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腐敗する日本(5)

教育こそ国の要
戦後60年間、日本の教育は迷走を続けている。
近年、安部首相になってこのままではいけないと考えたのはいいのだが、文部省がこうあるべきと指図するのはお門違いだ。
司馬遼太郎の回想の中で戦争に負けたことにより、今までの価値観が一変し、自信を失ったと書かれている。そして、日本人を見つめ直す意味で歴史を検証し、それを小説にされた。その中で日本人としての自信を取り戻していったと書かれている。
しかし、戦後作られた教育システムは理念・思想において欠如したままである。また、ゆとり教育などと言って、教師が堕落したのでは本末転倒である。
本来のゆとり教育とは、土日を利用してピクニックや自然公園での植物等の観察、地域の探索等々様々な活動をする時間に割り当てなければならなかった。夏ならスイミングも良いだろう。冬なら野球、サッカー、バレー、スキー、剣道、柔道、相撲等のスポーツでも良いだろう。個人的には頭脳スポーツと呼ばれる将棋や碁を奨励したい。
いずれにしろ、詰め込み授業と呼ばれた教育を見直し、その他の分野を伸ばすことは非常に良いことだと思われる。
しかし、実際はそうはならない。
受験システムを変えなければ、その余分な時間は塾に割り当てられるだけである。教師はマニュアルが強化され、上司への報告書類が多くなり、肝心の子供との時間が減っていった。何を考えているのだろうかと常々思っていた。
仮に受験システムの一部を改正し、国公立に入学する際、スポーツ点や言論点、芸術点、頭脳スポーツ点が加点されるとなっていたらどうだろうか?
各部門で全国大会に出場した者に50点が加点され、金・銀・銅にはさらに100・50・30点が加点されるなどとなっていたらどうだろうか?
野球で50点、美術で50点(二年連続で計100点)、囲碁優勝で50点+100点、合計300点が加算される。
センター試験が700点であれば、加算され1000点になる訳だ。東大・京大であっても2次を頑張れば入学できることになる。
もちろん、そういうシステムが良いと言っている訳ではない。
ただ、教育改革というのであれば、受験システムに手を付けない改革は改革の名に値しない。結果として、ためだめ日本を構築したと言わざる得ない。
落ちこぼれを助ける為に、補修をした新米教師が先輩教師に叱られる。
「君がすると、私まで迷惑が掛かる。」などと言われる。教師が生徒の面倒を見ないなら教師ではない。しかし、似非教師が日本に蔓延っている。
そういった教師に育てられた親が常識を知っている訳がない。
60年間のツケが日本のモラルを破壊する。
学力を教えるのではなく、常識を、道徳を、生きていく知恵を教えるのが教師である。教師とは人間を教える特化した専門職のことである。子供と接触しているがゆえに、子供にしつけを教えることが優秀な人材でなければならない。
学力を教えるだけであれば、親の方が優秀な場合も多々存在する。教師のすべてが東大卒ということはありえない。
しかし、教師は勉強を教えるものだと勘違いしている教師・親・文部省の役人がいる。
勉強を教えるだけであれば、学校などすべて潰し、塾のみにすればよい。効率的である。
いずれにしろ、道徳を教えることからやり直すことが必要である。

本当のゆとり教育
私はゆとり教育の賛成論者である。ただ、飛び級も必要であり、後追い級も必要だと考えている。
仮にテニスが優秀な子供がいたとする。テニスの適齢期は15~18才と言われており、5才から始めなければならないと言われる。5才で才能があると思われる児童には本人の希望でテニス中心の授業構成が出来るゆとり教育が必要である。児童の学力に応じて後からサポートする体制が必要なのである。追いつく為には飛び級も必要である。
また、数学が得意な子供が10才で大学に入学しても良いのではないだろうか?
また、年齢に応じて、社会教育をする機会があるのがよいと考えている。
小学低学年程度なら土日は社会見学である。
小学高学年程度なら林間学校・(サマー)キャンプ・体験学習である。
食事を用意してくれる林間学校ではない。寺など掃除、まかない、蒔き割りなど厳しさを教えてくれる1週間程度の学習がよいだろう。仕事をしない場合は食事抜きなどの厳しさを知らしめることが重要だと考える。
次に、サマーキャンプは無人島などでの自給自足生活がいいだろう。住まいと米を別として、水、火、塩、調味料、食料を取る努力などの文明を忘れる1週間の経験が必要だと私は考える。あることが当たり前だという考え方を一度は正す必要があると考えている。
最後に田舎での暮らしである。1ヶ月程度、夏休みすべてといっていいだろう。卵を取り、作物を耕し、川で魚を取り、山で山菜を取る。時には神社で夏祭りを楽しむ。自然との共存、一度は体験しておくと人間の深みが増す。そして、最後のとりはにわとりや牛の解体である。我々が何を食べているのか?
それを教える必要がある。気分が悪くなる子もいるだろう。トラウマになる子もいるだろう。しかし、我々は何かを食さなければならない。そのことを教えることはとても重要だと考えている。
中学生程度以降はそれぞれの進むべき道をその余暇に当てることが望ましい。
いずれにしろ、ゆとり教育とは教師が子供を指導するという特化した能力を育て、継承してゆくものだと私は考える。
少なくとも勉強を教えるだけの存在では意味がない。
今、ゆとり教育が否定され、詰め込みが復活しようとしている。
本当にそれでよいのだろうか?
少なくとも現在の先生がゆとりの教育よりはマシではあるが、それが正しいとは思わない。また、違う答えもあると考えている。

いずれにしても、子供をどう育てていくかを真剣に議論した答えに間違いはない。

なぜなら、間違ったと感じるものはすぐに過ちを正してゆくものだからだ。

一方、地位や名誉、威信などをこだわる人が考える子供の未来は歪んだものになってゆく。今、教育現場で子供のことを真剣に考える教師が、関係者が、どれほどいるのだろうか?

私はそこを問いたい。

現在の日本は私の父や母、祖母が作った日本である。

未来の日本は子供たちが作ってゆく。

今、私達が真剣に子供のことを考えなければ、私の考える未来は存在しない。

子供たちが日本の未来なのである。

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