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石原莞爾の中国論

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<この歴史館へGO! 歴史のブログ>

石原莞爾は、中国人をどう思っていたのだろうか?

石原莞爾は漢口に駐在していた時代に、無気力に生活する中国人を見て、ひどく失望しているが、一面孫文の革命の報を聞いたとき「バンザイ!」と叫んだほど、中国人にアジア人を意識していた。

しかし、毛沢東に言わせれば「貧しくて無学無知」の人々だそうだ。貧しくて無学無知の人々の中には、他人が早く死ぬことを望む性格や、人の弱みを見ればとことんつけこむ民族性などが形成されていったと言っている。

元や清帝国が漢人ではなく蛮勇の異民族であっても中国人は受け入れている。

それは、毛沢東いう石原莞爾が見た無気力に生活する中国人ではないだろうか。しかし、同時に革命の報を喜ぶ国民性を残している。

その二面性を確信したとき、石原莞爾の脳裏に理想国家「満州合衆国」が生まれたのではないだろうか。

<「東亜連盟」構想 >

石原は仏典と日蓮の教えを研究して、「世界は永久平和に向かって流れている」「永久平和は世界最終戦争も後にやってくる」そして「その時期は21世紀初頭」と推論した。

石原は大正13年にドイツ留学より帰国し、陸大の教官として、こうした独自の戦争史観を発表し、にわかに注目を集める。

世界最終戦争は西洋の盟主たるアメリカと東亜連盟との間で戦われる。東洋諸民族は平等の関係で信義を守り、協同して西洋やロシアに対峙しなければならない。東洋諸民族の大同団結のためには、満州の大地に、五民族が完全平等に参加協力する理想国家「満州合衆国」を創設する。

石原の考えは、「日本が満州を占領して、五族協和の理想郷をつくる」というものである。排日運動を根本的に無くすには、五民族の完全平等の国をつくらなければならない。その実現のための満州占領である。

しかし、ここで軍部との認識にズレが生じ始めていた。

石原は完全な平等を考えていた。

石原莞爾が満州事変を起こす前、満州在留の日本人団体の有力者であった小沢開作に「関東軍の腰の軍刀は竹刀か!!」となじられ時、石原「腰の軍刀は竹刀で結構。東北陸軍(張学良軍)などは竹刀でも一撃で倒せる。」と豪語した有名な話がある。

これは逆に言えば張学良軍の様な軍閥の軍隊になら勝てるという意味であるが、同時に満州在留の日本人の為に軍を動かす意思のない現れである。

しかし、侵略そのものに否定的でもない。

同じく満州事変を起こす前であるが、「戦争史」などを述べると、世界的な歴史家の貫禄を感じさせられた。

日本の侵略という列強の非難を拒絶した。
「世界の戦争はまだ帝国主義的な侵略の段階にある。てめえたちだって、そうじやないか」
と石原はあざ笑った。
「今の日本も、近代国家として発展しなければならぬ運命をもつ日本帝国ではないか」
と言っておいて、いわゆる「石原構想」を繰り返すのだった。
「人口が膨れ上がり、食糧問題でも行き詰まりをみせている日本は、せっかく獲った権益を守り、これを足がかりに、満蒙で活路を開こうとするのは当然のことではないか。中国はいつも内乱を起していて、主権確立が難かしい。
日本の力で治安維持を行ない、各民族共存共栄でやってゆけば、発展は目に見えている。
何も日本だけの利益を考えているわけではない。日本が満蒙を領有し、統治方法は総督制にする。
日本人は軍事と大規模な企業、中国人は商業と農業、朝鮮人は水田、蒙古人は牧畜、といった具合におのおのの特性を活かすことにあるのだ。
従って満蒙領有の構想は、在満3千万民衆の共同の敵、東北軍閥を倒すことで、各民族の幸福と発展を促すことが目的とならなければならん。
満州の現住民は漢民族より大和民族に近い。」
と言っている。

満州には、中国人3600万人、満州人270万人、朝鮮人170万人、蒙古人100万人、日本人70万人が住んでいた。五族が互いの民族的個性を尊重しつつ、民族的差別を廃し、友情と同志的結合で理想の東亜多民族国家を建設しようとしたのである。

石原の行ったことは「大革命」であった。

それゆえに躊躇なく東京政府の意向を無視した。だから、多くの中国人、朝鮮人が石原の理想に共鳴し希望を託したと思われる。

「日本人を離脱して、満州人になりたい」と言っていたらしい。

石原は建国の年(昭和7年)の8月に帰国する。

昭和10年8月、参謀本部第二課長(作戦担当)となり、東京に着任。ソ連の急増強化された軍事力に対抗するため、満州の産業開発をなして、日満一体の国防体制づくりの推進に着手した。

石原莞爾の特筆すべきは、「東亜連盟」構想である。
1.日本は中国に有する権益は全部返還する。
2.日本の権益擁護の駐兵は全部撤退する。
3.中国の独立を保全し、相互に内政干渉しない。
4.両国は民族協和の運動を展開する。
5.中国は満州国の独立を承認する。

蒋介石の南京政府は「日本の有力軍人から、このような話を聞かされるとは思わなかった」とびっくりし、石原に全面賛成の意向を表明した。

しかし、昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋で軍事衝突(北支事変)が生じた。

陸軍統制派の意思は、石原莞爾とまったく別のところへ向かっていた。

<五族協和の独立国>

五族協和(五族とは,日本人,中国人,ロシア人,朝鮮人,蒙古人)
「満州は日本のための領土ではなく,日中共同の独立国家であり,諸民族協和の理想郷だ。」 
(「日本の戦争」:田原総一朗より 石原莞爾の言葉)

ユダヤ人もアラブ人も、ソ連人もアメリカ人も、それぞれ民族としての自己同一性は鮮明です。フランス人もイギリス人も中国人も、その自己同一性は日本人ほど不透明ではありません。ところが、ひとり日本人のみが、外見こそメガネとカメラで戯画化されるほど個性的であるにもかかわらず、その内面となると、「曰く不可解」ないしはエコノミック・アニマルという評言が出るありさまです。
(中略)
石原莞爾が民族協和の総本山として建学した満州建国大学の教授中山優氏は、戦後、その回想記のなかで次のように述べています。
「天才の真の意味は、その存在によって何時でも人々に希望を抱かせることであるかも知れぬ。(略)第一次世界大戦当時、北京の辜鴻銘翁がよく西洋人の記者を捉えては、『あなた方は文明の意味を知っているかね。文明とは自動車や飛行機の数ではないよ。一国文明の高さは、その国の文明が生んだ最高の人物によってきまるものだ』といったものだが、それが今日の我々には痛切に思い出される。何の幸いか、我々は身近く将軍を知り得た。将軍は、日本アルプスの雪線の様に、我々の民族能力の水準の高さを示している。それは又地下の水脈の如く、我々の努力によって無限の文化価値を生み出す可能性を示している。」
(石原莞爾選集(全10巻)合本版)

石原莞爾が打ち出した国家建設の理念は「五族協和」で、満州国旗である赤・青・白・黒・黄の五色組み合わせが象徴している通り、赤は日本人・青は朝鮮人・白は満州人・黒は蒙古人・黄色は漢人を表し、この五色の協和を目指す理念であった。毛沢東は、石原莞爾が作った満州国をお手本にして、中国を建国したと言われている毛沢東に「日本の皇軍こそ、中国人民を教育した。日本の侵略がなかったら、中国人民は覚醒しなかった。日本の皇軍は我々に良い事をしたから、私は日本皇軍に感謝する」と語った。中国の歴史の中で、日本人に感謝の念を表したのは、毛沢東だけである。
(石原莞爾選集(全10巻)合本版)

京都16師団長時代 、京大の公開講演会に招かれて、こう語った
「敵は中国人ではない、日本人である。 自己の野心と功名心に駆り立てられて、武器を取った東条、梅津の輩こそ、日本の敵である。彼等こそ銃殺されるべき人物である」
(京都16師団長時代 、京大の公開講演会)

昭和16年、東条陸相の名で『戦陣訓』が配布される。「死するとも虜囚の辱めを受けるなかれ」という有名なやつである。

石原の信念とは、神たる兵は死んではならぬ、神たる兵は死んではいけない、「死んでたまるか」なのである。

石原は『戦陣訓』を「東条は、己を何と心得ているのか。成り上がりの中将ではないか。全軍に精神訓話などもっての外であり、師団将兵は戦陣訓を読むべからず」と痛烈に罵倒した。

石原莞爾の敵は、中国ではなく同胞の東条率いる統制派となっていた。

もし、東洋の奇跡、「満州国」を完成させることができたなら、まったく違う未来が開けていたことは言うまでもない。

しかし、時代の風雲児、石原莞爾は理解することもなく、軍より排斥されていった。

統制派は含め、多くの日本人は勝利の美酒に酔いしれており、

関東軍1万4000人に対して、張学良の軍閥兵16万人。10倍以上の兵力差を無視して成功させた石原莞爾の軍事的才能しか見えていなかった。

日本人は凄いという大きな勘違いと、独断専行であっても成功すれば良いという悪しき教訓を残した。

石原莞爾にしてみれば、

自分はそんなことをしていないと全否定するだろう。

満州事変は、多くの外的要因と満州のある内的要因の間隙を付いたクーデターであって、関東軍が強い訳でも、自分が優れていた訳でもないと言うだろう。

しかも、日本国から関東軍を含めた独立戦争の体を成していた。

残念ながら、その意図は統制派によって瓦解させられた。統制派の好き勝手ができる軍を生み出しただけである。

最後に、石原莞爾が太平洋戦争をどう捉えていたかというと、

山形県知事が石原宅を訪ね、
「アメリカとの戦争の見通しはどうでしょうか。」
と尋ねると,石原は、
「ご心配におよびません。必ず負けます。」
と言った。そしてさらに言葉を続け,
「負けても日本民族は亡びません。負けて目が覚めてから,はじめて立ち上がり,日本は本当の姿を現しますよ。」
と述べたという。
 (「秘録 石原莞爾」:横山臣平より)

石原莞爾を理解するには、60年の時が必要だったようだ。

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