活学とはいかに?
活学、未だに答えが出ていない1つである。
博学は判りやすい。言い換えれば、図書館みないなものであり、知識の集積所である。才ある方は多くの記憶を保存したままで生活できるが、一般的にはその一部を記憶し、その他の多くは欠落していくことになる。さもいう私もその一人である。
誰が言ったかは忘れたが、「メモとは忘れない為のものではなく、忘れることをできるようにする媒体である。」この言葉聞いてから、メモを取ってものは忘れていいのだと考えられ、記憶の媒体を外部に持つ者だと考えるようになった。
パソコンも同じで、パソコンに書いた文章は多くの細部を欠落させていいのもだと考えることができるようになり、結果的に多くの記憶を保有することができるようになった。
次は、読んだ書籍を簡素化した目次・感想をまとめていきたいと考えている。
しかし、これらの行為は、博学量を増加する行為であり、活学とは関係ない。
文字で表現するなら、博学として得た知識を分解・整理し、生活や社会に役に立つように再構成したものが活学である。
しかし、まだ判らない。活学とは何なのだろうか?
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