独島(竹島)が韓国領である >> 東京大学名誉教授和田春樹が吠える
これで歴史学者というのだから困ったものだ。
日本が占領中、韓国がドサクサに紛れて、「独島(竹島)が韓国領である」と言ったのが始まりである。
それ以前の歴史を検証しても、韓国に不利な材料しかない。
山本太郎が「「日本のこの政府の対応、竹島に対する対応を見ている限り、自分の領土という意識は全く無いと、言ってるだけで。だったらあげちゃえば」と言っている。
竹島は国内であるから、まずは警察、そして海上保安官、最終的に自衛隊を出動させ、行政大執行を島根県が行なえばいい。
当然、国際問題になるだろう。
しかし、これは戦争放棄や9条に引っかからない。
あくまで内政問題であり、不法占拠の外国人を撤廃するだけである。
そう言った、行政処置を行なう気がないなら「竹島をあげてしまえ!」というのは、一様筋が通っている。
しかし、
和田春樹教授の「独島が韓国領であることが明らかになる」というのは何を差しているのだろうか?
和田教授の歴史観に独特なロジックが混じっているようだ。
全南大学の第4回「後広・金大中学術賞」を受賞するような教授なので、左翼的活動に熱心な方らしい。
北朝鮮の金 日成(キム・イルソン)首相が抗日武装団からのし上がってきたことを考えると、対日姿勢は頷ける。
拉致問題にしても、敵国の国民を拉致して何が悪いと考えるのは当然だろう。
しかし、日本人がそれに対して、同情的に同意する必要はない。
和田春樹教授の考え方に非常に朝鮮に対して同情的であり、論理的な展開がなされていない。
こう言った東京大学名誉教授という肩書きで、「独島が韓国領であることが明らかになる」などと書かれるのは日本国民として不本意である。
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日本の学者が主張「独島が韓国領であることが明らかになる」=韓国
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=1023&f=national_1023_078.shtml
東京大学名誉教授で歴史学者の和田春樹教授が21日、日韓の竹島(韓国名:独島)問題や従軍慰安婦問題について
「日韓関係の発展のために、両国が協議して解決すべき」などと主張したとして、複数の韓国メディアがこれを報じた。
報道によると、和田教授は21日、駐日韓国大使館と東京大学の現代韓国研究センターが共同主催で、
東京にある韓国文化院で開かれた「共生協力の日韓関係企画フォーラム」に出席した際、
「日韓両国が協議を通じて慰安婦や独島問題を解決すべき」との考えを示した。
和田教授は、「日本政府は慰安婦問題について1965年の日韓請求権協定で解決済みとの主張を繰り返しているが、
これでは韓国政府が求める外交交渉を拒否できない」と指摘。続けて「独島問題は日韓関係に致命的な悪影響を与えている」として
「慰安婦問題と共に議論し解決方案を探す必要がある」と主張した。
韓国メディアによると、和田教授は討論会終了後の取材で「日韓両国が協議すると、
結局独島の領有権が韓国側にあることを確認するだろう」と述べ、
「(竹島問題に関して)韓国政府は日本政府と日本国民を説得しなければならない」とコメントしたという。
一方、前原誠司政策調査会長は、昨年に続き韓国大使館が主催している今回の討論会に出席した。
韓国メディアは、前原政調査会長の2度目の出席について「日韓関係に誠意を示した」と伝えた。(編集担当:永井武)
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和田春樹、北朝鮮を語る
(小池正春)
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033933/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033935/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033937/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033939/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033941/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033949/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033943/1.php
http://janjan.voicejapan.org/government/0405/0405033945/1.php
http://www.google.co.jp/search?sourceid=navclient&hl=ja&ie=UTF-8&rlz=1T4TSJH_jaJP364JP365&q=%e5%92%8c%e7%94%b0%e6%98%a5%e6%a8%b9%e3%80%81%e5%8c%97%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e3%82%92%e8%aa%9e%e3%82%8b%ef%bc%88%e7%ac%ac9%e5%9b%9e%ef%bc%89
(前略)
1985年、私は論文「金日成の満州抗日武装闘争」
「朝鮮戦争」(1995年岩波書店)
「北朝鮮―遊撃隊国家の現在」(1998年岩波書店)
1946年2月以来、1994年まで、この国のトップリーダーで在り続けた金日成は彼を取り巻く(仲間)とともに、1931年以来、中国共産党員として、中国共産党の武装組織である東部人民革命軍、東北抗日連軍の中で、日本の軍、警察と1940年まで満州の地で戦います。金日成が朝鮮でもっとも近いところで戦い、最後には東北抗日連軍第1路軍第3方面軍指令であります。1937年には(普天堡戦闘の勝利によって)、金日成の名を高くし、1940年には(聞き取れず)を全滅させました。その結果、日本の軍、警察の憎しみは甚だしく、彼らは金日成の首を取れと血眼になったのであります。憎しみは相互的なものであり、金日成という存在と日本国家との関係はまさに仇敵の関係にあったわけであります。
北朝鮮の指導者、金正日については、彼が仮にどこで生まれたにせよ、我々が彼についてどのような感想や批判を持つにせよ、彼が抗日遊撃隊員を両親に持ち、抗日遊撃隊のキャンプで生まれたことは打ち消せぬ事実であります。もとより、北朝鮮の建国には満州系(パルチザン=金日成)のみならず、後に(ソ連領内から)出兵されたソ連系(ソ連国籍を持つ朝鮮系ソ連人)、中国系(延安派)、(朝鮮国内で地下活動を行っていた)朝鮮国内系も加わっております。中国系(延安派)は中国共産党の人民解放軍とともに日本軍と戦った人々であり、ソ連系というソ連から来た人々は日本のスパイにされる恐れがあるとしてスターリンによって(1937年)に沿海州から中央アジアに強制移住させられた16万人の朝鮮人(高麗人)グループであります。したがって朝鮮民主主義人民共和国の建国の指導者は、例外なくすべて日本国家に憎しみを持った人々であったはずであります。
その体制が1961年の第4回朝鮮労働党大会のあたりでソ連型の国家社会主義体制と(聞き取れず)させました。その後、1967年の唯一思想体系の確立において遊撃隊国家ともいうべき特徴的な上部構造を作り上げるに至ります。それが1972年の憲法で法的に形を与えられます。体制につきましては人によっていろいろな意見を述べております。私は遊撃隊国家と言っております。なぜ遊撃隊国家と言うかというと、生産も学習も生活も抗日遊撃隊組織でという基本スローガンのもと、金日成を司令官として全国民が抗日遊撃隊員であるがごとく同志らが生きることを求められる国家で(あるからです。)、日本の植民地支配の清算がなされていくかどうかということが北朝鮮の国家のあり方にも影響していると私は見ています。
日本と北朝鮮の敵対関係の固定化
北朝鮮と日本は朝鮮戦争以来、敵対関係に入り、緊張状態のもと、北朝鮮の側から日本に対して数々の不祥事や不当な行為がなされてきたということであります。朝鮮戦争(1950年6月25日に勃発)は、1948年に生まれた2つの朝鮮国家が自ら唯一の正当国家と主張し、「南進統一」(祖国解放)は北側のスローガン、「北進統一」は南側のスローガン、を掲げたことから起こりました。
先に攻めたのはまぎれもなく北朝鮮であります。日本は(国連安保理事会決議を受けて仁川上陸作戦(を指揮した)米国の極東軍司令官マッカーサー元帥が連合国の国連軍最高司令官に任命されたことから)、指令官の命令に無条件に従い、米軍に全面的に協力しました。B29は、横田と嘉手納を飛び立って戦闘が続く朝鮮半島に向かい、連日に渡って北朝鮮に空襲を行い、焦土と化したのであります。停戦後、平和条約は締結されず、北朝鮮と米国、韓国との対決状態は続きました。結果として北朝鮮と日本との敵対関係も固定したわけであります。
北朝鮮側は工作船を日本領海に入れ、工作員を上陸させ、在日米軍および日本国家の情報を収集したものと思われます。また、韓国に対する工作のために日本を利用することも起こりました。そのために1970年代末から日本人拉致が侵入した工作員によって行なわれました。日本を敵国とするところから近年、工作船が日本への覚せい剤密輸にも使われていたようで、また、近年は日本に届くミサイル、ノドンが相当数実戦配備されております。米国第7艦隊のトマホークミサイルは、北朝鮮をいつでも攻撃できるよう備えられており、ノドンはそれに対抗するものであるといえますが、日本海側に多くの原発を持つ日本としては、非常な脅威であります。
(中略)
北朝鮮、追い込まれて核開発
10年間にたった11回の日朝交渉
拉致優先は誤り
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和田春樹さんとの公開論争――朝鮮戦争下の日本平和運動の評価とユートピアをめぐってなど
http://www.jca.apc.org/~yyoffice/ronsou1wadaharuki.htm
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和田春樹
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E7%94%B0%E6%98%A5%E6%A8%B9
日本の歴史学者、社会科学研究家、左翼運動家である。専門は、ソ連史・ロシア史。東京大学名誉教授。
大阪府生まれ。静岡県立清水東高等学校を経て、東京大学文学部卒業。
大学入学から、退官まで、約50年間に渡って東京大学においてのみ過ごした。ソ連や共産主義に関する研究とともに、左翼・市民運動的な活動でも知られる。2010年に韓国の全南大学から「第4回後広金大中学術賞」を授けられる。
民衆側の共産主義
日本における共産主義研究は、本家であるソ連における共産主義研究の影響のもと、ソビエト連邦共産党の支配確立の歴史をなぞるか、トロツキーをスターリンに対置する程度がせいぜいであった。和田による研究対象は、『血の日曜日事件』(1905年)で知られるガポン神父、革命家 ネストル・マフノによる農民アナキズム運動、ナロードニキとマルクス・エンゲルスとあいだの政治的偏差などを含んだ。
ソ連崩壊と共産主義の瓦解
1980年代、ソ連においてペレストロイカが進行すると、和田はそれに共感を表明した。さらに、1990年代になり「急進改革派」が登場し、社会主義体制への批判を強めるようになると、和田は臆することなくそれを強く支持した。
しかし、急進改革派が持っていた負の側面について和田は、それを熟知していながら言及を避けていた。それは政治的配慮によるものであったが、ロシア近現代史研究の後輩である塩川伸明や下斗米伸夫からは、かつての「進歩的知識人」の誤りを繰り返すものだとして厳しく批判された[1]。また塩川は、和田がソ連・東欧社会主義の崩壊を、一貫して「国家社会主義の崩壊」と規定していることに対して、その用語の曖昧さとともに、国家社会主義でない社会主義という存在の検討がなされていないことについても批判した。
ソ連及びスターリンについては、「マルクス主義が実現すべき目標としたユートピアはスターリンのソ連においてともかくも実現された」、と述べている[2]。
韓国・北朝鮮
和田は国際的な市民活動家としても知られる。和田の研究はインテリゲンツィア(知識階級)にとどまらず、民衆の日常に目を向けるものであり、和田は朴正煕時代の韓国でも民衆との連帯を志向した。市民連帯活動では、韓国の民主化運動において、特に金大中救出運動において広い関心を起こしている。
和田による朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)現代史研究については、日本の共産主義研究者にはその学問的功績が認められてはいるものの、北朝鮮を『遊撃隊国家』とする規定について曖昧であるとの批判もある。ラングーン事件について、『北朝鮮――遊撃隊国家の現在』(1998年)では、北朝鮮工作員の行為と述べているが、事件発生直後には「韓国政府内部の人間がやったことも考えられる。北朝鮮の側が爆弾テロをやるということはありえない」(『世界』83年11月号)との立場を一時はとっていた。
在日韓国人
和田は、在日韓国・朝鮮人に対する社会処遇の向上や、積極的な戦後補償を行うことについて、一貫してそれを求めている。
慰安婦問題
朝鮮人従軍慰安婦問題については、当時の日本政府に対して一貫して批判的である。一方、『女性のためのアジア平和国民基金』に係わる活動によって和田は、朝鮮人慰安婦寄りの主張を行う社会運動家からも批判される立場に立った。
竹島問題
竹島問題について和田は、「竹島が日本の領土と宣言されたのは1905年だ。その時から敗戦までの40年間、 竹島は確かに日本の領土だった。1945年に日本の管轄から脱した後、サンフランシスコ条約でも明確な処理がなされなかった」とし、そのうえで、「植民地支配反省の表現として、日本は独島(竹島の韓国名)を韓国領土として認める」という独自の主張を展開している.[6]。
また和田は、そのかわりに韓国側が、韓日友好のための思いやりとして、島根県の漁民に島周辺の漁業権を認めるという条件を、竹島を韓国に供与する見返りとして提案している[6]。しかしながら実際には、竹島周辺海は暫定水域として日韓漁業協定による漁業権が確定済みであり、和田の案により日本が得られるものは皆無である[6]。
日韓併合無効論
和田は2010年(平成22年)、日本が韓国を併合するに当たっての韓国併合ニ関スル条約(1910年)は当初から無効であったとして、日本政府がその無効性を認めるよう求める声明を発表した[7]。さらに、内閣総理大臣 菅直人に対しては、同条約の無効を、日韓併合100周年に当たる同年8月に宣言するよう求めた[7]。
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広金大中学術賞
「後広・金大中学術賞」に日本の和田春樹教授が選定
http://contents.innolife.net/news/list.php?ac_id=2&ai_id=115443
庚戌国恥100周年を迎え、日韓の100年に宿った過去の事件問題解決の先頭に立っている和田春樹東京大学名誉教授(72)が、全南大学の第4回「後広・金大中学術賞」受賞者として31日選定された。
和田春樹教授は行動する日本の代表的進歩知識人として韓国でもよく知られている学者。特に彼の北朝鮮現代史に関する研究は、今までの偏向された研究に比べ客観的な研究だという評価を受けており、ソ連史と南北朝鮮現代史において権威者と認められている。
また和田春樹教授は最近、日韓両国の知識人214人が発表した「韓国併合無効宣言」を日本側で主導し国際的な注目を浴びるなど、朝鮮半島の平和と日本・北朝鮮関係の正常化、新しい日韓関係の成立などのため、献身的な活動を繰り広げている。授賞式は9月に全南大学で開かれ、特別招待公演も共に開催される予定。
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和田春樹『日本と朝鮮の一〇〇年史』
http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20110207/p1
(前略)
第二章で和田氏は、「三・一独立宣言」(1919年)を引用して、「全編が日本人に向けて朝鮮の独立を認めるように説得している」文章であり、「この宣言の思想は「非暴力革命」の思想である」と言っている。ところが、「朝鮮人があれほど命がけて、大変な決意で日本人を説得しようとして発せられた言葉」は、「日本国家によって徹底的に拒絶され、秘匿され、日本人にはその言葉は届かなかった」。
私が驚いたのは、「三・一独立宣言」の内容は日本ではずっと伝えられないままで、戦後の一九四八年に石母田正(いしもだしょう)の「堅氷をわるもの――朝鮮独立運動万歳事件の話」という文章の付録として初めて全文が発表され、宣言が「広く知られるようになったのは、なんと一九七〇年代はじめであった」ということ。
三・一独立運動を受けて、「朝鮮人は独立を求めている。独立させなければだめだ」ということを例外的に理解し主張したのは、当時では、宮崎滔天(とうてん)と『東洋経済新報』の石橋湛山(たんざん)の二人ぐらいで、他の者は(吉野作造も含めて)せいぜい植民地統治方法の刷新(武断政治から文化政治へ)を唱える程度の認識しかなかったらしい。
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「独島は韓国領」とする韓国の主張は矛盾だらけと報道写真家
http://www.news-postseven.com/archives/20110922_31303.html
2011.09.22 07:00
竹島にほど近い鬱陵島視察に訪ねた日本の国会議員3人が「入国拒否」された直後の8月上旬に韓国に乗り込み、鬱陵島・竹島取材を敢行した報道写真家の山本皓一氏が、独島を自国の領土という韓国側の主張の矛盾をえぐる。
* * *
まず竹島といっても「3つの竹島」が存在する。整理すると以下の通りになる。
・現在の日本名・竹島(かつての日本名・松島、現在の韓国名・独島)
・かつての日本名・竹島(または磯竹島、現在の鬱陵島)
・現在の韓国名・竹島(竹嶼)
日本側には多くの文献・地図資料があり、「松島」と「竹島」の2つの島の存在を早くから認知していたことが確認されている。それに対して、韓国側が「独島」の領有権を主張する根拠を三段論法風にまとめれば次のようになる。
▼古来、韓国側も「鬱陵(武陵)島」と「于山島」という2つの島を領土としてちゃんと認知していた。たとえば、『世宗実録地理志』(1454年)にはこんな記述がある。
「于山、武陵の二島、県の正東の海中に在り、二島相去ること遠からず。風日清明なればすなわち望み見るべし」
▼その「于山島」こそ、現在の「独島」である。これは『東国文献備考』「輿地考」(1770年)の記述が代表的だ。
「輿地志にいう、鬱陵、于山は皆、于山国の地。于山はすなわち倭(日本)のいわゆる松島(現在の日本名・竹島)なり」
また、「独島」の“新住所”にも名前が冠せられている漁師・安龍福は、1693年、鬱陵島で密漁中に、当時実効支配していた日本側の漁師たちに捕らえられ、鳥取藩や対馬藩の下で取り調べを受けた。その後、日本に密航した際に日本側史料(「覚書」1696年)に書かれた安龍福の証言も論拠に挙げられている。
「松島(現在の日本名・竹島)は、すなわち子山島(=于山島)であり、これもまた我国の地である」
▼よって、「于山島」=「独島」は韓国領である。
以上が、韓国側の主張である。だが本当に「于山島」は現在の日本名・竹島なのか? たとえば、韓国側の文献に初めて「于山」の名が登場した『太宗実録』(1416年の項)には、こんな記述がある。
「武陵島(現在の鬱陵島)は周囲が七息で、傍らに小島がある。その田(畑の意味)は五十余結で、入る道は人ひとりがやっと通れるぐらいで、二人が並ぶことはできない」
韓国側の研究者は、ここで言う鬱陵島の「傍らの小島」は無名の島で、「その田は」以降の記述は鬱陵島についての記述だと主張する。だが、日本側の第一人者、下條正男・拓殖大学教授は、前後の記事からこの小島は「竹嶼」のことだと指摘している。
また、日本側の史料『竹嶋紀事』によれば、対馬藩の取り調べに対して安龍福は次のように答えている。
「鬱陵島の北東に大きな島があり、この島を知っている者がこれを于山島だと言っているのを聞いた」
これらの記述を総合すると、「于山島」とは、「鬱陵島の北東にあって、人ひとりがやっと通れるぐらい狭い道の先に畑が広がっている島」ということになる。
韓国が主張する「独島」は、鬱陵島の「南東」92kmにあり、岩礁であるため「入る道」などろくになく、ましてや「畑」になるような土地もない。逆に、これらの特徴をすべて兼ね備えているのは“もう一つの竹島”すなわち「竹嶼」だと推測するのが自然だろう。つまり、韓国側が従来の史料・論拠から主張できる領土は「鬱陵島と竹嶼」であり、現在の日本名・竹島までは及ばないのである。
実際、18世紀以降、韓国側で発行された地図に記された「于山島」の形や大きさは、見事に「竹嶼」と合致する。しかしその矛盾は無視される。
※SAPIO2011年10月5日号
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