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2010年5月

ホワイトリスト

今話題の東京スカイツリー、所謂電波塔である。自立式電波塔としては世界一の高さとなる634.0mを目指して建設中だ。・・・といっても、ブルジュ・ドバイ(ドバイタワー)は全高828mであり、ビルより低いタワーである。しかし、3万6000kmの静止軌道には遥かに及ばない。
東京タワーが電波塔として役目を終えたと言われるのは単に電波が届かなくなってきたからだ。そもそも巨大な電波塔が必要だろうか?
ブローバンド化した日本において、殆どの家庭に電話が設置されている。さらに中継塔を駆使すれば、ほとんど家庭をカバーできる。巨大な電波塔はすでに無用の長物である。
さらに、ホワイトリストが存在する。
8a30fb73s ホワイトリストというのは、電波塔などでもカバーできない地域を衛星を使って番組を放送するシステムである。ほとんどの地域はプロテクトが掛っているので見ることができない。こんな便利機能が衛星にあるのなら、すべて衛星で放送すればいいのではないか?
その通りである。
池田氏がいうように、「通信衛星でやれば200億円ですむデジタル放送を1兆円以上かけてやるのは狂気の沙汰だ」と政府内でも言われていたらしい。しかし、結果は現在に至る。
地方の放送局はアンテナ設置に大迷惑だ。“いったいいくら掛ると思っているのだ。総務省は何を考えている。”と当時は激怒したものだが、内実は少し違う。民放連に加盟している127社のうち、100社以上が地方局の反対によって消えていったらしい。プロテクトを掛けることで既存チャンネルを守ることはできる。127社が番組を争ってもいい。グリーンチャンネルのように別途料金を徴収する方法も考えられる。それらの利点を殆ど消して、1兆円以上の金が無駄に使われたのである。
1兆円の予算があれば、電波関係でどれだけのことができるか判らないが、電波塔を作るよりは有意義だと思える。

ーーーーーーー○ーーーーーーーー
(参考)
衛星放送でカバーできるなら最初から地上波はいらない
http://ascii.jp/elem/000/000/508/508367/

2011年7月24日にアナログ放送が終了する日まで、あと500日を切った。しかし地上デジタル受信機の普及台数は、今年2月現在で約7000万台(NHK調べ)。全国に1億3000万台以上あるといわれるテレビの半分強だ。世帯ベースの普及率では、70%前後と推定され、あと500日足らずで残る1500万世帯をすべて「地デジ化」することは不可能である。
そこでテレビ局は今月11日、難視聴地域を対象にした衛星放送を開始した。対象地域はホワイトリストとして総務省のウェブサイトでが公開され、この地域以外では、放送にはスクランブルがかけられて視聴できない。放送内容もアナログと同じ標準解像度(SDTV)である。

 このニュースを見て、Twitterで私に「衛星で全部カバーできるなら、なぜ最初から衛星でやらなかったんですか?」という質問が来た。もっともな疑問である。通信衛星ならもっと多くのチャンネルが空いているので、地デジと同じデジタルハイビジョンで放送できる。スクランブルなどをかけないで、全国どこでも見えるようにすれば、年間ほとんど数億円でデジタル放送ができてしまう。

 実はこれは欧州のデジタル放送の方式であり、地デジの計画が始まる前から(私を含めて)多くの専門家が提案したことだ。郵政省(当時)でも、放送行政局の課長が「通信衛星でやれば200億円ですむデジタル放送を1兆円以上かけてやるのは狂気の沙汰だ」と省内で反対し、左遷された。

地デジの周波数を削減して携帯に割り当てよ
 衛星によるデジタル化は、技術的に合理的であるがゆえに、政治的には不可能である。衛星で全国をカバーすれば、在京キー局の番組を垂れ流して「電波料」をもらっている地方民放局のビジネスが成り立たなくなるからだ。民放連に加盟している127社のうち、100社以上が地方局だから、彼らの意見は圧倒的に強い。売り上げでは東名阪の20局で7割以上を占めるのだが、国連で小国の意見が通りやすいのと同じだ。

 民放連が衛星デジタル放送に反対する理由は「全国一律でローカルサービスができない」ということだが、アメリカではローカル局が通信衛星のチャンネルで独自放送を行なっている。県内に中継局を張りめぐらすコストより安いからだ。そもそもアメリカでは、視聴者の9割はケーブルテレビで見ているので、先週も紹介した全米ブロードバンド計画のように、地上波への電波割り当てを減らすべきだという意見も多い。

 日本では、今のペースでいくと来年7月の段階で少なくとも500万世帯以上の家庭で突然、テレビが消え、パニックになるだろう。それに対して100億円以上の税金を投入してチューナーを配る計画も進められているが、これと衛星放送は重複している。最初からデジタル化は衛星でやればよかったのである。

 実質的に7チャンネルしかないテレビのために240MHzもの帯域を占有し、数千万チャンネルの次世代携帯には40MHzという周波数割り当ても異常である。アメリカで提案されているように、SFNという中継技術を使えば、テレビ1チャンネルあたり6MHzですむので、最大50MHzもあれば十分だ。2012年以降、電波を再配置するとき、テレビの帯域を50MHzに減らし、次世代携帯に250MHz割り当てれば、日本は世界最先端のブロードバンド大国になるだろう。

BSに291~298チャンネルという謎のチャンネルが増えた。ここを見ようとすると、「この放送は地デジ難視聴対策衛星放送です。一般の方は、ご利用できません」という字幕が出て、「ご案内チャンネル」をクリックすると、次のような画面が出てくる:
地上波でカバーできない2%の地域のために衛星デジタル放送を始めたのだが、残りの98%の地域に放送が流れると地元のローカル民放の既得権をおかすため、ホワイトリスト(難視聴世帯)以外への放送にはスクランブルをかけて、見えなくしているのだ。

こんなフタをしないで普通に衛星放送すれば、放送のデジタル化は数十億円でとっくに完了していた。それを地上波でやったため、1兆円以上のコストと10年の時間がかかり、2000億円以上の国費を投じて、それでも来年7月には500万世帯以上のテレビが「ブラックアウト」する。それを避けるには、FCCと同じように地デジ・チューナーのクーポンを配るしかないが、それにはまた数百億円の国費投入が必要だ。せめて地上波だけではなく、光ファイバーなどインフラを問わない「ブロードバンド・バウチャー」にしてはどうだろうか。

道徳と倫理

道徳とは、仁・義・礼・知・信の五徳の道のことである。儒教において「五常の徳」を略して道徳という。
仁:他人に対する親愛の情、優しさ
義:正しい行いを守ること
礼:作法、戒めなどの正しい振る舞い
知:善悪を見抜く知恵
信:信じること。信じられること

倫理とは、社会慣習として成立している行為規範のことである。
侖は、「複数の、相対立するものの、統一体」という意味であり、車のように回るものと一緒に書いて『輪』、言葉と共に書いて『論』、人の共通する認識と書いて『倫』となる。
さらに、理は、璞(あらたま)を磨いて美しい模様を出すことを意味する。
つまり、人の規範を美しく示したものが『倫理』なのである。

少しややこしい話になるが、『墨子』においてはこれが道徳の規範であり、『荘子』においては自然の摂理と考えて、天理という。
『墨子』の思想はあらゆる無駄を排除するものであり、道楽は『悪』である。野球やテニス、サッカー、等々は悪であり、漫画や小説も『悪』である。人間が楽しむという行為自体が社会の生産性にそぐわないものと考えている。よって、社会の規範となるべき倫理こと道徳と考えている。
『荘子』はそこまで極論ではないが、自然に存在る摂理こそを社会の基盤にするべきと考えている。最も有名な話に胡蝶の夢がある。
「荘周が夢を見て蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか。」
この思想から見ても判るように、荘子の倫理とは現代のいう“一般的な社会の習慣、行為規範”とは大きく異なる。

簡単に言ってしまえば、『道徳』と『倫理』は同意語となりえない。
『道徳』が人の道を問うているのに対して、『倫理』は社会の規範を示している。そして、倫理が常に道徳的とは変わらないのである。倫理はその時々の世相によって大きく左右され、言ってみれば世相の平均値に過ぎないのである。

もっともそれを現した例は、過去にもいくつもある。
偶発的に殺人を犯した息子が家に帰ってきたとする。母親は息子を自首させるか、かくまうか?
殺人に対してその懲罰が死刑と決まっている場合、自首を勧めるのは母親が子供に死んでこいというので、不道徳な行為である。
しかし、殺人者はかくまうのは倫理に違反する。現代なら法律に違反する行為である。
母親はどちらの行動をとるのが正しいのだろうか?

天道に従うならば、親殺し子殺しは重罪である。
しかし、法律では、かくまった者の犯罪者となる。
つまり、『道徳』と『倫理』の間には越えられない一線が存在するのである。

因みに私は道徳好きである。
しかし、孔子が望むほど道徳好きではない。
「色を好むがごとく、道徳を好む者見ざるなり」の言と同じく、道徳より色を好む凡人である。
されど、道徳好きであることは間違いないので私の行動は間違いなく、息子をかくまい、どんな形でも供養させ、一生を償わせる。その代わり、死罪を許してもらうことを選択する。それは倫理的に、法律的に許されるかではなく。天道に背くことを恐れるからである。

これは、どちらが正しいとか、正しくないとかの問題ではなく。人が生きて逝く上で、基盤なのである。
これは『孔子』が正しくて、『墨子』が間違っている訳でもなく。
『墨子』が正しく、『孔子』が間違っている訳でもない。
この世界には、善悪の判別がつかないことが存在することを知ってほしい。

礼は未然の前に禁じ

礼は未然の前に禁じ、法は已然(いぜん)の後に施す。 法の用を為す所の者は見易くして、礼の禁を為す所の者は知り難し。 (「史記」 太子公自序)

これは大変な戒めの言葉です。
『法』を万能のように考えたり、『科学』という信仰に染まって、物事を一面からしか見ない方が多くなっております。
「河は両岸から見よ。」ということわざがあるように、或る者を見るときは、考えの違う者の意見を相方から聞きなさいという戒めです。考えの違う意見を聞いて判断しないと正しい判断ができないからです。
私は、「人は対岸、物は四方、星は六方」と名付けています。
物とは“集団”のことで、集団になると集団の中でも対立があってさらに物事が見えにくくなるという意味です。
星とは“大きな集団”のことで、組織や国といったものです。ここまでくると経済や政治や武力など様々な角度から物事を見ないと見誤るという意味です。

いずれにしろ、“礼”とは深い意味が隠されている人間の常道であると私は考えます。
よって、礼節をわきまえて生きることは人間として大切なことです。
礼を忘れると人は傲慢になり、粗暴になります。そういう人間にはなりたくないものです。

“礼”の1つを取って考えてみましょう。

「家に帰ったら手を洗う」
“手が汚れていてはきたない。”というのは普通の考えです。ばい菌を防ぐ上でもとても重要です。よってこれは衛生の為の行為かもしれません。しかし、本当にしょうでしょうか?

たとえば、神社に行くと手と口を清めます。これは邪気を払う行事です。神社に邪気を入れない為に行為です。本来は、体中を清めるのが習わしできたが、簡素化されて手と口のみでいいとされました。もし、この行為が「家に帰ったら手を洗う」の元だとすれば、病魔退散の行為のみではなく、邪気退散も兼ねているのかもしれません。
つまり、常に清潔にするという精神を養うことが、人間として大切な心情であることを兼ねているかもしれないということです。
果たして、「家に帰ったら手を洗う」という行為はそれだけなのでしょうか?
私にも判りません。そこには多くの人の知恵が集まってできたものであり、安易に変えることは避けるべきである。逆を言えば、不都合なら変えてゆけばよい。また、1から作り直して逝けばいいのです。
つまり、礼儀を重んじるとはそういうことのです。

全知全能でない我々が過去から貰った遺産。それが『礼儀』なのです。

人が人足らん欲するなら、まずは『礼』を守ることが大切なのです。それが人間らしく生きるということのです。

ところで、SAPIOの小林よしのりさんが、またまた我々を馬鹿にすることを掲載しております。
『礼儀』知らずとはこのことです。

今回は、“『男系優先主義』の方々は、昔からやってきた以外に頑として理論がない。思考停止だ!”と非難されています。
変わりに“『女系容認主義』の理論に、日本人は家系を重んじて養子などを迎えいれてきた。よって、日本は元々女性容認だ。男系優先はシナの名残りだ。”と言っております。
しかし、桓武天皇(天智天皇)から続いてきた系統である事実は変わりありません。
周りがそうだから一緒にでないといけないという意見は少し変な話です。
私達は『女系』が駄目だと言っているのではなく、可能な限り『男系』を残す方向で議論しましょうと言っているだけです。
しかし、彼は『男系』を無知・無能と貶めることで攻撃を繰り返します。
このようなことは、共産系の改革者がよくやる手段であります。
自らの正義の為に他者を貶めるのは実に卑しい行為であります。礼に失する行為です。

また、正義のということで1つの例を上げましょう。

文化革命を終えた毛沢東は現地を視察した時に、雀が米を食うと言って害鳥として駆除しました。しかし、翌年、虫(イナゴ)が大量に発生して、大飢饉に見まわれました。
民の為に行った行為が逆に民を苦しめる結果になった例です。
物事は一方から見ていると見誤るということです。

礼の禁を為す所の者は知り難し
(なぜ、その行為を礼は禁止するのかは中々理解できないものである。)

物事をすべて理解しようなどと思うのは傲慢なことです。『礼節』や『伝統』というものを論理的に説明する必要などないのです。守れるものは守ってゆく。その精神が尊いものであって、理解することが必要なことなのではないのです。ゆえに、私は『女系容認』を否定しておりません。しかし、可能な限り『男系優先』であるべきだと申しているのです。
しかし、『女系容認主義』である彼らは愛子様を天皇にすることが目的です。そうとしか思えません。
極端な話、愛子様の旦那様がクリントンの息子やオバマの息子、ウッズの息子という可能性もあります。
すると次代は

青い目の天皇陛下、
黒い肌の天皇陛下

が誕生するかもしれません。
それが悪いとは申しません。
国民が受け入れるかどうかであり、そこに正義も悪も介在しません。
ただ、願わくば、不必要な変化は無用の障害を生み出すということを理解してもらいたいのです。

『礼節』や『伝統』とはそういった時代の波を超えてきたものであり、安直に理解するものではないのです。

太史公自序を自分で書いてもいいのですが、すでに書かれているのでしたの転記しておきます。
----------○----------
(参考)

史記-列傳[太史公自序][16]
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_122.html

上大夫壺遂(こすい)曰く、
昔孔子は何が為に春秋を作(な)すや、と。
太史公曰く、
余これを董生(とうせい)に聞く。
曰く、周道は衰廃し、孔子は魯の司寇(しこう)と為るに、諸侯これを害し、大夫これを壅(ふさ)ぐ。
孔子、言の用いられず、道の行はれざるを知るや、二百四十二年の中を是非し、以て天下の儀表(ぎひょう)と為し、天子を貶(とが)め、諸侯を退け、大夫を討ち、以て王事を達するのみと。
子曰く、我れ之れを空言(くうげん)に載(はじ)めんと欲するも、之れを行事に見(しめ)すことの深切(しんせつ)著名(ちょめい)なるに如(し)かざるなりと。
夫れ春秋は、上に三王(さんのう)の道を明にし、下に人事の紀(のり)を弁じ、嫌疑を別ち、是非を明にし、猶豫(ゆうよ)を定め、善を善とし悪を悪とし、賢を賢とし不肖を賤しみ、亡国を存し、絶世を継ぎ、敝(へい)を補ひ廃を起し、王道の大なる者なり。
易は天地陰陽四時五行を著(あらは)す、故に変に長ず。
禮は人倫を経紀(けいき)す、故に行に長ず。
書は先王の事を記す、故に政に長ず。
詩は山川谿谷(けいこく)、禽獣草木、牝牡雌雄(ひんぼしゆう)を記す、故に風に長ず。
楽は立つ所以を楽しむ、故に和に長ず。
春秋は是非を弁ず、故に人を治むるに長ず。
是の故に禮は以て人を節し、楽は以て和を発し、書は以て事を道(い)ひ、詩は以て意を達し、易は以て化を道(い)ひ、春秋は以て義を道(い)ふ。
乱世を撥(おさ)め、之を正に反(かへ)す、春秋より近きは莫し。
春秋は文に数万を成す、其の指すや数千、万物の散聚(さんしゅう)は皆な春秋に在り。
春秋の中、君を弑(しい)する三十六、国を亡す五十二、諸侯の奔走し其の社稷(しゃしょく)を保つを得ざる者、数ふるに勝(た)ふべからず。
其の所以を察するに、皆な其の本を失うのみ。
故に易に曰く、之を豪釐(ごうり)に失する、差(たが)ふに千里を以てすと。
故に曰く、臣の君を弑し、子の父を弑する、一旦一夕の故に非ざるなり、其の漸(すすむ)や久しと。
故に国を有(たも)つ者、以て春秋を知らざるべからず、前に讒(ざん)有るも見ず、後に賊有るも知らず。
人臣と為る者、以て春秋を知らざるべからず、経事(けいじ)を守りて其の宜(ぎ)を知らず、変事に遭ふも其の権を知らず。
人の君父と為るも春秋の義に通ぜざる者、必ず首悪(しゅあく)の名を蒙(こうむ)らん。
人の臣子と為るも春秋の義に通ぜざる者、必ず簒弑(さんし)の誅、死罪の名を陥らん。
其の実、皆な以て善と為して之を為し、其の義を知らず、之が空言を被(こうむ)りて敢て辞さず。
夫れ禮義の旨に通ぜざる、君は君たらず、臣は臣たらず、父は父たらず、子は子たらず。
夫れ君が君たらずば則ち犯され、臣が臣たらずば則ち誅せられ、父が父たらずば則ち道無く、子が子たらずば則ち孝ならず。
此の四行は、天下の大過なり。
天下の大過を以て、之に予(あた)ふれば、則ち受けて敢て辞さず。
故に春秋なる者、禮儀の大宗(たいそう)なり。
夫れ禮は未然の前に禁じ、法は已然(いぜん)の後に施す。
法の用を為す所の者は見ふるに易く、而して禮の禁を為す所の者は知り難し、と。

訳・抄訳
上大夫の壺遂が云った。
昔、孔子は春秋を編纂しましたが何を目指したのでしょうか、と。
太史公が答えて云った。
私は董仲舒にこのように聞いたことがあります。
周の王道が衰廃した頃、孔子は魯の司寇となったけれども、諸侯は孔子を除かんと欲し、魯の大夫は君と孔子の間を塞ぎました。
孔子は言の用いられないこと、自らの理想とする政治が行われないことを知ると、魯の隠公元年より哀公十四年までの二百四十二年を記述してその間における諸侯の得失を是非し、これを天下の儀表として天子・諸侯・大夫その身分に関係なく正すべきを正し、王道に達することを願ったのですと。
また孔子はこのように言っております。
我はこれを空しく言論によって訓を垂れんとしたが、実際の行事に即して褒貶を加える方がより将来への戒めとなるであろうと。
春秋というものは、上には三王の道を明らかにし、下には人のあり方を弁じ、嫌疑を別し、是非を明らかにし、猶予(決せざる)を定め、善悪賢不肖を正し、失われし道を継ぐものであり、つまりは王道の大なるものなのです。
易は天地陰陽四時五行を著して世の順行を明らかにし、禮は人倫を経紀してその行を節し、書は先古の王道を記して政を治め、詩は森羅万象を記してそのありのままの姿を示し、楽は立つ所以を楽みて和し、春秋は是非を弁じて人を治めるものでありますから、禮は人を節し、楽は和を発し、書は事をいい、詩は意を達し、易は化をいい、春秋は義をいうのです。
したがって春秋ほど撥乱反正に近きものはないといえるでしょう。
春秋は数万字の文より成り、指すべきところは数千、万物の散聚は全て春秋に在るといっても過言ではありません。
春秋の中に君を弑する者は三十六、国を亡す者は五十二、妄りに奔走して社稷を失った諸侯に至っては数えきれぬ程おります。
その失いし所以は人の本たる仁義を亡失したことにあるのです。
易には「之を豪釐に失する、差ふに千里を以てす」と記されています。
また「臣の君を弑し、子の父を弑する、一旦一夕の故に非ざるなり、其の漸(すすむ)や久し」ともいいます。
だから国を有つ者は春秋を知るべきであり、知らなければ目前に阿諛迎合の臣がいても気がつかず、後方に己を害する賊がいてもわかりません。
また、人臣となる者も春秋を知るべきであり、知らなければ常時に守るべき義がわからず、変事に遭ってその身の処し方に惑うことになるのです。
人の君父にして春秋の義に通じて居らねば、必ずや首悪の名を蒙り、人の臣子にして春秋の義に通じて居らねば、必ずや簒弑の誅に遭い、死罪の名に陥ることでしょう。
古来より皆、己は善と思って事を行うものですが、これは義を知らぬからであり、空言を被っても敢て辞さぬのもこの故なのです。
礼義の旨に通ぜざれば、君臣父子、各々その分を尽すことができません。
君が君たらなければ下より犯され、臣が臣たらなければ君に誅せられ、父が父たらなければ道は在せず、子が子たらなければ道を継ぐことができません。
これらを天下の大過というのです。
天下の大過に空言を呈したとて、礼儀のなんたるかを知りませんから敢て辞すことなく受けます。
故に春秋を礼儀の大宗というのです。
礼というものは未然の前に禁じ、法は已然の後に施すものです。
法を知る者はいくらでも居りますが、礼の禁を知る者はなかなか見出すことはできません.

大義名分

人が生きてゆくには衣・食・住を整えることに尽きる。これが満たされていれば、人心は安定し、満たされていないと不安定になって、よからぬ事件が多発する。
ゆえに、
政治の根幹は衣・食・住を整えることに尽きる。

整えるとは何かというと、信頼を勝ち取ることに尽きる。たとえどんなにおいしそうなメニューを置いているお店であっても注文した物と違う料理を出されていては信頼をなくして、いつかその店は潰れてしまう。たとえ不味い料理であってもそれに見合う価格であれば、足蹴に通ってくれるお客はいてくれる。それが信頼である。
政治における信頼とは、有権者に嘘を付かないこと。
この一言に限られる。
“李下に冠を正さず”(疑われるようなまぎらわしい行動をしていけない。)という言葉があるように、政治家の信はその行動にある。
よって、
現政権はマニフェストなるものを国民に提出したのであれば、最初に行われるのはマニフェストの検証であり、できることとできないことを精査し、ふたたび真意を確認する行動が必要であった。しかし、残念なことに精査することもなく、行き当たりばったりで言葉を歪めている。これで“信”が養えるとは思えない。たとえ、これからどんなにすばらしい法案を提出してきても、その途中で歪められて、国民が望んだものとまったく違うものになるのではという疑問から抜けだせなくなってしまった。

良きにしろ、悪しきにしろ、“高速道路無料化”、“暫定税率の廃止”、“天下りの禁止法案”など言ってしまった言葉は実行することが必要であり、それが政権政党の“信”に繋がっていたのだ。
政権政党は自らの『大義名分』を捨てた愚かな政党である。

しかし、それでも今を生きる為に諦める訳にはいかない。

因みに、
私が目指す政策は「国民の、国民による、国民の政治」である。
国民の、  :国民の首相公選制
国民による、:国民投票による政策決定(国会で決まったことを事後的に国民が承認する)
国民の政治 :署名による法案提出とその代表が直接国会で答弁する国民の政治(署名国会参加制)
《署名国会参加制:署名の数によって直接国会に問いかけ、最終的に国民投票で決を取る政治》

声を大きくして、国会まで届かせていきたいものである。
つまり、
国民の政治こそ、私の大義名分である。

一燈照隅

一燈照隅<いっとうしょうぐう>はとてもおいしい芋焼酎で芋の臭みがない澄んだ焼酎で、一献飲むと隅々まで沁み渡る。酒屋の私がおすすめする焼酎である。
この一燈照隅の語源は、伝教大師、最澄の言葉です。

「一燈照隅、萬燈照国」<いっとうしょうぐう ばんとうしょうこく>
(1つの小さな隅を照らす灯も、二つ、三つ、十、百、万ともなれば、国中をも照らすことになる。)

こんな時代だからこそ、腐らずに一人一人が“一燈照隅”を志したいものです。
以前からずっと思っておりますが、テレビや新聞はどうも志が低いと思います。誰に読ませたいという明確な意思がなく、とにかく読ませたい(見せたい)と読ませる(見せる)ことに重点を置いて、誰にという明確な意思が感じられません。
それですから、テレビや新聞ばかり見たり読んだりしている人は、たくさんの知識を持っていますが、とても神経薄弱な方が多くなっています。
よく重箱の隅をつつくという言葉がありましたが、それはどうでもいいことを熱心になっているという意味です。
まさに、現代のマスコミ文化はその言葉に代表されます。

そんな神経質な性格なならない為に、愛読書や古典、山などの散策に触れられることをお勧めします。
国家は政治家や一部の人が運営しているのではなく、我々一人一人が小さいですが運営しているのです。我々が迷走すれば、国もまた迷走します。迷走しない為の自分を作っていきたいものです。

三宅雪子議員転倒

どうでもいいことですが。二階堂ドットでまとめられていたので紹介
自分から倒れたか?
前の支えを失って転倒という感じだ。

テレビで流された決定的なシーンだが、スローで見ると違う事実も映し出される。

これだと自転車に乗っている人に声を掛けて転倒しても、声を掛けた人が悪いという理屈になる。
さて、さて、結末はどうなるか楽しみである。
自然消滅の可能性もある。

因みに、トラックバックに「三宅雪子」とあるので開いてみた。

「三宅雪子の作戦は大成功だった」

ごもっともです。国民は公務員改革の改正法の内容が議論の対象になっておりません。

はじめから悪法と知っている私にとっては今更なのですが、たしかにマスコミは乗せられたのかもしれません。

---------○--------

(参考)
YouTubu 三宅雪子議員転倒 超スロー再生
http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&hl=en&v=LPpY_-fA-v0&gl=US

長時間の衆議院本会議…昨日の内閣委員会の「乱闘?」騒ぎ・・・
http://www.miyamoto-net.net/column2/diary/1273801664.html

衆議院議員 馳浩のはせ日記
http://www.incl.ne.jp/hase/schedule/s100513.html

三宅雪子の作戦は大成功だった
http://yaplog.jp/hayarinonusuda/archive/502

実は、三宅雪子の作戦は大成功だった!!売国プロジェクト始動。~“国会法改正”へのプロローグ~..マスコミやネットの書き込み等で「三宅雪子議員の同情標作戦は失敗に終わった」かのように報じられていますが、じつはあれはあれで大成功を修めていることに気がついている人は意外に少ないのではないでしょうか。この事実をもっと広く国民に伝えなければなりません。<成功の理由>マスコミは、三宅議員の醜態と、与党の強行採決の事実の2点しか報じていません。肝心の「国家公務員法の改正案の内容」と、「改正後、具体的に起こり得る変化」がほとんど報じられていないことにお気づきでしょうか。野党があれだけ反対した理由、強行採決を行うに至った理由が三宅議員の醜態を大きく取り扱うあまり、国民の元に届いてなさ過ぎるとは思いませんか?もしかしたら三宅議員の自演劇が無かったら、法案の内容をもう少し取り扱ったマスコミもあったかも知れません。いいでしょうか、所詮小沢ガールの一年生議員、三宅なんぞ、民主党にとって初めから将棋の駒の“歩”に過ぎないことを忘れてはいけません。要は最初から三宅議員は“捨て駒”なのです。三宅本人は気付いているかどうかは分かりませんが。大事を為す前に、多少の犠牲はつきものとばかりに三宅議員を人柱にしてまで民主党は強行採決を行いました。法案の中身を国民に知らせることなく、強行採決。恐ろしい戦術です。ではなぜ、強行採決に踏み切ったのでしょうか。じつはこれには裏があるのです。世論が民主党が国会に提出する法案に疑問や違和感を唱える前に、小沢に万一のこと(献金疑惑問題で起訴)がある前に、そして何よりも夏の参議院選挙の前に、小沢がどうしても今国会にて成立させたい法案が待ち構えているのです。それが、小沢の売国プロジェクト、“国会法改正案”なのです。以下のHPでご確認ください。【国会法改正案の正体】

参った参った

“参った”とは負けたと言う意味である。しかし、そこに苦痛や憎悪はなく、勝った相手に尊厳を持った言葉である。同じ“参った”でも神社に参るなどにも使われるように、相手に対して敬意を払った言葉であることが判る。
たとえば、「彼女に参った。」などと使うと好きで好きでたまらないという意味ではあるが、相手に対して格別の敗北、格段の尊敬がそこに隠されている。

平安時代の恋では相手の教養がもっとも高く評価され、紫式部や清少納言などの教養の高さが評価されて、宮中に参内させられている。同時にその教養の高さで多くの男性を虜にしている。“参った”とは敗北を意味する言葉ではあいるが、その中には常に相手に対しての敬意が隠されている奥ゆかしい言葉なのである。囲碁などで『負けました』という人があるが、昔ながらの『参りました』と言ってほしいと思うことがある。勝負の勝敗だけではなく、勝った相手を尊敬することで、より自分を高めてゆくそんな精神を忘れてほしくほしくない。
“参った”というそんな些細な言葉にも、尊敬と尊厳を隠している日本人の教養のすばらしさ、奥ゆかしさを感じてほしい。

大暴落の心理

世界大暴落です。
ギリシャから発信された金融不安は瞬く間に世界同時株安を引き起こしました。その発端は入力ミスと言われますが、それは誰もが暴落を予想しているからです。落ちても不思議ではない、そんな心理が常にあり、回避できない経済不安が鎌の底にあるからです。一度誰かが火をつけると鎌は煮上がって、ぐつぐつと混乱してしまう訳です。
この金融不安を無くすのは、主に2つの方法があります。
各国が独自の内的金融に重視し、グロバルを否定する。
または、世界銀行を設立して、取引通貨を統一するかです。
前者はブロック経済の1つであり、クロウズできる国家は助かりますが、できない国家が戦争を引き起こす可能性が生まれます。
後者は将来の姿ですが、誰が世界金融の番人になるかという覇権争いがあり、今日明日で設立することはありません。
という訳で現世界は手詰まりの状態なのです。

まさにババ抜き状態と言った方がいいでしょう。
世界には負債というババが多数あり、誰にそれを押し付けるかというゲームをしている訳です。
ですから、誰かがババを切ると一斉にババを切ってくる訳です。
ゲームに参加しないことが大きな損をしない方法ですが、ゲームに不参加を表明するのは相当の国力が必要なのです。
半強制参加といった所でしょう。

EUとアメリカは経済崩壊状態
中国・インドはバブル
その他の国はそのEU・アメリカ・中国・インドにお金を投資している。

しかし、これはゲームであり、経済破綻を来しても世界は崩壊しない。しかし、多くの人は損をすると考えているので世界崩壊だと騒いでいます。
お金は道具であり、古くなって使えない道具は新しい道具に返れば済むことなのですが、損をしなくない人が戦争を起こしても防ごうとするので話はややこしくなる訳です。

と言いつつも、私も多少参加しております。

「虎穴に入らずんバ故事を得ず」

もちろん、損をすれば諦める覚悟があれば、財を得る為には避けられない道なのです。

久敬す

“久敬”とは読んでごとく、久しく敬意を払う行為であります。
これが中々難しい、久しくなると油断や気の緩みなどから些細な不満を持たれてしまうことが多々あります。
長い付き合いの者同士が喧嘩したり、不満を募らせるのはそこにあります。
普段から敬意を払うことを忘れない心が大切だと思っています。
もっともこれに関しては毎日反省の思いが募るばかりです。

恥知らず

『恥』というのは人間形成にとって重要なものである。
恥を知る者と知らぬ者ではおのずと結果が異なってくる。恥とは失敗、後悔などの感情であり、恥じるからこそ、次は失敗しないでおこう。次はこうしようと向上心を上げることができる。恥を知らない者は失敗に気づかないから言葉で誤魔化したり、すべてをなかったことにしてしまう。もちろん向上心も生まれず、発展性や可能性は生まれてこない。
“恥知らず”とはそう言った人間の中でも最も低俗な人間である。
失敗したことを謝罪し、反省し、訂正することは恥ずかしいことである。
しかし、恥ずかしいと感じる感情が次の成功につながる。
それを言葉で誤魔化しては何も得られない。

孔子の弟子の曾子の教えにも

曾子曰、吾日三省吾身、為人謀而不忠乎、
与朋友交而不信乎、伝不習乎

曾子曰く、われ日にわが身を三省す、
人のために謀(はか)りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか

とある。三省とは、3度ではなく、何度でもと読む方がいいだろう。
常に自分の行動は正しいのだろうかと振り返る謙虚な心が大切だと解いている。
恥ずかしい行為をしていないかを知ることが大切であり、それを怠る。または、誤魔化すことを“恥しらず”という。

敬のこころ

『敬』とは高い理想をそれを追求する欲であり、自らの向上心である。尊敬とは敬うべき対象の人(尊)という意味である。この向上心がなければ、人間として駄目になってゆき、自らを朽ち果てさせてしまう。

と言っても過ぎた向上心は害にしかならない。
これを指摘した言葉に“顕微鏡の欲”という言葉がある。
プロのテニスプレイヤーやゴルファがよく口にする言葉であるが、一球一球、一試合一試合にこそ集中する。目の前にある最も小さな希望や理想にこそ、プロの向上心があると口ぐちに言っている。これこそ“顕微鏡の欲”である。過ぎたるものを求めるのではなく。与えられた目の前の小さな課題を1つ1つ積み重ねてゆくことが本当の向上に繋がる。
“プロ野球の選手になる”と高い理想を持った者が、日々の練習を怠るようでは到底なれない。
今日1つ、明日の1つ、目の前の課題をクリアでしたことに満足した者だけが、そして、明日の課題に立ち向かう勇気を持つことが大切なのである。

それが『敬のこころ』である。

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