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1553年 正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(3)

<<信長公記の軌跡シリーズ、10、正徳寺の会見>>

歴史館にようこそ!

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信長公記の軌跡 目次


10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(3)

山城道三と信長御参会の事
一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯
間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、
申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、
道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、
山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用
捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田
と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、
美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実日にな
き人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、古老の者、七、
八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居
させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍
び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせ
んに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をは
づし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、
ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧
袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、
御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばか
り、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、
一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、
一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、
一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立
を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消
し、各次第貼に斟酌仕り侯なり。御堂へする貼と御出でありて、縁を御上り侯の
ところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へ
ども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り侯て、縁の柱にもた
れて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。叉、是れも知らぬか
ほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、であ
るかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ
御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃参り、道
三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会
すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみ
じかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさ
ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪
子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申
し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬
を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人
と云ふ事、申す人これなし。
(信長公記 町田本をデジタル化より転記)

信長公記の軌跡 目次

■正徳寺の会見は、2度在った
“小豆坂の戦い”から“正徳寺の会見”の勢力図をもう一度ご覧下さい。
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『信長公記』の“山城道三と信長御参会の事”では、たわけと呼ばれる信長見物から始まり、美濃でたわけと呼ぶ人はいなくなったと締めくくっております。
話の内容も、道三が信長を驚かせようとし、信長も道三の肝を消そうとしております。
まるで芝居掛かった紙芝居のようです。
天文22年(1553)4月下旬の織田崩壊の危機を前に何と優雅なことをしているのでしょうか?
同盟が不成功に終われば、信長を支えていた家臣や国人衆、または守護や守護代が先に今川に降る可能性もある訳です。
書き手の太田牛一には、緊張感がなかったのでしょうか。
そう思っていみると、どう考えても天文18年(1549)4月下旬の会見であったとしか思えません。

しかし、天文22年(1553)4月下旬に“正徳寺の会見”はなければなりません。
織田と斉藤の同盟は、今川の脅威に対抗する手段です。内外に広く同盟関係を伝えるには、会見を行うのが一番です。織田も美濃も仰々しい行列を引き連れて国を横断するのですから、さぞ人々が語り草になることでしょう。
そういう意味では、加納口の戦いの後に同盟を成した証に、天文18年(1549)4月下旬の“正徳寺の会見”も会っても不思議ではないのです。

この二つの交差する疑問を解決するには、1つしかありません。

“正徳寺の会見”は2度あった。

天文18年(1549)と天文22年(1553)の両方に会見が整えられていたと考えれば、すべての謎が解ける訳です。

太田牛一著が書く仰々しい“正徳寺の会見”が2度あったかどうかは判りません。
しかし、それならば『信長公記』の陽気な会見と、書状が示す天文22年(1553)の会見の事実の両方が問題なく凍解するのです。

知恵くらべの会見は天文18年(1549)なら納得できます。
鳴海城離反と萱津合戦が正徳寺の会見の後になっていることの疑問が消えます。
信秀の死の後に正徳寺の会見が来ているのは天文22年(1553)と考えれば、辻褄が合います。
この会見を機に鉄砲隊を考え直した信長が、国友村に鉄砲を注文をしたことも合点がいきます。
天文18年(1549)にも行列があったとすれば、2度目は破天荒な恰好をする必要がなくなります。天文22年(1553)の行列では、信長自身が伊勢平氏(※4)の紋を付けた羽織を身に付けていたかもしれません。そうすれば、津島衆がさぞ喜んだことでしょう。

結論を申しますと、太田牛一著の順列に議論の焦点に当てないことが大切であり、状況と検証文献、明記されている年号を手掛かりに探ることが肝要ということです。

『信長公記』の内容を見るに付け、天文18年(1549)に会見が在ったということが事実に思え、
天文22年(1553)の前後に会見に関する書状があることを察すると、天文22年(1553)の会見も存在しなければならない。
二人が2度会っていけないというルールがない以上、会見が2度在ったと結論付ける方が合理的と考える次第です。

さて、さて、天文18年(1549)に“正徳寺の会見”があったと示す書状でも発見されれば、会見は2度あったという証拠になるのですが、それはこれからの研究ということになります。

(※4)伊勢平氏:鎌倉幕府に対抗した後醍醐天皇は味方を集める為に、平家の子孫の家に声を掛けています。後醍醐天皇に従った忠臣で伊賀伊勢近辺は平家がらみが特に多かったようです。信長が平氏を名乗っていたの
信長の平氏説:元亀2年6月吉日付の越前白山別山権現に寄進された鰐口で、その銘文には「信心大施主平信長」云々と刻されてある。

■信長の忌部氏説・藤原氏説・平氏説

江戸時代に作られた織田氏の系図を見ると、源平藤橘(※5)の一つ平氏・清盛の孫、資盛の子、親実(※6)に始まるとされている。
平親実は、平安時代末期から鎌倉時代初期の人物で、織田氏・津田氏の祖とされる。又の姓を忌部(いみべ)、名を親真という。
親真は斎部親澄の養子となり、斎部姓へ改め、神職についたという。その後、親真が剃髪して、覚盛と号したとされている。
(親実が資盛の子であるかどうかは疑われている。)

越前の二ノ宮“剱神社”のご由緒によると、
織田の祖先は、越前丹生郡織田の庄、織田神社(剱神社)の神官斎部某が養子を貰い受けられた。名を親真という。
親真の子孫常昌が越前守護斯波義重に見出されて、尾張の国に派遣されます。常昌は苗字を故郷の地名をとって織田を名乗るようになった。
織田氏の家紋は「織田木瓜紋(五つ木瓜紋)」ですが、“剱神社”の神紋も同じ紋章であることから間違いないと思われる。

また、明徳四年(1393)六月十七日付 剣神社宝前に奉納した藤原信昌・兵庫助将広父子置文には、
織田庄は皇室領荘園であるが、その荘官か、あるいは剣神社の神官から出発して、しだいに土豪として成長したものであろう。神官出身とすれば、本姓は忌部氏ではなかったかと書かれております。

これを見れば、織田は平家の子孫と思われそうだが、

加藤秀一氏旧蔵文書によると、
天文18(1549)年11月 熱田八ヶ村に制礼を下し「藤原信長」と署名している。特に珍しい訳ではなく、その他の織田家の面々も藤原の姓を名乗っていた。

しかし、問題がこの天文18年である。

間違いなく、この当時まで信長の姓は藤原を名乗っていた。しかし、天文22年頃は平氏を名乗っていたと考えられることから、藤原から平への乗り換えの意味するところを考えると、信長の心情が判るかもしれない。

(※5)源平藤橘:貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめたものである。
もっとも古いのは藤原氏で、中臣鎌足から始まっていることはよく知るところです。
平氏は桓武天皇の第5の皇子、一品式部卿葛原親王、九代の後胤、讃岐守正盛が孫、刑部卿忠盛朝臣の嫡男・・・云々、高見王らが臣籍に下って平朝臣姓を賜った。平家物語、祇園精舎でお馴染みです。
源氏はもっとも新しく、嵯峨天皇が皇子に源姓を与えて臣下に降したことに始まります。

(※6)平親実・親真:福井県越前町教育委員会の発表によると、同町法楽寺で発見された親真の墓石の一部に親真死亡年月日が刻まれており、正元2年2月18日(1260年3月31日)/正応3年2月19日(1290年3月31日))とある。
平 資盛が保元3年(1158年)から寿永4年3月24日(1185年4月25日)とあるので、1185年に生まれたとしても親真は75歳あるいは105歳で亡くなったことになる。当時としては長寿であったことなる。最も105歳なら今でも長寿だ。

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