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見えざる野望と日本を勝たせた男

ジェイコブ・シフをご存じだろうか?

「わが政府は、シフがしたことをけっして許しも忘れもしない。海外で我々に敵対するもっとも危険な人物だ。」

この言葉を言ったのは日露戦争の6年後、1911年のロシア大蔵大臣ココフツォフの言葉である。ロシア最大の敵であり、日本にとっての恩人である。

日露戦争における日本の勝利をもたらしたのは何でああろうか?
軍人、ジャーナリストなら士気、装備、総兵力、作戦、新兵器などを上げるだろう。士気と装備が同等であれば、兵力が3倍を超える方が勝利する。そう考えれば、かのナポレオンを退けたロシア陸軍、日本の10倍の兵力を持つロシアの勝利は疑い余地もない。
しかし、現実の日露戦争は、ロシアにとっての侵略戦、日本の防衛戦であって、かのナポレオンの進軍を阻んだ寒気をくぐるのは日本ではなくロシア軍であった。シベリア横断鉄道のモスクワからウラジオストックまでのユーラシア大陸 約9,288Kmを走破しなければならないのである。緒戦に勝利できれば、次々と送り込まれるロシア兵を各個撃破できる可能性が秘められていた。
そのことを冷静に判断し、日本に投資しようと言いだしたのは、ジェイコブ・シフ本人であった。

当時の金融中心はロンドンであり、2月24日に横浜から旅立った日銀副総裁の高橋是清はニューヨーク赴いたが4、5日で諦めて、ロンドンに向かった。ロンドンの銀行家達は日本国債の引き取りをためらった。「豪胆が子供が力の強い巨人に飛びかかったのだ。」と言って日本国民の勇気を嘆称し、非常に愉快に感じてくれているようであったが、日露開戦後の公債は、ロシアがわずかに下がっているのに比べて、日本は暴落を続けていたから新たな公債の発行を断り続けられた。高橋是清は1000万ポンド(1億円)を打診し続け、その粘り強さに様々な条件を付けることで、500万ポンド(5000万円)を承知させた。4月23、24日に仮契約が結ばれ、ニューヨークの投資銀行スパイヤーズのロンドン支店長アーサー・ヒルが祝いの晩餐会を開いてくれた。その時であったのが、ジェイコブ・シフであった。シフはニューヨークの投資銀行クーン・ローブ商会の主席代表であり、高橋是清が求める残りの500万ポンドを融資しようと言ってくれた。
この500万ポンドの価値がどれほどだったのかと言えば、二人が起債した外債総額が8200万ポンド(8億円)、戦費の総額が17億2121万円。それでいて開戦1年半後には戦闘継続不可能になっていた。11月10日に第2回外債を応募された。逆算すると9月から10月に掛けて日本軍の物資が不足し始めたと考えられる。12月には底を付くと私は私観ながら想像する。それに伴って外貨の不足分を補う話がロンドンとアメリカで10月頃に行われ、11月に公募されたと考えられる。なぜならば、この後、第3回3月24日、第4回7月8日と公募を繰り返し行っている。2月から3月に行われた奉天会戦においては、人員・物資とに不足している為に追撃戦が行えないほどの状態であった。
シフの協力がなければ、日本は9月から11月当たりでロシアに停戦協議を持ち掛けないといけない状態になっていたと思われる。
少なくとも要塞である旅順攻略は存在せず、半島での封じ込めという戦略になったと考えられる。日本海軍は太平洋艦隊、ウラジオストック艦隊、バルチック艦隊を同時に各個撃破するという荒技を強いられることになったであろう。(旅順が攻略されなければ、太平洋艦隊が旅順より出てくるのはバルチック艦隊が北上した時だけである。日本海軍はどちらかを先(おそらくバルチック)に叩き、合流しようとする艦隊を反転して壊滅させるという芸当を披露することになったであろう。)
最悪の場合、奉天会戦は存在せず、石炭が不足していたので日本海戦はできませんでしたなどと笑い話のような敗戦となっていたかもしれない。

日露戦争の経過
1904年2月6日、ロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡した。
1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まった。
1904年2月10日、日本政府からロシア政府への宣戦布告がなされた。
《1904年4月23・24日 ロンドンの公債の仮契約》
1904年4月30日 - 5月1日、鴨緑江会戦(おうりょくこうかいせん)は日本陸軍第一軍が鴨緑江を渡河して満州へ向かう途中で、これを阻止せんと待機していたロシア陸軍との間で起こった一連の戦いであり、近郊の鴨緑江岸でロシア軍を破った。
《1904年5月 第1回戦時外債の公募》
1904年5月25日 - 5月26日、南山の戦い(なんざんのたたかい)は、遼東半島の南山及びその近郊の金州城で行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦い。大日本帝国は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず1/6弱の兵員を失ってしまった。
1904年6月6日、乃木希典大将率いる第三軍が大連に上陸したが、陸軍の旅順攻略参戦を拒む海軍の意向を受け、満洲軍総司令部の指示により旅順に向けて漸進を余儀なくさせられる
1904年7月24日 - 7月25日、大石橋の戦い(たいせききょうのたたかい)は、日露戦争中の戦いの一つで、営口と南満州鉄道本線をつなぐ大石橋に展開中のロシア陸軍のシベリア第一軍団及びシベリア第四軍団を日本陸軍第二軍が攻撃し、勝利した。
1904年8月10日 黄海海戦(こうかいかいせん)は旅順港に艦隊を置いておくことが危険になってきたと判断したロシア海軍が艦隊を旅順港からウラジオストクへ回航することを決定した。旅順の西南23カイリ付近でおこった海戦である。日本軍の圧勝であったが、ロシアの艦艇は多大な損害をたしながらも沈没艦を出さずになんとか旅順に帰還した。
1904年8月14日 旅順艦隊を援護する為に出動した。しかし、旅順に引き返した無線が受信されずにいた。上村中将率いる装甲巡洋艦4隻からなる第二艦隊第二戦隊は蔚山沖で南方を航行するウラジオストク艦隊を発見。装甲巡洋艦1艦を沈没、その他巡洋艦2艦を大破した。
1904年8月19日 - 1905年1月1日、旅順攻囲戦(りょじゅんこういせん)は太平洋艦隊の母港としていた旅順を守る要塞戦である。203高地で有名な日露戦争の要所である。日本軍は戦死5052名、負傷11884名。露軍は戦死5308名、負傷者は12000名近くに達した。これによってロシア太平洋艦隊(旅順艦隊)は全滅した。
1904年8月24日 - 9月4日、遼陽会戦(りょうようかいせん)は遼陽(遼陽は中国東北部)に集結し、東から第一、第四、第二軍を展開。第一軍が太子江を渡河して東を迂回し、ロシア軍を側撃する作戦を計画だった。死傷者は日本側が2万3500、ロシア側が2万あまりで、両軍あわせて4万人以上も出す激戦であった。9月4日、ロシア指揮官クロパトキンは退路の遮断を恐れ、全線に奉天への撤退を開始。日本側は兵力消耗や連戦の疲労もあり追撃しなかった。
1904年9月19日 第二次旅順総攻撃
1904年10月9日 沙河会戦(さかかいせん)は、ロシア軍の反攻撃が始まり、それを日本陸軍が迎撃するという戦い。
《1904年11月10日 第2回戦時外債の公募》
1904年11月26日 第三次旅順総攻撃
1904年12月5日 旅順総攻撃にて203高地の占領
1904年12月31日 第四次旅順総攻撃
1905年1月2日 旅順陥落
1905年1月25日 - 1月29日 黒溝台会戦(こっこうだいかいせん)
1905年2月21日 - 3月10日、奉天会戦(ほうてんかいせん)は、日露戦争陸軍における最後の会戦である。参加兵力は大日本帝国陸軍25万人、ロシア帝国軍37万人。指揮官は日本側大山巌、ロシア側アレクセイ・クロパトキン。日本側は死者15,892人、負傷者59,612人。露軍は死者8,705人、負傷者51,438人、捕虜28,209人を出す大激戦であった。3月9日、ロシア軍の総帥クロパトキンは、突如、奉天が包囲されることを避けるため鉄嶺・哈爾浜方面への転進を指令した。実際、ロシアは余剰戦力を残しており、逆に日本軍は補給戦が限界に達していた。しかし、日本軍の激戦に脅威を感じたロシア軍の士気の低下を感じた総帥クロパトキンはロシア軍の撤退を命じたと考えている。ロシア軍にすれば、本国よりの100万の増援を待って反撃に転ずればいいことであった。必死に死守する意味を感じなかったのかもしれない。いずれにしろ、開戦後の日本軍の能力が格段に落ちていることを見れば、ここが限界であった。
《1905年3月24日 第3回戦時外債の公募》
1905年5月27日-5月28日、日本海海戦(対馬海戦(つしまかいせん)は、日本海軍が北上するバルチック艦隊を壊滅させた圧勝の海戦。
《1905年7月5日  第4回戦時外債の公募》
1905年7月7日 - 7月31日 樺太作戦で樺太を占領
1905年8月9日 ポーツマツで日露講和会議がはじまる。
1905年9月1日  日露両国、休戦議定書に調印
1905年(明治38年)9月5日15時47分 日露講和条約の調印

このように薄氷の勝利をもぎとった日本であるが、真の勝因はここではない。

ジェイコブ・シフはロシアに対して、ロシア国内の同胞(ユダヤ人)の虐待について改善を求める打診を幾度となく行っている。開戦後、ロシア政府はアメリカでの起債を狙って、内相プレーヴェがシフと会談をした。そのとき、シフはユダヤ人虐待の持論は展開せず、ユダヤ人のビザにある制限条項の廃止という緩い条件を付けたが、内相プレーヴェはその数週間後の1904年7月28日に暗殺された。ロシア政府がアメリカで戦時外債を得る為の最大の障害はジェイコブ・シフだったのである。
ジェイコブ・シフはクーン・ローブ商会の代表である。クーン・ローブ商会はアメリカ最大の実業家ジョン・デイヴィソン・ロックフェラー・シニアが作ったロックフェラー財団と親しい間柄である。当時のロックフェラーのスタンダード・オイル社は石油市場の90%を支配するに至っており、潤沢な資金があったと思われる。それが日露戦争において日本の外債購入の資金になったことは疑いそうもない。
一方で、ジェイコブ・シフは全米ユダヤ人協会会長も務めていた。日露開戦前の1904年2月上旬にシフ邸で開かれたユダヤ人指導者の会合で「72時間以内に日露間で戦争が勃発する。日本の公債引受の問題が提起されているのだが、わたしは引き受けることでロシアの同胞にどんな影響が及ぶか、諸君の見解を聞きたい。」と語っている。この場合の同胞とは、おそらく2つの意味をなしている。1つは、ユダヤ人の虐待が強化されないかという問題定義、もう1つはロスチャイルド家がロシアのバクー油田に投資しており、その損害と傷害になりうるかという問題だと考えられる。ロシアが勝つことによって、1つ目の問題が解決することはないので問題外である。2つ目においても、日本がロシアを占領するほどの国力を有していないことは明らかであり削除できる。つまり、ロスチャイルド家への説得を除いて問題なしと考えられ、すべての同胞の賛同を得た。この推測はシフが2月に同胞の賛同を得てながら4月まで高橋是清に接触しなかったこと、シフの相談役がアーネスト・カッセル卿であったことがそのことを表している。
アーネスト・カッセル卿とロスチャイルド家との関係は深い。つまり、この4月の時点でロシアの同盟国であるフランス政府と何らかの取り決めが成立していたと考えられる。
フランス・ドイツの自国の情報とアーネスト・カッセル卿筋から齎される情報を加味しても日本がロシアに勝利するとフランス政府やドイツ政府が信じたかと言えば、そんなことはなかったと思われる。実際に、フランスやドイツはロシアの戦時外債を購入している。しかし、日本がロシアと拮抗する可能性を示唆したと考えられる。
もし、日本とロシアの力が拮抗しているのであれば、ロシアの出費も膨大なものとなり、フランスなどはロシアの工業化に借款した投資の回収が困難になる可能性が出てくる。
そうなれば、ロシアと日本の早期講和がフランスにとって最も利益になることを誰かは説いたと考えられる。
その結果の1つとして、同年(1904年4月8日)英仏協商(えいふつきょうしょう)に象徴されるように、日露戦争がイギリスとフランスを巻き込んだ世界大戦になることを回避したと思われる。
フランスは日露戦争の日和見を決め込んで、ロシアに対して外債の購入を渋ったのは確実であろう。
実際、ロシアと日本の賠償なしの講和条件を出したのもフランスからであった。
高橋是清はその申し出に胡散臭いものを感じながらも深く詮索はしなかった。日本にとっても戦争継続は不可能であり、さらにフランスで低金利の外債への書き換えができるという申し出はありがたいものであった。ロシアと日本の全面戦争を回避し、イギリスとアメリカに恩を売るフランスの戦略は、ドイツを包囲する為のものであったが、それはまた別の話である。

いずれにしても、フランスやドイツの日本の実力を知らせた人物は、西洋ではただ一人しか思い当たらない。
どちらの陣営にも属さず、冷静に分析し、その筋の人脈を納得させることの人物である。
日本がロシアに勝つと信じて、日本の外債を引き受けたいと申し出た人物である。

ロシアはクリミア戦争後に近代化を始めたばかりであり、フランスに多額の借款を持っていた。極東司令官アレクセイ・クロパトキンが望んだ100万の援軍を送り出すには、多額の外資をかき集める必要があり、それを阻んだのがジェイコブ・シフの才覚であった。

日露戦争の勝因は、秋山兄弟の才覚や下瀬火薬(しもせかやく)の発明や多くの将兵の才覚と士気と司令官の才能と文官の機転など多くの要因が絡まった勝利であった。しかし、その最大の功労者はやはり“ロシア100万兵を阻止した”ジェイコブ・シフであろう。
しかし、皮肉なことにジェイコブ・シフは日本の為にやったのではない。ユダヤの民と自らの利益への投資であった。

ジェイコブ・シフ、彼は近代日本人を誰よりも高く評価した西洋人である。

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