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1553年 10.正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事(1)

<<信長公記の軌跡シリーズ、10、正徳寺の会見>>
信長公記の軌跡 目次

山城道三と信長御参会の事

一、四月下旬の事に侯。斎藤山城道三、富田の寺内正徳寺まで罷り出づべく侯間、織田上総介殿も是れまで御出で侯はゞ、祝着たるべく侯。対面ありたきの趣、申し越し侯。此の子細は、此の比、上総介を偏執侯て、聟殿は大だわけにて侯と、道三前にて口々に申し侯ひき。左様に人々申し侯時は、たわけにてはなく侯よと、山城連々申し侯ひき。見参侯て、善悪を見侯はん為と聞こへ侯。上総介公、御用捨なく御請けなされ、木曾川・飛騨川、大河の舟渡し打ち越え、御出で侯。富田と申す所は、在家七百間もこれある富貴の所なり。大坂より代坊主を入れ置き、美濃・尾張の判形を取り侯て、免許の地なり。斎藤山城道三存分には、実日になき人の由、取沙汰候間、仰天させ侯て、笑はせ侯はんとの巧にて、古老の者、七、八百、折日高なる肩衣、袴、衣装、公道なる仕立にて、正徳寺御堂の縁に並び居させ、其のまへを上総介御通り侯様に構へて、先づ、山城道三は町末の小家に忍び居りて、信長公の御出の様体を見申し侯。其の時、信長の御仕立、髪はちやせんに遊ばし、もゑぎの平打にて、ちやせんの髪を巻き立て、ゆかたびらの袖をはづし、のし付の大刀、わきざし、二つながら、長つかに、みごなわにてまかせ、ふとき苧なわ、うでぬきにさせられ、御腰のまわりには、猿つかひの様に、火燧袋、ひようたん七ツ、八ツ付けさせられ、虎革、豹革四ツがわりの半袴をめし、御伴衆七、八百、甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄炮五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着きにて、屏風引き廻し、

一、御ぐし折り曲に、一世の始めにゆわせられ、

一、何染置かれ侯知人なきかちの長袴めし、

一、ちいさ刀、是れも人に知らせず拵えをかせられ侯を、さゝせられ、御出立を、御家中の衆見申し侯て、さては、此の比たわけを態と御作り侯よと、肝を消し、各次第貼に斟酌仕り侯なり。御堂へする貼と御出でありて、縁を御上り侯のところに、春日丹後、堀田道空さし向け、はやく御出でなされ候へと、申し候へども、知らぬ顔にて、緒侍居ながれたる前を、する貼御通り侯て、縁の柱にもたれて御座侯。暫く侯て、屏風を推しのけて道三出でられ侯。叉、是れも知らぬかほにて御座侯を、堀田遣空さしより、是れぞ山城殿にて御座侯と、申す時、であるかと、仰せられ侯て、敷居より内へ御入り侯て、道三に御礼ありて、其のまゝ御座敷に御直り侯ひしなり。さて、道空御湯付を上げ申し侯。互に御盃参り、道三に御対面、残る所なき御仕合なり。附子をかみたる風情にて、叉、やがて参会すべしと申し、罷り立ち侯なり。廿町許り御見送り侯。其の時、美濃衆の鎗はみじかく、こなたの鎗は長く、扣き立ち侯て参らるゝを、道三見申し侯て、興をさましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り侯。途中、あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申す様は、何と見申し侯ても、上総介はたわけにて侯。と申し侯時、道三申す様に、されば無念なる事に侯。山城が子供、たわけが門外に馬を繋べき事、案の内にて侯と計り申し侯。今より已後、道三が前にて、たわけ人と云ふ事、申す人これなし。

<現代訳>

十、山城道三と信長御参会の事

一、天文22(1553)四月下旬の事に候。

斎藤山城道三、富田にある正徳寺まで罷り出るべく候に「織田上総介殿もこれまで御出で候はば祝着に候、対面ありたき」の趣旨申し越し候。この子細は、この頃上総介を嫉妬し候て「婿殿は大たわけにて候」と、道三前にて口々に申し候「左様に人々申し候時は、たわけでは無く候よ」と山城つねづね申し候。見参し候て善し悪しを見定め候わん為と聞こえ候。

上総介公御遠慮なく御受けをなされ、木曽川・飛騨川の大河を舟渡しにて越えられ御出で候。富田と申す所は家々七百間(1.2km程か)これあり。富貴の所なり。大坂より来た代坊主が治め、美濃・尾張の判形を取り候て免許の地なり(兵役年貢免除の地)。斎藤山城道三の考えでは、もし真面目ではない人にて候はば、仰天させ候て嘲笑候はんとの企てにて、古老の者七・八百、折目高なる肩衣・袴、衣装を正装なる仕立てにして、正徳寺の御堂の縁に並び座らせ、その前を上総介お通り候ように構えて、まず山城道三は町外れの小家に忍びて、信長公の御出での容態を見申し候。その時信長の御仕立て、髪は茶筅に遊ばし、萌黄の平打ちにて茶筅の髪を巻き立て、浴衣の袖を外し、のし付けの大刀、脇差し二つながら、長柄を三五縄で巻き、御腰の周りには猿使いの様に火打袋・ひょうたん七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つ変わりの袴を召して、御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ、寄宿の寺へ御着き候て、屏風引き廻らし、

一、髪を折曲にいっせのせに結わせられ

一、いつ染め置かれ候を知る人無き褐色の長袴を召し

一、小刀、これも人に知らせず拵え置かせられ候を差させられ、御出で立ちを御家中の衆見申し候て「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と、肝を消し、各々次第次第に斟酌仕り候なり。御堂へするすると御出であって、縁に御上り候所に、春日丹後・堀田道空差し向いに控え「早く御出でなされ候」と申し候えども、知らぬ顔にて、諸侍居並びたる前をするすると御通り候て、縁の柱にもたれて御座候。暫く候て、屏風を押しのけて道三い出られ候。又これも知らぬ顔にて御座候を、堀田道空差し向いより「これぞ山城殿にて御座候」と申す時「であるか」と仰せられて候て、敷居より内へ御入りて候て、道三に御礼ありて、そのまま御座敷に御直り候なり。さて道空御湯漬けを御振舞い申し候。互いに御盃を酌み交わし、道三に御対面、残る所なき御仕合せなり。苦虫を噛み潰した風情にて「又やがて参会すべし」と申し罷り立ち候なり。二十町(2km)ばかり御見送り候。その時、美濃衆の槍は短く、こなたの槍は長く控え立ち候て参り候を、道三見申し候て、興を醒ましたる有様にて、有無を申さず罷り帰り候。途中あかなべと申す所にて、猪子兵介、山城道三に申すには「何と見申し候ても上総介はたわけにて候」と申し候時、道三申すには「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」とばかり申し候。自今以後道三が前にてたわけと言う事申す人これなし。

■正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事

天文22年(1553)4月下旬、斎藤道三から信長に対面したいという知らせが届きます。1548(天文17)年、斉藤道三の娘・帰蝶と婚姻してから約5年、それまで道三と信長は一度も会ったことがありません。(戦国時代には特に珍しいことではありません。)かねて人々が道三に「婿殿は大たわけにて候」と聞いていたので、判断してやろうということになりました。

場所は、木曽川を越えた富田の正徳寺(聖徳寺)となりました。

道三は、古老の者7~800人ほどに折り目正しい肩衣・袴姿の上品な格好をさせ正徳寺の御堂の縁並んで座らせ、その前を信長が通るようしました。

信長は、髪は茶せん、湯帷子(ゆかたびら)、大刀・脇差をわら縄で巻き、太い麻縄で腰の周りに火打ち袋やひょうたんをいくつもぶら下げ、袴は虎と豹の皮を四色に染め分けた半袴を着用し、共の者は7~800人ほど、先見を走らせ、朱槍隊500本。弓・鉄砲隊500挺を侍らせます。寄宿の寺へ到着すると屏風で囲って、正装に着替えました。

正装に着替えた信長を見た家中の者は「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と肝を消したそうです。さらに、信長は道三が引きつれた古老の者7~800人の前で縁の柱にもたれて優雅に振る舞われた。堀田道空が「これぞ山城殿にて御座候」と申すと「であるか」と言って、屋敷に入って御礼を申しました。

会見が終わって、道三が申すには「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」 と言ったそうで、これより信長を「たわけ」と呼ぶ者はいなくなった。

■正徳寺の会見の意味
この会見の意味は諸説多くあり、天文18年(1549)であるか、天文22年(1553)であるかによって大きく意味が変わってきます。
天文18年(1549)であれば、
織田信秀のカリスマに陰りが見えた時期といえど、尾張と三河の半分を所領する一大勢力です。美濃平定を目前にする斉藤利政(道三)としては、美濃封鎖を防ぐ大きな布石となります。
さらに、婿殿の器量を計り、後々まで考える絶好の機会であります。

一方、天文22年(1553)であれば、
信秀を失った信長が家中を取りまとめに苦戦する中、織田と斉藤を和議にもっていった織田の重鎮である最大の功労者を自害に追いやった信長の才覚に疑いを持たれた時期になります。
美濃平定を終えた斉藤利政は出家して、道三と名を改めた時期に近くなります。
今川義元もそうですが、外征に精力を注ぐにあたって、隠居して家督を譲るということがよく行われておりました。
場合によっては、織田に攻め入ることを考慮した会見であったことになります。

いずれにしろ、織田の命運が掛かった会見であります。

斉藤利政(道三)は、「古老の者七・八百、折目高なる肩衣・袴、衣装を正装なる仕立てにして、正徳寺の御堂の縁に並び座らせ」とあるように、古老の者をずらりと並ばせて、信長の肝を消そうと考えております。
一方、信長は、「御供衆七・八百いらかを並べ、健やか者を先頭に、三間間中柄の朱槍五百本ばかり、弓・鉄砲五百丁もたせられ」とあるように、同じほどの御供衆を引き連れ、さらに三間間中柄の朱槍隊、、弓・鉄砲隊を引き連れております。
また信長の出で立ち・その振る舞いは、「さてはこのたわけをわざと御作り候よ」と感嘆をさせるほど、堂にいったものでした。
おそらく、道三の共の者は、信長を見直したことでしょう。
しかし、道三だけは違います。
「なんと恐ろしい若者が育ってきたのか。信長、侮り難し」と肝を消していたことでしょう。
稲葉城は難攻不落の山城であり、利政(道三)が心血を注いで作り上げた山城であります。信長の父、信秀も攻めあぐねて、織田軍壊滅の危機にあったほどの攻略し難い城です。しかし、その稲葉城を意図も簡単に攻略する方法を信長は提示してきたのです。

戦国時代の槍は、おおよそ二間半(4.54m)と言われております。しかし、信長の朱槍隊は三二間半(6.36m)と非常に長いものでした。これほどの長さになると、日々訓練を行っている者でないと扱えません。また、弓・鉄砲隊も簡単に扱えるものですが、日々の訓練が欠かせません。
三間間中柄の朱槍隊、、弓・鉄砲隊が意味する所は、専属軍人という意味なのです。

『イザ!、鎌倉』とよく言われるように、当時の兵は半士半農であります。
農耕期は農民となって作物を耕し、農閑期は兵として狩り出されます。春遅い撤兵になるとその年の収穫に影響が出るといわれており、その年の石高にも影響しました。
1年を通して戦ができないというのが常識であり、春になれば、敵兵は自国へ退却します。
城には、その間に武器・兵糧を城に運び込むことができました。
加納口の戦い(天文13年9月22日)は、総勢が5000~26000人と言われ、越前の朝倉孝景と呼応して美濃へ南北から攻め入ります。信秀の兵力は5千余人と言われております。100石当たり2.5人と計算しますと20万石並の石高がないと徴兵できません。今川方面にも兵残しておりますので合わせると、40万石並であったことが伺われます。
慶長3年の太閤検知で美濃(50万石)、尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)とあるので、天文13年(1544年)頃であれば、信秀は尾張のほぼ全域を支配していたことになります。
その信秀をもってしても落とせなかったのが稲葉城です。

しかし、そんな難攻不落の稲葉城も簡単に落とすことができます。それが『兵糧攻め』です。
後年、秀吉が難攻不落の鳥取城を兵糧攻めで落とした「鳥取の渇殺し」が有名でありますが、どんな山城でも兵糧攻めには脆いということが証明されています。
信長は、この“半士半農”を排して、“常備軍”を常設しようと試みていることを察した道三は、肝を消さずにはいられません。
道三はこう思ったに違いありません。
「されば無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事案の定にて候」
これは『信長公記』首巻に書かれているのですが、信長の軍略的才覚を見抜いた言葉です。

軍才を持つ信長を一飲みに攻略できないことを悟った道三は、対今川を考えながら戦略を練る必要に駆られました。
もし、今川に尾張を取られますと、
斉藤美濃 50万石 対 今川4国 125万石 {尾張(55万石)、三河(28万石)、 遠江(17万石)、駿河(25万石)}
2倍以上の兵力差が生まれ、織田家の次は斉藤家が標的となることは明らかです。

道三の戦略は、
・岩崎丹羽氏や刈谷水野氏らなどを味方に引き入れ、対今川を備えて織田を吸収する。
・今川と同盟を結び、双方より織田を挟撃する。
・織田家を支援して、今川と交戦させ、漁夫の利を得る。
という3つに絞られます。

岩崎丹羽氏や刈谷水野氏らとの交流はありますが仲間に引き入れるには骨が折れます。おそらく、調略を行っていたと思われますが、巧く往けばという程度でしょう。
今川と同盟を結ぶというのは、拙速であると思われます。
商売において値を釣り上げてから高く売りつけるというのが原則であり、自分から同盟を申し込めば、下手に見られて、後は属国にされかねません。

という訳で、
とりあえず信長を支援して、対今川の値を釣り上げてから考えるという手に正着する訳です。

漁夫の利はいろいろと考えられます。
・信長を支援する形で、反信長の国人衆を吸収して勢力を伸ばす。
・支援の交換条件として、見返りを貰う。
・信長が今川に敗北した契機に尾張に進出し、今川と対峙する見返りに尾張を掌握する。
少なくとも尾張の半分を掌握できれば、70万石相当の兵力を要し、今川とも対峙できます。
また、信長が今川軍を撃退するようなことがあれば、今川と共闘する可能性も生まれてきます。

いずれにしろ、当面の間、信長を支援するしか美濃斉藤軍の生き残る道はないと察したのではないでしょうか。

信長もそのことを良く理解していたらしく、油の取引を貨幣・米から木材に変更を申し出ております。
美濃斉藤家にとって貴重な貨幣・米の流出を防ぐことができますので、大いに助かったことでしょう。
また、味方を装って城主を引き落とす為の悪い噂を流したり、寝返りを唆したりしていたと思われます。

信長・道三・義元の3者で、
・経済戦
・情報戦
・謀略戦
が繰り広げられていたことでしょう。

しかし、そんな道三を理解できた家臣は、幾ばくほどいたでしょうか?

日本の知識層が広がったのは、江戸時代に入ってからです。戦国時代の知識層は、公卿、僧侶、商人、あるいは、位の高い武士に限られておりました。

戦(いくさ)と言えば、刀を持って戦うことしか脳がない者も多く、そう言った者が下剋上で、下人から城主へのし上がった時代です。
経済戦、情報戦、謀略戦を行う道三を見てどう思うでしょうか?
「織田に何故、攻め入らぬか?」
安易に織田を叩けば、今川に利するだけなどとは考えません。
美濃取りを行っていた道三の華やかさに憧れていた武将達は、一向に動こうとしない道三を見て落胆していたことでしょう。
実際は動こうとしないのでなく、動けなかったというのが事実なのです。
しかし、それは理解できない武将達は、
「道三、老いたり。織田のたわけに臆したか」
と不満を高め、遂には、道三の命脈を断つことになるのです。

まさか、家中から謀反が起きるとは、さすがの道三も見抜けなかったようです。

■正徳寺の会見はいつあったのか?
『信長公記』では、正徳寺の会見は天文22年(1553)4月下旬と思われます。一方、『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』には、正徳寺の会見が天文18年(1549)4月下旬と記載されているそうです。

天文18年(1549)4月下旬か?

天文22年(1553)4月下旬か?

信長と道三の会見はいつだったのでしょう。

■天文18年(1549)4月下旬の説?

天文18年(1549)という年は、加納口の戦い(天文13年9月22日、天文16年)に敗れ、第2次小豆坂の戦い(天文17年9月3日)にも敗れた翌年に当たります。
同じ年、天文18年2月24日、斉藤利政(道三)の娘(帰蝶)を妻に迎えた直後となります。

『信長公記』(太田牛一)の“山城道三と信長御参会の事”では、
「斎藤山城道三、富田にある正徳寺まで罷り出るべく候に「織田上総介殿もこれまで御出で候はば祝着に候、対面ありたき」の趣旨申し越し候。この子細は、この頃上総介を嫉妬し候て「婿殿は大たわけにて候」と、道三前にて口々に申し候「左様に人々申し候時は、たわけでは無く候よ」と山城つねづね申し候。見参し候て善し悪しを見定め候わん為と聞こえ候。」〔『信長公記』首巻〕
とあります。
道三は、「左様がたわけというときは、案外たわけでないものだ」と信長を見定めるような陽気な口調に思われます。

もし、天文22年(1553)であれば、信秀の死によって家中が騒然とし、重鎮の平手政秀が自害した直後に、この陽気さはあるでしょうか。

この会見で信長は御供衆七・八百人ほど、三間間中柄の朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を持たせてとあるので、総勢千七・八百人を引き連れます。
もし、天文22年(1553)であれば、前年の“赤塚の戦い”では、那古野城から800兵で出陣しておりますから、ほぼ全軍を引き連れての会見となります。那古野城を空にしてでも成し遂げならない会見であったことになります。
しかし、『信長公記』には、信長の必至さは伺うことができません。

また、天文22年(1553)であれば、
「鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事」はいったい何故起こったのでしょうか?
「天文22(1553)年、信長公十九の御歳のこと」〔『信長公記』首巻〕と書かれていますので、天文22(1553)年であれば、会見の直後に鳴海城離反が起こったことになります。

『信長公記』の順番
9、信秀の死  備後守殿病死の事
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事
11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事
12、萱津合戦  深田松葉両城手かはりの事
13、清洲城分裂  簗田弥次右衛門御忠節の事
14、村木城攻略 村木ノ砦攻めらるるの事

 天文17年2月24日 濃姫の輿入れ
●天文18年3月3日 信秀の死〔武功夜話〕および「寛政重修諸家譜」
>天文18年4月下旬 正徳寺の会見 『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』
○天文20年3月3日 信秀の死 『萬松寺位牌』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』
 天文20年 横山麓合戦 『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』
◎天文21年3月3日 信秀の死〔『信長公記』首巻〕 生誕永正7年(1510年)から42歳を逆算するとこの年になる。
 天文22年閏正月13日 平手中務丞政秀62歳が自宅で諌死
>天文22年4月下旬 正徳寺の会見 『信長公記』、その他『佐々隼人佐宛書状』、『織田玄蕃允秀敏への書状』より
☆天文22年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>
☆天文22年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>

信長と道三の会見は、おおよそ不評であり、家中の者が造反を鑑みるようなものであったことになります。
普通に考えますと、信長と道三の同盟が強くなった訳ですから、家中は収まるものです。
天文22年(1553)の会見は、不自然と言わざる得ません。

一方、天文18年(1549)であった場合、同盟を結んだ直後、嫁を貰った信長と婿殿の顔を見ようとする舅という関係であり、陽気さが伺えます。

また、信秀が存命ですから兵力の余裕もあり、那古野城を空にしても差し支えありません。

道三が、古老の者七・八百を並べて信長を脅かそうとするように、信長も朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を並べて道三を驚かせようとした訳です。
上でも述べましたが、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁は『常備軍』を意味します。
「俺が家督を継いだ暁には、兵を常備軍に改変するぞ」
という信長の意気込みが感じとれます。

この年(天文18年)、信長は鉄砲の名手、橋本 一巴を召し抱え、国友村の鉄砲鍛冶国友善兵衛らに六匁玉鉄砲500挺を注文しております。
1543年に種子島で購入した価格は1挺1000両と言われます。70年後には1挺3両まで暴落するのですが、天文18年は6年後であり、国産と言っても種子島は高価であったと思われます。20~100両くらいと言ったところでしょうか?
北条氏康の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍とあります。七貫は七石に当たり、金に直すと1.75両となり、現代の貨幣に直すと35000円となります。
1000両なら2000万円、20~100両なら40万~200万円くらいでしょうか。
500挺ということは、1~5万石相当、2~10億円くらいとなります。これは尾張(55万石)としては相当の負担になります。
つまり、信長にそう思わせるような重大な決意を促すきっかけがあったと考えられ、道三との会見がそうでなかったのかと推測されるのです。

■天文22年(1553)4月下旬の説
この年、織田信長と斉藤利政(道三)が会わなければなりません。
第一次小豆坂の戦いで、三河の半分を制した信秀の時代が終わり、台頭して現われた今川義元の脅威について、信長と道三は共闘して戦いというアピールを内外に示さなければならなかったからです。
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織田の勢力図を見ても判るように信長の領土は半分に縮小されました。
まさに崩壊の危機です。
信長は道三の後盾が必要であり、織田家中をまとめなければなりません。また、道三も同盟という盾として今川を牽制する必要がありました。信長と道三が、この年に会見するのは必然なのです。

なお、斉藤道三の娘・帰蝶と婚姻してから約5年も会ってなかった事になりますが、そんなことは多々あることで疑問の余地はなりません。

しかし、家中をまとめる為に会見をしたには、『信長公記』にはおかしな箇所があります。
天文18年説でいうように、天文22年に道三と会見したとすると、直後に“鳴海城離反”、“萱津合戦”が起こるのは道理が通りません。
何故、家中は収まらず、混乱をきたしているのでしょうか?
実は、著者の太田牛一が大きな間違いを犯した為に起こった混乱なのです。

「鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事」と「深田松葉両城手変わりの事」で、『信長公記』では“天文22(1553)年、信長公十九の御歳のこと”と書かれています。信長公十九なら天文21年(1552)であり、天文22年(1553)は誤記ということになります。

すると、『信長公記』の順列は、
9、信秀の死  備後守殿病死の事
11、鳴海城離反  三ノ山赤塚合戦の事
12、萱津合戦  深田松葉両城手かはりの事
10、正徳寺の会見  山城道三と信長御参会の事
13、清洲城分裂  簗田弥次右衛門御忠節の事
14、村木城攻略 村木ノ砦攻めらるるの事
と変更しなければなりません。

これを年号に訂正して★を入れ直すと、以下のようになります。
 天文17年2月24日 濃姫の輿入れ
●天文18年3月3日 信秀の死〔武功夜話〕および「寛政重修諸家譜」
 天文18年4月下旬 正徳寺の会見 『愛知県史 資料編12 織豊2天正十八年』
○天文20年3月3日 信秀の死 『萬松寺位牌』『桃岩寺位牌』『張州雑誌』
 天文20年 横山麓合戦 『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』
◎天文21年3月3日 信秀の死〔『信長公記』首巻〕 生誕永正7年(1510年)から42歳を逆算するとこの年になる。
★天文21年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代が誤記の場合>
★天文21年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代が誤記の場合>

 天文22年閏正月13日 平手中務丞政秀62歳が自宅で諌死
 天文22年4月下旬 正徳寺の会見 『信長公記』、その他『佐々隼人佐宛書状』、『織田玄蕃允秀敏への書状』より
(☆天文22年4月17日 赤塚の戦い 鳴海城主の山口教継の寝返り『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>)
(☆天文22年7月18日 萱津の戦い 坂井大膳の蜂起 『信長公記』首巻 <年代があっているの場合>)
 天文23年1月18日 村木城攻略、村木ノ砦攻めらるるの事 『信長公記』首巻
 天文23年7月   安食の戦い、清洲城分裂 『信長公記』首巻

このように、“赤塚の戦い”、“萱津の戦い”が誤記であれば、天文22年4月下旬の“正徳寺の会見”から天文23年1月18日“村木城攻略”まで平穏であったことが伺われます。しかも“村木城攻略”、“安食の戦い”共に信長の反撃戦であり、道三との同盟効果がはっきりと見てとれます。

『信長公記』には、“信秀の死”の次に“正徳寺の会見”が書かれています。
つまり、天文21(20)年3月3日“信秀の死”に死んだとすれば、“正徳寺の会見”は天文22年4月下旬 でしかありえません。
もし、そうでなければ、天文18年3月3日でなければいけなくなります。
しかし、“信秀の死”が『武功夜話』のいう天文18年3月3日であった場合、『氷室和子氏所蔵文書』などで見られる。「祖父江五郎右衛門尉へ尾張国内8ヶ所の「代官」を申し付ける。」との織田備後守信秀の書状に矛盾が生じます。
『武功夜話』の地名や年号に誤記・捏造が見られ、偽書と言われる所以であります。
『武功夜話』あるいは『寛政重修諸家譜』の天文18年説を信じない限り、『信長公記』より“正徳寺の会見”は天文22年4月下旬であることが判ります。

では、何故、道三が会見を申し出てきたのでしょうか。
道三が急に会見を申し出たのは、1553年(天文22)閏正月13日に傅役の平手政秀が諌死したことを受けてことであろうと思われます。
平手政秀は織田の重鎮であり、美濃との和議と帰蝶(濃姫)の輿入れを決めたのも政秀です。道三が政秀を諌死に追いやる信長に不信を抱いたからと考えるのが筋ではないでしょうか。
織田が今川の手中に落ちれば、美濃も安泰とは行きません。
鳴海城離反、萱津合戦と苦戦する信長への恫喝、あるいは、同盟破棄を含めた見定めと考えるべきでしょう。道三は同盟を表明するだけの価値があるかを確かめるつもりだったのです。

信長も道三の心中を察して、朱槍五百本、弓・鉄砲五百丁を並べます。
これが常備軍であることは上で説明した通りです。
信長の軍才を見抜いた道三は、平手政秀の自害を納得したと思われます。
そして、「されば無念なる事に候・・・云々」と言ったのでないでしょうか。ただ、この意味は、息子達が信長の軍門に下ることを予見したものではありません。
道三はきっとこう思っていたに違いありません。
「息子達の軍才では、とても信長に太刀打ちできまい。儂の目の黒い内に、この始末を付けておかねば」
道三は斉藤家の行く末を見据えて、信長を始末することを考えていたに違いありません。

道三は会見の翌年に自ら常在寺で剃髪入道を遂げて、利政から法名の『道三』に名を改めます。そして、家督を息子の斎藤義龍へ譲ります。
家督を譲ると言うのは引退したように思われがちですが、まったくの思い違いであります。
煩わしい内政を息子に任せ、敵対国に備えて身を軽くするという意味です。

桶狭間で有名な今川義元も永禄元年(1558年)に家督を氏真に譲ります。桶狭間が永禄3年(1560年)5月ですから2年前です。永禄元年(1558年)から本国である駿河・遠江に発給される文書の著名が今川氏真に変わっているので間違いありません。
では、義元は何をしていたのでしょうか。
義元は尾張侵攻を計画し、三河の地盤を固めておりました。
道三もまた正徳寺の会見の翌年、天文23年(1554年)に家督を譲り信長に備えたのです。

つまり、天文22年4月下旬に“正徳寺の会見”が行なければおかしい状況が作られているのです。

(2)に続く 

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