日韓併合、悲劇の英雄と時代に逆らった宰相
安 重根(アン・ジュングン、朝鮮語:? ??)をご存じだろうか?
伊藤博文を暗殺した韓国の英雄である。彼の行為は愛国心に基づいた義心であり、今風に言えば『ジハード』であり、彼が英雄であったことを非難するつもりもなし、彼の勇気を高く評価しているつもりである。誰も彼を責めることはできない。しかし、残念なことに祖国を救わんとした彼が日韓併合の扉を開いてしまったというのは悲劇の英雄というのは歴史の皮肉である。
多くの歴史学者もそう感じているのかもしれないが、彼の献身的な行為によって日韓併合は加速した。当時の英国の有力紙<タイムズ>は“伊藤を「朝鮮で日本の政策と統治に初めて融和的性格を刻んだ人物だった」と評価し、穏健派伊藤が暗殺されたことに「残酷な皮肉を感じる」とまで論評した。”と書かれている。当時の伊藤博文は日韓併合もしくは合邦に批判的であり、反対した一番の理由である。「まだ国際社会の同意を得られない」、「併合は時期尚早である」という見解であった。彼、安 重根(アン・ジュングン)の軽率な行為によってそれらの国際的問題が解決されることになる。英国と米国は推奨し、ロシア、イタリア、フランス、ドイツ、そして、清国も反対するものはいなかった。そして、当時の大韓帝国最大与党の『一進会』と日本国政府によって進められていったのは明らかである。
一発の銃弾は、祖国を破滅させる死刑執行のサインに署名の銃声となってしまったのある。
これを『悲劇の英雄、安 重根(アン・ジュングン)の銃弾』と呼びたい。
もちろん、その銃声が日韓併合を決めたのではない。
日韓併合もしくは、日韓合邦はすでに、桂首相・伊藤会談(1909年 4月)で合意されており、動かない事実として動き始めいた。
しかし、伊藤博文は英国学者の評価にあるように、あくまでフランスの同化主義的植民統治方式でなく、ある程度自治を認める英国型統治方式を好んだと思われる。特にスコットランド併合を参考にされ、韓国王朝、李王朝が天皇家に次ぐ、地位を約束されていたことからも判る。伊藤博文が暗殺されなかったのならその時期は少し後にずれ、さらに山県有朋らの軍部の盾となっていただろうと思われる。当時の元老の頂点は、伊藤博文と山県有朋が牛耳っており、伊藤博文の暗殺は軍部にとって漬け物石を外すような愚かな行為であった。
伊藤博文が在命なら行うのは、韓国「併合」(吸収合併)なく、韓国「合邦」(連邦)の道を歩んだと思われる。少なくとも、大韓帝国の“韓国”冠が消えることは避けられたのではないだろうか?しかも満州の門戸解放が成功した場合に限り、大韓帝国の復権も在り得た。歴史において『IF』は意味を持たないので、これくらいにしておこう。ただ、大韓帝国の最大の理解者、伊藤博文が銃弾に倒れたことは、朝鮮の不幸であった。
そういう意味で親日団体一進会の『韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書』にあるように、「韓国人自らそうしてしまった」という見解は正しい。
現在の韓国において、安 重根(アン・ジュングン)を英雄に祀るのは理解できる。
しかし、伊藤博文の功績を無視し、朝鮮国に不利益をもたらしたような評価は、歴史認識が幼稚であることを馬蹄している。大韓帝国が地上から消えたのは歴史の流れから当然であり、その流れに逆らっていたのが伊藤博文という人物であり、恩師として惜しむ声が上がるところを罵倒しているのは苦痛に耐えない。
安 重根(アン・ジュングン)、それは悲劇の英雄、日本によって出来た朝鮮人が皇帝の帝国、大韓帝国を消滅させたのは人物である。
・1909年10月26日 伊藤博文暗殺
・1910年 8月22日 韓国併合(かんこくへいごう)
私自身の見解として、韓国併合(かんこくへいごう)は愚行であったと思う。ただし、民族解放という先見の功をなしながら、自ら閉じてしまったことを惜しんでいるだけであり、その責務が日本にあるとは思っていない。
よって先人を責めるつもりもない。なぜならば、私は未来から評価しているだけであって、当時の知識と見解において未来を見通すのは不可能というものである。
支那事変の頃に“大東亜共栄圏”という言葉が作られたが、この思想は明治維新の以前、吉田松陰塾の頃からあった。福沢諭吉も当初はこちら側の思想にもとづいて、多くの中国や韓国の留学生や亡命者を匿っていた。しかし、彼の塾生の悲惨な死によって、彼は大きく思想を転換した。福沢諭吉は“脱亜論”に見られるように厳しい態度をもって東アジアに接することを述べ始めたのだ。その思想が日清・日露を経て、自信と欺瞞となり、大きくなっていったのは疑いようもない。しかし、伊藤博文は長州藩士であり、吉田松陰の松下村塾に入門である。恩師の教えに忠実であり、何よりも鈍重な性格は、軍部から「弱腰外交」と揶揄されるほどであったが、温厚にして冷淡、鈍重して正確な政治姿勢があったればこそ、初代総理大臣になり得たと私などは評価している。
その伊藤博文も子供の頃は嘘つき呼ばわりされた悪ガキであり、高杉晋作との出会いが彼を大きく変えている。
日清・日露戦争によって、生まれた自信と虚勢は福沢諭吉が言った「脱亜論」のごとき考えが支流になってゆき、伊藤博文の考えとは大きく食い違っていった。その一番の原因は、日露戦争の正しい評価が国民になされたかったことである。陸軍においてはやも敗戦、海軍において大勝利、国力差から言って引き分けというのが正しい見解である。
日露戦争における陸軍も勝っているという意見もあるだろうが、日本は1年かけてやっと奉天に達しただけであって、ハルビン、ウラジッオストックは遥かに北である。
奉天の地図
(遼東湾の営石から奉天までと、ハルビンまでを比べれば明らか)
日本陸軍はそのことをもっと重く捉えるべきであり、再度訪れるロシアの南下を重視しなくればならない。また、大勝利に酔った日本海軍は、戦略観を失い戦術観を重視するようになる。いずれにしても、本来の国土防衛の意思を外れ、陸の長州、海の薩摩の軋轢を大きくしていった。それぞれの拡大思想と大韓帝国の裏切り行為が日韓併合のきっかけとなる。
ハーグ密使事件(1907年)のように大韓帝国が祖国の保護国状態打破の為に諸外国を頼った外交は、日清・日露で払った犠牲をないがしろにする行為であった。
もし、戦後の韓国や日本のようにアメリカを頼った外交を大韓帝国が行っていたなら、まったく違う結果になっいただろう。
《ハーグ密使事件、大韓帝国の外交が、自らの存在を危うくするという危機観はなかったのだろうか?》
ハーグ密使事件は閔妃という女が黒幕だったという「閔妃黒幕説」があるようですが、実際は大韓帝国内「抗日派」が行ったと思われます。日本も明治維新の頃に命を掛けて、祖国の存亡に挑みました。この事件も朝鮮人の蛮勇がなせる技です。
大韓帝国内の「抗日派」「親日派」の人々はどちらの陣営にしろ、「日本」という「災い」からどう国家を守るかを必死に考えた結果の行動が、日韓併合もしくは日韓合邦への過程となって逝きます。
おそらく伊藤博文も一度大韓帝国を併合もしくは合邦しなければ、30年の文化度の違いを打破できないと考えるようになったと思われます。
妙な実験の例でいえば、
猿にナイフと銃を与えて、どちらの武器を使用するか?
当然、ナイフを猿は使用します。
使い方が簡単だからです。銃の扱いは知識と技術が必要です。
当時の朝鮮人は清国の常識が一般であり、国際法という意識が乏しかったと思われます。
日本の明治維新がスムーズに行われたのは、一般庶民まで寺子屋に通うほど文化度が高く、書道、剣道、漢文に蘭学まで扱える庶民がいたという土壌に、西洋文化が解放され、水を吸うスポンジのような状態でした。しかし、清国の政治は貴族主義であり、貴族の文化度は高いのですが、庶民の文化度は自分の名前が掛けないような状態です。
別にこれは朝鮮人を非難している訳ではありません。現在でも、アメリカの何割かは自分の名前が書けないという話もあるくらいですから、国家の在り方の違い、朝鮮王国の庶民が悪いという訳ではありません。
また、日本でも西南戦争のように、武士が反乱を起こしております。どんな時代でも現実を受け入れられない人はおり、それを打破していかなければ、国家の存亡を危うくします。
伊藤博文が考えていた日韓併合もしくは日韓合邦は、そういったモノを排除する為の過程であったと思われます。
日米安保によって国権を回復したように、大韓帝国も国権を回復する可能性は十分にあった私など推測している訳であります。
しかし、その野望を駆逐したのは、安 重根の銃弾でありました。
現在、大韓民国では安 重根は祖国の英雄として祭り上げています。ならば、【日韓併合も致し方なし】と認めているかというとそうではありません。
論理的破綻を起こしています。
<<(伊藤博文の)殺人は認めるが、(日韓併合という)犯罪は認められない。>>
もし、日韓併合が民族の権利をはく奪する違法な行為として認められないなら、大韓帝国在住の外国人を殺した殺人犯として安 重根も非難されるべきです。
安 重根の銃弾が、日韓併合の障害となっていた伊藤博文を排除したという事実を認められないなら、韓国の文化度は未だに低いと言わざるいえません。
伊藤博文は、帝国主義、植民地主義を否定し続け、時代の波に逆らっていたと言わざるえません。ゆえに、歴史の神に安 重根が選ばれたのかもしれません。
安 重根(アン・ジュングン)、それは悲劇の英雄、日本によって出来た朝鮮人が皇帝の帝国、大韓帝国を消滅させたのは人物である。
韓国併合に至る年表
1885年 3月16日 福沢諭吉「脱亜論」
1894年 7月25日 - 1895年11月30日 日清戦争
1895年10月 8日 閔妃殺害事件(乙未事変)
1895年11月28日 春生門事件
1896年 1月31日 儒生李弼熙の檄文(乙未義兵
1896年 2月 5日 李範晋はロシアの指示で春川、忠清道で暴動を起こし、日本の電信線を切断。
1896年2月11日 - 1897年2月20日 露館播遷(ろかんはせん)李氏朝鮮の第26代王・高宗がロシア公使館に移り朝鮮王朝の執政
2月11日 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、ロシア公使館へ非難する。(宮女ゲン(元?)金明載より「各大臣等日本兵が密かに国王を廃位しようとしているので甚だ危険なり。速かに露館に播遷し回避されたし」旨の書状を高宗に届ける。)
2月11日 高宗勅令
2月18日 仁川に4000余名の暴徒蜂起 官衙官宅を毀壊
2月21日 各地に起こる暴動のうち 、内部参書官徐相集と申大均は騷優地方坡州、開城、驪州、利川等に乱民鎮撫に関する勅諭頒示の為に向かう。
2月22日 内閣体制の更新 李範晋は法部大臣兼警務使となり大院君派の粛清を開始
3月16日 大院君一派の人々、漢城府観察使金経夏、呂圭亨等従犯等数十名を逮捕、裁判へ
3月27日 アメリカ、雲山の金鉱採掘権 、京仁線敷設権 、漢城の電灯・電話・電車の敷設権取得
4月22日 ロシア、慶源・鍾城両処の鉱山採掘権を取得
5月14日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第1次日露議定書調印
5月22日 流刑10年に処せられた閔泳駿(後に閔泳徽と改名)、赦免となる
6月9日 日本・ロシア間で朝鮮問題に関し、第2次日露議定書調印
6月12日 ロシア月尾島西南地段(44,316m2 年銀貨361元)租借契約を取得
6月22日 李範晋、在米国公使へ
7月 フランス、京義線敷設権を取得
8月20日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(機械士官Remnevに?年銀貨200元)
9月 ロシア豆満江上流地域・鴨緑江上流地域・鬱陵島・茂山の森林伐採権を取得
11月21日 旧臣ら 高宗に還宮請願計画(未遂)
1897年
1月 ロシア人 N. Birukovをロシア語教師として雇用
2月13日 機械厰でのロシア技士雇傭契約(雇傭期間3年、俸給?月銀貨260元、路費500元、帰路費800元、退職金2,000元)
2月20日 高宗、慶運宮に還宮
10月12日 高宗は朝鮮初となる皇帝に即位
1898年 7月 皇帝譲位計画
1898年 9月 金鴻陸毒茶事件(高宗・皇太子暗殺未遂事件)
1899年 英学の反乱
1904年 2月10日 日露戦争
1904年 2月23日 日韓議定書を締結
1904年 8月 第一次日韓協約 財政顧問に目賀田種太郎、外交顧問にアメリカ人のドーハム・スティーブンスを推薦、閔妃によって帝政ロシアに売り払われた関税権を買い戻す。
1905年 9月 5日 ポーツマス条約
1905年11月17日 第二次日韓協約(乙巳保護条約)大韓帝国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。
1907年 ハーグ密使事件(ハーグみっしじけん) 李儁、李相?、李?鍾密使を担った三人
1909年 4月 桂首相・伊藤会談
1909年10月26日 伊藤博文暗殺
1909年12月 4日 韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書
1910年 8月22日 韓国併合ニ関スル条約
1919年 1月21日 高宗は67歳で薨去。
1919年 3月 1日 三・一運動
(ウィキペディアも参照)
高宗勅令(1896年2月11日)
1.閔妃殺害事件の犯人として特赦された趙羲淵、禹範善、李斗?、 李軫鎬 李範来 権?鎮の首を持ってロシア公館に持参せよ
2.新内閣の公示
総理大臣に金炳始、内部大臣に朴定陽、軍部大臣兼警務使李允用、法部大臣に趙秉稷、学部大臣に李完用、宮内大臣に李載純を命じる。
在朝ロシア公使はスペール
趙羲淵[7] 兪吉濬 張博[11]李軫鎬等は日本に亡命
前総理金弘集と前農工商大臣鄭秉夏は亡命せず 警務庁前で暴徒に捕まり惨殺、遺体は焼却
桂首相・伊藤会談
1909年4月に桂太郎首相と小村寿太郎外相が伊藤博文でもたれた会談で「韓国の現状に照らして将来を考量するに、韓国を併合するより外に他策なかるべき事由を陳述」を行ったところ、「(伊藤)公は両相の説を聞くや、意外にもこれに異存なき旨を言明」し、なおかつ桂・小村の提示した「併合の方針」についても、「その大網を是認」した。伊藤は2週間後に東京で行った演説でも、「今や方に協同的に進まんとする境遇となり、進んで一家たらんとせんとす」と併合を容認する発言をして聴衆を驚かせている。
それ以前は、朝鮮統監であった伊藤博文らは対外的に「まだ国際社会の同意を得られない」と考えていたことなどから「併合は時期尚早である」として反対していた。
★福澤諭吉
天保5年12月12日(1835年1月10日)- 1901年(明治34年)2月3日)
福澤が援助した李氏朝鮮の開化派
□福沢諭吉「脱亜論」(明治18年(1885年)3月16日)
明治十八年三月十六日付『時事新報』
世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東に漸(ぜん)し、到る処、草も木もこの風になびかざるはなし。けだし西洋の人物、古今に大に異(ことな)るに非ずといえども、その挙動の古(いにしえ)に遅鈍にして今に活発なるは、ただ交通の利器を利用して勢(いきおい)に乗ずるが故のみ。故に方今(ほうこん)東洋に国するものゝ為(ため)に謀(はか)るに、この文明東漸(とうぜん)の勢に激してこれを防ぎおわるべきの覚悟あれば則(すなわ)ち可(か)なりといえども、いやしくも世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を掲げて共に文明の苦楽をともにするの外(ほか)あるべからざるなり。
文明はなお麻疹(はしか)の流行の如し。目下(もっか)東京の麻疹は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延(まんえん)する者の如し。この時に当り、この流行病の害をにくみてこれを防がんとするも、果してその手段あるべきや。我輩(わがはい)断じてその術(すべ)なきを証す。有害一偏の流行病にても、なおかつその勢(いきおい)には激すべからず。いわんや利害相伴(あいともな)うて常に利益多き文明に於(おい)てをや。ただにこれを防がざるのみならず、つとめてその蔓延を助け、国民をして早くその気風に浴せしむるは智者の事なるべし。
西洋近時(きんじ)の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民ようやくその採(と)るべきを知り、漸次に活発の気風を催(もよ)うしたれども、進歩の道に横わるに古風老大の政府なるものありて、これを如何(いかん)ともすべからず。政府を保存せんか、文明は決して入るべからず。如何となれば近時の文明は日本の旧套(きゅうとう)と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府もまた廃滅すべければなり。しからば則(すなわ)ち文明を防(ふせぎ)てその侵入を止めんか、日本国は独立すべからず。如何となれば世界文明の喧嘩繁劇(はんげき)は東洋孤島の独睡を許さゞればなり。
ここに於てか我日本の士人(しじん)は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、また幸(さいわい)に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中(こくちゅう)朝野(ちょうや)の別なく一切万事、西洋近時の文明を採り、独(ひと)り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜(あじあ)全洲の中に在て新(あらた)に一機軸を出し、主義とする所はただ脱亜の二字に在るのみ。
我日本の国土は亜細亜の東辺に在りといえども、その国民の精神は既(すで)に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。然(しか)るにここに不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。この二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるゝこと、我日本国民に異(こと)ならずといえども、その人種の由来を殊(こと)にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものあるか、日支韓三国相対(あいたい)し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於(お)けるよりも近くして、この二国の者共は一身に就(つ)きまた一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見(ぶんけん)せざるに非(あら)ざれども、耳目(じもく)の聞見は以(もっ)て心を動かすに足らずして、その古風旧慣に恋々(れんれん)するの情は百千年の古に異ならず、この文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、その実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻(ざんこく)不廉恥(ふれんち)を極め、なお傲然(ごうぜん)として自省の念なき者の如(ごと)し。
我輩を以てこの二国を視(み)れば、今の文明東漸の風潮に際し、とてもその独立を維持するの道あるべからず。幸にしてその国中に志士の出現して、先(ま)ず国事開進の手始めとして、大にその政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、もしも然(しか)らざるに於ては、今より数年を出(い)でずして亡国と為(な)り、その国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑(うたがい)あることなし。如何となれば麻疹に等しき文明開化の流行に遭(あ)いながら、支韓両国はその伝染の天然に背(そむ)き、無理にこれを避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞(ちっそく)するものなればなり。輔車(ほしゃ)唇歯(しんし)とは隣国相(あい)助くるの喩(たとえ)なれども、今の支那、朝鮮は我日本国のために一毫(いちごう)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以てすれば、三国の地利相接(あいせつ)するが為(ため)に、時に或(あるい)はこれを同一視し、支韓を評するの価を以て我日本に命ずるの意味なきに非(あら)ず。
例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(たの)むべきものあらざれば、西洋の人は日本もまた無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺(わくでき)深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠(ぎきょう)もこれがためにおおわれ、朝鮮国に人を刑するの惨酷(さんこく)なるあれば、日本人もまた共に無情なるかと推量せらるゝが如(ごと)き、これらの事例を計(かぞう)れば枚挙にいとまあらず。これを喩(たと)えばこの隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然(し)かも残忍無情なるときは、稀(まれ)にその町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜におおわれて埋没するものに異(こと)ならず。その影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云(い)うべし。
されば、今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て、共に亜細亜を興(おこ)すの猶予(ゆうよ)あるべからず、むしろ、その伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、その支那、朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、まさに西洋人がこれに接するの風に従て処分すべきのみ。悪友を親しむ者は、共に悪名を免(まぬ)かるべからず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。
□isa訳 脱亜論(midunoな日々から)
現在、西洋人の地球規模での行動の迅速さには目を見張るものがあるが、ただこれは科学技術革命の結果である蒸気機関を利用しているにすぎず、人間精神において何か急激な進歩が起こったわけではない。したがって、西洋列強の東洋侵略に対してこれを防ごうと思えば、まずは精神的な覚悟を固めるだけで充分である。西洋人も同じ人間なのだ。とはいえ西洋に起こった科学技術革命という現実を忘れてはならない。国家の独立のためには、科学技術革命の波に進んで身を投じ、その利益だけでなく不利益までも受け入れる他はない。これは近代文明社会で生き残るための必須条件である。
近代文明とはインフルエンザのようなものである。インフルエンザを水際で防げるだろうか。私は防げないと断言する。百害あって一利も無いインフルエンザでも、一度生じてしまえば防げないのである。それが、利益と不利益を相伴うものの、常に利益の方が多い近代文明を、どのようにして水際で防げるというのだろう。近代文明の流入を防ごうとするのではなく、むしろその流行感染を促しつつ国民に免疫を与えるのは知識人の義務でさえある。
西洋の科学技術革命について日本人が知ったのはペリーの黒船以来であって、これによって、国民も、次第に、近代文明を受け入れるべきだという認識を持つようになった。ところが、その進歩の前に横たわっていたのが徳川幕府である。徳川幕府がある限り、近代文明を受け入れることは出来なかった。近代文明か、それとも幕府を中心とした旧体制の維持か。この二者択一が迫られた。もしここで旧体制を選んでいたら、日本の独立は危うかっただろう。なぜなら、科学技術を利用しつつ互いに激しく競いながら世界に飛び出した西洋人たちは、東洋の島国が旧体制のなかにひとり眠っていることを許すほどの余裕を持ち合わせてはいなかったからである。
ここに、日本の有志たちは、徳川幕府よりも国家の独立を重んじることを大義として、皇室の権威に依拠することで旧体制を倒し、新政府をうちたてた。かくして日本は、国家・国民規模で、西洋に生じた科学技術と近代文明を受け入れることを決めたのだった。これは全てのアジア諸国に先駆けており、つまり近代文明の受容とは、日本にとって脱アジアという意味でもあったのである。
日本は、国土はアジアにありながら、国民精神においては西洋の近代文明を受け入れた。ところが日本の不幸として立ち現れたのは近隣諸国である。そのひとつはシナであり、もうひとつは朝鮮である。この二国の人々も日本人と同じく漢字文化圏に属し、同じ古典を共有しているのだが、もともと人種的に異なっているのか、それとも教育に差があるのか、シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。情報がこれほど速く行き来する時代にあって、近代文明や国際法について知りながら、それでも過去に拘り続けるシナ・朝鮮の精神は千年前と違わない。この近代文明のパワーゲームの時代に、教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。
私の見るところ、このままではシナ・朝鮮が独立を維持することは不可能である。もしこの二国に改革の志士が現れて明治維新のような政治改革を達成しつつ上からの近代化を推し進めることが出来れば話は別だが、そうでなければ亡国と国土の分割・分断が待っていることに一点の疑いもない。なぜならインフルエンザのような近代文明の波に洗われながら、それを避けようと一室に閉じこもって空気の流れを絶っていれば、結局は窒息してしまう他はないからである。
『春秋左氏伝』の「輔車唇歯」とは隣国同志が助け合うことを言うが、現在のシナ・朝鮮は日本にとって何の助けにもならないばかりか、この三国が地理的に近い故に欧米人から同一視されかねない危険性をも持っている。すなわちシナ・朝鮮が独裁体制であれば日本もそうかと疑われ、向こうが儒教の国であればこちらも陰陽五行の国かと疑われ、国際法や国際的マナーなど踏みにじって恥じぬ国であればそれを咎める日本も同じ穴の狢かと邪推され、朝鮮で政治犯への弾圧が行われていれば日本もまたそのような国かと疑われ、等々、例を挙げていけばきりがない。これを例えれば、一つの村の村人全員が無法で残忍でトチ狂っておれば、たとえ一人がまともでそれを咎めていたとしても、村の外からはどっちもどっちに見えると言うことだ。実際、アジア外交を評する場面ではこのような見方も散見され、日本にとって一大不幸だと言わざるを得ない。
もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。(明治18年3月16日)
★「韓日合邦を要求する声明書」
日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけ
ていた韓国を救ってくれた。それでも韓国はこれをありがたく思うどころ
か、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われるこ
とになったが、これは我々が自ら招いたことである。丁未条約を締結する
ことになったのも、やはりハーグ事件をおこした我々に責任がある。
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のためにご
苦労されたことは忘れられない。にもかかわらずハルピンの事件がおきて
しまった以上、こんごいかなる危険が到来するのかわからない。これもまた
韓国人自らそうしてしまったのである。(中略)
それゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国をつく
って世界の1等国民として日本人とまったくおなじ待遇をうけながら暮らして
みよう。
1909年 12月4日 一進会(百万の親日朝鮮人会員)
□韓日合邦(かんにちがっぽう)を要求する声明書
1909年12月4日、大韓帝国で日本の影響下にあった親日団体一進会(公称会員数百万人・実数数万人程度)が皇帝純宗、韓国統監曾禰荒助、首相李完用に送った朝鮮と日本の対等合併を要望する声明書である。
この声明書の中で、「これまでの朝鮮の歴史の悲劇は自分達が招いたことであり、我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受して、政府と社会を発展させようではないか」と、大韓帝国政府と大日本帝国政府が新たに一つの政治機関を設立し、大韓帝国と大日本帝国が対等合邦して一つの大帝国を作るように求めた。
南北朝鮮では当時一進会が民衆のみならず知識人からも強い批判を受けていたこと、それまで一進会が同じく親日派の李完用首相と共に日本の朝鮮侵出を援護してきたことなどから、この声明書に対して「国権防衛運動、義兵闘争、愛国啓蒙運動などに反するもの」であると非常に批判的であった。
ただ日本を含めた諸外国の研究者は、一進会が大日本帝国の侵略の意図を見抜けず韓国を亡国へと導く役割を果たしたことは事実であるが、対等合併論自体は日本の朝鮮併合論(朝鮮が日本に従属し、主権を放棄する形で植民地となる。)とは明らかに異なり、寧ろ併合後の日本が一進会すらも用済みとして切捨て、植民地統治を開始したことを踏まえて、「一進会もまた犠牲者であり、必ずしも責められるべき点ばかりではなかった」とする同情的意見も強い。実際一進会会員の多くは日本による韓国併合をしるや、「日本に騙された。」と感じ後悔したという記録もある。
ただし日本では侵略と植民地統治の当事国であるという意識から、チンイルパ(親日派)全体に対してやや同情的であるという背景を指摘する声もある。また招いた結果が国権を喪失し植民地支配に陥ったという重大事態であるので「騙されたとしても、騙された事に対する責任がある。」とする厳しい意見も南北朝鮮を中心に存在している。
★【日韓歴史】 安重根が伊藤博文を撃たなかったら~ハルビン義挙
http://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/news4plus/1282396491/
「タン、タン、タン」三発の銃声が響いた。中国、ハルビン駅でロシア政府の実力者、財務省ココフ
ツォフと共に儀仗隊を査閲する伊藤博文に向かって銃弾が放たれた。取材記者を名乗って日本
警察をまいた安重根(アン・ジュングン)が撃ったものだ。伊藤は応急処置を受けて誰が撃ったの
かと訊ねた。韓国人というと伊藤はつぶやいた。「バカな奴!」なぜ最後の一声が「バカな奴」だっ
たのか?恐らく対韓国政策で穏健派を代表する自分が韓国人の手で死ななければならない現実
に対する反発心からであったろう。
安重根の伊藤狙撃は自ら失敗を招いた?
私たちは韓日合併の元凶と認識しているが、事実、彼は山県有朋のような日本の軍部強硬派と
異なり朝鮮に対して懐柔的な路線を歩いた。また、当時日本一の政治的実力者であり、米国やヨー
ロッパなど西側世界ではビスマルクや清国の李鴻章と比較される程存在感が大きい国際政治家
として認められていた。(中略=伊藤博文の説明)彼が日本で21年間(1963~84)も千円札の肖像
人物だったのは偶然ではない。
伊藤の死が及ぼした波紋は大きかった。韓国民衆は喜び中国など帝国主義国家の侵略を受けて
いた弱小民族は安重根の義挙を特筆大書して日本の膨張政策が阻止されると期待した。しかし
英国など帝国主義国家は衝撃の中に伊藤と日本に同情的な反応を見せた。一例として、親日的
論調を展開した英国の有力紙<タイムズ>は伊藤を「朝鮮で日本の政策と統治に初めて融和的性
格を刻んだ人物だった」と評価し、穏健派伊藤が暗殺されたことに「残酷な皮肉を感じる」とまで論
評した。何より韓日合併方針を定めて機会をうかがっていた日本の強硬派は合併を積極的に推
進することができた。こういう雰囲気に便乗して日本政府は強制合併の速度を速めることができた。
親日団体の一進会は最初から遠慮なく合併請願運動を行っていた。実際に伊藤が死んで七カ月
後の1910年、日本は英国に韓日合併方針を通知して8月29日、強制的に合併条約を締結した。
このように見れば穏健派伊藤の死が韓日合併を操り上げた契機になったように見える。この点で、
日本の一部論者らは安重根の伊藤射殺を「自ら失敗を招く手法」と評価する。伊藤は韓日合併方
針が日本政府内で決定される前まで、韓国を保護国として統治する方が経済的費用が少ないと
認識していた。伊藤がフランスの同化主義的植民統治方式でなく、ある程度自治を認める英国型
統治方式を好んだという英国学者の評価もある。また、韓国人で内閣と議会を構成して行政と司
法を日本政府が監督する自治植民地と類似の構想をしたという分析もある。確かに伊藤の韓国
政策は強制合併をして武断植民統治をした日本強硬派とは違った。
(中略>>2-5のあたり)
独立派朝鮮青年の役割モデル
具体的には青年たちが安重根を役割モデルとした。朝鮮侵略の敵、伊藤博文を処断したように
「半島の首脳者である朝鮮総督を暗殺」しようとする動きが相次いだ。1926年、斎藤実総督を殺
害するために常に刃物を持ち歩き、日本人2人を斎藤と誤認して刺殺したソン・ハクソン、1935年
総督爆殺を図ったチョ・アンドクなど多数の青年は安重根を役割モデルとした。韓国人だけでなく
日本人たちも安重根の堂々とした身の処し方と東洋平和論に感銘受けた。1930年日本の代表的
政論紙<中央公論>には戯曲<安重根展>が発表されたこともある。
安重根の伊藤博文射殺闘争がなかったとすれば韓国人の植民支配内面化はより一層広がったこ
とで、自治論者や親日派はより一層早く蠢動しただろう。安重根の闘争は伊藤博文の不在による
武断統治の加速化を呼び、韓国人の独立意識を強化したのだ。安重根の闘争が持った大きな歴
史的意味はそこにある。
(チェ・ヨンボム歴史作家 :ソース:ハンギョレ新聞(韓国語) 安重根が伊藤博文を撃たなかったとしたら )
ハーグ密使事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E5%AF%86%E4%BD%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1907年(明治40年)に大韓帝国がオランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に密使を送り、自国の外交権回復を訴えようとするも国際社会の列強から会議への参加を拒絶され、目的を達成することができなかった事件。
日本は、1905年の第二次日韓協約(日韓保護条約)によって大韓帝国の外交権を接収した。皇帝高宗は密使外交を展開することで日本からの支配を打破しようと試みていた。李容泰(朝鮮語)、沈相薫、金嘉鎮(朝鮮語)ら大韓帝国内の抗日派は、イギリス人ベッセルやアメリカ人ホーマー・B・ハルバートらと図り、さらに海外にいた李学均(朝鮮語)、李範晋(朝鮮語)らと連絡を取り合い、1907年6月、ハーグで開催されていた第2回万国平和会議に皇帝の密使を派遣し、列強に大韓帝国の外交権保護(第二次日韓協約の無効)を訴えようとした。密使として派遣されたのは李相?(朝鮮語)(元議政府参賛)、李儁(朝鮮語)(前平理院(朝鮮語)検事)と李?鍾(朝鮮語)(前駐露公使館二等書記官、前駐露公使李範晋の次男)の三人である。
ハーグに到着した彼らは、デ・ヨング (De Jong) ホテル[1]に投宿し、公然と活動を始めた。しかし会議に出席していた列強は大韓帝国の外交権が日本にあること、大韓帝国の利益は条約によって日本政府が代表していることなどを理由に三人の密使の会議出席を拒絶した。出席を拒まれた密使らはやむなく抗議行動として現地でビラ撒きや講演会を行った。
日本は万国平和会議の首席代表として派遣されていた都築馨六特命全権大使がこの事件に対応した。また大阪毎日新聞より派遣されていた高石真五郎は連日、特派員電として現地の情勢を伝えた。この時、高石は日本人としてただ一人、密使と面会している。
密使の一人である李儁は7月14日にハーグにて客死した。当時の大韓帝国の新聞は李儁の死を自決と伝えたが[2]、頬にできた腫瘍の手術が原因で死亡したとする病死説もある。
・経過
4月21日(22日とも)、李儁が京城を出発。高宗が密使に与えたとされる委任状の日付は、1907年(光武11年)4月20日付。
5月8日、ハルバートが京城を出発。神戸、敦賀、ロシアを経由して欧州へ向かう[3]。
5月21日、李相?と李儁が、車錫甫の息子と共にウラジオストクを出発。
李相?は前年4月に韓国を去り、北間島の私塾で子弟教育に従事していた。
6月4日、サンクトペテルブルクで李?鍾が合流。
6月15日、第2回万国平和会議がハーグにて開会。
6月19日、ベルリンにて、密使が各国首席代表に宛てた主張文(「抗告詞」と呼ばれる)を印刷。
6月25日、李儁、李相?と李?鍾がハーグに到着。
6月28日、密使が「抗告詞」と付属文書を(日本を除く)会議参加各国委員に送る。同日付の非公式会議報『Courrier de la Conference』紙に「抗告詞」が掲載される。
6月29日、密使は会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯 (Aleksandr I.Nelidov) を訪問するが、面会を拒絶される。
6月30日、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの各国代表を訪ねるが、支援を拒否される。
7月1日、(会議開催国の)オランダ外務大臣に面会を求めるが、拒絶される。
この時点で密使の存在は、彼らが接触した列強側から日本側に通報されていたといわれている。
7月4日、この日に高石が打電した記事において、密使は未だ信任状を示していないとある[4]。
7月5日、この日に高石が打電した記事において、8日の演説(後述)を予告しつつ「平和会議に参加するの計画破れて、目下将来における運動方法を講じ居れる有様にて…」とある[5]。
7月8日、李?鍾が米国人ジャーナリストのウィリアム・ステッド (William T.Stead) の紹介で、「国際主義の会」(Foundation for Internationalism) 集会にて演説を行う。
7月9日、大阪毎日新聞が1面で「対韓処置断行の機-海牙における韓人の怪運動」と題して日本政府と伊藤博文に厳格な対応を求める論説を掲載。
7月12日、李?鍾がサンクトペテルブルクに向けて出立。
7月13日、この日に高石が打電した記事において、李儁が悪性の腫物が顔面に出て、重患に陥ったとある[6]。
7月14日、夕刻、投宿先のホテルにて、李儁が死亡。
7月16日、李儁の仮埋葬が行われ、同行の李相?とホテルの主人が参列。
7月18日、李?鍾がサンクトペテルブルクからハーグに戻る。
7月19日、李相?と李?鍾がロンドンに向けハーグを出立。後、ニューヨークへ向かう。同日、ハルバートがニューヨークに到着。
9月6日、李儁の本葬が行われる。李儁の弟や大韓帝国の元外交官、友人、ハーグYMCA会長などが参列したという。
10月18日、第2回万国平和会議が閉会。
・親書の内容
事件に先立つ1907年1月16日、『大韓毎日申報』は前年ロンドン・トリビューン紙に掲載された高宗の親書を転載する形で改めて報じた。その内容は次のようなものであった。
1.1905年11月17日に日本使臣と朴斉純が締結した条約を認めていないし、国璽も押していない。
2.この条約を日本が勝手に頒布することに反対した。
3.独立皇帝権をいっさい他国に譲与してない。
4.外交権に関連した必要の無い条約は強制であり、内政に関連したものも全く承認していない。
5.韓国統監の駐在を許しておらず、皇室権を外国人が行使することを寸毫たりとも許諾していない。
6.世界各国が韓国外交権を共同で保護することを望む。
・事件の影響
韓国統監であった伊藤博文が事件を厳しく追及すると、高宗は子の純宗へ譲位した。同年7月24日に韓国統監の権限強化をうたった第三次日韓協約が締結された。この協約によって、韓国は外交権に加えて内政権も日本に接収されることとなった。
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