言葉のキャッチボール(1)
「言葉のキャッチボール」とは、会話をすることではありません。相手のことを知るという作業のことであり、永年付き添った夫婦が「おい」、「あれ」の2つで不自由することなく生活できることこそ究極のキャッチボールです。(以心伝心というものです。)
クロフネさんのサイトに掲載されていた「KなんてYめなくていい」(K(空気)Y(読めない)で、社会の空気を読めない困った人)では、究極のキャッチボール(空気を読む)が必要ないと説いていました。
つまり、日本では残っている“空気を読む能力を重要視する文化”は文化・宗教・言語の異なる世界では無用だといっているのだ。言うべきことをはっきりと伝えることが重要であり、あいまいな返事や相手に察してもらおうことを期待することを咎めている内容になっています。
概ね私も同意見です。
詳しい内容が知りたい方は一度ご覧になられることをお奨めする。少し長いが欠点ですが、よく整理されているので判りやすいサイトになっていると思います。
私はこれを読んでいる間、昔の事を思い出し感慨深く考えさせられた。
今日は何を思い出したかを詳しく述べようと思っています。
言葉の限界・言葉の不連続
私は前振りでおかしなことを言いました。
言葉のキャッチボールを賛辞しながら、KYを否定するサイトと同意見であるといいました。明らかな矛盾です。この間にあるものは何か?
言葉に対する理解力です。
国語力のことを言っている訳ではありません。
言葉には1つ1つのイメージが存在し、相手が言った言葉にどんな意味があるかを理解できなければ、本当の意味は理解できないのです。
文化・宗教・言語はもちろんですが、出産地・地域環境・家族・先生・兄弟・友人・収入・各々の思想・趣味などすべてが1つの言葉を作るファクターになっています。
・簡単な例を1つ上げます。
赤色を想像してみて下さい。
あなたにとって赤から想像できるものは何でしょうか?
喜びですか。楽しさですか。悔しみですか。恐怖ですか。
戦地から帰って来た兵士が見れば、血の赤であり、恐怖・殺戮・悲鳴など悪寒を感じる象徴かもしれません。同じ血でもボクサーの子供で父親が王者なら額から流れる赤い血は歓喜と誇りと強さの証明であり、勇気の象徴かもしれません。赤いバラを愛する母親からもらった赤いバラなら喜びや安心の象徴かもしれません。
あなたにとって赤は何の象徴を想像しましたか?
つまり、赤という言葉を覚える過程の経験が言葉を認識しているということなのです。
相手の発している言葉の1つ1つにどんな意味があるかを知るなどということは不可能です。相手の話を完全に理解しようなどということがいかに困難かをご理解できたでしょうか?
外国人なら尚のことです。
何気なく使用している“空気を読む”という行為は、実は限定的に使用されており、ほとんどが誤解か、身勝手な解釈で話を進めていることが多いのです。ただ、その違いに気づいてもあいまいのまま放置できる民族性があるのであまり表面化しないだけなのです。
1つ1つの言葉を理解できない。
会話において、相手を想像することで理解しようとしている。
言葉で表現するには限界があり、自分と相手の間に成立する会話は同じ意味を成さないかもしれない。
これが表現する「言葉の限界」であり、言葉から想像する共有できない会話の「言葉の不連続」であります。
もちろん、単純な言葉ほど共有率は高くなり、複雑な言葉ほど共有率は低下します。
「言葉の限界」を理解することが無用な“周りの空気を読む”という行為を避ける第1歩です。次のステップ、会話を理解するへと繋がります。
《ここから少し思い出話をさせて頂きます。》
言葉の限界を思い知らされたのはやはりこの経験です。
小学生2年の頃、「人間網の目の法則」という国語の文章に出会いました。
「人間は隣の人と繋がり、隣の人はさらに隣の人に繋がり、そのまた隣の人はさらに隣の人に繋がってゆき、人と人はまるで網の目のように世界中の人と繋がっているのです。」のようなことが書いてあったと記憶しています。
私はまだ見ぬ世界の裏側の人と繋がっていることに感動しました。
何に感動したのかは今は思い出せません。とにかく感動したのです。
しかし、その他の同級生は感動などしていません。
私は多くの人にその話をしました。
でも、友人も大人も感動を分かち合うことはありません。
いろいろは事をいったような気がします。
「ぼくが隣の人を親切にして幸せにすれば、隣の人も親切になって、隣の人がそのまた隣を親切にすれば、そのまた隣に繋がって、世界中の人が幸せになるんだ!」
小学生が表現できる言葉には限りがあります。誰がに感動を伝えることができる訳がありません。
しかし、当時の私はたくさん悩みました。
どうしてこの感動が伝えられないかを何度も何度も繰り返し試して悩みました。
「おまえの表現はとっぴ過ぎる。」、「話が大きすぎる。」、「わからんからもういい。」など会話として成立しないことが多々経験させられました。
言葉の表現が追いつくまで8年以上も掛かったのは非常につらいことでした。
“人と人は繋がっている。複雑にまるで螺旋のように、くもの巣のように、網の目のように、人と人を結び付ける。奇跡は一粒の祈りから発する。”
(奇跡は一粒の祈りから発する:これはたしかキリストの言葉の引用だったと記憶しています。)
《上を要約すると:正しいと思うことを正しいと叫ぼう。いつかそれに賛同した人々が大きな胎動を生むに違いない。私はそうなることを信じて疑わない。人はどこかで繋がっているのだから。》
こう思い起こすと「人間網の目の法則」は、どこまでいっても私の根幹を成す言葉だなーと感慨に触れてしまいました。
(“KなんてYめなくていい”を読みながら、思い出していたこと)
次回こそ、 「言葉のキャッチボール」まで書きたいと思います。
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