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道徳と倫理

道徳とは、仁・義・礼・知・信の五徳の道のことである。儒教において「五常の徳」を略して道徳という。
仁:他人に対する親愛の情、優しさ
義:正しい行いを守ること
礼:作法、戒めなどの正しい振る舞い
知:善悪を見抜く知恵
信:信じること。信じられること

倫理とは、社会慣習として成立している行為規範のことである。
侖は、「複数の、相対立するものの、統一体」という意味であり、車のように回るものと一緒に書いて『輪』、言葉と共に書いて『論』、人の共通する認識と書いて『倫』となる。
さらに、理は、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。
つまり、人の規範を美しく示したものが『倫理』なのである。

少しややこしい話になるが、『墨子』においてはこれが道徳の規範であり、『荘子』においては自然の摂理と考えて、天理という。
『墨子』の思想はあらゆる無駄を排除するものであり、道楽は『悪』である。野球やテニス、サッカー、等々は悪であり、漫画や小説も『悪』である。人間が楽しむという行為自体が社会の生産性にそぐわないものと考えている。よって、社会の規範となるべき倫理こと道徳と考えている。
『荘子』はそこまで極論ではないが、自然に存在る摂理こそを社会の基盤にするべきと考えている。最も有名な話に胡蝶の夢がある。
「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」
この思想から見ても判るように、荘子の倫理とは現代のいう“一般的な社会の習慣、行為規範”とは大きく異なる。

簡単に言ってしまえば、『道徳』と『倫理』は同意語となりえない。
『道徳』が人の道を問うているのに対して、『倫理』は社会の規範を示している。そして、倫理が常に道徳的とは変わらないのである。倫理はその時々の世相によって大きく左右され、言ってみれば世相の平均値に過ぎないのである。

もっともそれを現した例は、過去にもいくつもある。
偶発的に殺人を犯した息子が家に帰ってきたとする。母親は息子を自首させるか、かくまうか?
殺人に対してその懲罰が死刑と決まっている場合、自首を勧めるのは母親が子供に死んでこいというので、不道徳な行為である。
しかし、殺人者はかくまうのは倫理に違反する。現代なら法律に違反する行為である。
母親はどちらの行動をとるのが正しいのだろうか?

天道に従うならば、親殺し子殺しは重罪である。
しかし、法律では、かくまった者の犯罪者となる。
つまり、『道徳』と『倫理』の間には越えられない一線が存在するのである。

因みに私は道徳好きである。
しかし、孔子が望むほど道徳好きではない。
「色を好むがごとく、道徳を好む者見ざるなり」の言と同じく、道徳より色を好む凡人である。
されど、道徳好きであることは間違いないので私の行動は間違いなく、息子をかくまい、どんな形でも供養させ、一生を償わせる。その代わり、死罪を許してもらうことを選択する。それは倫理的に、法律的に許されるかではなく。天道に背くことを恐れるからである。

これは、どちらが正しいとか、正しくないとかの問題ではなく。人が生きて逝く上で、基盤なのである。
これは『孔子』が正しくて、『墨子』が間違っている訳でもなく。
『墨子』が正しく、『孔子』が間違っている訳でもない。
この世界には、善悪の判別がつかないことが存在することを知ってほしい。

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