2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

« 紀元(皇紀)2670年、本日は2月11日建国記念の祝日です | トップページ | 禁書 わが闘争 2.熱望によって生まれる独裁者 »

禁書 わが闘争 1.責任を放棄する代表者

わが闘争を読んだのはもう20年以上前の昔の話である。アドルフ・ヒトラーという人物を知る為に読んだと記憶している。稀代詐欺師、殺戮者、狂人とうたわれた戦争犯罪者を知る為である。
その内容は実に一見論理的であり、憎悪の感情に満ちた情熱を感じた。ある意味、世界の真理を貫いたその論理は私も思わず同意したくなる内容もあった。不安と絶望の中にあり、その中で内に秘めたる渇望を持つ者の心揺さぶる。それがアドルフ・ヒトラーである。

彼の言葉を借りれば、「外面的には国家事務を管理する内閣ただの見せかけにすぎない。政府は事前に一般会議の承認を得なければならない。決定権は政府にはなく、議会の多数者にある。同時に政府は責任を問われない。彼らはただその時の多数の意思の執行者に過ぎないからだ。<中略>選出された500人の民衆代表たち、国民の最も重要な利害について票決し、政府を指定する。それゆえに議員閣下の同意をえなければならない。しかし、この民衆代表の独創性はまったく問題外としても、解決を待っている問題がいかに多様であるか、解決したり決定したりされなければならない領域がいかに広いか、ということを考えてほしい。<省略>いちも決定は無知無能の多数者によってなされるだろう。」と言っている。
つまり、決定するのは専門知識も十分な理解ももっていないただの代表にその決断を委ねるという危機感を訴えているのである。さらに彼はそれらの代議士の責任感がないことを憂いている。何の知識も責任ももたない議員閣下が国家の意思を決定している現実。実態経済における目の前の問題。飢え、貧困、失業者、社会不安など様々な問題の原因がそこにあると言っているのである。
ここだけを聞けば、「なるほどもっとだ。」と言いたくなる。
しかし、彼はこれを解決する為に、責任ある指導者によって統治されなければならないと言っている。責任ある独裁者という意味であって、ここは彼に賛同できない部分である。

さて、当時はぼんやりとした危惧であり、「そういう時代にならなければいいな!」程度の不安であった。しかし、今はどうであろうか?
「国会が決めて下さることですから、それに従います。」
などと無責任な答弁をしていないだろうか?
国家の代表者がその責任を放棄し、議会にその責任を転化することは私が最も危惧した事態である。国家の代表者は議会と対立し、国民に対して国家の方針を語る責務がある。議会を説得し、国民を説得し、国家という大舵を動かす責務がある。その責務を失ったとき、アドルフ・ヒトラーの尻尾が顔を出すのである。

国家の代表、内閣総理大臣と各大臣、政務官等内閣に席をおく者は国家の代表として、常に国民すべての責任を背負うべき者なのである。水先案内人でなくてはならない。そして、議会席に座る大衆の代表を説得し、国家の進むべき道を示して逝かなければならない。さらに、大衆の代表は無責任と怠慢によって、物事の本質を知ることもなく、盲目的に賛同する傍観者であってはならない。それこそアドフル・ヒトラーが提唱する無能な民主主義と違う。もう一面の民主主義の姿である。

国家の代表者は常に自らの責任において、国家のあり方を語らなければならない。決して無責任になってはいけないのである。

« 紀元(皇紀)2670年、本日は2月11日建国記念の祝日です | トップページ | 禁書 わが闘争 2.熱望によって生まれる独裁者 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 禁書 わが闘争 1.責任を放棄する代表者:

« 紀元(皇紀)2670年、本日は2月11日建国記念の祝日です | トップページ | 禁書 わが闘争 2.熱望によって生まれる独裁者 »