禁書 わが闘争 3.驕れる大衆と見下す独裁者
私にとってヒトラーの『わが闘争』と田中芳樹の『銀河英雄伝説』は表裏の関係である。当時、映画化されたことをきっかけに『銀河英雄伝説』を読み始めた。2人の主人公がおり、それぞれが民衆とは何かを語っていた。そして、影の主人公こそ、ルドルフ大帝、おおよそヒトラーを模範したような思想の持ち主であった。おそらくモデルであろうと思われるヒトラーを知らずに通り過ぎる訳にもいかず、私は『わが闘争』を通読したのであった。
ヒトラーの思想は論理的に思え、実は感情的憎悪の塊である。しかし、何の免疫のない赤子のような心でみれば、親衛隊のような熱狂的な差別主義を生み出すのかもしれない。ヒトラーは大衆のことをこのように捉え、そして、如何に対処するべきかをこう述べている。
「宣伝におよそ学術的教授の多様性を与えようとするのは誤りである。大衆の受容能力は限られており、理解力は乏しいが、その代わりに忘却力に優れている。この事実からすべてに効果的な宣伝は、重点を限りなく制限して、それこそスローガンのようなものを利用して、その言葉によって最後の一人まで理解できるようにすることだ。人々にこの大原則を否定して、あれもこれも様々な議論を取り入れるとすぐに効果は散漫になる。大衆は提供された用途を消化し、記憶することができない為に、遂には弱体化し忘却される。<中略>宣伝効果は少数の観点に制限し、もっぱら大衆を考慮する。うるさいほど根気強く行ってゆく。一度正しいと認められた考え方と実践形式は、決してほんの少しの変更さえ一度も変更してはならない。はじめは主張のあつかましさに常軌を逸しているように思われるが、後に不愉快になり、最後には信じるようになる。この精神的な攻撃はただ大衆に利用したばあいのみである。」
大衆を一面的にみれば、ヒトラーの評価は正しい見解かもしれない。最近の例で言えば、『郵政改革』、『政権交代』という四文字熟語を信じて投票した大衆は、まさにヒトラーのいうところの「理解力に乏しく、忘却に優れ、スローガンによって最後の一人まで理解する。」典型的な選挙結果であった。小泉純一郎と小沢一郎はヒトラーの尻尾を再現したのである。ヒトラー理論の正しさを証明した訳である。
しかし、すべての大衆において、この理論が正しい訳ではない。大衆の学習意欲が旺盛であり、礼節にすぐれた国家においては、論理は破綻する。一人の賢者がその論法の不備を指摘すれば、またまた間にその者の信用は失われ、おそらく、偽善者として代表になることはありえないのである。
では、なぜ、今の現在においてヒトラーの尻尾が徘徊するようになったかと言えば、それは大衆の傲慢から生まれた驕りである。単純な学力ではまだこの国家は疲弊していないが、自ら考え精査するということを惜しむようになったからだ。
安岡正篤先生は「学問というものは、まず自分が主体になって、自分が積極的に始めなくればならない。つまり生きた学問、いわゆる活学をやらなければならない。心が照らされるのではなく、心がすべてを照らしてゆくような学問をしなければならない。知識を得るためにの学問が主体になると、神経衰弱になることはあっても、生命力が高まることがありません。それよりも、自分に主体をおいた学問をすることです。」と説いております。日本の教育が博学に染まり、日本人の精神が神経衰弱になっているからこそ、ヒトラーの亡霊が現れるのです。
小泉純一郎の『郵政の民営化なくして、改革なし!』、小沢一郎の『政権交代』、どちらも大衆を見下した偽善者の行為であります。そして、悲しことに偽善者の口車に乗せられた結果が今の政治です。
しかし、それを悔いてもしかたありません。我々は驕りを捨てて、すべてことをよく考慮するように努めなければなりません。すべてを理解することが無理でも自分にとってもっとも身近なことをよく考慮して、偽善者の声をよく聞くことです。耳障りのいい言葉だけを聞いてはなりません。そして、得心したならば、その人を選んでゆきましょう。政党を選ぶのではなく、大切なことは人と人、信義をその人が持っているかが重要なことなのです。
大衆をたぶらかすような政治を認めても許してはならないのです。
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