コラム [亀と猿]
私が好きな言葉に、荀子の『驥一日而千里』がある。
驥一日而千里
駑馬十駕
則亦及之矣
故蹞歩而不休
跛鼈千里
累土而不輟
丘山崇成
<読み>
驥(き)は一日(いちじつ)にして千里(せんり)なるも、駑馬(だば)も十駕(じゅうと)すれば則(すなわ)ち亦(ま)たこれに及ぶ。
故(ゆえ)に蹞歩(きほ)して休やまざれば、跛鼈(はべつ)も千里、累土(るいど)して輟(や)まざれば、丘山(きゅうざん)も崇成(すうせい)す。
<訳>
驥は一日に千里も走るというけれど、足の遅い駄馬であっても十日も車につないで走らせれば、同じ距離を進むことができる。
足の不自由なすっぽんも歩き続ければ、千里の先まで行くことができる。能力の劣った者でも努力し続ければ成功することのたとえ。
私は当然のことながら、才能も才気もない人間なので努力する以外に他にない。オリンピックで活躍する人々は、才能も才気もある方々だから遠く及ぶ所でない。素直に応援できるのもその差があり過ぎるからだ。
努力を惜しまない方々に拍手を送りたい。
パラリンピックで頑張られている方々も『ガンバレ!』と応援を送りたい。
さて、韓非子の言葉にこうある。
恵子曰、置猿於柙中、則与豚同。
非所以逞能也。
<読み>
恵子曰く、猿を柙中(こうちゅう)に置けば、則(すなわ)ち豚と同じ。
故に勢(いきほ)ひの便(べん)ならざるは、能を逞しうする所以(ゆゑん)に非(あら)ざるなり。
<訳>
猿を檻中に置けば、豚と同じである。勢いが不便であれば、能力も発揮できないのだ、
公務員試験を受けても私などでは到底受かるハズもなく、学歴を含めて雲の上の存在であった。しかし、水戸黄門のOP「あゝ人生に涙あり」で唄われているように、“泣くのがいらなら、さあ、歩け~!”と歩いてきたわけだ。
さて、雲の上の人は、官僚組織という枠の中で動いて、その外に出ることがない。
正に柙中の中で惰眠をむさぼっていた猿なのだ。
気が付けば、遥か遠くまで追い抜いていたという訳だ。
財政問題、経済問題、エネルギー問題、領土問題と山積みの課題を残して、難問と項垂れている彼らは、愚かな過去の遺産と成り果てている。私はこんなしょうもない連中に抜かされて悔しい想いをしていたのかと情けなくなる。
本当に人間として恥ずかしい。
いい加減、その柙中を破って外の世界に出てこい。
おまえ達が虫けらのように眺めていた我々にこれほど虐げられた視線で見下ろされているんだぞ。
悔しくないのか?
しかし、こうも考える。
彼らは1日で千里を駆ける名馬の『驥』である。私が30年掛けて得た知識をものの半年もあれば、学んでしまうのであろう。
しかし、先に行けばいい。また、きっと追い抜いてやると・・・
そんな未来があることを。
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