2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »

2010年2月

恐ろしい子供手当の実態???

子供手当の支給が始まろうとしている。
教育を重点に置く政策として趣旨は大いに評価している。

教育こそ、国の基盤である。

そういった意味で賛同するところなのだが、その仕様は民主党が自民党政権を非難し続けてきたばら撒き型の支給である。現金を親に支給するという方法は多くに波乱要素を持ち過ぎている。
解決方法はそれほど難しくない。
学校からの請求書を役所に提出すると、支給分内に限り役所から学校に振り込む形にすればいい。
それだけで親が学費以外に使用することを防止できるのだ。
パチンコやギャンブルに消えず、学費や給食費として利用できるのだ。
全体から言えば、わずかな数かもしれない。
しかし、そのわずかな数を大切にしてゆかねばならない。

さらに言うならば、奨学金を拡充することによって、不摂生な親から離脱して寮などに入り、学業の本分を全うできる環境も作っておく方がよいだろう。
さらに、教師の能力アップも急務である。
しかし、子供手当以外の政策は時代の要望とは逆行するものである。
これが民主党の望む未来なのだろうか???

金だけ渡して後は何も関与しない。(日教組がいるからできない)
そんなことで日本の未来を救えるのだろうか???

さて、今回はさらに重大な話が舞い込んできた。

なんと!!!

日本に住む子供以外にも子供手当が支給されるというのだ。
つまり、外国の子供を養子に迎え、外国で生活させていても住民票があれば、支給されるというのだ。
1人24万円ほど支給されるのだから、100人の養子を迎え入れれば、2400万円の支給だ。
ハート オブ ゴールド などで支援するのに1人当たり10万円ほどあれば十分である。
善意のボランティアか、悪意の金儲けかは別にして、
世界中で日本人との養子縁組がブームになりそうな話である。

なんせ、外国にいる養子も喜び、義父母も生活が楽になる法案なのだ。

馬鹿らしくて話にならない。

-----------○-----------

(参考資料)

なんだそれ。月1万円養育費でやればいいなら、俺も養子1万人作るわ
http://www.nikaidou.com/2010/02/11_2.php

髭のなかちゃんの3月2日と3月1日
http://www.higenaka.com/frm_zakkan.html

子供手当じゃなくて、子供控除にすればいいのに
http://www.nikaidou.com/2010/02/post_4370.php

外国人参政権反対だよ!

外国人参政権について、

園部逸夫・元最高裁判事は産経新聞の取材に応じ告白しれたことはみなさんもご存じのことと思います。

産経ニュース

http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100219/plc1002190023001-n1.htm

最近、外国人受け入れの番組が多くなっているのは、誰かの戦略でしょうか?

「日本の労働力を外国人に支えてもらう!」

そんな非人間的なことを平気言っているマスコミにひどく遺憾を覚えているこの頃です。

人口が減って困るという理論はおかしなことです。

日本より人口が少ない欧州の各国はすべて疲弊して国の形をなしていないのでしょうか?

そんなことはありません。むしろ、日本の手本として紹介される国もあります。つまり、人口の多い少ないは関係ないのです。

社会構造と人口分布のギャップが問題なのです。

つまり、社会構造改革、法律改正が必要な訳であり、外国人を受け入れることが解決の道ではありません。

むしろ、多くの外国人を受け入れる方が社会環境の変化を催して、大変な事態となりかねないのです。

もちろん、日本を愛する外国人が日本人になること。

優秀な外国人が日本を職場として選択することは大賛成です。

国際化は進めるべきです。

しかし、外国人参政権は国際化とはまったく無関係です。外国人を外国人のままで日本に受け入れることは、日本の中に小さな外国を作るようなものであり、白アリが柱を食いつぶしていくようなものです。

外国人はあくまで外国人。

日本で快適に住める環境を整えるのは良いことです。

しかし、日本で暴挙ができない法整備も備えておくことも大切なのです。

ネットを回っているときに見つけた映像です。外国人参政権の危険性を判りやすく書いてあります。

元のページが判らないので、「作者さん」かってに使わせて頂きます。ごめんなさい!Img4899_1002sanseiken_2

民主党敗北の意味を考える。

2010年2月10日、長崎県知事選で与党3党の推薦候補が自民、公明両党の支援候補が当選したことに、
鳩山総理は「厳しかった。国政の影響があったことは否めない。やはり政治とカネの問題の影響を受けたと言うべきだと思う」と述べた。
この敗北が民主党再生の起爆剤となれば幸いである。

かって、1881年(明治14年)福沢諭吉は10月に刊行した『時事小言』の中で、租税をより安くできるから国会を開くのだといっている国会開設論者を国民を騙していると非難している。その中で人間の「私情」にうったえて、いたずらに民心を惑わすことは許されない。租税を安くするために国会を開くのだと言って、それが実行できない場合、この問題は攘夷論と違って「徹頭徹尾、道理に基て腕力に依らざるものならば、其道理中にいやしくも人を欺き人を売るの元素」があったとすれば、」国会開設論の進退はきわまると論じている。
明治維新において開国論であった幕府を倒す為に薩摩長州は攘夷論を持って幕府を倒した。しかし、明治政府は開国論に転換し、攘夷論は露と消えた。
武力をもって倒さなければならない相手であれば、そういった詭弁や策謀は許されるものであるが、武を持たない国民に対して、国民を騙して国政を得ることはあってはならないということである。

これは現政権の民主党にも言えることで、
マニフェストの欠点は多く指摘されていたが、「可能である」と強弁を言ってきた。
政権をとって「できませんでした。」「4年掛ります。」などと詭弁を弄しているようでは心持たない。
自らの給与、公務員の給与を半額にしてでも財源を見つけ出さなければ、進退に極まる。

また、マニフェストから外した「外国人参政権」などを今国会で提出するなど、策謀に等しい行為である。
もし、マニフェストにうたい、その結果として過半数を取ったならば、不本意ながらも民意として受け止めなければならない。しかし、これは民意などではない。
騙し打ちである。

この長崎の敗北を深く受け止めて、
国民との約束を如何にして守るか!
その原点に立ち戻ってもらいたい。

民主党の最も良い点は、クリーンな政治ではないのだろうか?

マスコミの腹立たしい現実

経済学を語る時、歴史学や自然科学もそうなのだが、客観的に相方向から相関関係を確認しなければならない。
また、仮定と確定事項を区別する必要がある。
しかし、マスコミは都合のいいところを確定事項として流す。実に腹立たしい。

積極財政派の意見で
「預金が国の借金より多いから大丈夫」
これは財政の根拠である。なぜ、日本の財政が今のところ大丈夫なのかという根拠である。今のところ日本の財政が破綻を至ることはないびくびくして思考停止にならないで下さいと言っているに過ぎない。
しかし、マスコミの緊縮財政派(竹中など)は、
「国の借金をみなさんの預金で払おうと言っている。」
と言ってもいないことを言ったと言っている。「屏風に描いた虎を捕えろ!」と言った一休さんの話のようだ。

積極財政とは、
国が借金を増やすことがあってもGDPを拡大する方が実質額が小さくなる。つまり、投資をして事業を拡大した方が給料が増加し、結果的には借金が減少すると言っているのだ。
しかし、緊縮財政派は、
国の借金を容認すれば、国の借金を借金で払うようなもので、借金が増加すると言っている。

では、歴代の自民党政治における緊縮財政は成功したのだろうか?
国が投資を減額した為にGDPは減少し、次の核となる産業も育っていない。さらに財政の縮小は失業者を増加させている。
竹中氏の未来像は「日本もアメリカみたいな金融国家を目指すべきだ。」ということなのだろうが、アメリカの金融がどうなったのかはアメリカの例をみれば判る。一部の富裕層にとって都合がいいだろうが、我々国民にとってはありがたい世界とは言えない。竹中氏は富裕層に入るつもりだからそれでいいのだろうが、国益を考えてのことではないのだ。それをあたかも国益を考えているかのごとく言うのが腹立たしいのである。
竹中氏の意見は日本と取るべきビジョンの1つにしか過ぎない。

一方、「コンクリートから人」への鳩山ビジョンは全体像は正しい意見である。
人=教育
人=基礎科学
という展開を持って、教育と基礎科学に予算を多く配分するのなら私も多少のことは目をつぶって支持したいのだが・・・
残念なことに鳩山ビジョンは
人=教育費の免除
人=介護費
と予算の方に傾いている。「教育の質」は日教組の関係があるので手を出せないでいる。「質」の向上こそ重要であり、九九もできない大学生を卒業させて何の国益になるのだろうか?
残念ながら民主党の政策は絵に描いた餅である。

気長に待ちたい気持ちもあるのだが、
外国人参政権を通過させようとする小沢氏がいるので、気長に待つこともままならない。

ところがその小沢氏に対立する軸に竹中氏らの緊縮財政派がいる。
積極的財政派はマスコミによって封鎖されているのである。実の腹立たしい。
オオカミがくるぞ!
と叫んでいた少年が何度も叫んでいる内に本当にオオカミがやってきてしまったような気分だ。

禁書 わが闘争 2.熱望によって生まれる独裁者

 アドルフ・ヒトラーはどうやって独裁者になりえたのだろうか?
 おおよそ人類が考えられる謀略と暴力と薬物を用いて、民衆をひれ伏して独裁者になりえたのであるならば、歓喜と称賛に値する人物である。しかし、現実はまったくことなるもである。
 彼は民衆の熱望によって生まれ、社会改革を断行し、あらゆる障害を排除しただけであり、それはかのナポレオンと同様である。彼がナポレオンのように崇拝されない理由はユダヤ虐殺という民族粛清を行ったゆえである。
 民衆はヒトラーに未来を託し、ヒトラーはその期待に応える為に邁進した。それがどんなに邪悪で偏見に満ちたものであっても若き英雄に民衆は未来を託したのである。
 作家、田中芳樹は小説の中で言っている。「民主主義は独裁者を作る土壌でしか過ぎない。<中略>民衆は楽をしたいから英雄にしがみつくのさ。」私もこの意見に大いに賛同する。ヒトラーに扮したチャップリンだったか、「民衆はブタである。」と言っていたような気がする。こちらの方は記憶が定かではないのだが、希望という餌を与えられれば、誰にも靡くという比喩である。
 民主主義、社会主義、独裁(王国・帝国)主義の3つの体制はどれが優秀でどれが劣悪な制度であるかというのは決められない。
独裁主義は社会改革や制度改革を迅速に行うには最適な制度である。しかし、一人、または少数の才覚によって運用される為に常に優秀な指導者が代表であるとは限らない。才覚も責任感もない代表者が国家の運営を任された日はその国の存亡に関わる問題である。そして、何より国民に生死の決定権がないことが欠陥である。
 社会主義は人民の平等という意味ではすばらしい世界である。おそらく社会体制としては最も優れた制度である。しかし、問題は人間の方にある。欲あるいは渇望という人間本来に備わっている曖昧な部分がこの制度と相反するのである。そして、この欲望こそ活力の根源であり、社会主義において活力を制限されるのである。そして、活力を失った世界は衰退する。ソビエトという実験国家は軍事力の増加によって崩壊した。しかし、その根幹にあるのは社会における活力の減退が原因である。活力を失った国家は社会基盤が崩壊し、それを支える為に共産党員という独裁者が生まれ、独裁主義へと変貌していった。それがソビエト崩壊の根源的原因である。社会主義もまた欠陥制度であった。
民主主義は社会主義と相反する人間の根源である欲と渇望を具現化する制度である。18世紀末、フランス革命から起こった民主化運動は、その制度によって起こる富の集中と身分の固定化を引き起こし、その都度も独裁者を生み出しながら今日まで続いている。実際、民の代表である議員が有能かつ有益に機能するのは短い期間であり、制度上の欠陥は常に腐敗と汚職の歴史を繰り返している。まるで欲と傲慢を静かな海の底に沈め、長い時を得て肥えた泥質層を作る作業のように思える。ゆえに、氾濫が一度起こると平地には肥えた土壌をまき散らす。民主主義とは独裁者を生み出す苗床のようなものなのかもしれない。
以上のように三者に優劣の差などなく、その時代時代において最も適したものが生き残ってゆき、そしてまた滅びるという繰り返しを続けているだけなのである。

アドルフ・ヒトラーという人物は社会の閉塞感の中に大衆が見つけた希望の光であり、彼によってもたらされる社会改革が自分達の幸せを約束してくれると考え、民主主義のルールに則って、生み出された英雄(モンスター)なのである。人々はなぜ安直に自らの幸せを他者に委ねてしまうのであろうか?
「それはね、みんな楽をしたいからさ!」
田中芳樹は小説の主人公の一人ヤン・ウェンリーの声が今も脳裏に響いている。

禁書 わが闘争 1.責任を放棄する代表者

わが闘争を読んだのはもう20年以上前の昔の話である。アドルフ・ヒトラーという人物を知る為に読んだと記憶している。稀代詐欺師、殺戮者、狂人とうたわれた戦争犯罪者を知る為である。
その内容は実に一見論理的であり、憎悪の感情に満ちた情熱を感じた。ある意味、世界の真理を貫いたその論理は私も思わず同意したくなる内容もあった。不安と絶望の中にあり、その中で内に秘めたる渇望を持つ者の心揺さぶる。それがアドルフ・ヒトラーである。

彼の言葉を借りれば、「外面的には国家事務を管理する内閣ただの見せかけにすぎない。政府は事前に一般会議の承認を得なければならない。決定権は政府にはなく、議会の多数者にある。同時に政府は責任を問われない。彼らはただその時の多数の意思の執行者に過ぎないからだ。<中略>選出された500人の民衆代表たち、国民の最も重要な利害について票決し、政府を指定する。それゆえに議員閣下の同意をえなければならない。しかし、この民衆代表の独創性はまったく問題外としても、解決を待っている問題がいかに多様であるか、解決したり決定したりされなければならない領域がいかに広いか、ということを考えてほしい。<省略>いちも決定は無知無能の多数者によってなされるだろう。」と言っている。
つまり、決定するのは専門知識も十分な理解ももっていないただの代表にその決断を委ねるという危機感を訴えているのである。さらに彼はそれらの代議士の責任感がないことを憂いている。何の知識も責任ももたない議員閣下が国家の意思を決定している現実。実態経済における目の前の問題。飢え、貧困、失業者、社会不安など様々な問題の原因がそこにあると言っているのである。
ここだけを聞けば、「なるほどもっとだ。」と言いたくなる。
しかし、彼はこれを解決する為に、責任ある指導者によって統治されなければならないと言っている。責任ある独裁者という意味であって、ここは彼に賛同できない部分である。

さて、当時はぼんやりとした危惧であり、「そういう時代にならなければいいな!」程度の不安であった。しかし、今はどうであろうか?
「国会が決めて下さることですから、それに従います。」
などと無責任な答弁をしていないだろうか?
国家の代表者がその責任を放棄し、議会にその責任を転化することは私が最も危惧した事態である。国家の代表者は議会と対立し、国民に対して国家の方針を語る責務がある。議会を説得し、国民を説得し、国家という大舵を動かす責務がある。その責務を失ったとき、アドルフ・ヒトラーの尻尾が顔を出すのである。

国家の代表、内閣総理大臣と各大臣、政務官等内閣に席をおく者は国家の代表として、常に国民すべての責任を背負うべき者なのである。水先案内人でなくてはならない。そして、議会席に座る大衆の代表を説得し、国家の進むべき道を示して逝かなければならない。さらに、大衆の代表は無責任と怠慢によって、物事の本質を知ることもなく、盲目的に賛同する傍観者であってはならない。それこそアドフル・ヒトラーが提唱する無能な民主主義と違う。もう一面の民主主義の姿である。

国家の代表者は常に自らの責任において、国家のあり方を語らなければならない。決して無責任になってはいけないのである。

紀元(皇紀)2670年、本日は2月11日建国記念の祝日です

建国記念日です。
この建国記念日は紀元節を祝う日であり、『日本書紀』が伝える初代天皇である神武天皇の即位を祝う祝日として、明治5年(1872年)に制定され、1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用された。
この紀元節の日付は『日本書紀』卷第三、神武紀「辛酉年春正月 庚辰朔 天皇即帝位於橿原宮」に由来するのですが、この日を決めるのにBC600年の辛酉庚辰朔を検討し、太陽暦の2月11日に決めた経緯があります。
はたして、BC600年頃に大和王朝が成立していたとは思えません。
そう考えると、「はたして、この2月11日でよかったのだろうか?」とそう考えてしまうところですが、今更覆す訳にはいきません。
いずれにしろ、推古34年(626年)天智天皇が即位して以来1384年間の天皇家の歴史を祝う日であり、千年もの長きに渡って引き継がれてきたことだけでも我が日本の誇りにできるめでたい日であります。

ところで、歌曲「紀元節」というのを見つけました。
父の頃は学校で歌っていたらしく懐かしく歌ってもらいましたが、一度聞いて覚えられるほど歌い易い歌ではありません。
父の歌が下手なのも手伝ってですが・・・

歌曲「紀元節」
一、雲にそびゆる髙ちほの髙ねおろしに艸も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ
二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ
三、天つひつぎの髙みくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ
四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

本日、また1年、我が国が年を重ねたことを祝いたいと思っております。

« 2010年1月 | トップページ | 2010年3月 »