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通州事件とプロパガンダ

通州事件は上海事変に先駆けて起こった事件で広安門事件に連動して起こりました。
味方であった冀東防共自治政府所属の保安隊が国民政府側に寝返って反乱を起こし、通州城内に居住していた日本人・朝鮮人の民間人を殺害した事件です。
犠牲者は日本の外務省(当時)も公式声明で「日本人居留民約260人が大虐殺された。」と報じられています。
通州人口は数万人で通州城内に居住していた日本人・朝鮮人は、400人程度だったと言われており、日本人狩りと思われる狂気事件であります。
味方であったハズの冀東保安隊が何故、反乱に至ったのかは判りません。
その残虐なまでの行為を日本の新聞社が一斉に報じております。

しかし、中国における残虐な事件は数多くあり、何故この事件が特筆されて報道されたか?
戦線拡大に消極的な軍部と積極的な政権という奇妙な構図が起こっております。
結局、近衛政権と新聞社(論説委員、記者)が結託した結果、戦意高揚を誘い戦争推進に邁進したとしか思えないのです。

この政権とマスメディアが一斉に民意を誘導する行為は、2011年3月11日の福島第一原子力報道と重なってしまいます。
それまでの姿勢を覆して、有力論説員とキャスターが『放射能は安全です』と全社が一斉に報道を繰り返します。
福島原発問題は平成の『通州事件』と同じ趣きを感じずにいられません。

中国人の悲惨な行為を伝える事件として、『通州事件』は特筆すべき事件ではなく。数多にある怪奇事件の1つに過ぎません。
歴史的な価値としてあるのは、日本のマスコミが『通州事件』をプロパガンダとして報じたことが重要であります。

『通州事件』を日本のマスコミが“プロパガンダ”として報じた最初の事件として記憶しましょう。

【年代の一連の流れ】

・1927年(昭和2年)3月 南京事件
・1927年(昭和2年)4月3日 漢口事件
・1931年(昭和6年、民国20年)9月18日 満州事変
・1932年(昭和7年、民国21年) 満州国建国
・1932年(昭和7年)1月~3月 第一次上海事変

・1936年(昭和11年)9月23日 日本人水兵射殺事件 
・1937年(昭和12年)7月7日 盧溝橋事件
・1937年(昭和12年)7月25日から26日 廊坊事件(ろうぼうじけん)

・1937年(昭和12年)7月26日 広安門事件
・1937年(昭和12年)7月26日 平津作戦
・1937年(昭和12年)7月29日 通州事件

・1937年(昭和12年)8月13日 第二次上海事変
・1937年(昭和12年)南京事件(なんきんじけん) 「南京大虐殺」
 

<通州事件の全容>

通州事件は、盧溝橋事件から始まる支那事変(特に広安門事件)の一環として見るべきだろう。

1937年7月7日に日本軍が盧溝橋北側の永定河左岸蕉地で演習を終了した日本軍支那駐屯歩兵第一聯隊第三大隊第八中隊への何者かによる数発の発砲が起こる。

盧溝橋は北京市の南西約15kmの、豊台区を流れる盧溝河(現在は永定河)に架かる石造りのアーチ橋である。

関東軍は北清事変最終議定書(北京議定書)に基づき、1936年5月には従来の二千名から五千名に増強されていたが、日本人居留者の保護には兵力の不足が嘆かれていた。

盧溝橋事件の戦力は、支那駐屯軍 総兵力約5,600名に対して、中国国民党国民革命軍 第29軍 総兵力約153,000名です。

参謀本部は、急遽戦力の増強を図ります。

軍部が戦闘に消極的であるのに対して、日本政府は積極的な抗戦姿勢を崩しません。

広安門事件(北平総攻撃)が起こる頃には、支那駐屯軍 約20,000人(1個師団、1個旅団ほか)まで増強しますが、中国国民党国民革命軍は約46,000人以上(3個師団)が健在でした。

7月26日、支那駐屯軍司令官(香月清司)は27日正午ないし28日正午を期限とした最後通牒を発します。

7月27日、通州西方すぐに中国軍第29軍の一部隊が駐屯しており、この部隊、独立第39旅の傳鴻恩部隊に対し、日本軍は確たる理由もなく攻撃を行い撃滅します。

日本軍の攻撃は、その期限以前のもので不法行為と呼べる戦闘でした。

その理由は7月28日からの北京総攻撃に際して、重要な兵站拠点である通州付近に第29軍の部隊を残しておきたくなかったからと考えられます。

同じ27日、日本軍は北平南方10kmほどの団河、馬駒橋、北平北方の湯山を占領しています。理由は同じでしょう。

7月28日、日本軍による北平総攻撃(平津作戦)が明け方に開始されます。

主戦場は北平南方の南苑です。北平とは、旧北京市の名称です。南苑は北京市の市街地南西部に位置し、豊台区を意味しますから、主戦場は盧溝橋付近ということです。

通州事件の起こった通州市は北京の西50キロでありますから、主戦場からそれほど離れたところではありません。

28日午後2時ごろ、日本軍の猛攻で南苑が陥落します。

南苑で損害を受けた第114旅や第38師特務団は南西にある固安に向け撤退し、この28日の戦闘の結果を受けて、第29軍軍長の宋哲元は保定にまで下がります。

固安は南苑の南西に位置し、保定は北京市から南西100キロ近く離れております。

日本軍は元々天津(北京市の東南120キロ)に軍を駐留させていましたから、国民軍を追う形で東から西へと軍を動かしていったことになります。

7月29日午前2時、通州事件は通州市で殷 汝耕(いん じょこう)の冀東保安隊から反乱が起こります。

殷 汝耕は、蒋介石により国民革命軍総司令部通訊処処長兼参議に任ぜられ、蒋が日本と交渉する際には通訳を担当している人物です。しかし、1928年(民国17年)11月25日、日本陸軍天津特務機関長の土肥原賢二に誘われる形で、殷汝耕は「冀東防共自治委員会」の成立と自治を宣言し、国民政府から逮捕令が出されていた。

冀東保安隊は冀東政府関係建物の制圧をほとんど抵抗を受けず成功しています。殷 汝耕の身柄も拘束されます。

一部の説として、
この事件の発端は、当時承徳に在つた日本軍の軽爆撃隊の誤爆からであると報じられています。
元来冀東保安隊二ケ大隊と宋哲元氏の二十九軍麾下の一ケ大隊と日本軍の歩兵一ケ大隊が駐屯して居おり、この日本軍の歩兵一ケ大隊は二十九日夜南苑の攻撃に参加するため北平方面に出発した。三十日朝からこの冀東の保安隊の二ケ大隊は南苑を攻撃する日本に軍策応して、通州の西南端兵営に蟠居して居た二十九軍の一ケ大隊に対して攻撃を開始した。この攻撃を援助するため承徳から中富少将の指揮する軽爆隊が出動したのであります。
この軽爆隊は軽率にも、二十九軍の一大隊を友軍と誤まり、友軍である冀東保安隊を敵と見て痛烈なる爆撃を浴びせた。この攻撃に冀東保安隊は激怒し、二十九軍と合流し叛乱を起したと言われています。

また一説として、
中国国民軍がデマを流し、天津および南苑に於て大敗を喫したとの宣伝したという情報操作により叛乱を起こしたというものです。

反乱を起こした冀東保安隊は、冀東保安第一総隊(2,000名)、第二総隊(2,000名)、教導総隊(1,300名)及び警衛大隊(500名)からなる5,800名です。警衛大隊の隊長は反乱に反対したため、第一総隊隊長張慶余に射殺されたがその後蘇生したそうです。
保安隊は先ず冀東防共自治政府を襲撃して日本人顧問を殺害、殷汝耕長官を拉致します。他の一隊は通州城内の日本守備隊、特務機関、領事館、警察署を襲撃し、特務機関は細木機関長以下殆ど殉職、領警署員全滅、城内の日本人居留民は135名が守備隊に避難収容されましたが。250名余り(公式見解260名)の老若男女が残虐に殺害されました。
暴徒は日本関連施設のみならず冀東政府、冀東銀行などから掠奪を行ったと言われています。

この通州事件による日本官民の被害に関しては、冀東防共自治政府が損害賠償をすることになり、同年12月24日池宗墨長官自ら北京日本大使館に森島参事官を訪問の上、賠償金120万円を手交し、事件の解決となっています。

<2つの不義>

通州事件は、広安門事件あるいは平津作戦の中で起こった1つの怪奇集団殺人事件であります。日本守備隊は100名余りしか駐留しておらず、また、城内の日本人居留民は400名程度しかおりません。
平津作戦において、30キロ程度の位置する通州で、冀東保安隊5,800名が護衛するハズでした。
その冀東保安隊が反乱を起こしたのでは、堪ったものではありません。

1つ目の不義は、当然のことながら裏切り行為であります。盧溝橋事件の時点で武器と士気の高さを憂慮しても兵力に差があり過ぎます。本格的な派兵を決定していない時点で日本軍の不利は明らかであります。しかし、日本軍が有利に戦火を広げることができるのには、中国国民党軍内部の腐敗が大きな要因であります。命を賭けても戦い抜くという気概がありません。買収された軍隊などもあり、日本軍が有利に戦局を展開できたのはそこにあります。保安隊の裏切りを考慮しなかった日本軍にも落ち度があり、兵力の分配に問題がなかったかなどの検証が欠けております。裏切りの検証をせずに、中国人の惨殺性を伝えたのは明らかに間違いです。

2つ目の不義は、大正中期以降の新聞社と軍の関係が親密になり過ぎていたことです。
1930年代後半、朝日新聞社の有力な論説委員、記者たちが近衛政権のシンクタンクである昭和研究会の中心メンバーとなった。緒方竹虎主筆の承認の下、笠信太郎、佐々弘雄、尾崎秀実といった朝日新聞社の面々が戦時政府(近衛新体制運動)を積極的に支持した。戦争に対して積極的に煽り立てているのです。
大日本帝国陸軍が満州事変を起こし、満州国を建国した後、国際連盟に拒否されて脱退した際には「連盟よさらば」という歌を作成して松岡洋右代表を賞賛していることからも明らかです。最終的には、大本営発表と揶揄されるような革新官僚・軍部の御用新聞として君臨し、毎日新聞や読売新聞といった他紙と同様に戦争翼賛報道を行なっていたのはご存じのとおりですが、戦後、戦争協力あるいは後押ししていた新聞社がそのことに口を塞いだことです。

通州事件はそんな新聞社の偏重を来たしたきっかけであり、反省する教材ではないのでしょうか?

以下の通州事件で新聞記事は、すべて残虐性をうたっている。
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実際、冷静なコラムも存在したかもしれませんが、残念ながら私はそれを確認できません。

いずれにしろ、戦後間もない頃に、アメリカ側から『日本=悪』というレッテルを張られ、自虐思想の中で戦争の検証を怠ってきたツケは大きいと思います。

<通州事件のデマ疑い>

さて、通州事件の証言が数多くあるが、その資料に整合性の合わない記述が多く点在しています。
それは日本の文化との違いを理解できずに激怒して、その表現が過激になっているのかもしれません。または、後に報道やうわさ話が脳内で偏重をきたしたのかもしれません。

いずれにしろ、
400人程度の日本人・朝鮮人が居住区を作っていたとは考えられず、また、日本刀を持って国民党軍と戦ったなどの明記は常軌を逸しています。

証言において大切なことは証拠性であり、

・日記や記録に明記されている。
・その場の風景や人物関係が明らかである。
・いくつもの異なる証言が重なっている。

いくつの証言が残っておりますが、残念ながら現在のその証言の信憑性を確認できておりません。
ただ、中国人の文化として、女・子供も容赦なく殺すなどの証拠はその他の事件でも起こっておりますから中国人の残忍さに疑う余地はありません。
しかし、『通州事件』を特筆するほど怒りを覚えているということは、その他の事件と異なる残忍さがあったのでしょうか?

『通州事件』がその他の事件と異なっているとは思えませんので、“プロパガンダ”としてそう表現されているのか。あるいは、それ以前のことを知らない記者だったのかという疑問を覚えてしまいます。
残念ながら記者への疑惑は私の興味の対象ではありませんので調べるつもりはありません。

ここでいう“デマ”とは、事実関係以上に新聞社が戦意高揚の為に過激な表現をしたいという疑いです。

話に尾びれが付いていないかを疑う必要があるようです。

何度言いますが、日本と中国では民度が違います。一宿一飯の恩義などと言われる日本ですが、中国には「温情」・「恩義」・「義理」という言葉は一族の類するものに付くものであり、『敵』に掛けるものではありません。つまり、一般に中国で“一宿一飯の恩義”はないのです。

日本人からすると残忍な行為も、中国人にとって当たり前なのかもしれません。

<100人切りと新聞部数の伸び>

日本軍人が中国人の100人切りをした。
これはてっきり中国国民党軍か、共産党軍のデマと思っていたがそうでないらしい。

日本でこれが有名になったのは、朝日新聞に「中国の旅」というシリーズで本多勝一記者が、日本軍の残した爪跡を訪ねて被害者の声を掘り起こしたものだ。
本多勝一氏は、朝日新聞を退社した後に『週刊金曜日』という週刊誌を発行している。
一度だけ会ったことがあるが、記事に書かれているようなイメージと異なり、非常に気難しい感じを受けた。
この本多勝一記者が、「南京事件」の項では姜根福という男性を取材した。
「向井敏明」と「野田毅」の二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約一〇キロの間に、一〇〇人の中国人を先に殺した方に賞を出そう……。二人はゲームを開始した。結果は「向井」が八九人、「野田」が七八人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約一五キロの間に、もう一度一〇〇人を殺せ、と。結果は「向井」が一〇六人、「野田」は一〇五人だった。こんどは二人とも目標に達したが、上官は言った――「どちらが先に一〇〇人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの八キロで、こんどは一五〇人が目標だ」
当時はあまり気にしなかったが、ここで具体的に「向井敏明」と「野田毅」という実名が述べられている。
姜根福は伝聞と言っているのにだ。

当初は、中国お得意の捏造だと思っていた。

しかし、考えてみれば、「向井敏明」と「野田毅」という実名が書かれて時点で違和感を感じるべきであった。
その結論に終止符を打ってくれたのが、【戦時下の報道】であった。

『百人斬り競争!』は、筆者浅海一男による新聞連載であった。上海から進撃した日本軍が南京城に攻め込んだ1937(昭和12)年12月13日の前日まで、計四本掲載されていたらしい。
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結局、この記事は「戦意高揚」を図る目的で書かれた「武勇伝」であり、嘘や捏造が混じった小説だったのだ。
しかし、それが事実のように中国では現在も語られている。

支那事変が起こる少し前に新聞の部数が急激に激減している。
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ゲスの勘ぐりと言ってしまえば、それで終わりなのであるが、いくつかの符号を合わせると誰が戦争を望んでいたのかという結論に達してしまう。

・軍司令部はソビエトへの警戒からこれ以上の戦線拡大を望んでいなかった。
・関東軍は守備兵力の少なさから増援を要求していたので、少ない兵力での開戦を望むはずもない。
・国民は軍を支援していたが、新聞の部数が減っていることから満州熱が冷めてきていた。
・近衛政権は内地での戦線拡大に積極的だった。

近衛政権のブレインは、朝日新聞社の有力な論説委員、記者たちで構成するシンクタンク(昭和研究会の中心メンバー)である。
盧溝橋事件から始まる事変に合わせて、部数が再び伸びを戻している。
『通州事件』、『百人斬り競争!』という記事は、戦意高揚を図るのに持ってこいの話題である。
新聞各社が競うように戦争を盛り立てていった時代だと思えるのは私だけだろうか?

<残忍さを通州事件で語るのは愚かな行為だ>

虐殺事件として考えるなら平頂山事件、南京事件、陽高事件、廠窖虐殺事件、通化事件も一緒に考える必要があり、また、台湾の「228事件」、色合いが違いますが、旅順虐殺事件の検証も必要です。

中国人の残忍さを訴えるには、『通州事件』を語るのが簡単です。しかし、通州事件は日本のプロパガンダであったという疑惑を外すことはできません。

『通州事件』を語るということは、当時の新聞社の“プロパガンダ”の尻馬に乗るようなもので75年前の怨霊を呼び起こすようなものです。余り民度の高い者がなすべき行為ではありません。良くも悪くも“プロパガンダ”に品位はありません。事実が重要なのではなく、人の心をかき混ぜることを目的とした行為を恥ずべき行為だと思います。

戦争の悲惨さを訴えるのに、“プロパガンダ”は入りません。

正論と事実の検証を持って、正面から訴えてゆくことが大切だと思います。

『通州事件』を語るときは、単独で語るのは良しましょう。

歴史的背景を説明して、その一環として語るか?

虐殺事件として訴えるのなら、その他の事件を併記することをお勧めします。

<通州事件の時系列>

通州事件(つうしゅうじけん)とは、1937年(昭和12年)7月29日に発生した事件で、「冀東防共自治政府」保安隊(中国人部隊)による日本軍部隊・特務機関と日本人居留民に対する襲撃で日本人260人が虐殺された事件を指

当時通州城内にいた関係者
冀東政府(殷汝耕ら)
冀東保安隊(張慶余ら)
日本軍守備隊(辻村憲吉中佐、山田正大尉、藤尾心一中尉ら)
領事館警察(浜田末喜ら)
特務機関(細木繁中佐、甲斐厚少佐ら)

<事件前>
7月27日頃
北京特務機関がキャッチした南京放送ニュース
日本軍は盧溝橋の戦場に於いて、我が優勢な29軍と交戦の結果、支離滅裂の敗戦に陥り、豊台と郎坊とは完全に我が手に奪還してしまった。
(略)
なお、最近北京における軍事会議の結果、蒋委員長は近く29軍を提げて、大挙冀東を攻撃し、偽都通州を屠り、逆賊殷汝耕を血祭りにして、満州失地恢復の第一声を挙げる事を決議した。

<事件>
7月29日午前2時半
冀東保安隊が反乱を起こして、まず襲撃したのは首席殷汝耕のいた冀東政府です。この冀東政府関係建物の制圧はほとんど抵抗を受けず成功しています。ここで殷汝耕の身柄の拘束にも成功します。この際に犠牲になったのは日本人顧問など数名です。

7月29日午前3時
冀東政府襲撃とほとんど同時と思われますが、証言では少し遅れた午前3時ごろに冀東保安隊が日本領事館警察を襲撃しています。ここでは日本人警官らが抵抗したため銃撃戦となっています。どのくらいの時間が経過したかは不明ですが、最終的には冀東保安隊に制圧されます。制圧後、冀東保安隊らは隠れている者がいないか捜索し、その際に警官の家族が巻き添えになったりしています。警官の中には家族と共に居住している者もおり、家族らは銃撃戦の間隠れていましたが、物音などで誰か隠れていることに気づいた冀東保安隊員は手榴弾を投げ込み、そのために女性や子どもが死傷したという証言があります。

犠牲になった女性や子どもがいたのは確かですが、そうと知って殺傷したという記録ではなく、その場で見つかり捕らえられた女性や子どもなどの民間人は、その場では特に陵辱されることも殺されることもなく、別の場所に連行され、他の捕らえられた民間人と一緒に監禁されました。証言では通州城北門近くの政府関係庁舎です。連行された時刻は不明ですが、4時~6時くらいではないかと思われます。

7月29日午前4時
これも領事館警察襲撃とそれほど変わらない時刻と思われますが、記録では4時ごろ、冀東保安隊が日本軍守備隊のいる兵営に対して攻撃を開始しています。日本軍は100名ほど、武器はともかく弾薬は、北平攻撃中の日本軍に補給するため、山ほど積んでありました。最高位である兵站司令官辻村中佐が応戦を指揮しています。

ほぼ同時に*2、別働の冀東保安隊1個中隊が日本軍特務機関を襲撃しています。特務機関は領事館警察よりも激しく応戦し冀東保安隊側にもかなりの死傷者を出したようです。このとき特務機関に宿泊していた緒方氏の証言によると特務機関での銃撃戦は12時ごろまで続いています。

また、おそらくこの頃から、冀東保安隊の別働隊が、城内の日本人・朝鮮人居留民らを拘束し、連行し始めます。

この居留民拘束は当初からの計画だったとすれば、あまりにも手際が悪く*3、疑問が残ります。領事館警察や特務機関襲撃の際に何名かに逃げられ、その捜索が当初の目的だったのではないかと思われます。

そして同盟通信記者安藤利男が滞在していた近水楼(冀東政府からは程近い)に反乱第一報がこの頃届きます。近水楼は日本軍政府関係者の常宿ですから、冀東保安隊が民間人連行を当初から予定していたなら、この時点で近水楼が手付かずだったのは不可解です。

7月29日午前5時
この頃、冀東政府前で特務機関長が射殺されたと記録がありますが、詳細不明の証言で仔細についての信憑性は高くありません。時間的にはもう少し早い時間(3~4時ごろ)ではないかと思います。

7月29日午前7時
この時点でもまだ近水楼は無事です。安藤らは近水楼から通州城内に火災が発生しているのを視認しています。特務機関の戦闘に伴う火災ではないかと思われますが、緒方氏証言では特務機関でガソリンが燃えたのは午前9時ごろとされています。時間認識の誤差と見るか、いずれかの記憶違いか、あるいは別の火災かも知れません。

7月29日午前9時
冀東保安隊による日本軍守備隊攻撃開始から5時間経過していますが、未だ制圧できず、保安隊側は兵営の北東にある満州電電に野砲4門を配置し砲撃を開始します。

7月29日午前11時
冀東保安隊の砲撃により、守備隊内に貯蔵してあったガソリン2500缶が爆発し、黒煙が高く上がります。この黒煙については、支那駐屯歩兵第2連隊(萱島高)の部隊が視認して、通州で何事か起こっていると判断した人もいました。

また、この黒煙偵察のため、日本軍偵察機*4が通州上空に飛来し、通州城外の日本軍が、通州事件の発生を知ることになります。

この飛行機を見て、日本軍が助けに来ると判断した居留民も多かったようです。一方で、逆の立場である冀東保安隊側は危機感を募らせたでしょう。冀東保安隊は3000人程度に過ぎず、城内の100名程度の日本軍守備隊にもてこずるほど、大した装備も持っていませんでしたから、通州城外の日本軍が反撃してきたらひとたまりもありません。

この時点での冀東保安隊側の選択肢としては、城外の日本軍が殺到する前に撤退するか、通州城に立て篭もって抗戦するか、しかありません。城外の日本軍が来襲してくるのは時間の問題です。張慶余らはおそらく対応を議論したでしょうが、白昼撤退しても捕捉撃滅される可能性が高いためか日暮れまでは日本軍守備隊攻撃に専念することにしたようです。また、隠れていると思われる日本人朝鮮人居留民の捜索も強化します。

7月29日午前12時ごろ
こうして偵察機飛来のため一時停止していた冀東保安隊の砲撃が再開し、これが弾薬を満載した日本軍トラックに命中、次々と誘爆を起こします。誘爆は午後4時まで続き17台のトラック全てが爆発しました。

また、この頃、緒方氏ら4人はまだ立て篭もっていましたが特務機関での銃撃戦は終結しています。緒方氏証言の記事からは包囲していた冀東保安隊側に何らかの混乱が生じた様子が推察できます。

7月29日午前12時半ごろ
一方、当初は見逃されていた感のある近水楼が再び冀東保安隊や学生隊の捜索を受け、隠れていた安藤らが拘束されます。安藤らは北門近くの冀東政府関係の建物に一時連行されます。捜索や連行の際に、冀東保安隊や学生隊による暴行、殺害が生じてはいましたが、この時点では居留民を全て殺害しようと言う明確な意図は冀東保安隊側にはなかったようです。安藤らは連行された場所には既に50人以上の居留民が監禁されていましたが、腕時計などを盗られた以外に特に暴行陵辱された様子は安藤記者の手記からは見受けられません。

冀東保安隊は北門付近で約6時間に渡って、居留民を拘束し続けましたが、最初から殺害するつもりであったなら6時間は長すぎます。また、拘束している間、後の日本側報道に見られるような猟奇的な殺傷陵辱を行っている様子もありません。安藤記者が拘束されていた北門付近は主たる虐殺現場の一つですから、あるいは他の虐殺場所(東門付近など)では猟奇的な殺傷陵辱があったのかも知れませんが、北門と東門でそれほど距離があるわけでもありませんので、まず後日の日本側の猟奇報道を鵜呑みにできないと考えるべきでしょう*5。

7月29日午後2時半~3時ごろ
日本軍守備隊の篭る兵営ではトラックの誘爆が続いていたものの、冀東保安隊と日本軍守備隊との戦闘はこう着状態でした。城内の日本軍守備隊を制圧できなければ、通州城内に立て篭もって城外の日本軍を迎え撃つことは不可能です。となれば、冀東保安隊は日没後なるべく早いうちに通州から撤退しなければなりません。撤退する場合、城内の日本軍守備隊に察知されないようにする必要があります。では、拘束している居留民はどうすればよいか?

これが冀東保安隊が拘束した居留民を殺害しようと考えた動機ではないでしょうか。

居留民の中には日本軍と通じている者が数多くいることは自明です。いたずらに解放すれば、日本軍に通報するのみならず、武器をとって追撃してくる可能性もあります。

冀東保安隊、学生隊のいずれが積極的に居留民殺害を主張したかはわかりませんが、少なくとも12時半から午後2時半の間に、居留民に対する冀東保安隊の対応に変化があったことは、安藤記者の手記からも伺えます。

こうして、午後2時半ごろ、居留民は北門近くの沼地に連行され、そこで射殺されました。この付近での犠牲者は70人程度と見られます。安藤記者はスキをついて逃亡し九死に一生を得ていますが、他にここから助かった人がいたかどうかはわかりません。

また、通州城東門付近でも合計90人ほどが殺害されていますが、殺害時刻がわかる証言は見当たりません。しかし、おそらくは北門と同じ頃で、少なくとも午前12時から午後4時ころの間ではないかと思われます*6。

7月29日午後5時ごろ
この頃、日本軍航空隊による日本軍守備隊兵営包囲中の冀東保安隊に対する爆撃が行われ、包囲していた冀東保安隊は撤退しています。既に通州城外に逃れ逃走中の安藤記者が見たのがこの飛行機だと思われます。また、同じ頃緒方氏ら4人(白河氏(28)、中末氏(18)、田島氏(16))が城壁を越えて城外に逃れています。

結局、城内の日本軍守備隊を制圧できなかった冀東保安隊は通州から撤退しました。この時刻については判然としませんが、午後5時ごろまでは冀東保安隊員らがいたのは確かでしょうが、緒方氏が特務機関から城外まで比較的容易に逃走できていること、また爆撃後に5人の朝鮮人女性が救援を求めに日本軍守備隊兵営に駆け込んできたことなどから、徐々に冀東保安隊は通州からの撤退を開始していたと思われます。

29日夜以降については、通州城内における冀東保安隊の姿について記述が見られません*7。

通州事件の終結
200人以上の日本人朝鮮人居留民が殺害された、いわゆる通州事件はここまでです。7月29日夜明け前に始まった冀東保安隊の反乱は同日日暮れに終結したのです。時間にして15~6時間程度、特務機関や冀東政府と関係の薄い民間人に犠牲が出た時間だとせいぜい8時間程度でしょう。量的には6週間以上に及んだという南京事件には比べるべくもありません。

また、拘束の目的も日本軍守備隊との戦闘中であることを踏まえた後顧の憂い、いわゆる第五列を取り除くための感があり、殺害の目的も撤退の意図を秘匿するためと見えます。いずれも民間人殺害を正当化できるものではありませんが、”軍事的合理性”をあがめるある種の方々には受け入れやすい理由ではないでしょうか。

通州事件も他の多くの戦争犯罪と同様に、軍事的合理性を人権に優先した結果の悲劇と言えると思います。

<事件後>

・外務省情報部
支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)
七月二十九日早朝冀東保安隊反乱の犠牲となった通州在留邦人に対する支那兵残虐行為の実状に関し八月二日及三日通州に於ける警察官の直接検分し、又は生存者より聴取せる所左の如し。
一、惨殺行為
発見された婦女子は、多くは腕又は足を縛り、甚だしきは旅館錦水楼女中の如く、鼻に穴を明け、数珠繋ぎとして之を拉致し併列せしめ、機関銃を以て惨殺したものもある。
(1937年8月10日にまとめた週刊時報141「事変と日本側 支那兵残虐の跡(通州邦人屍体検分)」)

・連隊主力と共に救援に赴いた桜井文雄証人(支那駐屯歩兵第2連隊小隊長)
7月30日
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。
某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、婦人は14、5歳以上は全部強姦されていた。
旭軒という飲食店に入ると、7、8名の女が全部裸体にされ、強姦射殺され、陰部にほうきを押しこんであるある者、口中に砂を入れてある者、腹部を縦に断ち割ってある者など見るに耐えなかった。
東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合せて、それに八番線を通し、一家6人数珠つなぎにして引き廻した形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。
夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆、腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこそこの塵箱の中やら塀の蔭から出て来た」
(消された「通州事件」より)

・萱島高証人証言(支那駐屯歩兵第2連隊長)
7月28日の南苑戦闘に参加した後、30日午後通州に急行して邦人救援
 「旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。」

 まさになぶり殺しではないか。

 中でも悲惨を極めた旅館・近水楼での惨劇について通州救援の第2連隊歩兵隊長代理を務めた桂鎮雄証人の供述は次の通り。

 「近水楼入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあった。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥(は)がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。
帳場や配膳室は足の踏み場もない程散乱し、略奪の跡をまざまざと示していた。
女中部屋に女中らしき日本婦人の4つの死体があり、全部もがいて死んだようだった。折り重なって死んでいたが、1名だけは局部を露出し上向きになっていた。
帳場配膳室では男1人、女2人が横倒れ、或(ある)いはうつ伏し或いは上向いて死んでおり、闘った跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のようだった。女2人はいずれも背部から銃剣を突き刺されていた。
階下座敷に女の死体2つ、素っ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。
1年前に行ったことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素っ裸の死体があった。
その裏の日本人の家では親子 2人が惨殺されていた。子供は手の指を揃(そろ)えて切断されていた。
南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の死体が路上に放置してあったが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱していた」
(中村粲著『大東亜戦争への道』惨!通州事件より)

・ 桂鎮雄の証言(1947年4月)
「近水楼入口で女将らしき人の屍体を見た。足を入口に向け、顔だけに新聞紙がかけてあつた。本人は相当に抵抗したらしく、着物は寝た上で剥がされたらしく、上半身も下半身も暴露し、四つ五つ銃剣で突き刺した跡があつたと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく血痕が散乱してゐた。女中部屋に女中らしき日本婦人の四つの屍体があり、全部もがいて死んだやうだつた。折り重なつて死んでゐたが、一名だけは局部を露出し上向きになつてゐた。帳場配膳室では男は一人、女二人が横倒れ、或はうつ伏し或は上向いて死んで居り、闘つた跡は明瞭で、男は目玉をくりぬかれ上半身は蜂の巣のやうだつた。女二人は何れも背部から銃剣を突き刺されてゐた。階下座敷に女の屍体二つ、素つ裸で殺され、局部はじめ各部分に刺突の跡を見た。一年前に行つたことのあるカフェーでは、縄で絞殺された素つ裸の女の屍体があつた。その裏の日本人の家では親子二人が惨殺されてゐた。子供は手の指を揃えて切断されてゐた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき人の屍体が路上に放置されてあつたが、胸腹の骨が露出し、内臓が散乱してゐた。」

・通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)
日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。何か生臭い匂いがするのです。血の匂いです。人間の血の匂いがして来るのです。しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。沢山の支那人が道路の傍らに立っております。そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。
(徳島の保守)

冀東保安隊が撤退後の通州はどうだったのでしょうか。

少なくとも29日夜半には冀東保安隊のほとんどが通州城内から撤収していたと思われますが、兵営に立て篭もった日本軍守備隊は兵営から外に出ようとしませんでした。逃げ込んできた朝鮮人女性から居留民に被害が出ていたこと自体は知っていたはずですが、夜間に斥候などを出した形跡は見出せません。

7月30日午前1時半
日付が変わって7月30日、通州救援のために支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)を派遣する連絡を受けます。また、この頃日本軍兵営にトラックが1台到着します。独立混成第1旅団(酒井部隊)のトラックです。このトラックから順義でも保安隊が反乱を起こしたこと、通州城北の街道上に冀東保安隊がいることが知れます。しかし、この後日本軍守備隊は兵営に篭ったまま、夜明けを待つことになります。

7月30日朝
通州事件から一夜明けた7月30日朝、日本軍守備隊兵営に生き残った居留民が避難してきました。この頃になってようやく守備隊は斥候を出し、通州城内の様子を知ることになります。一方でこの頃、生き残った一部居留民が通州を脱出して北平に向かっています。

午前8時に香月支那駐屯軍司令官が支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)や航空兵団に対し、通州救援を命令しています*8が、この時点では冀東保安隊は通州から退去した後でした。ただし、反乱に加わらなかった保安隊員や学生隊、反乱に協力した住民などが残っていた可能性はあります。とは言え、既に日本軍守備隊兵営の包囲すら解いている状況ですから、反乱部隊が通州を闊歩しているとは言えないでしょう。

7月30日午前9時半。
通州から退去した冀東保安隊はこの頃、北平の東側の城門である朝陽門に到着しています。日本側の記録では、張慶余らは南京政府によるデマ放送に騙されて、南苑で中国側が破れ、宋哲元が北平から退去したことを知らず北平に着いて初めてそれを知って慌てた、とされていますが、記録者が日本軍特務機関の将校らであることを考慮すると、実際にそこまで情勢に無頓着だったというのは考えにくいと思います。

実際、冀東保安隊は南苑から通州に急進中だった支那歩兵第2連隊と遭遇することなく北平に到着しています。中国軍大勝利という謀略放送を信じていたなら、通州北門からではなく南門や西門から出てまっすぐ北平に向かうルートを取った可能性が高く、その場合支那歩兵第2連隊らの日本軍救援隊と鉢合わせしていたでしょう。

また、冀東保安隊は北平で城門の兵士から、北平は日本軍が支配していると聞いているというのが日本側の記録ですが、30日の時点では北平城内を日本軍が支配しているとは言えないでしょう。宋哲元から後を任された張自忠が市長を代行していましたし、保安隊に改編した部隊や北苑や黄寺の部隊もありました。

北平にある各国の政府機関や日本軍との交渉上、北平で戦闘を行うつもりがなかったため、冀東保安隊を入城させなかったというのが妥当ではないかと思います。

7月30日午前10時50分。
いずれにせよ北平に入城できなかった冀東保安隊は、日本軍が占領している南苑を避け北平城北側を抜けて撤退しようとしましたが、万寿山*9街道で、独立混成第11旅団第12連隊(奈良部隊)と接触・交戦することになります。

7月30日午後0時30分。
当初それなりに健闘していた冀東保安隊ですが火砲を通州で廃棄しており、独立混成第11旅団第12連隊(奈良部隊)は火力に勝る上、増援が続々と到着し、結局午後0時30分には冀東保安隊が150名ほどの戦死者を出して敗走していきます。この際に連行されていた冀東政府首席の殷汝耕が解放されました。

冀東保安隊は、29日夜に通州を脱してから、この戦闘までに40キロ程度を踏破しています。約半日で40キロというのは軽装の徒歩部隊としては標準的ですが、前29日早朝の反乱開始から考えればほぼ40時間近く戦闘や行軍を続けたことになりますから、かなり疲労困憊していたことでしょう。

7月30日午後4時
一方、通州救援を命じられた支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)は、30日午後4時になってもまだ斥候の1個分隊が通州に到着した程度です。南苑から通州までは30キロ程度ですから30日朝8時から移動したとしても午後4時の段階で一個分隊しか通州に到着していないというのは、少し遅すぎるように思います。支那駐屯歩兵旅団の河辺旅団長から通州に救援に向かう旨の通信が発せられたのは30日午前1時半ですから、その時点からだと14時間以上経過しています。

この支那歩兵第2連隊(萱嶋部隊)の足の遅さは、通州救援に対する消極性を感じさせます。

ともあれ、7月30日午後4時になってようやく通州に外部からの日本軍救援部隊が到着し通州事件は終結することになります。

◆虐殺事件の証拠(資料)一覧◆

●済南事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ×なし
3.当時の政府の認識 ○あり
(田中外相宛西田領事報告など○)

●通州事件
1.日本人犠牲者の名簿 ○あり
2.命令書 ×なし
3.当時の政府の認識 ○あり
(外務省の公式声明など○)

●南京大虐殺事件
1.犠牲者の名簿 ×なし
(日本も×、蒋介石政府も×、汪兆銘政府も×、南京安全区国際委員会も×、南京市民も×、誰も作成せず)
2.命令書その他公式文書 ×なし
3.当時の政府の認識 ×なし

(参照)
◆消された「通州事件」

◆中村粲著『大東亜戦争への道』惨!通州事件

◆通州事件/通州(通県)起義の経過
http://d.hatena.ne.jp/scopedog/20110720/1311169796
[誰かの妄想・はてな版は、実に細かく書かれているので、一度ゆっくりとご覧頂きたい。]

◆通州事件の惨劇 (Sさんの体験談)
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100901/p1
(徳島の保守)

◆通州事件・南京事件・尼港(ニコウ)事件その他
宮崎正弘 評論家 正論11月号 平成16年

http://www7b.biglobe.ne.jp/~senden97/tusyu_jiken_1.html

◆戦時下の報道
http://ikemidoujou.com/bun/media/kougi13.htm

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