2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 靖国神社と昭和天皇と軍人達 | トップページ | 円高と経済政策 »

近代日本と世界情勢とがんばった日本人

石原莞爾をご存じだろうか?
満州事変を起こした張本人である。その後の日中戦争や太平洋戦争への道を作った責任者の一人である。軍部の暴走は正に彼の一撃から始まったのかもしれない。
しかし、彼は極東裁判において無罪となっている。
それは彼が起こしたことが原因であっても責任を取らすことができないと判断されたからである。
もし、彼に責任があるなら無差別殺人をしたトルーマン、さらにすべてのきっかけであるペルリ(ペリー)来航へ遡らなければならなくなるからだ。

嘉永6年(1853)、翌7年(1854) 嘉永6年6月3日、ペルリ(ペリー)は四隻の軍艦に載って浦賀に来航した。
フィルモア大統領の日本皇帝宛て国書  
 「与が志、二国の民をして交易を行わしめんと欲す。是を以て日本の利益となし、また兼て合衆国の利益となさんことを欲してなり。与さらにペルリ提督に命じて、一件の事を殿下に告明せしむ。合衆国の船毎年角里伏尓尼亜より支那に航するもの甚だ多し。又鯨猟の為、合衆国人日本海岸に近づくもの少なからず。而して若し颱風あるときは、貴国の近海にて往々破船に逢うことあり。もし是等の難に遇ふに方っては、貴国に於いて其難民を撫恤(ぶじゅつ)し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、救い取るを待たんこと、是与が切に請ふ所なり。日本国に石炭甚だ多く、又食料多きことは、与が會て知れる所なり。我国用ふる所の蒸気船は、其大洋を航するに当て、石炭を費やすこと甚だ多し、而して其石炭を亜墨利加より搬運せんとすれば、其不便知るべし。是を以て与願はくは、我国の蒸気船及び其他の諸舶、石炭食料及び水を得んが為に、日本に入ることを許されんことを請ふ。」
翌年、ペルリ(ペリー)は再び来航し、高圧的に日米の通商条約を締結した。
これを始めに、日本が諸外国と通商条約を次々と結んでゆくことになる。

「太平の 眠りをさます 上喜撰(じょうきせん) たった四隻(はい)で 夜も眠れず」

江戸の混乱を風刺した狂歌は徳川260年の終焉と近代日本の始まりを告げていた。

近代日本ははじまった。混乱と混沌と試行錯誤と流血を経て明治政府が設立し、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月に起こった日清戦争まで日本人はひたすらに走り続けた。
当時の19世紀は植民地の時代であり、支配する側と支配される側の二極化が進んでいた。
そう日本は最後の後進国として、日清戦争によって支配する側へ名乗り出た最初の一歩である。しかし、同時に同じ後進国であるロシアと対立を露わにすることになる。

ペリー来航より日清戦争まで41年、通商条約から40年はなりふり構わない近代化を成し遂げた。植民地化されない為に我々の先祖も必死だったと想像される。
今思えば、ペリー来航は眠れる獅子を起こすには十分な砲撃であった。

IF、もしもなどという言葉は歴史に存在しないが・・・・・・
もし、オランダ商会はアメリカの大使団に『日本は節度ある国だから交渉は難しい。』と忠告を無視することなく暴挙に出なかったなら、日本の開国は後40年か、30年も後になっていただろう。すると中国の北部と朝鮮にロシアが植民地化を終えたロシアが次のターゲットである日本に向いていたと考えると恐ろしくなる。日本はロシアの植民地になることを避ける為に中国の香港のように日本を切り取って、イギリスやフランス、アメリカの援助を乞うことになっていただろう。それでも北海道や東北はロシア領になっていたかもしれない。
そう考えてみると、アメリカの暴挙は日本に近代化をする40年という猶予を与えてくれたとも取れる。

日清戦争は日本の国威を掛けた戦争であった。他の諸外国が観戦する中、弱者は淘汰される世界を生き残るのは勝利以外の選択肢のない戦争であった。そして、日本は勝利したのであった。
しかし、この勝利は南下政策を取るロシアと正面から対立軸を明らかにしたに過ぎない。
三国干渉でも判るように、ロシアは満州と朝鮮を自国の支配下にしようと野心を剥きだしにした。

日清戦争 1895年(明治28年)に日本が清に勝利して下関条約を締結した。これによって清に朝鮮が自主独立国であることを認めさせ、大韓帝国が成立したのである。ただし、フランスにおけるモナコのように外交権をすべて日本が持つという保護国という形であって、真の独立とは言えない。しかし、主権は大韓帝国の手にしたのも事実である。

日清戦争と三国干渉によって、日本とロシアの衝突は不可避となった。
日本としてはロシアと戦いたくない。
1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案した。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示さなかった。さらにニコライ2世やアレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調した。
強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由もない。だからと言って、大きな犠牲を払って得た朝鮮の利権を失う訳にもいかない。つまり、不可避な状態であった。

ゆえに日本人はロシアとの対決を考えて国力を結集した。技術者は新技術を開発し、優秀で有能な軍人が育ち、屈強で知略にすぐれた外交官を生み出した。そして、幸いなことが二つあった。1つは対ロシアの風除けとしたアメリカが潤沢な資金を日本に供給してくれた。もう1つは、北清事変(1899年から1901年)の紳士的な軍隊に感動を覚えたイギリスが東アジアの番犬として、日本を同盟国、日英同盟を締結したことだ。日本は潤沢な資金と豊富な情報とバルチック艦隊が喜望峰を迂回し、食糧や水の供給も困難な状況を作り出した。戦略的には圧勝したといえる。しかし、それでもなお巨大なロシア帝国を相手とするには十分と言えない。陸軍と海軍は持てる力のすべてを注ぎ込んで苦勝したのである。
日本が世界に大きく名乗りを上げた瞬間である。
日清戦争からわすが10年、ペリーより50年、日本は遂に世界に認めさせたのだ。

この努力を誰が非難できようか!
確かに朝鮮を実力支配したことは非難に値するかもしれない。しかし、その非難は支配国すべてに対してであって、日本単独の責任ではない。

否、日本人の優秀さを讃えているのかもしれない。
『優秀な日本人なら支配者にならないで、大国イギリスやフランスやアメリカやロシアと戦えた。』
その日本が朝鮮を支配したのは不当だ!!!

いや、いや、過大な評価はありがたいが残念ながら当時の日本人は自国を植民地にされない為に必死だった。
他国のことを気に欠けるほど余裕などなかった。
必死に戦って、戦って、多くの自国民の血を流して、そして、日露戦争で世界に示したのだ。支配されない国へと成し遂げたのだ。

維新の志士達から受け継いだ日本人の魂は遂に成し遂げた。
これを大いに称賛しよう。
我々の誇りとしよう。
列強の大国に挑んだ日本人がいた。真っ赤な血に染まりながらもあきらめない日本人がいた。がんばった日本人がいた。
これを誇りに思う。

しかし、日露戦争は後の運命を定めることになった。
ロシア、後のソビエトとの再戦、満州の権益における日米最終決戦。
勝ち続けなければならない運命を背負ったのだ。

« 靖国神社と昭和天皇と軍人達 | トップページ | 円高と経済政策 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/465045/36264445

この記事へのトラックバック一覧です: 近代日本と世界情勢とがんばった日本人:

« 靖国神社と昭和天皇と軍人達 | トップページ | 円高と経済政策 »