2017年3月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

地球環境と温暖化対策

近年、地球環境が大きくクローズアップされているのは非常に良いことだと考えている。しかし、温暖化対策と地球環境がイコールではないことを認識されているだろうか?

私は地球環境の対策に積極派であり、化石燃料に一極依存に警鐘を鳴らすものである。温暖化対策も賛成論者であるが、2つを同じものと考えていない。

地球環境の改善は環境対策であり、生活改善を念頭においている。しかし、温暖化対策は経済活性化対策であり、抜本的に地球環境改善には繋がらないと考えている。

二酸化炭素(CO2)が地球温暖化の原因と備えているのはIPCCであるが、地球の存在する地球環境を考える40以上のグループの1つでしかない。しかし、これがもっともポピュラな団体として紹介され、しかもIPCCは驚くことに地球温暖化の原因が「『人間』が排出した二酸化炭素」の可能性が高いとしか言ってはいない。それを元に二酸化炭素をどうこうしようというのは暴論の域に達している。

これに対して東京工業大学教授丸山茂徳(まるやましげのり)氏によれば、地球の磁場の影響で「地球の寒冷化」が懸念されるといっている。詳しい話は別の機会にすることにして、相対する“温暖化”、“寒冷化”の科学的見解が存在し、結論を得ていないのが現状である。

つまり、二酸化炭素(CO2)削減が温暖化防止に役立つかどうかはまったく判らない状態である。これでは環境対策とは言えない。

氷河が溶け出していると騒いでいるが、10世紀のグリーンランドは名前のように緑の大地であり、氷河に包まれた世界ではなかった。ということは1000年単位で温暖化と寒冷化が繰り返し起こっていると考える方が妥当であろう。

つまり、二酸化炭素(CO2)削減は地球環境対策にならない。これが結論である。

しかし、エナルギー環境の一極集中、化石燃料に依存しすぎることへの懸念は多く持っている。また、シーレーンなど輸送のリスクを考えれば、社会環境に左右されない為にも、エネルギー依存の分散を急ぐ必要がある。

そういった意味を含めて、このCO2削減案を私は好意的に受け取っている。

さらに、私が懸念し続けた地域間格差、都市部と地方のバランスを取るために地域活性化とエネルギー一極依存打破という一石二鳥であるのが二酸化炭素(CO2)環境税である。

京都議定書に基づく二酸化炭素の売買は、新しい産業を生み出したと考えるべきである。つまり、地方(特に農産・山間部を多く持つ県)の農業と林業の活性化に役立つと考えているからである。農業と林業に援助金を増額することは農業保護という観点から世界的に敬遠されてきた。それをどうどうと行えるのである。農業と林業という一次産業が復活することは労働人口の受け皿を作ることになる。また、都市部から地方への税の移譲をスムーズに進行できるというメリットもある。

どう考えての都市部の方が二酸化炭素を多く排出するからだ。それに対して農産物における草や木々はその二酸化炭素を吸収する。二酸化炭素の排出と吸収に金額を載せることで都市部から地方へ税移譲が可能になる。

ヨーロッパ各国もこれを推進しているので反対意見が日本を襲うこともない。

また、新しいエネルギーへの移譲も急がなくてはならない。当面は太陽エネルギーを利用した太陽電池と太陽の熱でお湯を沸かすソーラーシステムを各家庭・ビルディング・工場への設置を促進するのが得策であろう。

ハイドロメタンなどの事業化などは石油高騰によるコスト高によって解消されつつある。

ソーラーカーへの移行に石油メジャーの抵抗を考えれば、電動機付き車椅子とママチャリーの電動化によって活路を見出すのが理想であろう。

つまり、4人乗りの電動機付き車椅子を許認可制するのである。ミニバンの小型化と考えればいいだろう。将来的には大型を検討しておけば、スムーズに移行できるであろう。

抵抗勢力として、石油メジャーにはあくまで車椅子・自転車であると言い張り、国内自動車メーカーには事業開始の資金を提供させ、後の参入を容易くしておくことがよいだろう。また、国土交通省や警察は免許制度の導入を織り込むということで権益が発生させ、妥協させるのが妥当な線であると考えられる。

しかし、回りくどい政策ではなく。素直な政策でまっすぐな日本を目差すことが理想である。抵抗勢力や既得権益まで考えなくては、今の日本では何1つ、前に進まないのが現状であるのが悲しい。

政治家の資質

“李氏、冠を乱さず”と言われるように疑わしいことをしてはならないということわざです。

元来、政治家というものは民衆の代表であり、ある意味で奉仕者である。ちょっと権力志向が強い奉仕者であります。

お上意識が強い日本においては権力者、又は知恵者と誤解されることが多く、全権委任する傾向が非常に強い民族です。

これは非常に楽な生き方であり、“あの人に任せておけばだいじょうぶ!”と責任を転嫁して生きてゆくことができるからです。それは民衆が自らの力で勝ち取った権利ではなく、当てられた権利だからであると考えています。

江戸・戦国以前は地頭と官人との間に対等な関係が存在し、“お上意識”というのは中央のみで、自らの土地は自らが護るという意識が根強く。豊臣の刀狩や家康の“士農工商”という身分制度はその力を削ぐものでした。

江戸300年は日本の民衆の気質を作るには十分な時間であったと言えます。

明治維新は武士による民権運動であり、民衆は再び権利を取り戻します。しかし、その意識を強く持っていたのは武士であり、その旧武士によって支えられたと言って過言ではありません。

太平洋戦争に敗北し、再び大衆としての権利を与えられます。これも勝者であるアメリカからです。この400年余り、民として権利を与えられるばかりで自ら勝ち取るという努力をしてこなかった。それが今の日本の現状であります。

大衆は英雄を求める。何もしないで自分達を楽にさせてくれる指導者を求めています。あのヒトラーこそ、大衆の英雄であり、ドイツの民主が生んだモンスターです。

今、日本もその危険な罠に陥ろうとしています。

強い指導力、強い実効性などと政治家の資質をいう方々がいらっしゃいますが、私はその危険性を危惧します。

政治家に必要なものは、誠実な態度、嘘を言わないこと、大衆こそが主人であることを理解できることであると考えます。

現時点では、大衆こそが主人であると訴え、その方向を共に考える人材ということになります。

しかし、大衆はそれを求めていません。自らの死刑執行にサインしていることも気づかずに声援を送っているのです。

政治家は俳優でも、歌手でも、スターでもありません。我々の代表であり、我々が選ぶものなのです。

私は自らに死刑執行のサインする機会がある民主主義を愛しています。少なくともまったく知らないところで決まっていく独裁政治や王政よりは愛しています。

“大衆は豚だ。”、“民主主義とは、豚を飼うシステムだ。”と罵りを受けないように努力してゆくしかありません。

腐敗する日本(6)

すべてを腐敗してゆく!
小泉総理は竹下産業・財務大臣を腹心に行政改革を断行した。私も小泉自民党総裁戦では応援させてもらった。しかし、総理大臣になると彼の主張は一変した。信頼と信用を一切持たない総理と私は評価している。道徳も仁義もない力だけが正義という世界を創造した。結果として、日本に最後に残っていた恥という言葉を一掃し、我が物顔で暴走する経済人を発生させた。官僚は不正を不正でない法律を改正し、自らの横領を堂々と行うようになっていった。日本の番人である司法も行政不介入を決め込み、その身の安全を図る。それが小泉時代であった。結果として負の遺産を多く発生させ、次の者に押し付けて逃げ出した。安部・麻生コンビは日本の再生を図ろうとしたが、官僚の抵抗によって撃沈した。その流れに乗って出てきたのが福田総理である。医療不正・年金・ガソリン等溢れる出す問題に、野党の反対で巻き起こる自衛隊・暫定税率・日銀総裁問題を併発した。
どうやら官僚や議員の皆様は、状態の維持を望んでいるようである。物価の上昇で国民が苦しんでいる現状で、増税を平気で叫ぶ議員・官僚はすでに平行感を失っている。
経済を知らない彼らが日本を崩壊の道へ導くのは当然の回帰である。
第2次世界大戦の勝者であるソ連は自由競争による経済の活性化を行えずに崩壊した。日本も経済の活性化に寄生することで阻害している。現在のシナリオでは、貧富の差を拡大することによる日本再生か、経済崩壊による破産の2つしかない。阪神大震災のおり、暴動が1つもなかったという良心は崩壊してゆくだろう。米騒動のような暴動が起こることは現状のままでは防ぎようがない。世界は再び動乱期へと移行してゆく。
あなたは他者を蹴落として、生き延びることができるだろうか?
それとも立ち上がって、すべてを清算することができるだろうか?
いずれにしても困難な道しか残っていないようだ。

余談だが!
文芸春秋6月号に、自民党の与謝野馨・麻生太郎両氏の政策提言”大きな政治”を読んで残念に思った。
腐敗する日本(6)は書くつもりはなく。(5)で終わりの予定であったが、これは追加である。
比較的経済が判っていると思っていた麻生氏が与謝野氏を持ち上げている。
増税そのものを反対とは言わない。
しかし、現在の官僚構造を残しつつ増税するのは、穴の開いた鍋に水を注ぐのと同じである。
現在の不正や不備を洗い出し、大きく構造を改革する必要がある。
特に議員の判断に国民の目が届くようにすること、官僚の昇進を変革に失敗したもの、何もしないものを降格し、、変革に成功したものを優遇する実績重視に変更することと、給与の一部を30~50年間人質として預かる制度を創設する必要がある。今、成功しているように見える改革も10年のスパンで見れば失敗かもしれない。その責任を取れとは言わないが、全体責任として政府に預けているお金で補填する制度は必要である。

しかし、政治の世界は当然の感覚が通用しないらしい。
国民的人気の麻生氏より、官僚にとって都合のよい与謝野氏と中川氏が有力らしい。今回の対談は事実上の麻生氏の敗北宣言とも言える。ま、長い目で見れば、与謝野氏を総理にして、次を狙う方が近道ということであろう。もちろん、チャンスがあれば、直接狙うだろう。
しかし、しかしだ。経済不況を起こしている時点で、これ以上の改革はできない。増税も必要であるなどという官僚にとってありがたい人が総理候補に名前が上がるとは、国民というものをどこまでも無視してくれると言いたい。
日本というかたちを考えない。政・官・財の皆様は自分の欲だけにひたむきな方々だ。これで日本が崩壊しないほうが不思議だ。

ところで!
最近、常々思うことだが、地域住民で政治立候補者の討論会を企画できないだろうかと考えてしまう。
立候補するにあたって障害となるのは知名度の低さだ。
数~数十回の討論会を行い。その人の経済論・政治感・政策を論議し、最終的に優勝者を推薦者とするような討論会ができないだろうかと考えてしまう。
テレビ局や新聞社がつけば、予算的には問題なくなるが、地方の議員の数を考えれば不利である。
やはり、地域の応援が必要である。

あくまで例である。
インターネットで立候補予定者を集い、経済論・政治感・政策を課題ごとにネットで議論してもらう。討論会支援者には1票(3票)を持ってもらい本選出場者を選んでもらう。5人から10人の立候補者を各地域の会場に呼んで議論を行う。同じ議論が行われないように議論内容にテーマを設けておく。また、時間は討論を半分、質問応答に半分を当てるのが良いだろう。もっとも質問がない場合の用意はしておく。会場に来た方は1票の権利を持つはがきを渡す。こうして、来客者と支援者の1票の最高点を獲得した人物を推薦者として立候補必要費を無料で貸し出す。
最終的には、自民党・民主党・その他の党の推薦者の参加を呼びかけ、会場の討論を公約として約束してもらうように署名させる。
少なくとも討論に参加した議員は政治・経済・諸問題について勉強することになり、無知で議会にいくことは避けられる。また、国民の政治意識を向上できる。

さて、さて、どうやって実現するか?
これが私の悩みである。

腐敗する日本(5)

教育こそ国の要
戦後60年間、日本の教育は迷走を続けている。
近年、安部首相になってこのままではいけないと考えたのはいいのだが、文部省がこうあるべきと指図するのはお門違いだ。
司馬遼太郎の回想の中で戦争に負けたことにより、今までの価値観が一変し、自信を失ったと書かれている。そして、日本人を見つめ直す意味で歴史を検証し、それを小説にされた。その中で日本人としての自信を取り戻していったと書かれている。
しかし、戦後作られた教育システムは理念・思想において欠如したままである。また、ゆとり教育などと言って、教師が堕落したのでは本末転倒である。
本来のゆとり教育とは、土日を利用してピクニックや自然公園での植物等の観察、地域の探索等々様々な活動をする時間に割り当てなければならなかった。夏ならスイミングも良いだろう。冬なら野球、サッカー、バレー、スキー、剣道、柔道、相撲等のスポーツでも良いだろう。個人的には頭脳スポーツと呼ばれる将棋や碁を奨励したい。
いずれにしろ、詰め込み授業と呼ばれた教育を見直し、その他の分野を伸ばすことは非常に良いことだと思われる。
しかし、実際はそうはならない。
受験システムを変えなければ、その余分な時間は塾に割り当てられるだけである。教師はマニュアルが強化され、上司への報告書類が多くなり、肝心の子供との時間が減っていった。何を考えているのだろうかと常々思っていた。
仮に受験システムの一部を改正し、国公立に入学する際、スポーツ点や言論点、芸術点、頭脳スポーツ点が加点されるとなっていたらどうだろうか?
各部門で全国大会に出場した者に50点が加点され、金・銀・銅にはさらに100・50・30点が加点されるなどとなっていたらどうだろうか?
野球で50点、美術で50点(二年連続で計100点)、囲碁優勝で50点+100点、合計300点が加算される。
センター試験が700点であれば、加算され1000点になる訳だ。東大・京大であっても2次を頑張れば入学できることになる。
もちろん、そういうシステムが良いと言っている訳ではない。
ただ、教育改革というのであれば、受験システムに手を付けない改革は改革の名に値しない。結果として、ためだめ日本を構築したと言わざる得ない。
落ちこぼれを助ける為に、補修をした新米教師が先輩教師に叱られる。
「君がすると、私まで迷惑が掛かる。」などと言われる。教師が生徒の面倒を見ないなら教師ではない。しかし、似非教師が日本に蔓延っている。
そういった教師に育てられた親が常識を知っている訳がない。
60年間のツケが日本のモラルを破壊する。
学力を教えるのではなく、常識を、道徳を、生きていく知恵を教えるのが教師である。教師とは人間を教える特化した専門職のことである。子供と接触しているがゆえに、子供にしつけを教えることが優秀な人材でなければならない。
学力を教えるだけであれば、親の方が優秀な場合も多々存在する。教師のすべてが東大卒ということはありえない。
しかし、教師は勉強を教えるものだと勘違いしている教師・親・文部省の役人がいる。
勉強を教えるだけであれば、学校などすべて潰し、塾のみにすればよい。効率的である。
いずれにしろ、道徳を教えることからやり直すことが必要である。

本当のゆとり教育
私はゆとり教育の賛成論者である。ただ、飛び級も必要であり、後追い級も必要だと考えている。
仮にテニスが優秀な子供がいたとする。テニスの適齢期は15~18才と言われており、5才から始めなければならないと言われる。5才で才能があると思われる児童には本人の希望でテニス中心の授業構成が出来るゆとり教育が必要である。児童の学力に応じて後からサポートする体制が必要なのである。追いつく為には飛び級も必要である。
また、数学が得意な子供が10才で大学に入学しても良いのではないだろうか?
また、年齢に応じて、社会教育をする機会があるのがよいと考えている。
小学低学年程度なら土日は社会見学である。
小学高学年程度なら林間学校・(サマー)キャンプ・体験学習である。
食事を用意してくれる林間学校ではない。寺など掃除、まかない、蒔き割りなど厳しさを教えてくれる1週間程度の学習がよいだろう。仕事をしない場合は食事抜きなどの厳しさを知らしめることが重要だと考える。
次に、サマーキャンプは無人島などでの自給自足生活がいいだろう。住まいと米を別として、水、火、塩、調味料、食料を取る努力などの文明を忘れる1週間の経験が必要だと私は考える。あることが当たり前だという考え方を一度は正す必要があると考えている。
最後に田舎での暮らしである。1ヶ月程度、夏休みすべてといっていいだろう。卵を取り、作物を耕し、川で魚を取り、山で山菜を取る。時には神社で夏祭りを楽しむ。自然との共存、一度は体験しておくと人間の深みが増す。そして、最後のとりはにわとりや牛の解体である。我々が何を食べているのか?
それを教える必要がある。気分が悪くなる子もいるだろう。トラウマになる子もいるだろう。しかし、我々は何かを食さなければならない。そのことを教えることはとても重要だと考えている。
中学生程度以降はそれぞれの進むべき道をその余暇に当てることが望ましい。
いずれにしろ、ゆとり教育とは教師が子供を指導するという特化した能力を育て、継承してゆくものだと私は考える。
少なくとも勉強を教えるだけの存在では意味がない。
今、ゆとり教育が否定され、詰め込みが復活しようとしている。
本当にそれでよいのだろうか?
少なくとも現在の先生がゆとりの教育よりはマシではあるが、それが正しいとは思わない。また、違う答えもあると考えている。

いずれにしても、子供をどう育てていくかを真剣に議論した答えに間違いはない。

なぜなら、間違ったと感じるものはすぐに過ちを正してゆくものだからだ。

一方、地位や名誉、威信などをこだわる人が考える子供の未来は歪んだものになってゆく。今、教育現場で子供のことを真剣に考える教師が、関係者が、どれほどいるのだろうか?

私はそこを問いたい。

現在の日本は私の父や母、祖母が作った日本である。

未来の日本は子供たちが作ってゆく。

今、私達が真剣に子供のことを考えなければ、私の考える未来は存在しない。

子供たちが日本の未来なのである。

腐敗する日本(4)

大きな勘違い、お上意識
明治維新前まで民は支配されるものであった。
上杉鷹山のように民は国の礎と考える朱子学も多くいたが、侍の大半はごまのようなものと考えていた。つまり、“絞れば絞るほど油が取れる。”である。
役人は支配者の代行であり、支配者そのものであった。
明治維新によって、民は天皇にとって等しく権利を与えられたものとなった。よって、民の代表の議員が国政を預かることになった。役人は監督する権利を授かった者へと移った。
しかし、“お上意識”は取れず、“オイコラ警察”と中傷されるように虎の威を借る狐のごとく我が物顔であった。
さて、戦争に負けて我々が得たものは何だろうか?
それは人権である。
つまり、国の主人様になったことである。役人は監督から使用人へと格段にクラスを下げた。役人は奉仕するものへの変わったのである。
ただ、戦後復興を成し遂げたのは企業家と政治家と官僚である。彼がそれを誇りに思うことはよい。それだけのことをしたと私も思っている。
しかし、使用人は使用人である。彼らはそれを忘れている。
侍のごとく、“お上意識”を持って、いや、勘違いをして現在に至る。
我々の代表者である議員殿が仕事をしない為にであり、役人を放置してきたツケが回されている。
タライ回しなどという言葉ができるほど、サービス精神を失った彼らは国家の癌と成り始めている。発病すれば、国家の転覆は免れないであろう。大きな勘違いのツケが回ってきた。

道徳に支えられてきた日本
日本の法律とは、欠陥だらけのシステムである。しかし、今までは問題なく機能していた。明治維新後の発展も、戦後の発展もそれを証明している。システム的障害を持ちながら何故機能できるのか?
それは神の見えざる手、道徳というものがこの国の根底にあったからだ。
“これはこういうものであろう。”という常識が幅を利かせていたのである。
お上意識もその1つである。“お上が言うことなら間違いないであろう。”良くも悪しくも役人に対して絶対的な信頼を持っていたとしか言えない。信頼というより、遺伝子レベルの体質かもしれない。
いずれにしろ、役人に対する信頼感は大きい。
信頼を裏切ってはならないと考え、そう行動していた。これが日本における道徳である。
もちろん、役人と限定する訳ではない。“大家といえば、親同然。店子といえば、子も同然”など役人・地主・お坊さん・学校の先生など徳を持っている人に価値の判断を委託することに苦としない国民性があったからだ。
信頼を失うことを恥とし、恥を受けるくらいなら、死をも選ぶほど徳が高い国民性を持っていた。
他の国であれば、騙し騙されがあたり前であり、騙すことを恥とは考えない。
しかし、日本は信頼を最高の価値あるものとして生きてきた。江戸時代であっても証文1つで大阪から江戸に買い物にいける。信頼の成せる業である。米の先物が日本で最初にできたのも信頼のなせる業である。
相手を信頼し、信頼された者もそれを裏切らないそれが道徳である。

道徳を失った日本の迷走
この信頼を裏切り続けているのが、近年の日本である。
「高速道路はいずれ国民の皆様にお返しする。」田中角栄の言葉である。(ちょっと自信がないが?)
「これは恒久減税です。」小渕恵三の言葉である。
「小選挙区における復活当選を廃止し、首相公選性に移行し、郵政を民営化する。」小泉純一郎の言葉である。
「(年金の問題を)3月までに終わらせます。」安部・福田の言葉である。
あまりにも嘘が多すぎて思い出すのも骨である。
時代的に小渕総理から小泉総理の当たりで大きな違いがあるとするならば、自分が言ったことを守らない。信頼に足らない者が総理になっている点である。小渕総理以前であれば、うそを言った時点内閣解散は免れない。しかし、近年の総理はそれを平気で裏切ることができるようになった。
“李下、冠乱さず”といわれるように上に立つものが平気で嘘をつくようになった。天が乱れるくらいだから地が乱れないわけがない。堀江モンの“グレーゾーン”が、ウケルようでは世も末だと言われてもいたしかたない。その堀江モンを“我が弟だ!”と持ち上げる官房長官がいるくらいだから空いた口も塞がらない。
法律である構造計算を無視しても採算優先でよい。年金を着服しても訴える部署もない。司法が判断しても従わない行政。行政が従わないぐらいですから司法の判断に民間も従わない。
実に日本の法律は欠陥品である。
道徳による判断が欠如した行政は法律の欠陥を防ぐことができない。
なにせ、憲法改正には国民投票がいると明記されているにも関わらず、国民投票の方法がどこにも記載されていない憲法である。
つまり、国民投票をする必要がないことが前提で制定されているのである。
“堀江モンがいうグレーゾンというものは行政のサジ加減でどうにでもなるぞ!”というものであり、道徳を規範に取り締まることは可能であった。
しかし、それが出来なるなったのは矛盾を抱える為であり、今まで見逃してきた不正を暴露できない。暴露すれば、自らの行為を否定することになる。
金銭によって腐敗した行政は、不正を取り締まることが自らの首を絞めることになりかねない。まさに行政の不手際である。
道徳を失った日本の姿、これが日本が迷走する原因である。
日本の繁栄をもたらした田中角栄という総理大臣は、不正の温床という落とし子も生んだのかもしれない。
もちろん、彼に責任があるなどとは思ってもいない。

腐敗する日本(3)

官僚を悪くいう理由

私はかなり、ずいぶんと官僚のことを悪く言う。
それは良くも悪しくもこの国を動かしているのが官僚だからである。
平安末期、源平が生まれた頃より、この日本は宰相と呼ばれる人物が政治の実権を握ってきた。時の流れに形を変え、その実権は常に移っている。今の日本は法律的に宰相は内閣総理大臣である。その人と議会の過半数を持っているものがこの国の支配者である。
しかし、その支配者が犬将軍なのである。そのブレインである柳沢が官僚の役割となっている。私の推測する所、内閣総理大臣田中角栄までがその実力を持ち、それ以降は実権が移ったようである。
もちろん、それは戦後復興という目的に一貫性があったことが要因で大きい。
日本の支配者の実権が移った要因は支配者が大勢過ぎることである。これは暴走を防ぐには有効な手段ではあるが、意思決定が鈍化する欠陥がある。時代の変化が激しい時代には不向きな形態であると推測する。

それは1つの理想です。

私が思うところでは、国民全員で選ぶ50人と各都道府県の代表である一名で構成する衆議院100名と憲法改正時のみ有効票を有する参議院100名で十分である。付け加えるなら参議院に優秀とされる(内閣総理大臣経験者、人間国宝、国民栄誉賞受賞者等々の)人物を特別参議員として恒久に一票を持つ者がいても良いと思われる。もちろん、参議員の必要経費は国費として支給されるが、基本的にはボランティアである。
つまり、実行支配の衆議院と知的判断者である参議院の役割と分担するのである。
選挙形式では、選挙の立候補は各都道府県で当選した者が全国で立候補する形式とし、各都道府県では合計2期(8年以内)しか在任できないものとする。
また、選挙は4年に一度とし、補選は辞任者の在任期間のみの補選とする方がよいだろう。もちろん、総解散も補選と同じ扱いである。しかし、連発されると堪らないので、国民投票と簡易国民投票を原則的に導入することをお勧めでする。ここでいう簡易投票とは一定期間に役所に行き、自分の意思を示すというものである。そのとき必ず、その判定項目を認めるか認めないかを問うことが必要である。
郵政選挙を思い出してほしい。
郵政の民営化が必要か?不必要か?
民営化が必要と考える方が圧倒的に多い。しかし、制度に不備があり、現行の移行には反対という方には投票する場所がない選挙であった。つまり、骨抜きの民営化ならいらない。むしろ、多くの国民が預けている預金が心配になるという方の投票する場所がなかったのである。これは国民投票を行う際に必ず起こってくる問題である。それゆえに判定項目を認めるか認めないかという判断基準が必ず必要になってくる。認めない人間が過半数を超えた場合は判定は無効となり、項目の変更と再投票が行われるというのはいうまでもない。

肝心な事は実権の移譲と移譲先の腐敗防止

これは官僚から政治家へ実権を移行する為の最初の1歩でしかない。
つまり、議員人数を減少させることでその実権を実質拡大し、地方では2期という制限を設けることで8年に1度の割りで世代交代が行われることになる。さらに上位の50人は常に新人の台頭に気を配り、国民主体の政治を要求されることになる。逃れる方法は特別参議員になるしかない。もちろん、参議員になったものが衆議員に戻れないというルールは必要だ。
参議院の数が膨大になると突っ込まれそうなのであえていうと、参議員には秘書や特別手当を設けない、特別待遇がないことが前提である。但し、国勢調査権を有し、自腹で調査する分には問題ないようにする。奉仕の心で、または、趣味で調査できるようにしておこうという考え方だ。交通費のみを国費と考えるといい。

私もこれがベストとは考えていない。ベターな選択の1つ

もちろん、これは1つの例であり、その他の選択も沢山存在する。

立場が違えば、考え方も違いだろう。

また、国民に判断させることに疑問を持つものをいるだろう。

人以外に判断を委ねるなどという大胆な方もいられるだろう。

いずれにしろ、今の日本は政治構造が耐久年数を越えており、補強か改修が必要である。

腐敗する日本(2)

日本が腐敗した原因は大きく3つあると考えています。

もちろん、細かく観察すれば、多々あることは明確です。しかし、その根幹は3つだと考えていると言っているのです。

1つ目は教育です。これは60年間のツケが今の日本の腐敗の原因です。

これはまた後で語りたいと考えております。

2つ目は行政区分です。監督省庁、既得権益がその要因です。

3つ目は行政システムです。

これでは官僚が日本を腐敗させていると言っているようではないか?

その通りです。

日本を腐敗されているのは官僚そのものなのです。甘い蜜がそこにあるので多くの亡者がよってきます。それを監視するべき政治家までよって来てはもう機能しません。

また、行政がなければ、経済の発展は市場経済に移行し、大きく発展できます。しかし、その発展には限界あり、弱肉強食によって貧富の差が大きくなり、いずれは崩壊します。

逆に、管理される市場経済が弱体し、活気とでもいうべき競争力を失い経済が破綻します。

それを管理し、バランスをとるのが行政の行う仕事なのです。

市場経済の邪魔をしないように、アンバランスに対してのみ力を酷使する。これがあるべき姿と考えております。

さて、振り返って見れば、日本はどうでしょうか?

行政区分が存在し、問題があるたびに拡大するばかりです。

病院の患者に例えるなら、

怪我をして入院したら最後、退院されてもらえなくなった。

最近の例、暫定ガソリン税です。一度手に入れたものは離さない。

グリコ事件などで食品の安全基準に検査権を持つと、食品安全監視の公団を作り、天下り先にする。しかし、企業の安全性が確保されたのちも存続し続けます。

住宅公団などもそうです。

必要なものを構築し、不必要になれば解体する。これを怠れば、がん細胞のように増殖し、遂には機能自身に悪影響がでくる。それが今の日本なのです。

3つ目の行政システムは、単純に言えば、減点方式の悪影響です。

ロサンゼル五輪を記憶されている方は覚えているでしょうか?

最高得点の10点満点が連発しました。

最高の演技を見られたと誤解される方もいますが、C難度の技とD難度の技の得点が同じ為により完成度の高い技が求められた大会でした。

より難しい技をするより、簡単な技で満点を取ることのできる大会でした。

結果として、大技がなくなり、見ているものががっかりする結果となりました。向上力が失われ、完成度のみを追求することの危険性を指摘した大会でした。

現在は、より高度な技には加点ということで10点を越える得点になっております。向上心が復活し、完成度と大技の組み合わせが重要になっております。

日本の行政が古来より減点方式でした。ただ、経済復興の際は政治家が大鉈を振っていたのでその欠点が補われおりました。

今はその政治家がいなくなり、官僚におんぶにだっこの状態です。

減点方式ですから、多くの官僚は行サービスという認識がありません。お上意識が存在するだけです。

より市民や地域にサービスをしても加点されることはありません。行政の不備を指摘して、改革しても加点されることはありません。

結果として、既存のことを継続し、失敗しないことを求められます。

これが行政システムの欠陥です。

そして、上の行政区分の拡大とあいまって、既存の作業を継続し、より多くの権益・予算を得たものが優秀であると考えるようになったのです。

彼らに予算を縮小するという意識はありません。

評価の過程を変えない限り、現状打破は難しいでしょう。

現在の近道は?

渡辺大臣が提出している行革法案を通過させることです。

まだまだ不備はあり、物足りないものですが、官僚の人事権を政治家が握ることは重要です。

行政区分の廃止と行政の減点方式の廃止を主張する者を高い地位に付けることできっかけを作ることができると考えております。

廃案にならないことだけを祈っております。

腐敗する日本(1)

日本が民主主義の国家だと思っているかたは間違いである。
民主主義型官僚国家、または、民主主義型社会主義国家である。
何か問題があるたびに監督省庁の権限を拡大し、ほとんどすべてといっていいほどの分野で権限を持っている。
その特権意識が無意識であるがゆえに民主主義の体裁が残っているだけであり、彼がそれをフルに活用すれば、旧ソ連と同じである。
彼らはすでに旧ソ連の赤と同じ特権を有しているのである。
警察が誰かを逮捕する場合、道路交通法にしろ、その他の条例にしろ、雁字搦めになっている。
しかし、それを今までは、基本的人権、市民の権利保護という民主的な認識で使用することはなかった。
日本赤軍、学生運動、オウムなどの新興宗教についても捜査が後手になったのは相手の人権擁護という観点があったからだ。
しかし、その最後の砦ともいうモラルを失いつつある。
五輪や中国首相の訪問がそれを露呈したと言わざるいえない。
問題起こることを承知で、中国・チベット双方を受け入れるのが今までの日本の態度であった。また、マスコミも双方の観点で騒動を煽るのを認めていた感がある。
基本的人権・放送の自由
たてまえが許された聖域であった。
それが崩された。
たかじんのなんでもいって委員会の辛坊の話が本当だとしなら、「中国人とチベット解放運動家の間で騒動がありました。よし、(中継を)まわせとディレクター、しかし、テレビが回ってこない。」
何らかの力が働いているとしか言えない。
五輪リレーでフリーチベット派が排除されたこと、奈良でチベットの旗を持っていた女性が拘束されたこと、
明らかに権力者の意図が反映された行動である。

同時に、一般の人が苦しんでいる生活に対して、公務員が優遇される事実が浮き彫りになってゆく。地域住民における警察の取り締まりは強化され、駐禁やスピード違反などの軽犯罪が強化され、殺人などの凶悪犯の検挙するが低下している。凶悪犯の取り締まりより、軽犯罪の取り締まりが楽だからだ。
世界的な食料難になると推測される中で、米の減反政策は今年も継続される。
政治家は自らの就職に貧窮し、日本の未来を見ていない。
今はまだ市民が政治に目を向ける余裕がある。
しかし、次に危機が襲ったときはどうだろう。誰もが生きてゆくために政治に気を取られる日々を送ることができるであろうか?

自衛隊はまず、市民に銃を向ける訓練をする。暴動を防止する訓練である。そうならにことが日本の誇りであった。
阪神大震災であっても暴動らしいもすらない自制心が効く国民であった。
はたしていつまでそれが許されるのだろうか?
私はそれを見たくない。

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »