素養、文化交流などを備え、血筋の良さと品格から「我が荀彧」と呼ばれていました。
この二人は、信秀の双璧だった訳です。
「あの林家の天才が仕えているのだから間違いない」
「あの名家の平手殿の誘いなら従うしかあるまい」
そんな風に、格式・血筋などを頼りに国人衆は従っていたのです。

この格式と血筋は、この時代馬鹿にならない力を持っていました。
情報網が発達していない室町~戦国時代に掛けて、情報を交換できる信用たる者と言えば、親類一族と家臣団しかありません。名家、名門と呼ばれる方々ほど、その情報網を広く張り巡らせておりました。
林家などは美濃・尾張・三河・遠江に点在し、各国の大名や領主の家来に迎えられており、お互いに情報を取り合えます。
確かな情報を持つということは、それだけで貴重な価値を有します。
そう要った者を家臣に迎えたということは、それだけで一角の人物と思われるのです。
そして、各大名や領主に迎え入れられた者が、頼るなら信秀が適材でしょうと推挙する。信秀は労さずして、多くの国人衆を掌握できるという訳です。

さて、守護から実行権を預かっている信秀には、調停の権利が与えられております。
境界の紛争調停、刃傷沙汰の解決、その他の紛争、水の利権問題などありとあらゆる問題が信秀の下に届けられます。
当然、その決断に従わない者もいます。
そう言った者に対しては、武力を持って対処します。

国人衆の忠義は、主に召集に応じる兵の数です。
紛争に勝っても何も得ることもない国人も多くいました。しかし、戦(いくさ)となれば、命の駆け引きが伴います。関係のない戦には兵を出したくないというのが人情です。しかし、兵の数を惜しむと、次に問題が起こったときに信秀が味方になるとは限りません。
調停といっても、別に平等に裁判を行う必要はありません。
信秀の信任を失うことは死活問題になりまねません。
国人衆は、信秀の不興を買わない程度に忠義を示す必要があったのです。
こうして、信秀は多くの兵を動員できるようになって行きます。

ところで、秀貞はこう言った国人の心情を察しており、兵の運用に気を使っております。
信秀は利害関係のある国人衆を先陣に置き、正面から敵を圧倒するという戦術を主に使用していたと思われます。
利害関係のあるものを先陣に立たすのは、真剣に戦わせる為です。

仮に戦に勝って、土地を貰っても遠く離れた土地では価値がありません。
その戦に関係のない国人は命を投げ出して戦ってくれる保証がないのです。一方、紛争の当事者や利害関係のある国人は勝負の結果が重要な意味を要します。
関係者を先陣に置くというのは、戦に勝つ為の1つの策でした。

また、秀貞のように名門の者は、家名に傷が付くような戦いをしませんから信秀は名家を多く登用します。名家も信秀を使って、家名を広く轟かせようとします。信秀と名家の利害が一致していた訳です。
こうして、信秀は、三河の半分を制圧するほど巨大な国家を作り上げていったのです。

もし、美濃に斉藤道三という軍略の天才がいなければ、美濃を制した信秀は、朝倉家・浅井家と同盟を結び、京へ上洛を果たして、足利将軍を擁立して天下に号令を掛けていたかもしれません。
甲斐の武田信玄を見て判る通り国人衆連合が決して弱い訳ではないのです。他の勢力を組み入れやすい性質を持つ国人衆連合制によって、信秀にも天下取りの可能性はあったのです。しかし、同時に瞬く間に武田が滅ぼされたように、カリスマを失う一線を超えると簡単に崩壊する危険性があるだけなのです。
信長の目指した君主制は、強大な敵を前にしても崩れないという利点があります。しかし、君主が倒れると崩壊する危険性もあるのです。美濃斉藤、東海今川という巨大な敵に囲まれた信長が、連合軍制から君主制への移行しなければならなかったのは、制度の良し悪しではなく、信長の置かれた立場ではそうせざる得なかったのです。

■半士半農から常備軍へ
信秀は美濃斉藤家と戦、“加納口の戦い”で大敗を喫します。その数 50~5000兵と言われており、色々と異説があるのですが詳しい話は「加納口の戦い」でするとして、今回は省略します。
美濃との敗戦から信秀の形勢は一気に逆転し、岡崎城を武力で攻略しようとした“第2次小豆坂の戦い”で敗戦を帰し、安祥城も攻略されたことにより、織田の三河進出は断念せざるえなくなります。
風向きが今川へと靡くと、多くの国人衆が今川へと寝返ってゆきます。

国人は所謂、一国一城の主であり、信秀はその連合の宗主に過ぎません。
国人にとって信秀に忠義を示すことが義務ではなく、国を守ることが義務なのです。今川方が領土安堵の書状を送ってくれば、織田に残るか、今川に付くかと考慮するのも当然なのです。
国人衆連合は、次期当主、信長に絶対の忠誠を注ぐものではなかったのです。

“横山麓合戦”と“赤塚の戦い”の戦いは、そんな国人衆の思惑と脆さを露呈します。
“横山麓合戦”は、『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』に記載されていますが、信行(信勝)、勝家などが 参陣しかたどうかが判っていません。(位置関係から参陣していて可笑しくないのですが、信行と信長の中は良好とは言えませんから、確実に参加していたとは断言できません。)
信長は岩崎丹羽氏を数の力で圧勝できると考えていたようですが、丹羽氏職の鉄砲30丁の伏撃で軍が飛散し、たちどころに敗走をします。
原因は主に2つあります。
1つは、国人衆が本気で岩崎丹羽氏と戦いたくなかったこと。
もう1つは、信長への忠義が薄く、“走り”という兵の身代わりを立てて、兵の水増しを行っていたこと。

織田方にとって今川に寝返った岩崎丹羽氏を誅罰することに意義がありますが、国人衆にとって明日は我が身であります。むしろ、岩崎丹羽を頼って、今川に組みすることを願い出る可能性もあります。何が何でも岩崎丹羽氏を討伐する意義はないのです。
また、信長の戦への不信です。信長は御年19歳の若武者であり、何ら実績がありません。むざむざ死にたくなり者は、お金で流民を雇って身代わりにしていたと思われます。
“走り”は単なる身代わりですから、危ないと感じたらアッという間に、まさに“風に蜘蛛の子を散らす如し”と言う感じで逃げてしまったのです。

さらに、“赤塚の戦い”では、兵の資質に問題を感じたハズです。
『信長公記』に「いずれも見知り顔の事なれども、互いにたるみは無かりけり」とあるように、顔見知りの為に首を取り合うこともありませんでした。

この2つの戦いを通じて、信長は兵の改革を感じたと思われます。

■常備軍と津島衆と熱田衆
常備軍と一口に言っても簡単な話ではありません。国人衆に命令しても素直に聞くとは思われません。そもそも国人衆が信長の命令を聞くのは、信長に実力が伴っていればということで、実際は家老の林佐渡守秀貞と平手監物政秀に従っていたと考えるべきでしょう。
林秀貞や平手政秀が信長の考えに賛同していれば、問題はなかったのですが“秀貞の造反、政秀の諌死”を見ても信長の意見と対立していたことが見てとれます。
村木攻めのように、信長は出陣を拒んだ林家を罰することがなかったようで、その他の陣触れを無視した国人を罰しておりません。
よって、商業優先主義を守りたい津島衆(※1)と熱田衆(※2)を中心とした軍の編成から始まったと思われます。

幸い、商家には、農耕期・農閑期というものがありません。
本家が武家となり、分家が商家を続ける。また、その逆で本家が商家を続け、分家を武士にする。または、長男に商家を継がせ、二男以下を武士にするなど、本業と武士の分業が可能でした。信長の意向と一致した訳です。
津島衆は、大橋重一を筆頭に堀田孫七・堀田左内など多くの武将を参陣させています。

さらに、兵は棄民を利用したと思われます。
戦なので土地を奪われた農民などは流民となって各地を彷徨います。その者の一部は神社や寺院の一角や洞穴を寝床にして住み着き、神様・仏様に奉納された貢ぎ物を頂くいて生活していたそうです。身代わりや解死人や人柱になったりすることから『神のお使い』とも呼ばれていたそうです。そんな彼らは常に生活の不安定さに悩まされていました。しかし、神社や寺院周辺に住む彼らは、礼儀正しく、節度ある存在であったことに信長は目を付けます。
この棄民を足軽として登用すれば、彼らは安定した生活を手に入れることができます。そして、信長が敗れれば、棄民に逆戻りです。信長に忠誠を誓う兵を得る可能性を見逃すハズがないと私は考えております。

(※1):津島衆は、信秀から判物で安堵が出されていたように惣(自治組織)を積極的に活用した商業・流通経済で潤っていた。そして、その他の武将が商業を軽視するなか商業に理解深い信長を支持していた。
『津島市史』は、十二世紀半ばに居住して土地柄になったと示されているので、鎌倉時代に入ってからと伺えます。津島は津島神社を中核として形成された門前町であり、木曽川の分流である天王川を少し遡った河港町でした。
津島衆の構成は、津島南朝十五党と呼ばれるように「四家七苗字四姓」四家(大橋修理太夫定元、山川民部少輔重祐、 岡本左近将監高家、恒川左京太夫信矩)、七苗字(堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村)であり、その筆頭が大橋家です。
津島四家は、南朝の征夷大将軍尹良親王に随従の武士で南朝派と呼ばれていました。
『正徳寺の会見』の信長の軍は、御供衆七・八百、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁と部隊ごとに編制され、まるで宋の軍を模倣したようで後醍醐天皇の『建武中興』を彷彿とさせたのかもしれません。
南朝復権という想いは、さぞ津島衆の心を捉えたことでしょう。

(※2):熱田衆は、熱田神宮を中心とした門前町で形成されています。津島のような南朝派という濃い思想色はなく、熱田八ケ村は熱田の湊を管理するだけの存在でした。ただ、歴史は古く倭建命が草薙の剣を納めた神宮として有名です。
「中世熱田社の構造と展開」著者 藤本 元啓(続群書類従完成会刊)によると、足利尊氏が反旗を翻したとき、後醍醐天皇は尊良親王・新田義貞を大将軍にして討伐軍を編成した。その中に「熱田攝津大宮司」の名があります。後に、建武2年には尊氏が熱田祭主職の交替と祈祷命令を出しており、尊氏に安堵されたので北朝側にあったとされております。
室町幕府より領地は安堵されておりますから、室町後期から信秀の間に熱田衆に何が起こったのかが問題となります。信秀や信長が安堵状を出していることから推測しますと、室町後期から国人衆の勢力が増し、領地の侵害をたびたび受けていたのではないでしょうか。特に氏子の損耗が大きく、その権威が崩れそうになっていた。信長は熱田神宮に熱心な次期当主であり、信長の庇護の下で復権を賭けていたのではないでしょうか。
熱田衆が信長を支持していたことは、桶狭間で熱田宮司千秋李忠が参陣していることからも判ります。

■『建武中興』と『第六天魔王』
『建武中興』は、南北朝時代の南朝初代の天皇、後醍醐天皇の執り行った新政のことを言います。
鎌倉幕府を討幕する為に、足利尊氏らと共に戦った後醍醐天皇は、武家中心の政治を天皇中心の政治に戻そうと試みます。しかし、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や武家の権限を侵す貴族の重用に不満を覚えた武士団が反旗を翻して失敗します。
しかし、鎌倉幕府を討幕した雄姿は南朝派武士団の心に残り、いつか北朝派を破って、南朝の天下を治めようと願っていました。
信長が“正徳寺の会見”で様式は、『建武中興』を彷彿させるもので、北朝派から見れば、南朝派の津島衆に媚びを売ったと揶揄されそうなものであった訳ですが、当てにならない国人衆より重要なことがありました。津島衆の支持なくば、軍改革は成功せず、この陣触れは津島衆の心を掴む為に必要な行事であったのです。

さて、『第六天魔王』信長は、天下統一の過程で“比叡山の焼き討ち”や“本願寺、浄土真宗総本山の強襲”と神仏を恐れない行為で知られます。
そんな信長を人は、『第六天魔王』と呼んだそうです。
『第六天魔王』とは、仏教の三界(※3)〔無色界・色界・欲界〕があり、欲にとらわれた世界〔欲界〕の最高位が「第六天魔王」なのです。仏道修行者を色や欲で惑わし、天魔、天魔波旬(はじゅん=悪魔の意)とも呼ばれ、欲界最強の魔王は仏敵だったそうですが、信玄からの書状が天台座主沙門に対抗して自ら第六天魔王と自称したというのは有名な話です。
しかし、自ら名乗っていた訳ですが、無碍に敵意を買う行為を信長がするでしょうか。

世間では、この『第六天魔王』は畏怖の対象として使われており、信長が如何に凶悪だったかと世に広める為につかわれているのですが、実は後醍醐天皇も「第六天魔王」と呼ばれていたのです。
「信長様は、第六天魔王、後醍醐天皇の生まれ変わりだ」
「信長様しか、南朝復興はありえない」
そんな風に津島で言われるようになったに違いありません。南朝復興を掲げる津島衆は覆い湧いたことでしょう。財のすべてを投げ打ってでも信長に忠義を払う者もいたでしょう。
おそらく、これは信長が意図として流した風潮ではないか。
信長の台所、パトロンの津島衆を利用する為に『第六天魔王』を名乗ったとすると、少し小狡いようですが合理主義の信長らしい判断であったように思えます。

“正徳寺の会見”は津島衆の心を摘まむ為にお披露目だった。津島衆にとって、『第六天魔王』は畏敬の対象だった訳ですね。

信長は常備軍設置に先立って、鷹狩りと称して兵を集めております。しかし、具体的な軍政改革は桶狭間以降であり、しかも10年くらいを要します。所領の把握と家臣の意識改革にはそのくらいの時間を要するのかもしれません。あの今川義元も、岩崎城、鳴海城を取った天文21年(1552年)から永禄3年(1560年)5月の桶狭間の合戦まで、8年の歳月を費やして準備を整えることになっております。信長はゆっくりと経済力と武将と兵士を少しずつ増やして、常備軍の地盤を固めていったと思われます。

(※3)仏教の三界:仏教の世界観では 三界から成り立っており、欲界は6天から成り立っていることより、6天を治める他化自在天を第六天と呼びます。
無色界は、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の4天から成り立っている。
第4天ー非想非非想処 天界における最上天、有頂天という。
第3天ー無所有処 何物も無しと思惟する定
第2天ー識無辺処 識は無限大であると思惟する定
第1天ー空無辺処 定を抑える一切の想を滅し、空間が無限大であると思惟する定
(有頂天とは、有における天界の最上部であるためとも言われる。)

色界は、色行天と言われる。色は物質の義、あるいは変礙の義。欲望を離れた清浄な物質の世界と言われ、大乗仏教では18天を有する。
1.第四禅天ー色究竟天
2.第四禅天ー善見天
3.第四禅天ー善現天
4.第四禅天ー無熱天
5.第四禅天ー無煩天
6.第四禅天ー廣果天
7.第四禅天ー無想天(薩婆多・経の2部は、廣果天の中に摂す)
8.第四禅天ー福生天
9.第四禅天ー無雲天
10.第三禅天ー遍照天
11.第三禅天ー無量浄天
12.第三禅天ー少浄天
13.第二禅天ー光音天
14.第二禅天ー無量光天
15.第二禅天ー少光天
16.第一禅天ー大梵天
17.第一禅天ー梵輔天
18.第一禅天ー梵衆天
欲界は、欲望にとらわれた世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人(にん)・天上(神)が住む世界のことです。
1.空居天ー他化自在天<第六天>
2.空居天ー楽変化天
3.空居天ー覩史多天
4.空居天ー夜摩天
5.地居天ー三十三天(帝釈天を代表とする33天)
6.地居天ー四大王衆天(四天王と配下の夜叉)
(地居天は須弥山の中腹から頂上の世界です。空居天は須弥山の上空です。その下層にその他が住んでいます。)

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1553年 10.正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(1)

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信長公記の軌跡 目次

山城道三と信長御参会の事

一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実日になき人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、古老の者、七、八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、

一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、

一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、

一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消し、各次第貼に斟酌仕り侯なり。御堂へする貼と御出でありて、縁を御上り侯のところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り侯て、縁の柱にもたれて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。叉、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、であるかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみじかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

<現代訳>

十、山城道三と信長御参会の事

一、天文22(1553)四月下旬の事に候。

斎藤山城道三、富田にある正徳寺まで罷り出るべく候に「織田上総介殿もこれまで御出で候はば祝着に候、対面ありたき」の趣旨申し越し候。この子細は、この頃上総介を嫉妬し候て「婿殿は大たわけにて候」と、道三前にて口々に申し候「左様に人々申し候時は、たわけでは無く候よ」と山城つねづね申し候。見参し候て善し悪しを見定め候わん為と聞こえ候。

上総介公御遠慮なく御受けをなされ、木曽川・飛騨川の大河を舟渡しにて越えられ御出で候。富田と申す所は家々七百間(1.2km程か)これあり。富貴の所なり。大坂より来た代坊主が治め、美濃・尾張の判形を取り候て免許の地なり(兵役年貢免除の地)。斎藤山城道三の考えでは、もし真面目ではない人にて候はば、仰天させ候て嘲笑候はんとの企てにて、古老の者七・八百、折目高なる肩衣・袴、衣装を正装なる仕立てにして、正徳寺の御堂の縁に並び座らせ、その前を上総介お通り候ように構えて、まず山城道三は町外れの小家に忍びて、信長公の御出での容態を見申し候。その時信長の御仕立て、髪は茶筅に遊ばし、萌黄の平打ちにて茶筅の髪を巻き立て、浴衣の袖を外し、のし付けの大刀、脇差し二つながら、長柄を三五縄で巻き、御腰の周りには猿使いの様に火打袋・ひょうたん七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つ変わりの袴を召して、御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ、寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、

一、髪を折曲にいっせのせに結わせられ

一、いつ染め置かれ候を知る人無き褐色の長袴を召し

一、小刀、これも人に知らせず拵え置かせられ候を差させられ、御出で立ちを御家中の衆見申し候て「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と、肝を消し、各々次第次第に斟酌仕り候なり。御堂へするすると御出であって、縁に御上り候所に、春日丹後・堀田道空差し向いに控え「早く御出でなされ候」と申し候えども、知らぬ顔にて、諸侍居並びたる前をするすると御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫く候て、屏風を押しのけて道三い出られ候。又これも知らぬ顔にて御座候を、堀田道空差し向いより「これぞ山城殿にて御座候」と申す時「であるか」と仰せられて候て、敷居より内へ御入りて候て、道三に御礼ありて、そのまま御座敷に御直り候なり。さて道空御湯漬けを御振舞い申し候。互いに御盃を酌み交わし、道三に御対面、残る所なき御仕合せなり。苦虫を噛み潰した風情にて「又やがて参会すべし」と申し罷り立ち候なり。二十町(2km)ばかり御見送り候。その時、美濃衆の槍は短く、こなたの槍は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候。途中あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申すには「何と見申し候ても上総介はたわけにて候」と申し候時、道三申すには「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」とばかり申し候。自今以後道三が前にてたわけと言う事申す人これなし。

■正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事

天文22年(1553)4月下旬、斎藤道三から信長に対面したいという知らせが届きます。1548(天文17)年、斉藤道三の娘・帰蝶と婚姻してから約5年、それまで道三と信長は一度も会ったことがありません。(戦国時代には特に珍しいことではありません。)かねて人々が道三に「婿殿は大たわけにて候」と聞いていたので、判断してやろうということになりました。

場所は、木曽川を越えた富田の正徳寺(聖徳寺)となりました。

道三は、古老の者7~800人ほどに折り目正しい肩衣・袴姿の上品な格好をさせ正徳寺の御堂の縁並んで座らせ、その前を信長が通るようしました。

信長は、髪は茶せん、湯帷子(ゆかたびら)、大刀・脇差をわら縄で巻き、太い麻縄で腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴を着用し、共の者は7~800人ほど、先見を走らせ、朱槍隊500本。弓・鉄砲隊500挺を侍らせます。寄宿の寺へ到着すると屏風で囲って、正装に着替えました。

正装に着替えた信長を見た家中の者は「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と肝を消したそうです。さらに、信長は道三が引きつれた古老の者7~800人の前で縁の柱にもたれて優雅に振る舞われた。堀田道空が「これぞ山城殿にて御座候」と申すと「であるか」と言って、屋敷に入って御礼を申しました。

会見が終わって、道三が申すには「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」 と言ったそうで、これより信長を「たわけ」と呼ぶ者はいなくなった。

■正徳寺の会見の意味
この会見の意味は諸説多くあり、天文18年(1549)であるか、天文22年(1553)であるかによって大きく意味が変わってきます。
天文18年(1549)であれば、
織田信秀のカリスマに陰りが見えた時期といえど、尾張と三河の半分を所領する一大勢力です。美濃平定を目前にする斉藤利政(道三)としては、美濃封鎖を防ぐ大きな布石となります。
さらに、婿殿の器量を計り、後々まで考える絶好の機会であります。

一方、天文22年(1553)であれば、
信秀を失った信長が家中を取りまとめに苦戦する中、織田と斉藤を和議にもっていった織田の重鎮である最大の功労者を自害に追いやった信長の才覚に疑いを持たれた時期になります。
美濃平定を終えた斉藤利政は出家して、道三と名を改めた時期に近くなります。
今川義元もそうですが、外征に精力を注ぐにあたって、隠居して家督を譲るということがよく行われておりました。
場合によっては、織田に攻め入ることを考慮した会見であったことになります。

いずれにしろ、織田の命運が掛かった会見であります。

斉藤利政(道三)は、「古老の者七・八百、折目高なる肩衣・袴、衣装を正装なる仕立てにして、正徳寺の御堂の縁に並び座らせ」とあるように、古老の者をずらりと並ばせて、信長の肝を消そうと考えております。
一方、信長は、「御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ」とあるように、同じほどの御供衆を引き連れ、さらに三間間中柄の朱槍隊、、弓・鉄砲隊を引き連れております。
また信長の出で立ち・その振る舞いは、「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と感嘆をさせるほど、堂にいったものでした。
おそらく、道三の共の者は、信長を見直したことでしょう。
しかし、道三だけは違います。
「なんと恐ろしい若者が育ってきたのか。信長、侮り難し」と肝を消していたことでしょう。
稲葉城は難攻不落の山城であり、利政(道三)が心血を注いで作り上げた山城であります。信長の父、信秀も攻めあぐねて、織田軍壊滅の危機にあったほどの攻略し難い城です。しかし、その稲葉城を意図も簡単に攻略する方法を信長は提示してきたのです。

戦国時代の槍は、おおよそ二間半(4.54m)と言われております。しかし、信長の朱槍隊は三二間半(6.36m)と非常に長いものでした。これほどの長さになると、日々訓練を行っている者でないと扱えません。また、弓・鉄砲隊も簡単に扱えるものですが、日々の訓練が欠かせません。
三間間中柄の朱槍隊、、弓・鉄砲隊が意味する所は、専属軍人という意味なのです。

『イザ!、鎌倉』とよく言われるように、当時の兵は半士半農であります。
農耕期は農民となって作物を耕し、農閑期は兵として狩り出されます。春遅い撤兵になるとその年の収穫に影響が出るといわれており、その年の石高にも影響しました。
1年を通して戦ができないというのが常識であり、春になれば、敵兵は自国へ退却します。
城には、その間に武器・兵糧を城に運び込むことができました。
加納口の戦い(天文13年9月22日)は、総勢が5000~26000人と言われ、越前の朝倉孝景と呼応して美濃へ南北から攻め入ります。信秀の兵力は5千余人と言われております。100石当たり2.5人と計算しますと20万石並の石高がないと徴兵できません。今川方面にも兵残しておりますので合わせると、40万石並であったことが伺われます。
慶長3年の太閤検知で美濃(50万石)、尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)とあるので、天文13年(1544年)頃であれば、信秀は尾張のほぼ全域を支配していたことになります。
その信秀をもってしても落とせなかったのが稲葉城です。

しかし、そんな難攻不落の稲葉城も簡単に落とすことができます。それが『兵糧攻め』です。
後年、秀吉が難攻不落の鳥取城を兵糧攻めで落とした「鳥取の渇殺し」が有名でありますが、どんな山城でも兵糧攻めには脆いということが証明されています。
信長は、この“半士半農”を排して、“常備軍”を常設しようと試みていることを察した道三は、肝を消さずにはいられません。
道三はこう思ったに違いありません。
「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」
これは『信長公記』首巻に書かれているのですが、信長の軍略的才覚を見抜いた言葉です。

軍才を持つ信長を一飲みに攻略できないことを悟った道三は、対今川を考えながら戦略を練る必要に駆られました。
もし、今川に尾張を取られますと、
斉藤美濃 50万石 対 今川4国 125万石 {尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)}
2倍以上の兵力差が生まれ、織田家の次は斉藤家が標的となることは明らかです。

道三の戦略は、
・岩崎丹羽氏や刈谷水野氏らなどを味方に引き入れ、対今川を備えて織田を吸収する。
・今川と同盟を結び、双方より織田を挟撃する。
・織田家を支援して、今川と交戦させ、漁夫の利を得る。
という3つに絞られます。

岩崎丹羽氏や刈谷水野氏らとの交流はありますが仲間に引き入れるには骨が折れます。おそらく、調略を行っていたと思われますが、巧く往けばという程度でしょう。
今川と同盟を結ぶというのは、拙速であると思われます。
商売において値を釣り上げてから高く売りつけるというのが原則であり、自分から同盟を申し込めば、下手に見られて、後は属国にされかねません。

という訳で、
とりあえず信長を支援して、対今川の値を釣り上げてから考えるという手に正着する訳です。

漁夫の利はいろいろと考えられます。
・信長を支援する形で、反信長の国人衆を吸収して勢力を伸ばす。
・支援の交換条件として、見返りを貰う。
・信長が今川に敗北した契機に尾張に進出し、今川と対峙する見返りに尾張を掌握する。
少なくとも尾張の半分を掌握できれば、70万石相当の兵力を要し、今川とも対峙できます。
また、信長が今川軍を撃退するようなことがあれば、今川と共闘する可能性も生まれてきます。

いずれにしろ、当面の間、信長を支援するしか美濃斉藤軍の生き残る道はないと察したのではないでしょうか。

信長もそのことを良く理解していたらしく、油の取引を貨幣・米から木材に変更を申し出ております。
美濃斉藤家にとって貴重な貨幣・米の流出を防ぐことができますので、大いに助かったことでしょう。
また、味方を装って城主を引き落とす為の悪い噂を流したり、寝返りを唆したりしていたと思われます。

信長・道三・義元の3者で、
・経済戦
・情報戦
・謀略戦
が繰り広げられていたことでしょう。

しかし、そんな道三を理解できた家臣は、幾ばくほどいたでしょうか?

日本の知識層が広がったのは、江戸時代に入ってからです。戦国時代の知識層は、公卿、僧侶、商人、あるいは、位の高い武士に限られておりました。

戦(いくさ)と言えば、刀を持って戦うことしか脳がない者も多く、そう言った者が下剋上で、下人から城主へのし上がった時代です。
経済戦、情報戦、謀略戦を行う道三を見てどう思うでしょうか?
「織田に何故、攻め入らぬか?」
安易に織田を叩けば、今川に利するだけなどとは考えません。
美濃取りを行っていた道三の華やかさに憧れていた武将達は、一向に動こうとしない道三を見て落胆していたことでしょう。
実際は動こうとしないのでなく、動けなかったというのが事実なのです。
しかし、それは理解できない武将達は、
「道三、老いたり。織田のたわけに臆したか」
と不満を高め、遂には、道三の命脈を断つことになるのです。

まさか、家中から謀反が起きるとは、さすがの道三も見抜けなかったようです。

■正徳寺の会見はいつあったのか?
『信長公記』では、正徳寺の会見は天文22年(1553)4月下旬と思われます。一方、『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』には、正徳寺の会見が天文18年(1549)4月下旬と記載されているそうです。

天文18年(1549)4月下旬か?

天文22年(1553)4月下旬か?

信長と道三の会見はいつだったのでしょう。

■天文18年(1549)4月下旬の説?

天文18年(1549)という年は、加納口の戦い(天文13年9月22日、天文16年)に敗れ、第2次小豆坂の戦い(天文17年9月3日)にも敗れた翌年に当たります。
同じ年、天文18年2月24日、斉藤利政(道三)の娘(帰蝶)を妻に迎えた直後となります。

『信長公記』(太田牛一)の“山城道三と信長御参会の事”では、
「斎藤山城道三、富田にある正徳寺まで罷り出るべく候に「織田上総介殿もこれまで御出で候はば祝着に候、対面ありたき」の趣旨申し越し候。この子細は、この頃上総介を嫉妬し候て「婿殿は大たわけにて候」と、道三前にて口々に申し候「左様に人々申し候時は、たわけでは無く候よ」と山城つねづね申し候。見参し候て善し悪しを見定め候わん為と聞こえ候。」〔『信長公記』首巻〕
とあります。
道三は、「左様がたわけというときは、案外たわけでないものだ」と信長を見定めるような陽気な口調に思われます。

もし、天文22年(1553)であれば、信秀の死によって家中が騒然とし、重鎮の平手政秀が自害した直後に、この陽気さはあるでしょうか。

この会見で信長は御供衆七・八百人ほど、三間間中柄の朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を持たせてとあるので、総勢千七・八百人を引き連れます。
もし、天文22年(1553)であれば、前年の“赤塚の戦い”では、那古野城から800兵で出陣しておりますから、ほぼ全軍を引き連れての会見となります。那古野城を空にしてでも成し遂げならない会見であったことになります。
しかし、『信長公記』には、信長の必至さは伺うことができません。

また、天文22年(1553)であれば、
「鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事」はいったい何故起こったのでしょうか?
「天文22(1553)年、信長公十九の御歳のこと」〔『信長公記』首巻〕と書かれていますので、天文22(1553)年であれば、会見の直後に鳴海城離反が起こったことになります。

『信長公記』の順番
9、信秀の死  備後守殿病死の事
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事
11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事
12、萱津合戦  深田松葉両城手かはりの事
13、清洲城分裂  簗田弥次右衛門御忠節の事
14、村木城攻略 村木ノ砦攻めらるるの事

 天文17年2月24日 濃姫の輿入れ
●天文18年3月3日 信秀の死〔武功夜話〕および「寛政重修諸家譜」
>天文18年4月下旬 正徳寺の会見 『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』
○天文20年3月3日 信秀の死 『萬松寺位牌』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』
 天文20年 横山麓合戦 『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』
◎天文21年3月3日 信秀の死〔『信長公記』首巻〕 生誕永正7年(1510年)から42歳を逆算するとこの年になる。
 天文22年閏正月13日 平手中務丞政秀62歳が自宅で諌死
>天文22年4月下旬 正徳寺の会見 『信長公記』、その他『佐々隼人佐宛書状』、『織田玄蕃允秀敏への書状』より
☆天文22年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>
☆天文22年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>

信長と道三の会見は、おおよそ不評であり、家中の者が造反を鑑みるようなものであったことになります。
普通に考えますと、信長と道三の同盟が強くなった訳ですから、家中は収まるものです。
天文22年(1553)の会見は、不自然と言わざる得ません。

一方、天文18年(1549)であった場合、同盟を結んだ直後、嫁を貰った信長と婿殿の顔を見ようとする舅という関係であり、陽気さが伺えます。

また、信秀が存命ですから兵力の余裕もあり、那古野城を空にしても差し支えありません。

道三が、古老の者七・八百を並べて信長を脅かそうとするように、信長も朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を並べて道三を驚かせようとした訳です。
上でも述べましたが、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁は『常備軍』を意味します。
「俺が家督を継いだ暁には、兵を常備軍に改変するぞ」
という信長の意気込みが感じとれます。

この年(天文18年)、信長は鉄砲の名手、橋本 一巴を召し抱え、国友村の鉄砲鍛冶国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文しております。
1543年に種子島で購入した価格は1挺1000両と言われます。70年後には1挺3両まで暴落するのですが、天文18年は6年後であり、国産と言っても種子島は高価であったと思われます。20~100両くらいと言ったところでしょうか?
北条氏康の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍とあります。七貫は七石に当たり、金に直すと1.75両となり、現代の貨幣に直すと35000円となります。
1000両なら2000万円、20~100両なら40万~200万円くらいでしょうか。
500挺ということは、1~5万石相当、2~10億円くらいとなります。これは尾張(55万石)としては相当の負担になります。
つまり、信長にそう思わせるような重大な決意を促すきっかけがあったと考えられ、道三との会見がそうでなかったのかと推測されるのです。

■天文22年(1553)4月下旬の説
この年、織田信長と斉藤利政(道三)が会わなければなりません。
第一次小豆坂の戦いで、三河の半分を制した信秀の時代が終わり、台頭して現われた今川義元の脅威について、信長と道三は共闘して戦いというアピールを内外に示さなければならなかったからです。
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織田の勢力図を見ても判るように信長の領土は半分に縮小されました。
まさに崩壊の危機です。
信長は道三の後盾が必要であり、織田家中をまとめなければなりません。また、道三も同盟という盾として今川を牽制する必要がありました。信長と道三が、この年に会見するのは必然なのです。

なお、斉藤道三の娘・帰蝶と婚姻してから約5年も会ってなかった事になりますが、そんなことは多々あることで疑問の余地はなりません。

しかし、家中をまとめる為に会見をしたには、『信長公記』にはおかしな箇所があります。
天文18年説でいうように、天文22年に道三と会見したとすると、直後に“鳴海城離反”、“萱津合戦”が起こるのは道理が通りません。
何故、家中は収まらず、混乱をきたしているのでしょうか?
実は、著者の太田牛一が大きな間違いを犯した為に起こった混乱なのです。

「鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事」と「深田松葉両城手変わりの事」で、『信長公記』では“天文22(1553)年、信長公十九の御歳のこと”と書かれています。信長公十九なら天文21年(1552)であり、天文22年(1553)は誤記ということになります。

すると、『信長公記』の順列は、
9、信秀の死  備後守殿病死の事
11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事
12、萱津合戦  深田松葉両城手かはりの事
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事
13、清洲城分裂  簗田弥次右衛門御忠節の事
14、村木城攻略 村木ノ砦攻めらるるの事
と変更しなければなりません。

これを年号に訂正して★を入れ直すと、以下のようになります。
 天文17年2月24日 濃姫の輿入れ
●天文18年3月3日 信秀の死〔武功夜話〕および「寛政重修諸家譜」
 天文18年4月下旬 正徳寺の会見 『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』
○天文20年3月3日 信秀の死 『萬松寺位牌』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』
 天文20年 横山麓合戦 『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』
◎天文21年3月3日 信秀の死〔『信長公記』首巻〕 生誕永正7年(1510年)から42歳を逆算するとこの年になる。
★天文21年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代が誤記の場合>
★天文21年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代が誤記の場合>

 天文22年閏正月13日 平手中務丞政秀62歳が自宅で諌死
 天文22年4月下旬 正徳寺の会見 『信長公記』、その他『佐々隼人佐宛書状』、『織田玄蕃允秀敏への書状』より
(☆天文22年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>)
(☆天文22年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>)
 天文23年1月18日 村木城攻略、村木ノ砦攻めらるるの事 『信長公記』首巻
 天文23年7月   安食の戦い、清洲城分裂 『信長公記』首巻

このように、“赤塚の戦い”、“萱津の戦い”が誤記であれば、天文22年4月下旬の“正徳寺の会見”から天文23年1月18日“村木城攻略”まで平穏であったことが伺われます。しかも“村木城攻略”、“安食の戦い”共に信長の反撃戦であり、道三との同盟効果がはっきりと見てとれます。

『信長公記』には、“信秀の死”の次に“正徳寺の会見”が書かれています。
つまり、天文21(20)年3月3日“信秀の死”に死んだとすれば、“正徳寺の会見”は天文22年4月下旬 でしかありえません。
もし、そうでなければ、天文18年3月3日でなければいけなくなります。
しかし、“信秀の死”が『武功夜話』のいう天文18年3月3日であった場合、『氷室和子氏所蔵文書』などで見られる。「祖父江五郎右衛門尉へ尾張国内8ヶ所の「代官」を申し付ける。」との織田備後守信秀の書状に矛盾が生じます。
『武功夜話』の地名や年号に誤記・捏造が見られ、偽書と言われる所以であります。
『武功夜話』あるいは『寛政重修諸家譜』の天文18年説を信じない限り、『信長公記』より“正徳寺の会見”は天文22年4月下旬であることが判ります。

では、何故、道三が会見を申し出てきたのでしょうか。
道三が急に会見を申し出たのは、1553年(天文22)閏正月13日に傅役の平手政秀が諌死したことを受けてことであろうと思われます。
平手政秀は織田の重鎮であり、美濃との和議と帰蝶(濃姫)の輿入れを決めたのも政秀です。道三が政秀を諌死に追いやる信長に不信を抱いたからと考えるのが筋ではないでしょうか。
織田が今川の手中に落ちれば、美濃も安泰とは行きません。
鳴海城離反、萱津合戦と苦戦する信長への恫喝、あるいは、同盟破棄を含めた見定めと考えるべきでしょう。道三は同盟を表明するだけの価値があるかを確かめるつもりだったのです。

信長も道三の心中を察して、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を並べます。
これが常備軍であることは上で説明した通りです。
信長の軍才を見抜いた道三は、平手政秀の自害を納得したと思われます。
そして、「されば無念なる事に候・・・云々」と言ったのでないでしょうか。ただ、この意味は、息子達が信長の軍門に下ることを予見したものではありません。
道三はきっとこう思っていたに違いありません。
「息子達の軍才では、とても信長に太刀打ちできまい。儂の目の黒い内に、この始末を付けておかねば」
道三は斉藤家の行く末を見据えて、信長を始末することを考えていたに違いありません。

道三は会見の翌年に自ら常在寺で剃髪入道を遂げて、利政から法名の『道三』に名を改めます。そして、家督を息子の斎藤義龍へ譲ります。
家督を譲ると言うのは引退したように思われがちですが、まったくの思い違いであります。
煩わしい内政を息子に任せ、敵対国に備えて身を軽くするという意味です。

桶狭間で有名な今川義元も永禄元年(1558年)に家督を氏真に譲ります。桶狭間が永禄3年(1560年)5月ですから2年前です。永禄元年(1558年)から本国である駿河・遠江に発給される文書の著名が今川氏真に変わっているので間違いありません。
では、義元は何をしていたのでしょうか。
義元は尾張侵攻を計画し、三河の地盤を固めておりました。
道三もまた正徳寺の会見の翌年、天文23年(1554年)に家督を譲り信長に備えたのです。

つまり、天文22年4月下旬に“正徳寺の会見”が行なければおかしい状況が作られているのです。

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