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腐敗する日本(4)

大きな勘違い、お上意識
明治維新前まで民は支配されるものであった。
上杉鷹山のように民は国の礎と考える朱子学も多くいたが、侍の大半はごまのようなものと考えていた。つまり、“絞れば絞るほど油が取れる。”である。
役人は支配者の代行であり、支配者そのものであった。
明治維新によって、民は天皇にとって等しく権利を与えられたものとなった。よって、民の代表の議員が国政を預かることになった。役人は監督する権利を授かった者へと移った。
しかし、“お上意識”は取れず、“オイコラ警察”と中傷されるように虎の威を借る狐のごとく我が物顔であった。
さて、戦争に負けて我々が得たものは何だろうか?
それは人権である。
つまり、国の主人様になったことである。役人は監督から使用人へと格段にクラスを下げた。役人は奉仕するものへの変わったのである。
ただ、戦後復興を成し遂げたのは企業家と政治家と官僚である。彼がそれを誇りに思うことはよい。それだけのことをしたと私も思っている。
しかし、使用人は使用人である。彼らはそれを忘れている。
侍のごとく、“お上意識”を持って、いや、勘違いをして現在に至る。
我々の代表者である議員殿が仕事をしない為にであり、役人を放置してきたツケが回されている。
タライ回しなどという言葉ができるほど、サービス精神を失った彼らは国家の癌と成り始めている。発病すれば、国家の転覆は免れないであろう。大きな勘違いのツケが回ってきた。

道徳に支えられてきた日本
日本の法律とは、欠陥だらけのシステムである。しかし、今までは問題なく機能していた。明治維新後の発展も、戦後の発展もそれを証明している。システム的障害を持ちながら何故機能できるのか?
それは神の見えざる手、道徳というものがこの国の根底にあったからだ。
“これはこういうものであろう。”という常識が幅を利かせていたのである。
お上意識もその1つである。“お上が言うことなら間違いないであろう。”良くも悪しくも役人に対して絶対的な信頼を持っていたとしか言えない。信頼というより、遺伝子レベルの体質かもしれない。
いずれにしろ、役人に対する信頼感は大きい。
信頼を裏切ってはならないと考え、そう行動していた。これが日本における道徳である。
もちろん、役人と限定する訳ではない。“大家といえば、親同然。店子といえば、子も同然”など役人・地主・お坊さん・学校の先生など徳を持っている人に価値の判断を委託することに苦としない国民性があったからだ。
信頼を失うことを恥とし、恥を受けるくらいなら、死をも選ぶほど徳が高い国民性を持っていた。
他の国であれば、騙し騙されがあたり前であり、騙すことを恥とは考えない。
しかし、日本は信頼を最高の価値あるものとして生きてきた。江戸時代であっても証文1つで大阪から江戸に買い物にいける。信頼の成せる業である。米の先物が日本で最初にできたのも信頼のなせる業である。
相手を信頼し、信頼された者もそれを裏切らないそれが道徳である。

道徳を失った日本の迷走
この信頼を裏切り続けているのが、近年の日本である。
「高速道路はいずれ国民の皆様にお返しする。」田中角栄の言葉である。(ちょっと自信がないが?)
「これは恒久減税です。」小渕恵三の言葉である。
「小選挙区における復活当選を廃止し、首相公選性に移行し、郵政を民営化する。」小泉純一郎の言葉である。
「(年金の問題を)3月までに終わらせます。」安部・福田の言葉である。
あまりにも嘘が多すぎて思い出すのも骨である。
時代的に小渕総理から小泉総理の当たりで大きな違いがあるとするならば、自分が言ったことを守らない。信頼に足らない者が総理になっている点である。小渕総理以前であれば、うそを言った時点内閣解散は免れない。しかし、近年の総理はそれを平気で裏切ることができるようになった。
“李下、冠乱さず”といわれるように上に立つものが平気で嘘をつくようになった。天が乱れるくらいだから地が乱れないわけがない。堀江モンの“グレーゾーン”が、ウケルようでは世も末だと言われてもいたしかたない。その堀江モンを“我が弟だ!”と持ち上げる官房長官がいるくらいだから空いた口も塞がらない。
法律である構造計算を無視しても採算優先でよい。年金を着服しても訴える部署もない。司法が判断しても従わない行政。行政が従わないぐらいですから司法の判断に民間も従わない。
実に日本の法律は欠陥品である。
道徳による判断が欠如した行政は法律の欠陥を防ぐことができない。
なにせ、憲法改正には国民投票がいると明記されているにも関わらず、国民投票の方法がどこにも記載されていない憲法である。
つまり、国民投票をする必要がないことが前提で制定されているのである。
“堀江モンがいうグレーゾンというものは行政のサジ加減でどうにでもなるぞ!”というものであり、道徳を規範に取り締まることは可能であった。
しかし、それが出来なるなったのは矛盾を抱える為であり、今まで見逃してきた不正を暴露できない。暴露すれば、自らの行為を否定することになる。
金銭によって腐敗した行政は、不正を取り締まることが自らの首を絞めることになりかねない。まさに行政の不手際である。
道徳を失った日本の姿、これが日本が迷走する原因である。
日本の繁栄をもたらした田中角栄という総理大臣は、不正の温床という落とし子も生んだのかもしれない。
もちろん、彼に責任があるなどとは思ってもいない。

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