10.9 1551年(天文20年)丹羽氏勝と丹羽氏秀の水利権争い事、 横山麓合戦
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<<信長公記の軌跡シリーズ、10.9 横山麓合戦>>
岩崎丹羽氏勝と横山麓合戦は、信長が尾張織田家の家督を継いだ最初の戦いです。
大田牛一署の「信長公記」には、この戦いが記載されていませんが、『丹羽家譜』『三草本』『丹羽軍功録』(東大史料編纂所刊行の『史料綜覧』巻十、天文二十年是歳条)に「尾張藤島城将丹羽氏秀、織田信長ノ援ニ依リ、其カ宗家、同国岩崎城将丹羽氏職ヲ攻メテ敗績ス」、信長が氏職(氏勝の父)に「鉄炮卅挺」(鉄砲30丁)によって「伏撃」されて敗れたと書かれております。
この敗戦が鳴海城主の山口左馬助父子の謀反(『信長公記』11、鳴海城離反 三ノ山赤塚合戦の事)の原因であることは間違いないでしょう。
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<<10.9 横山麓合戦 水利権争いの事>>
<岩崎城と横山麓合戦>
岩崎丹羽氏勝の居城は岩崎城です。
岩崎城は、那古野城の東14kmに位置し、信秀(信長の父)が尾張と三河を結ぶ街道の要衝に築いたといわれる平山城です。天文7年(1538)に地元の土豪・丹羽氏清を城主とし、以来、岩崎丹羽氏は4代に渡って60年間もその地を居城としました。
岩崎の土地は、濃尾平野の東、尾張丘陵(おわりきゅうりょう)の境界線にあり、東北の猿投山麓の三ヶ峯池から発して、尾張国愛知郡(日進市)を横断する社(米野木)川(現在の天白川)の西に位置します。
この社川の東側が、合戦の発端となる丹羽氏秀の居城、藤島城がありました。
川の水は農家にとって死活問題です。東と西の農村間でその水利権を争う戦いが起ります。東に位置する岩崎丹羽(氏勝)は、宗家の武力を背景に水利権を思う儘にしました。分家の藤島丹羽(氏秀)の武力では解決できないので、尾張の実力者である織田家(信長)に陳情した訳です。
信長は岩崎丹羽(氏勝)に仲介を申し出ましたが、岩崎丹羽(氏勝)は事も有ろうに藤島城を攻めたてます。信長は後詰(救援)に兵を揚げます。しかし、横山麓に差し掛かった頃、丹羽氏職の鉄砲30丁の伏撃で軍が崩れ、信長の軍は平針まで敗走しました。
伏撃を受けた横山麓がどこか特定できませんが岩崎城の近隣とすると5km近く敗走したことになります。追撃を振り切った信長は織田領まで逃げ帰り、二度と兵を向けなかったと言われております。
藤島丹羽(氏秀)は織田軍の敗績を聞いて、一族を連れて三河へ敗走し、岩崎丹羽(氏勝)は藤島城を手に入れて、藤島城の城主を丹羽氏職としました。
<岩崎丹羽の動向>
▲大永5年(1525)、水野氏被官の丹羽五郎左衛門(楞厳寺寄進状)
●??年(????)織田信秀により岩崎城が築城され、属将・荒川頼宗が守備する。
▲享禄2年(1529) 三河国・松平清康(家康の祖父)に尾張攻略の足がかりとして攻め落とされる。
■天文4年(1535)12月、守山崩れによる松平の敗走により、丹羽氏も岩崎城を奪取し勢力を拡大していった。
■天文7年(1538)地元の土豪・丹羽氏清が岩崎城を修復して居城とする。
●??年(????)丹羽氏勝、織田信秀の娘を側室にする。
○天文9年(1540)信秀は三河に侵入し松平家の安祥城を攻略する。
▲天文19年(1550)12月、今川氏被官の丹羽隼人佐(今川義元判物)
朔日付けの丹羽隼人佐に宛てた有名な宛行状で、丹羽隼人佐は天文十九年六月に福谷(ウキガイ)砦に上番(守備)した功績によって、旧来の領地であった沓掛・高大根・部田村を同年12月1日に返還される。岩崎丹羽氏が今川方からの大きな圧力を受けていたことが判る。
「沓掛 高大根 部田村之事
右 去六月福谷外在城以来 別令馳走之間 令還付之畢 前々売地等之事 今度一変之上者 只今不及其沙汰 可令所務之 并近藤右京亮相拘名職 自然彼者雖属味方 為本地之条 令散田一円可収務之 横根大脇之事 是又数年令知行之上者 領掌不可有相違 弥可抽奉公者也
仍如件
天文十九
十二月朔日 治部大輔(花押)
丹羽隼人佐殿」
▲天文廿年(1551) <<横山麓合戦>>
▲天文廿二年(1553)、今川方福島氏与力と思われる丹羽右近(参詣道中日記)
『大村家盛参詣道中日記』に「岩さき(崎)ニ着、城下より五丁計行候て、ふし(藤)島と申在所へ行道六里、・・・城主庭(丹羽)ノ右近[36]と申人、・・・岩崎の城主福島(クシマ)、するか(駿河)より被越て被持候、」とあって、岩崎丹羽氏は今川方に服属しその居城を駿河方の城番に明け渡している。
●天文廿四年(1555)勘十郎殿、林、柴田御敵の事『信長公記 首巻 第十七段』
「(天文廿四年四月に信光から譲られていた)守山の城、孫十郎(信次)殿年寄衆として相抱え候、楯籠もる人数、角田新五・高橋与四郎・喜多野下野守・坂井七郎左衛門・坂井喜左衛門・其の子坂井孫平次・岩崎丹羽源六者ども、是れ等として、相抱え候」
丹羽源六氏勝は岩崎城を回復してその城主として守山城主の重臣となっている。
●弘治二年(1556)正月あるいは2月 『武徳編年集成』
「正月あるいは二月、岡崎衆をもって加茂郡福谷(ウキガイ)に砦構え、酒井忠次を主将として渡辺正綱・大久保忠勝・大久保忠佐・阿部忠政・杉浦勝吉・大原惟宗・筧正重百騎で織田氏に備えていたらしいのを、織田方は柴田勝家・荒川頼季が五百騎で攻める。先鋒の早川藤太は渡辺正綱に射られ、大久保忠勝に討取られる。柴田勝家も阿部忠政に射られて負傷し、織田方143人を討死させて退いたという。」
岩崎丹羽氏が織田方でないと、加茂郡福谷(ウキガイ)に砦を攻めることができない。
▲永禄二年(1559)四月二十六日『東照軍鑑』
「丹羽氏を牽制するため岩崎面を押さえて信長自身が平針(天白区)に出陣し、柴田勝家・荒川新八郎らに国境福谷砦を攻めさせたが砦を構えて酒井忠次を配していた松平方に敗れた。」
岩崎丹羽氏が再び、織田と敵対している。
○永禄三年(1560)壬子五月十七日、今川義元討死の事『信長公記 首巻 第二十四段』
(桶狭間の戦い)
○永禄10年(1567)清洲同盟
信長の娘五徳姫と家康嫡男松平信康との婚姻が成立した。
●永禄12年(1569年)、丹羽氏勝ら丹羽衆が伊勢大河内攻めに加わる。
●天正8年(1580)八月、突如として信長より追放される。
「子細は先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり。」
■天正11年(1583)丹羽氏次(氏勝の子)、本能寺の変で信長が死去した後に信雄に仕えて各地で武功を挙げたが、信雄と対立してその勘気を被ったため、徳川家康の家臣となった。
(●は、どちらかというと信長方、▲は、どちらかというと今川方)
「丹羽家譜・三草本」「丹羽氏軍功録」によると、丹羽氏の遠祖は清和源氏足利家の一色(いっしき)分流とされています。
一色家初代の一色公深(こうしん)は吉良庄一色(愛知県幡豆郡一色町)に移り住み、三代目直氏のさらに三代後の氏明が尾張国丹羽郡の地に移住して、性を丹羽と改めます。
さらに、氏明から四代後の氏従(うじより)が現在の日進市の南に移り住み、岩崎丹羽氏になったと言われておりますが、実際は古代尾張国丹羽郡一帯に住んでいた豪族の子孫とも言われております。
岩崎丹羽氏3代目、丹羽氏清(うじきよ)の時代に、岩崎城の支配者であった松平清康(家康の祖父)が、世に言う“守山崩れ”による敗走したことで岩崎城を丹羽氏が占領し、以来、約60年間の居城となります。
岩崎城は織田信秀が築城します。信秀が勝幡から那古野に移ったのが、1532年ですから岩崎城の築城はそれ以降という事になります。
同じ頃、三河国・松平清康(家康の祖父)も頭角を現して、6年で三河を統一し、享禄2年(1529)には尾張国岩崎郷(岩崎城)も落とされます。天文4年(1535)12月の“守山崩れ”がなければ、ライバルであった信秀も打ち取られて、尾張・三河・遠江(駿河)の3(4)ヵ国が統一されていたかもしれません。
“守山崩れ”の松平の敗走に際して、丹羽氏は岩崎城を奪取します。おそらく、信秀の娘を側室に迎え、信秀と結んだのもこの頃でしょう。
一方、信秀はこれに乗じて三河の国に進出します。天文13年(1544)には、岡崎城まで5.6kmの安祥城も攻略しています。清康を失った松平家には、織田軍を止める術もなかったのでしょう。しかし、松平が今川を頼ったことで織田と今川の敵対関係が始まります。
「小豆坂の合戦(1542)」では、今川を退けた信秀が戦勝祝として牛頭天王神宮にて相撲奉納試合を行っております。その中に「瀬戸町からは、岩崎の豪族の丹羽源六郎・氏織、織田準一門の下方貞清」とありますから、岩崎丹羽氏も信秀の配下として、戦っていたかもしれません。
さて、信秀のカリスマにも天文13年(1544)の安祥城の攻略でピークを迎えます。勢いに乗った信秀は天文16年(1547)に美濃国の斎藤道三の稲葉山城を攻めて、手痛い反撃を食らい敗走したことをきっかけに苦しい防戦を強いられます。天文18年(1549)に太原雪斎に安祥城を奪い返され、天文20年(1551)3月3日に信秀は死去します。
天文19年(1550)12月1日には、岩崎丹羽と思われる丹羽隼人佐が沓掛・高大根・部田村を返還されていることを見ても、天文18年(1549)以降の今川の猛攻で岩崎丹羽氏は陥落、あるいは寝返っていたと考えられます。
天文廿年(1551)の横山麓合戦は、藤島城の丹羽氏秀が信長を頼ってきたことをきっかけにした反撃戦だったのかもしれません。この時点では、岩崎丹羽は今川陣営に属していたと考えるべきでしょう。しかし、天文廿四年(1555)には織田陣営に寝返っており、また、永禄二年(1559)四月二十六日の記録によると今川陣営に属しています。
桶狭間が終わるまで岩崎丹羽氏は、今川と織田の間を行ったり来たりしているように思えます。
実際、両陣営に属しているフリをした日和見をしていたと考えるべきではないでしょうか。
このような外交は、刈谷の水野氏にも言えるようです。
<横山麓合戦とその背景>
藤島城の丹羽右馬充氏秀は、岩崎丹羽の分家に当たります。この岩崎郷には、藤島・本郷・藤枝・折戸・浅田・赤池という沢山の丹羽の分家が存在していました。
(岩崎城公式ホームページより)
城・館と書かれていますが、実際は砦のようなものかもしれません。
この岩崎郷は、濃尾平野の平野部と尾張丘陵の境界があります。猿投山麓の三ヶ峯池から流れてくる社(米野木)川は、農業用水としてとても重要なものです。この水の利権を巡って、本家(岩崎丹羽氏)と分家(藤島丹羽氏)が争ったと言われております。
しかし、あくまで一説に過ぎません。
丹羽の動向にあるように、信長が家督を継いだ頃は、岩崎丹羽氏は今川陣営に組みしております。藤島丹羽氏が織田と組んで岩崎丹羽氏を追い落とそうと考えていたのかもしれません。
または、信長の調略によって寝返ったのかもしれません。信秀を失った家中は、信行を擁立しようとする分裂の危機でありました。岩崎郷に隣接する下社城は柴田勝家が生まれた城と言われますので、勝家の所領もその付近であったと推測されます。
下社城の近隣の国人は、今川の脅威を払い除けるお館を望んでおりました。『うつけ』と呼ばれるような信長は、勝家には理解できない存在だったと思われます。
ゆえに、家督を継いだ信長がやっておきたいことは、“力の鼓舞”ではないでしょうか。
今川との境界国である岩崎丹羽氏を組み入れることができれば、信長の家督を反対する者を一掃できると考えたのではないでしょうか。
一説には、藤島丹羽氏は、天文10年(1541)頃より勢力を増し、本家と諍いを起こしていたともあります。(藤島丹羽)氏秀が信長と接近したことを警戒して、岩崎丹羽氏が 藤島城を襲ったのかもしれませんし、信長と氏秀が共闘して岩崎城を強襲したのかもしれません。ただ、敗れた氏秀が三河へ逃亡したことを鑑みて、私は信長との共闘はないと考えております。
やはり、本家と水利権で争いを起こしていた氏秀は今川家に訴えてみたが埒が明かず、信長を頼ったと考えるのが正着でしょう。
ただ、信長と氏秀の関係がどういうものであったかは判りません。
今川に安祥城を再奪取される天文18年(1549)以前は、織田に組みしていたと考えられますから、横山麓合戦(1551)まで2年しかありません。当然、信長と氏秀の交流もあったと考えるべきでしょう。
氏秀は信長を信じて、信長を頼ったのか?
それとも信長の調略に応じて、岩崎丹羽本家を裏切ったのか?
私は、信長を信じて頼ったと考えますが、
さて、さて、歴史の真実はどこにあるのでしょう。
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無造作に書いたものが沢山あるのですが、整理されておりません。
順番の整理して、発表してゆきます。
しばらくお持ち下さい。
投稿: (管理人)donnat | 2012年10月25日 (木) 12時49分
農業用水の水利権争いの件古今東西絶えませんね。愛知県は比較的水に恵まれていたと思っていました。
冒頭の写真もう少し低倍率で美濃、尾張、三河、額田など立地がわかればと思いました。今後の投稿期待します。
投稿: tetsu | 2012年10月29日 (月) 01時37分