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1553年 正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(2)

<<信長公記の軌跡シリーズ、10、正徳寺の会見>>
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(2)

正徳寺の会見は、様々な方面に大きな影響を与えます。
「御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ」
学校の教科書なら“信長は軍の改正を行い常備軍とした”と一言で片づけてしまいますが、この1行には信長の並々ならく決意が隠されております。
現代人にとって警察署長と知事が別組織であることは珍しいことではありません。
しかし、当時の日本は、組長が警察署長と知事を兼ねておりました。
そして、農民は皆、警察の職員を兼ねていたのです。

もし、あなたが明日から「あなたは警察の職員になりました。警察車両に乗って警戒パトロールをしなさい」と言われれば、びっくりするでしょう。
警察職員になったあなたは、事件が起これば、ナイフや銃を持った凶悪犯と戦わなくてはなりません。
急に言われるとびっくりしませんか?

信長はこの逆を行おうとしたのです。
今日からあなたは市民になった。戦場に行かなくていいので、税(米等)を納めなさい。
兵士はお米を作りませんから、その分を余分に税(米等)で収めなくてはなりません。
あなたの家に国から税が2倍になりましたという催促状が届けば、怒りを覚えませんか。

常備軍を編成するということは、今までの生活をすべて変えることになるのです。
勝手に決めるな!
怒り出す国人衆が多くいたことでしょう。

信長公記の軌跡 目次

■“半士半農から常備軍へ” と“国人衆”
信長が常備軍の構想を考え出したのはいつの頃でしょう。
『今川仮名目録』大永6年(1526年)4月、『甲州法度之次第』天文16年(1547年)などを学んでいたのではないでしょうか。
また、『今川仮名目録追加』天文22年(1553年)2月の寄親・寄子制も参考にしながら、“加納口の戦い”をどう戦えば勝利できたかと考えた結果、『兵糧攻め』という結論に達したのでないでしょうか。
織田信長を育てたのは、父の信秀と宿敵の道三、義元であったと思えます。
しかし、信長は常備軍をすぐに実行した訳ではありません。あくまで構想のみだったと思われます。

その信長が軍の改革を必要と決断させたのは、“横山麓合戦”と“赤塚の戦い”であったと思われます。
父の信秀が作ってきた『国人衆連合』は、勝ち戦にはめっぽう強いのですが、負け戦になると急に脆さを見せます。
今川義元という強敵を迎え、最強の軍の必要性を感じずにはいられなくなったのです。

■国人衆連合
織田信秀は、尾張国南西部を支配する海東郡・中島郡に跨る勝幡城の城主であり、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣たる清洲三奉行の一人でした。
津島五ケ村にある独立自治だった津島衆を傘下に納めることで、信秀は一気に経済的に優位な武将となりませた。
当時、国人と呼ばれる小規模の領主が点在し、様々な問題を抱えていました。
室町の後期から守護、守護代の勢力が衰えると共に、実力者に問題を武力で解決してもらうのが通例となり、経済的に優位な信秀を頼る国人衆が多くいました。
そんなおり、三河の松平清康(まつだいら きよやす)が三河を統一して、尾張に進出してきました。
利権を奪われたくない国人衆はこぞって信秀を頼り、こうして『国人衆連合』が成立したのです。

尾張の正当な支配者は守護の難波氏です。難波氏から尾張を任されているのが、守護代の織田大和守家です。建前として、守護代の奉行として信秀が尾張の支配を実行するということになっていました。

そして、国人衆が信秀に逆らわないのは、絶大なカリスマがあったからです。
しかし、カリスマは武力だけでは手に入れられません。
そのカリスマを支えたのが、林佐渡守秀貞と平手監物政秀でした、

林佐渡守秀貞は、林家は南北朝期に南朝方に忠節を尽くした河野一門の末裔で元々は四国伊予の国人だったのですが、新田義貞の軍団で常に先陣を賜った一族の末裔です。その林家は美濃・尾張・三河・遠江などに残存しており、各大名家にて重く用いられる名門でありました。林家代々の先祖の名を汚すまいと、決して戦場で敵から背中を見せて逃げない秀貞のプライドを信頼し、「我が典偉」と褒め讃えています。
平手監物政秀は、源氏の名門・世良田家の末裔です。斯波家、駿河今川家、尾張石橋家(足利一門)にも負けない名門です。素養、文化交流などを備え、血筋の良さと品格から「我が荀彧」と呼ばれていました。
この二人は、信秀の双璧だった訳です。
「あの林家の天才が仕えているのだから間違いない」
「あの名家の平手殿の誘いなら従うしかあるまい」
そんな風に、格式・血筋などを頼りに国人衆は従っていたのです。

この格式と血筋は、この時代馬鹿にならない力を持っていました。
情報網が発達していない室町~戦国時代に掛けて、情報を交換できる信用たる者と言えば、親類一族と家臣団しかありません。名家、名門と呼ばれる方々ほど、その情報網を広く張り巡らせておりました。
林家などは美濃・尾張・三河・遠江に点在し、各国の大名や領主の家来に迎えられており、お互いに情報を取り合えます。
確かな情報を持つということは、それだけで貴重な価値を有します。
そう要った者を家臣に迎えたということは、それだけで一角の人物と思われるのです。
そして、各大名や領主に迎え入れられた者が、頼るなら信秀が適材でしょうと推挙する。信秀は労さずして、多くの国人衆を掌握できるという訳です。

さて、守護から実行権を預かっている信秀には、調停の権利が与えられております。
境界の紛争調停、刃傷沙汰の解決、その他の紛争、水の利権問題などありとあらゆる問題が信秀の下に届けられます。
当然、その決断に従わない者もいます。
そう言った者に対しては、武力を持って対処します。

国人衆の忠義は、主に召集に応じる兵の数です。
紛争に勝っても何も得ることもない国人も多くいました。しかし、戦(いくさ)となれば、命の駆け引きが伴います。関係のない戦には兵を出したくないというのが人情です。しかし、兵の数を惜しむと、次に問題が起こったときに信秀が味方になるとは限りません。
調停といっても、別に平等に裁判を行う必要はありません。
信秀の信任を失うことは死活問題になりまねません。
国人衆は、信秀の不興を買わない程度に忠義を示す必要があったのです。
こうして、信秀は多くの兵を動員できるようになって行きます。

ところで、秀貞はこう言った国人の心情を察しており、兵の運用に気を使っております。
信秀は利害関係のある国人衆を先陣に置き、正面から敵を圧倒するという戦術を主に使用していたと思われます。
利害関係のあるものを先陣に立たすのは、真剣に戦わせる為です。

仮に戦に勝って、土地を貰っても遠く離れた土地では価値がありません。
その戦に関係のない国人は命を投げ出して戦ってくれる保証がないのです。一方、紛争の当事者や利害関係のある国人は勝負の結果が重要な意味を要します。
関係者を先陣に置くというのは、戦に勝つ為の1つの策でした。

また、秀貞のように名門の者は、家名に傷が付くような戦いをしませんから信秀は名家を多く登用します。名家も信秀を使って、家名を広く轟かせようとします。信秀と名家の利害が一致していた訳です。
こうして、信秀は、三河の半分を制圧するほど巨大な国家を作り上げていったのです。

もし、美濃に斉藤道三という軍略の天才がいなければ、美濃を制した信秀は、朝倉家・浅井家と同盟を結び、京へ上洛を果たして、足利将軍を擁立して天下に号令を掛けていたかもしれません。
甲斐の武田信玄を見て判る通り国人衆連合が決して弱い訳ではないのです。他の勢力を組み入れやすい性質を持つ国人衆連合制によって、信秀にも天下取りの可能性はあったのです。しかし、同時に瞬く間に武田が滅ぼされたように、カリスマを失う一線を超えると簡単に崩壊する危険性があるだけなのです。
信長の目指した君主制は、強大な敵を前にしても崩れないという利点があります。しかし、君主が倒れると崩壊する危険性もあるのです。美濃斉藤、東海今川という巨大な敵に囲まれた信長が、連合軍制から君主制への移行しなければならなかったのは、制度の良し悪しではなく、信長の置かれた立場ではそうせざる得なかったのです。

■半士半農から常備軍へ
信秀は美濃斉藤家と戦、“加納口の戦い”で大敗を喫します。その数 50~5000兵と言われており、色々と異説があるのですが詳しい話は「加納口の戦い」でするとして、今回は省略します。
美濃との敗戦から信秀の形勢は一気に逆転し、岡崎城を武力で攻略しようとした“第2次小豆坂の戦い”で敗戦を帰し、安祥城も攻略されたことにより、織田の三河進出は断念せざるえなくなります。
風向きが今川へと靡くと、多くの国人衆が今川へと寝返ってゆきます。

国人は所謂、一国一城の主であり、信秀はその連合の宗主に過ぎません。
国人にとって信秀に忠義を示すことが義務ではなく、国を守ることが義務なのです。今川方が領土安堵の書状を送ってくれば、織田に残るか、今川に付くかと考慮するのも当然なのです。
国人衆連合は、次期当主、信長に絶対の忠誠を注ぐものではなかったのです。

“横山麓合戦”と“赤塚の戦い”の戦いは、そんな国人衆の思惑と脆さを露呈します。
“横山麓合戦”は、『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』に記載されていますが、信行(信勝)、勝家などが 参陣しかたどうかが判っていません。(位置関係から参陣していて可笑しくないのですが、信行と信長の中は良好とは言えませんから、確実に参加していたとは断言できません。)
信長は岩崎丹羽氏を数の力で圧勝できると考えていたようですが、丹羽氏職の鉄砲30丁の伏撃で軍が飛散し、たちどころに敗走をします。
原因は主に2つあります。
1つは、国人衆が本気で岩崎丹羽氏と戦いたくなかったこと。
もう1つは、信長への忠義が薄く、“走り”という兵の身代わりを立てて、兵の水増しを行っていたこと。

織田方にとって今川に寝返った岩崎丹羽氏を誅罰することに意義がありますが、国人衆にとって明日は我が身であります。むしろ、岩崎丹羽を頼って、今川に組みすることを願い出る可能性もあります。何が何でも岩崎丹羽氏を討伐する意義はないのです。
また、信長の戦への不信です。信長は御年19歳の若武者であり、何ら実績がありません。むざむざ死にたくなり者は、お金で流民を雇って身代わりにしていたと思われます。
“走り”は単なる身代わりですから、危ないと感じたらアッという間に、まさに“風に蜘蛛の子を散らす如し”と言う感じで逃げてしまったのです。

さらに、“赤塚の戦い”では、兵の資質に問題を感じたハズです。
『信長公記』に「いずれも見知り顔の事なれども、互いにたるみは無かりけり」とあるように、顔見知りの為に首を取り合うこともありませんでした。

この2つの戦いを通じて、信長は兵の改革を感じたと思われます。

■常備軍と津島衆と熱田衆
常備軍と一口に言っても簡単な話ではありません。国人衆に命令しても素直に聞くとは思われません。そもそも国人衆が信長の命令を聞くのは、信長に実力が伴っていればということで、実際は家老の林佐渡守秀貞と平手監物政秀に従っていたと考えるべきでしょう。
林秀貞や平手政秀が信長の考えに賛同していれば、問題はなかったのですが“秀貞の造反、政秀の諌死”を見ても信長の意見と対立していたことが見てとれます。
村木攻めのように、信長は出陣を拒んだ林家を罰することがなかったようで、その他の陣触れを無視した国人を罰しておりません。
よって、商業優先主義を守りたい津島衆(※1)と熱田衆(※2)を中心とした軍の編成から始まったと思われます。

幸い、商家には、農耕期・農閑期というものがありません。
本家が武家となり、分家が商家を続ける。また、その逆で本家が商家を続け、分家を武士にする。または、長男に商家を継がせ、二男以下を武士にするなど、本業と武士の分業が可能でした。信長の意向と一致した訳です。
津島衆は、大橋重一を筆頭に堀田孫七・堀田左内など多くの武将を参陣させています。

さらに、兵は棄民を利用したと思われます。
戦なので土地を奪われた農民などは流民となって各地を彷徨います。その者の一部は神社や寺院の一角や洞穴を寝床にして住み着き、神様・仏様に奉納された貢ぎ物を頂くいて生活していたそうです。身代わりや解死人や人柱になったりすることから『神のお使い』とも呼ばれていたそうです。そんな彼らは常に生活の不安定さに悩まされていました。しかし、神社や寺院周辺に住む彼らは、礼儀正しく、節度ある存在であったことに信長は目を付けます。
この棄民を足軽として登用すれば、彼らは安定した生活を手に入れることができます。そして、信長が敗れれば、棄民に逆戻りです。信長に忠誠を誓う兵を得る可能性を見逃すハズがないと私は考えております。

(※1):津島衆は、信秀から判物で安堵が出されていたように惣(自治組織)を積極的に活用した商業・流通経済で潤っていた。そして、その他の武将が商業を軽視するなか商業に理解深い信長を支持していた。
『津島市史』は、十二世紀半ばに居住して土地柄になったと示されているので、鎌倉時代に入ってからと伺えます。津島は津島神社を中核として形成された門前町であり、木曽川の分流である天王川を少し遡った河港町でした。
津島衆の構成は、津島南朝十五党と呼ばれるように「四家七苗字四姓」四家(大橋修理太夫定元、山川民部少輔重祐、 岡本左近将監高家、恒川左京太夫信矩)、七苗字(堀田、平野、服部、鈴木、真野、光賀、河村)であり、その筆頭が大橋家です。
津島四家は、南朝の征夷大将軍尹良親王に随従の武士で南朝派と呼ばれていました。
『正徳寺の会見』の信長の軍は、御供衆七・八百、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁と部隊ごとに編制され、まるで宋の軍を模倣したようで後醍醐天皇の『建武中興』を彷彿とさせたのかもしれません。
南朝復権という想いは、さぞ津島衆の心を捉えたことでしょう。

(※2):熱田衆は、熱田神宮を中心とした門前町で形成されています。津島のような南朝派という濃い思想色はなく、熱田八ケ村は熱田の湊を管理するだけの存在でした。ただ、歴史は古く倭建命が草薙の剣を納めた神宮として有名です。
「中世熱田社の構造と展開」著者 藤本 元啓(続群書類従完成会刊)によると、足利尊氏が反旗を翻したとき、後醍醐天皇は尊良親王・新田義貞を大将軍にして討伐軍を編成した。その中に「熱田攝津大宮司」の名があります。後に、建武2年には尊氏が熱田祭主職の交替と祈祷命令を出しており、尊氏に安堵されたので北朝側にあったとされております。
室町幕府より領地は安堵されておりますから、室町後期から信秀の間に熱田衆に何が起こったのかが問題となります。信秀や信長が安堵状を出していることから推測しますと、室町後期から国人衆の勢力が増し、領地の侵害をたびたび受けていたのではないでしょうか。特に氏子の損耗が大きく、その権威が崩れそうになっていた。信長は熱田神宮に熱心な次期当主であり、信長の庇護の下で復権を賭けていたのではないでしょうか。
熱田衆が信長を支持していたことは、桶狭間で熱田宮司千秋李忠が参陣していることからも判ります。

■『建武中興』と『第六天魔王』
『建武中興』は、南北朝時代の南朝初代の天皇、後醍醐天皇の執り行った新政のことを言います。
鎌倉幕府を討幕する為に、足利尊氏らと共に戦った後醍醐天皇は、武家中心の政治を天皇中心の政治に戻そうと試みます。しかし、性急な改革、恩賞の不公平、朝令暮改を繰り返す法令や武家の権限を侵す貴族の重用に不満を覚えた武士団が反旗を翻して失敗します。
しかし、鎌倉幕府を討幕した雄姿は南朝派武士団の心に残り、いつか北朝派を破って、南朝の天下を治めようと願っていました。
信長が“正徳寺の会見”で様式は、『建武中興』を彷彿させるもので、北朝派から見れば、南朝派の津島衆に媚びを売ったと揶揄されそうなものであった訳ですが、当てにならない国人衆より重要なことがありました。津島衆の支持なくば、軍改革は成功せず、この陣触れは津島衆の心を掴む為に必要な行事であったのです。

さて、『第六天魔王』信長は、天下統一の過程で“比叡山の焼き討ち”や“本願寺、浄土真宗総本山の強襲”と神仏を恐れない行為で知られます。
そんな信長を人は、『第六天魔王』と呼んだそうです。
『第六天魔王』とは、仏教の三界(※3)〔無色界・色界・欲界〕があり、欲にとらわれた世界〔欲界〕の最高位が「第六天魔王」なのです。仏道修行者を色や欲で惑わし、天魔、天魔波旬(はじゅん=悪魔の意)とも呼ばれ、欲界最強の魔王は仏敵だったそうですが、信玄からの書状が天台座主沙門に対抗して自ら第六天魔王と自称したというのは有名な話です。
しかし、自ら名乗っていた訳ですが、無碍に敵意を買う行為を信長がするでしょうか。

世間では、この『第六天魔王』は畏怖の対象として使われており、信長が如何に凶悪だったかと世に広める為につかわれているのですが、実は後醍醐天皇も「第六天魔王」と呼ばれていたのです。
「信長様は、第六天魔王、後醍醐天皇の生まれ変わりだ」
「信長様しか、南朝復興はありえない」
そんな風に津島で言われるようになったに違いありません。南朝復興を掲げる津島衆は覆い湧いたことでしょう。財のすべてを投げ打ってでも信長に忠義を払う者もいたでしょう。
おそらく、これは信長が意図として流した風潮ではないか。
信長の台所、パトロンの津島衆を利用する為に『第六天魔王』を名乗ったとすると、少し小狡いようですが合理主義の信長らしい判断であったように思えます。

“正徳寺の会見”は津島衆の心を摘まむ為にお披露目だった。津島衆にとって、『第六天魔王』は畏敬の対象だった訳ですね。

信長は常備軍設置に先立って、鷹狩りと称して兵を集めております。しかし、具体的な軍政改革は桶狭間以降であり、しかも10年くらいを要します。所領の把握と家臣の意識改革にはそのくらいの時間を要するのかもしれません。あの今川義元も、岩崎城、鳴海城を取った天文21年(1552年)から永禄3年(1560年)5月の桶狭間の合戦まで、8年の歳月を費やして準備を整えることになっております。信長はゆっくりと経済力と武将と兵士を少しずつ増やして、常備軍の地盤を固めていったと思われます。

(※3)仏教の三界:仏教の世界観では 三界から成り立っており、欲界は6天から成り立っていることより、6天を治める他化自在天を第六天と呼びます。
無色界は、空無辺処、識無辺処、無所有処、非想非非想処の4天から成り立っている。
第4天ー非想非非想処 天界における最上天、有頂天という。
第3天ー無所有処 何物も無しと思惟する定
第2天ー識無辺処 識は無限大であると思惟する定
第1天ー空無辺処 定を抑える一切の想を滅し、空間が無限大であると思惟する定
(有頂天とは、有における天界の最上部であるためとも言われる。)

色界は、色行天と言われる。色は物質の義、あるいは変礙の義。欲望を離れた清浄な物質の世界と言われ、大乗仏教では18天を有する。
1.第四禅天ー色究竟天
2.第四禅天ー善見天
3.第四禅天ー善現天
4.第四禅天ー無熱天
5.第四禅天ー無煩天
6.第四禅天ー廣果天
7.第四禅天ー無想天(薩婆多・経の2部は、廣果天の中に摂す)
8.第四禅天ー福生天
9.第四禅天ー無雲天
10.第三禅天ー遍照天
11.第三禅天ー無量浄天
12.第三禅天ー少浄天
13.第二禅天ー光音天
14.第二禅天ー無量光天
15.第二禅天ー少光天
16.第一禅天ー大梵天
17.第一禅天ー梵輔天
18.第一禅天ー梵衆天
欲界は、欲望にとらわれた世界で、地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人(にん)・天上(神)が住む世界のことです。
1.空居天ー他化自在天<第六天>
2.空居天ー楽変化天
3.空居天ー覩史多天
4.空居天ー夜摩天
5.地居天ー三十三天(帝釈天を代表とする33天)
6.地居天ー四大王衆天(四天王と配下の夜叉)
(地居天は須弥山の中腹から頂上の世界です。空居天は須弥山の上空です。その下層にその他が住んでいます。)

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コメント

初めまして。
織田信長について調べていたらこちらにたどり着きました。
実は、趣味で織田家を中心とした小説を書きたくてネットの海を彷徨っていたんですが、こちらにある記事を参考に書いてみてもよろしいでしょうか?
もし駄目でしたら、それでも結構です。
初めての書込みで失礼かなと思いつつも、こちらの記事を読んで興奮してしまって。
宜しくお願いします。

あずまみやんさん、こんにちは

私も沢山の方の書籍やブログを参考にさせて頂いております。感謝、感謝です。
また、私も小説を書いています。

もし、参考になるとお思いでしたら、どうぞお使い下さい。

まとめるに時間か掛かって、すべて発表するのは随分先のことになると思いますが、宜しければお楽しみ下さい。

次は、番外編で今川義元になる予定です。
信長のライバル誕生を描きます。

こんにちは、あずまみやんです。
許可してくださってありがとうございます。
とてもうれしかったです。

管理人様も小説を書かれるのですか!
身近に小説を書く人間がいないので、同士を発見したようでちょっと嬉しいです。
お互い頑張りましょう。
そして、次回は今川義元について書かれる予定なのですか。
世間一般では貴族かぶれのイメージが強い義元ですが、実際、子どもと武家に対して好意的で、逆に武士には良く思っていなかったという話を聞いたことがあります。

次回、楽しみにしています。

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