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成し遂げられた目標と誤った選択

ペルリ(ペリー)来航をご存じだろうか?

「太平の 眠りをさます 上喜撰(酒名:じょうきせん) たった四隻(杯:はい)で 夜も眠れず」

江戸の混乱を風刺した狂歌である。
日本の近代化、文明開化のたった数発の砲弾から始まった。そして、その想いはただ一つ、日本を守りたいという純粋な想いからであった。

当時、阿片戦争(1840年から2年間)によって上海を失った中国の清王朝は日沈む太陽であった。日本も清の商人から伝えられ、蘭学が発展していた日本ではこの意味を深く理解していた。
それは清が敗北した直後、「天保の薪水給与令」(天保13年 1842年:異国船打払令を排し、遭難した船に限り給与を認める)からも見てとれる。
そして、開国の議論が進展しない日本国内にペリー来航(嘉永6年 1853年)が開国を強制したのであった。

『日本国を西欧の列強国から守る。』

それが日本の幕府幕臣・志士と立場の違いがあれど、攘夷派・開国派の思想の違いに関係なくすべての願いでもあった。

幕末、明治初頭の日本には、“大東亜共栄圏”という思想が強くあった。もちろん、“大東亜共栄圏”という言葉はない。簡単に言えば、日本国だけではとても西欧(イギリス、フランス、ドイツ、オランダ等)、アメリカ、ロシアには太刀打ちできないので、アジアも1つになって対抗しよう。
しかし、大帝国の清はその重要性に気づかず、属国の朝鮮は清に依存度が高く、自主独立の気運がなかった。

東南アジアに目を向けると、
ビルマ(ミャンマー)は、イギリス領インドに対する武力侵略を発端とする第一次英緬戦争(1824年から1826年)に敗れてベンガル地方の割譲していた。(1885年の第三次英緬戦争で王朝は滅亡し、1886年にイギリス領であったイギリス領インドに併合されてその1州となっている。)
タイは1826年の英国との友好通商条約及びバーニー条約を結び、後にイギリスとフランスの緩衝地帯的な存在として独立を守った。
(1853年がペリー来航である。)
カンボジアは1863年にフランス植民が開始され保護国になる。
ベトナムは、1883年にフランスの軍事的圧力の下で癸未条約(第一次フエ条約、アルマン条約)を結びベトナムを保護国化した。しかし、それを認めない清朝と対立し、清仏戦争(1884年8月~1885年4月)が勃発し、停戦の後にベトナムの保護国化を認めさせた。
後にロシアが領土拡大の南進政策を取りイギリスと紛争を繰り返すのも、アメリカが西進政策から満州の利権を得ようとしたのも、植民地の分割レースから起こったものだ。
(日清戦争 1895年)
当時の常識として、植民地または領土を拡大する国家が近代国家なのである。

日本の先人達が台湾、朝鮮と拡大政策を取るのも世界の常識であった。
そして、ペリー来航より50年、日露戦争に勝利した日本は『日本国を西欧の列強国から守る。』という誓いを達成したのである。
しかし、ロシアに勝ったと言っても防衛に成功したという程度あり、満州の鉄道権益と樺太(からふと)の南部を手に入れただけであった。
敗戦したとは云え、大国であるロシア、後のソビエトの再来襲は確実であった。
日本人は勝利に酔いしれるのでなく、勝って兜の緒をしめなければならなかったのである。

しかし、残念なことに政府・軍部・マスコミは勝利に酔いしれてしまったのである。

当時の内閣は第11代桂太郎総理大臣である。元老・山縣有朋に支えられた桂総理の元で、ポーツマス条約・第2次日韓協約・日清満州善後条約の締結が行われた。
戦前の新聞は「戦争賛美」「戦意高揚」をうたって国威を盛り上げていた。
しかし、ポーツマス条約で賠償金を貰えないと知るや、朝日新聞などは「桂太郎内閣に国民や軍隊は売られた」、「小村(交渉に当たった小村寿太郎のこと)許し難し」、「条約を破棄して再戦すべし」と日本政府の弱腰外交を非難して書き立てた。
当時のマスコミは世界情勢に疎く、部数を獲得する為の金権体質にのめり込んでいたのと推測される。
これは何もマスコミだけではない。わずか50年という短期間で近代化を成し遂げた日本人の精神的な成熟度が追いついていなかったと考えられる。

知識とは沼に似たものである。貯めておくと水が腐って悪臭を放ってしまう。
知恵とは井戸に似たものである。水が貯まっているように見えるが清流が常に流れており、いつまでも清々しい。

西洋の知識を一気に手に入れた日本人はその知識を知恵に消化するところまで至らなかったと考えられる。180度変わってしまった価値観に戸惑っていたのかもしれない。それは太平洋戦争に敗北した後、現在の日本にも言えるかもしれない。
いずれにしろ、マスコミは庶民を煽り、政府は真実をひた隠しにした。軍部も勝ったことへの慢心が残った。
結果として、敵対国への警戒より内部の派閥争いへと心の力学のベクトルは変化していった。

当時のロシアを見てみよう。
19世紀、フランス革命の後にナポレオンの登場によって1812年のロシア遠征にみまわれる。ロシア遠征はイギリスとフランスの対立から始まり、大陸封鎖に参加しないロシア帝国への敵対行為としての報復であった。フランスのナポレオンを退けたロシア帝国は神聖同盟を結び、トルコ・エジプトへと南下政策を取った。年間を通して凍結することのない不凍港の獲得に熱意を燃やしたのである。
1855年、クリミア戦争の最中にニコライ1世が崩御したため、アレクサンドル2世が即位したが、戦局は悪化の一途をたどり、1856年3月にロシアは敗北を認めパリ条約を結んだ。アレクサンドル2世はロシアの敗北は工業化の発展の遅れと考え、。農奴制の解放を「下から起こるよりは、上から起こった方がはるかによい」と考え、西欧化改革を慎重に採用していくことにした。
1861年、「農奴解放令」を発布し、近代化の筋道をつけ、ロシアも産業革命が進むきっかけとなる。
クリミア戦争以後、ロシア政府はバルカン南下政策に慎重になっていたが、1877年ブルガリア保護の名目でオスマン帝国に宣戦した。露土戦争には国家の威信回復がかかっており、9ヶ月の戦いの後にアドリアノープルを陥落させて敵側から降伏を引き出した。しかし、東欧の南進は西欧の利権が深く絡み合い、非常にハードルが高い。その頃、阿片戦争(1840年から1842年)より以降の清王朝は没落を始めており、西欧の進出が目覚ましかった。
1880年、ロシア帝国のアレクサンドル3世は東アジアへの進出を目的としてシベリア横断鉄道計画の検討を始め、1891年に建設を開始し、日露戦争の最中1904年9月にようやく全線開通した。
1904年、日露戦争が勃発した。圧倒的な兵力を持つロシア軍の前にすぐに日本は降伏すると思われたが、陸戦では奉天会戦の敗北。極東に派遣されたバルチック艦隊が日本海海戦で完全壊滅した。
1905年1月22日、「血の日曜日事件」をきっかけに労働者のゼネストによるロシア第1革命が起こった。もちろん、この騒動を支援したのは日本の外交官とその筋の人間である。
1905年(明治38年)9月5日、アメリカ合衆国の仲介でポーツマス条約が結ばれ、ロシアは日本の満州の利権を認め、南樺太を日本に割譲することで戦争は終わった。

では、当時の兵力を見てみよう。

陸軍兵力
   全ロシア軍 極東ロシア軍(戦争末期)  :  日本軍
歩兵 1740個大隊(167万)  687個大隊 : 156個大隊
騎兵 1085個中隊(18.2万) 222個中隊 :   54個中隊
砲兵  700個大隊(16.7万) 290個大隊 :  106個大隊
工兵  220個中隊(5.7万)    不明   :  38個中隊
火砲  12000門       2260門 :    636門

全ロシア陸軍の現役総兵力は207万、予備・後備役を含めた動員可能兵力を加えると、400万人とも500万人とも考えられていた。
対する日本陸軍は約20万弱(ロシアの9%)であり、総動員数は109万人に達した。ヨーロッパ最大最強の陸軍と言われたロシア陸軍に勝つということがどれほど大変なことか判ってもらいたい。

海軍兵力
区分     全ロシア軍  太平洋艦隊 : 日本艦隊
戦艦       22艦    7艦       6艦
装甲巡洋艦     7艦    4艦       8艦
装甲海防艦    20艦    0艦       8艦
巡洋艦      10艦    7艦       18艦
駆逐艦       ?    27艦       27艦
総トン数    約80万㌧  約20万㌧    約26万㌧

海軍と言えば、有名なのはバルチック艦隊である。ロシアの艦隊は日本の約3倍あったが、バルチック艦隊(バルト海艦隊)、黒海艦隊、太平洋艦隊(東洋艦隊)、裏海艦隊(カスピ海艦隊)などに分散されており、地理的に集結することは不可能である。太平洋艦隊(東洋艦隊)に限定すれば、日本軍の優勢であった。よって、ロシアはこの均衡を崩す為にバルチック艦隊を派遣したのであったが、そもそも北海限定の海軍のすべてが外洋仕様である訳もなく。また、日英同盟上、イギリスの妨害があり、スエズ通行ができないバルチック艦隊は喜望峰を回り、食糧や水や石炭の補給もままならない状態で日本海に到達した。砲弾も質量ともに日本よりも劣り、練度は低く、実戦に対する準備も出来ていなかった艦隊が壊滅させられたのも頷ける話である。ただし、バルチック艦隊の壊滅的打撃を与えることは日本の絶対条件であり、バルチック艦隊の健在により領海権(シーレ-ン)を失う危険性もあった。補給路の安全確保の為にも日本海戦も負けられない戦いであった。

日露戦争における日本軍・ロシア軍の損害は、
日本: 死者8.4万人、負傷者14.3万人、捕虜0.2万人
ロシア: 死者5万人、負傷者15万人、捕虜7万人

年間歳入比で比べると日本が2億5千万円、ロシアが20億円
人口で比べると日本約4千6百万人、ロシア約1億3千万人

兵力動員108万、戦死者4万6千、負傷者16万、投入した軍費19億5千万という莫大な消耗に喘ぐ日本
投入した軍費19億5千万円
開戦前の日銀の保有正貨は5千2百万円であり、日本の一般会計の歳出が2.5-3.0億円程度であったことを考えると6年分以上の出費をしたことになる。
因みにこの借金の返済はこうである。
日露戦争で調達された英貨公債は、
第1回が明治37年6月に1千万ポンド、
第2回が明治37年11月に1千2百万ポンド、
第3回が明治38年3月に3千万ポンド、
第4回が明治39年8月に3千万ポンドと発行されている。
利率は、最初の2回が6分、後の2回が4.5分である。この最初の2回分を低利債に借り換え、償還するために、日本政府は明治38年11月に4分利付英貨公債5百万ポンドを発行、更に40年3月に5分利付き英貨公債を発行して、六分利付き英貨公債の借り換えを行った。つまり日本は借金の返済をしたのではなく、低利の資金に借り換えを行ったのである。

つまり、
年号  年度初残  発行高  償還額  年度末残 
明治36   5.3      0.1       0.0     5.4 
明治37   5.4      4.3       0.0     9.7 
明治38   9.7     9.4       0.4    18.7 
明治39   18.7      5.0       1.8    22.0 
明治40   22.0      3.1       2.5    22.5 
明治44   26.5      0.4      1.0    25.8

明治末までほとんど借金は返せていない状態であり、日露戦争の借金は、第一次世界大戦の後まで残ったと言われている。ただし、ここに使用された戦費が重工場の多くのを作りだし、この後の日本の文明開化をもたらすのも事実である。大正の時代、戦後と違うのはテレビと冷蔵庫と言われるくらい文化は発展した。

以上のように日露戦争の勝利は薄氷の勝利であり、この事実を公表しなかった政府の罪は大きい。
また、敗れたとはいえロシアは大国であり、いずれ再び再来することを危惧しなかった。少なくとも公然と語られなかったのは問題であった。
また、文明開化が日本人に在らぬ自信を付けさせたとも言える。
いずれにしろ、日露戦争の遺産によって、日本は次の世界大戦へと運命に導かれることになる。

日本が日露戦争で得たものは幕末の志士の想い“日本を守る”という成就である。

そして、そこから得たものは“誤解”であった。

戦争のおいて、敵の3倍の兵力を持って立ち向かうのが常道であり、

少数をもって多数に勝つのは鬼道である。
おそらく、日本人の中にありえない幻想をもったのは事実であろう。
生まれたばかりの自信に横柄になったのであろう。
外の敵より内の敵に目を奪われていったのであろう。
この誤解が深く太平洋戦争まで持ち越されることになる。

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