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敵兵を救った誇るべき日本軍人 工藤 俊作

この話を聞いたとき、かってないほど日本軍人を尊敬したことはない。『日本の武士道』とはこれほど美しく、壮大にして、誇るべきものだったのかと考えを改めたほどだ。エルトゥールル号遭難事件(1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国の軍艦エルトゥールル号が現在の和歌山沖に遭難した事件)で、困っている人にはわずかな食糧や衣服でも与える献身的な国民性は、日本人であることを誇りに思う事件であるが、この「巡洋艦「エクゼター」・駆逐艦「エンカウンター」の乗組員422名の漂流者救出事件」は、日本の武士道を誇りに思わずにはいられない。

もちろん、すべての日本軍人がそうであったとは言わないが、栗原忠道中将を始め、これほど優秀で人間味溢れる祖先たちが、連合国の言う「悪逆非道の侵略戦争」をおこなったというのが、如何に出鱈目であるか察しが付く。
ただ、それゆえに正しかったと言うつもりも毛頭ないが・・・。

<ドンちゃんの近現代史 目次> 
http://hitokuti2.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-a400.html

<<巡洋艦「エクゼター」・駆逐艦「エンカウンター」の乗組員422名の漂流者救出事件>>

工藤 俊作(くどう しゅんさく、1901年(明治34年)1月7日 – 1979年(昭和54年)1月12日)

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工藤俊作が駆逐艦「雷」の艦長として着任したのは、昭和15(1940)年11月1日である。身長185センチ、体重95キロと大きな体に、丸眼鏡をかけた柔和で愛嬌のある細い目をしており、「工藤大仏」というあだ名を持つ温厚な艦長であった。
着任の訓示は、
「本日より、本官は私的制裁を禁止する。とくに鉄拳制裁は厳禁する」
であり、
また、士官には、
「兵の失敗はやる気があってのことであれば、決して叱るな」
と口癖のように言っていたらしい。
また、見張りは遠方の流木と潜望鏡を見間違ったことを叱りもせず、「その注意力は立派だ」と返って褒めたと言われる。船員の士気向上は高く、「オラが館長は・・・」とか、「この艦長の為なら死ねる」と言われるほど、信頼を得ていた。

工藤俊作は、山形県東置賜郡屋代村(現高畠町)で、農家の工藤七郎兵衛、きんの次男として生まれる。山形県立米沢中学校を経て、1920年、海軍兵学校(51期)に入学する。

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当時の校長は鈴木貫太郎中将であり、その影響を受けたと思われる。
鈴木貫太郎は、親孝行で、礼儀正しく、長幼の序をわきまえ、心のうちの規律がきっちりしていた。外へ出て菓子か何かを貰ってくると、「ただいま帰りました」と手をついて挨拶してから、その包みをそのまま母親に差し出した。母が「お前がお上がり」と言っても、母が手をつけないかぎり決して食べなかった。そして、海軍軍人になって「鬼貫太郎」と異名をつけられた。それほど激しい闘志を内に持った人物に成長した。そんな勇猛さと律義さを海軍学校で鬼貫太郎から教えられたと思われる。
海軍兵学校校長に着任した鈴木貫太郎氏は、大正8年12月、兵学校の従来の教育方針を大改新した。
・鉄拳制裁の禁止
・歴史および哲学教育強化
・試験成績公表禁止(出世競争意識の防止)
<五省>
 一ツ 至誠に悖るなかりしか(真心に反する点はなかったか)
 一ツ 言行に恥ずるなかりしか(言行不一致な点はなかったか)
 一ツ 気力に欠くるなかりしか(精神力は十分であったか)
 一ツ 努力に憾みなかりしか(十分に努力したか)
 一ツ 不精に恒るなかりしか(最後まで十分に取り組んだか)
この5省は旧大日本帝国海軍の士官学校である海軍兵学校において、生徒がその日の行いを反省するために自らへ発していた5つの問いかけであるが、曾子(孔子の弟子)の「三省」に通ずる。
第一に、真心をこめて接したかどうかと反省してみる。
第二に、 友達との交際で、うそ・偽りがなかったかどうかと反省してみる。
第三に、 先生から習ったことを、よく習熟しなくはなかったと反省してみる。
と言われるが、実は3回反省するという意味ではない。
真意は、「人として、恥ずべき行為がなかったのか、常に反省しなさい」という意味であり、日々「5省」に慈しむ生徒は、自然と「三省」を身に付けていったのではないだろうか。鬼貫太郎の几帳面さを考えれば、生徒に徹底していたことは疑う必要もないだろう。

1942年と言えば、6月4日にミッドウェー海戦で大敗北を喫した年である。
同じ年の2月27日から3月1日にかけて、ジャワ島北方のスラバヤ沖で日本艦隊と英米蘭の連合艦隊一五隻との間で戦闘が行われた。
スラバヤ沖海戦である。
1942年(昭和17年)2月になると、日本軍はジャワ島占領を目的とした作戦が行われた。東部ジャワ攻略部隊として第48師団と坂口支隊が輸送船40隻に分乗し、その護衛艦を含めると総数67隻に及ぶ大規模な船団であった。
それを阻止しようと、連合国は、アメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国で構成された連合艦隊を編成した。しかし、ABDA連合艦隊とは名ばかりの寄せ集め艦隊であった。
オランダはすでに本国を失い、アメリカはまだ本腰を上げていない。オーストラリアは軽巡洋艦1隻とお粗末な状態であり、イギリスも先のマレー沖海戦で戦艦プリンス・オブ・ウェールズ、巡洋戦艦レパルスを失って精細を欠いていた。さらに連合艦隊は一度も合同訓練を行っていないというお粗末な状態で、無傷に等しい日本海軍と戦うのは自殺行為だったのかもしれない。
最もこの時点では、日本海軍の強さを連合国が自覚していなかったと考える方が正しい。

この戦闘の結果、
●日本軍
駆逐艦「朝雲」:大破
●連合国軍
重巡洋艦「エクセター」(英)
軽巡洋艦「デ・ロイテル」(蘭)、「ジャワ」(蘭)
駆逐艦「コルテノール」(蘭)、「エレクトラ」(英)、「ジュピター」(英)、「エンカウンター」(英)、「ポープ」(米):沈没
重巡洋艦「ヒューストン」(米):小破
と、日本軍の圧倒的勝利で終わっている。

掃討戦の中で、3月1日、13:35、エンカウンター沈没。15:20、ポープはスコールに逃げ込むも、日本軍航空隊の攻撃により航行不能となり、15:40、足柄、妙高の砲撃によりポープ沈没する。

翌3月2日午前10時、エンカウンター沈没より20時間以上過ぎた頃に、駆逐艦「雷」の見張りが400以上の漂流物を発見した。その漂流物は駆逐艦「エンカウンター」の乗務達であった。この救出劇を世間に発表したサー・サミュエル・フォール氏もその漂流者の一人である。

実際、救出は困難を極めた。戦闘区域で機関を停止し、救出するということは敵潜水艦に遭遇した際、丸腰で横たわるという自殺行為に等しい。戦闘は終了したと言えど、戦闘から1日経っただけで、敵潜水艦がいないという保証はない。前日も輸送艦が潜水艦からの攻撃を受けたという報告はあっても撃沈したという報告はない。

英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、『たとえ友軍であっても義務ではない。』と書かれている。

しかも救助者は駆逐艦「雷」の乗務員220名を超える400名以上である。救助した敵兵に艦を乗っ取られるのではないかという懸念まで船員の中に起こった。

しかし、艦長の工藤俊作は、「潜望鏡は見えないか」と見張りと探信員に再確認を指示し、敵潜水艦が近くにいない事を確認した後、午前10時頃「救助!」と命じた。

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フォール氏は語っている。
「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。
ところが「雷」は、メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚し、ボートを下した。私はこの瞬間を、夢ではないかと思った。何度も自分の腕をつねった。

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救助が始まった。
しかし、漂流者はすでに限界を超えており、自力でボートに乗ることさえできないほど疲弊していた。そこで艦長工藤は、大英断を下す。
「一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意」
副長、先任将校浅野市郎に救出の指揮を任せ、谷川清澄航海長に後甲板、田上俊三砲術長に中甲板の指揮を任せます。大救出劇のはじまりでした。

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佐々木確治一等水兵(当時21歳)が回想しています。
筏が艦側に近づいてきたので『上がれ!』と怒鳴り、縄梯子を出しましたが、誰も上がろうとしません。
敵側から、ロープ送れの手信号があったのでそうしましたら、筏上のビヤ樽のような高級将校(中佐)にそれを巻き付け、この人を上げてくれの手信号を送ってきました。
五人がかりで苦労して上げましたら、この人は『エクゼター』副長で、怪我をしておりました。
それから、『エクゼター』艦長、『エンカウンター』艦長が上がってきました。
その後敵兵はわれ先に『雷』に殺到してきました。

一時パニック状態になったが、ライフジャケットをつけた英海軍の青年士官らしき者が、後方から号令をかけると、整然となりました。この人は、独力で上がれない者には、われわれが差し出したロープを手繰り寄せて、負傷者の身体に巻き、そして、引けの合図を送り、多くの者を救助しておりました。『さすが、イギリス海軍士官』と、思いました。
彼らはこういう状況にあっても秩序を守っておりました。
艦に上がってきた順序は、最初が『エクゼター』『エンカウンター』両艦長、続いて負傷兵、その次が高級将校、そして下士官兵、そして殿が青年士官という順でした。
当初『雷』は自分で上がれる者を先にあげ、重傷者はあとで救助しようとしたんですが、彼らは頑として応じなかったのです。
その後私は、ミッドウェー海戦で戦艦『榛名』の乗組員として、カッターで沈没寸前の空母乗組員の救助をしましたが、この光景と対象的な情景を目にしました。

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フォール卿が語ります。
われわれは油や汚物にまみれていましたが、水兵たちは我々を取り囲み、嫌がりもせず元気づけるように物珍しげに見守っていました。
それから木綿のウエスと、アルコールをもってきて我々の身体についた油を拭き取ってくれました。
しっかりと、しかも優しく、それは全く思いもよらなかったことだったのです。
友情あふれる歓迎でした。
私は緑色のシャツ、カーキ色の半ズボンと、運動靴が支給されました。
これが終わって、甲板中央の広い処に案内され、丁重に籐椅子を差し出され、熱いミルク、ビール、ビスケットの接待を受けました。
私は、まさに『奇跡』が起こったと思い、これは夢でないかと、自分の手を何度もつねったのです。

救助活動を終えて、誰も帰還命令が出ると思ったとき、工藤艦長は次の指示を出します。
「左前方に舵を取れ、漂流者は全員救助する」
工藤艦長は漂流者の最後の一人まで救出することを告げます。戦闘になった時、燃料が足りなく危険性を顧みず、漂流者422名を救出したのです。

救出された将校は甲板に呼ばれ、工藤艦長はこう言いました。
「You had fought breavely. (諸官は勇敢に戦われた)」、
「Now, you are the guest of the Imperial Japanese Navy (諸官は日本帝国海軍の名誉あるゲストである)」
「I respect the English Navy,but your government is foolish make war on Japan.(私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争をしかけたことは愚かなことである)」

敵を敬愛する心、それこそ武士道なのです。
英国には騎士道があり、英国軍人は駆逐艦「雷」の命に従います。

<<工藤 俊作が残した武士道>>

サー・サミュエル・フォール氏は、駆逐艦「エンカウンター」の乗務員であり、駆逐艦「雷」のその礼儀正しい捕虜の扱いに感動したそうです。
戦後、サー・サミュエル・フォール氏は外交官となり、その功績によってサーの称号を受けております。その彼が外交官を定年退職後、1996年に自伝「マイ・ラッキー・ライフ」を上梓した際、その巻頭に「元帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と記した書を発刊します。

大東亜戦争中に日本軍の捕虜となったイギリス軍将兵の一部が、その処遇を恨んで今でも反日運動を展開する中、1993年(平成5年)に細川護煕首相がイギリス人元捕虜に謝罪し、「在英の日本企業に賠償させる」と発言した為に、旧日本軍による捕虜の問題が再燃することになります。そもそも、この問題は、国際法上、講和条約成立をもって解決したものなのですが、これは細川護煕首相の失言と言わざる得ません。

サー・フォール氏は1996年の自伝に続いて、1998年4月29日号の「ザ・タイムズ」に論考を掲載し、工藤艦長の行為を紹介しながら、「友軍以上の厚遇を受けた」と記述し、日本との和解を主張しました。
サーの称号を持つフォール氏の論考はイギリスの読者に感銘を与えました。それ以降、元捕虜たちの活動は急速にトーンダウンしたそうです。
1998年(平成10年)5月の天皇皇后両陛下のご訪英を成功に導いた影の功労者の一人だったことは疑う必要もないでしょう。

また、1987年(昭和62年)5月、東芝ココム違反事件が発覚し、アメリカ国民は日本を「安保ただ乗り」と批判、対日貿易赤字の拡大と相まって反日運動が各地で起こり、日米関係は緊張していたのですが、米海軍とアーレー・バーク大将ら提督たちは帝国海軍の後継である海自を称賛し日本擁護に回ったのです。
なぜかこの年、米海軍はその機関紙「プロシーディングス」新年号で、サー・フォールが「chivalry(騎士道)」というタイトルで工藤艦長の救助劇を称賛した論文を特集していたのです。
サー・フォール氏の貢献は、こんなところにもあったのです。

工藤艦長の英断が、後の日英・日米に大きな功績となって現れます。しかし、そのことを工藤艦長が知ることはありません。
救出劇の約5カ月後、1942年(昭和17年)8月、工藤艦長は駆逐艦「響」艦長に就任します。1944年11月から体調を崩し、翌年3月15日に待命となり、そのまま終戦を迎えたそうです。

 駆逐艦「雷」は、1944年(昭和19年)4月13日、船団護衛中にグアム島の西で米潜水艦の雷撃を受け沈没、乗員全員が戦死。

戦後、工藤艦長は戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院を手伝いながらひっそりと暮らし、1979年(昭和54年)、工藤艦長は病気で亡くなります。子孫もなく、工藤家は絶えたそうです。

工藤艦長の死を知ったサー・フォールは、墓参を行い、遺族に感謝の意を表したいと願い、2003年10月に来日しました。来日に際して、海自はサー・フォール氏を観艦式に招待しました。当時84歳のサー・フォール氏は、関係者に422名の救出劇と工藤艦長の英断を語り深く感謝したそうです。

この『武士道』は、未来永劫の子々孫々に伝えていきたいものです。

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