2008年7月17日 (木)

警察は大丈夫か?

今日、定年を5年後に控える中堅の警察官と話を持つ機会があった。

「最近の若いものは考えようとしない。」と嘆いていた。

最近の若手警察官は言われたことに、ロボットのように忠実に仕事をする。

もちろん、これは褒めている訳ではない。

事情聴取に行けば、通り一辺倒の質問をするだけでその人を見ていない。

住民苦情から交通取締りに行けば、違法者の取り締まりだけ行う。

住民からの要望に対しても、「ルールですからできません。」と無情に断ってしまう。

とにかく考えない。

判らないときは携帯で電話をして指示を仰ぐ。

現場にいる人間が、現場にいない人間の指示で動くには限界がある。

一言でいうならば、「ケースバイケース」に対応できない。

これが今の警察の実情である。

たとえば、住宅での駐車違反

レッカー車に乗車して、10分経過した時点で撤去する。

警告のチョークを引いて、悪質の駐車違反者を取り締まるのではない。

たまたま駐車していた車が狙われるのだ。

だから、電気屋や宅配便の車が移動される事態になってしまう。

12階の住宅の最上階から戻ってくるのに10分では可哀相だ。電気屋も災難だろう。

また、

住民の通報により、小学校の通学路の安全確保の為に、車の一時停止を徹底する。

一時停止義務違反の切符を切っている間に、ほとんどの他の車が次々と通過してゆく。

すべての車に警告のみ行なえば、ほとんどの車に警告できるのにも関わらず、違反キップを切ることを優先する。

児童の安全が優先なのか?

違反を取り締まることが優先されるのか?

彼らは考えない。

言われた仕事を行なうだけで、その効果とか、目的を考えないで行動している。

私が思うに、中堅の警察官の不安は住民との協力関係ではないだろうか?

住民と警察の間にある見えない絆が失われることへの不安を持っていた。

たしかに、

昔はお祭りの巡回中の警察官に、

「ちょっと1杯どう!」

「言わないでくださいよ!」などと言って、1杯だけもらっていく警察官が多くいた。

それほど親しみを感じていた。

“警察は市民を守るもの”と誰も信じていた。警察官自身もそう感じていた。家の事情まで相談事にいくのも日常茶飯事であった。それに答えていた警察官は実に偉かった。

今は民事不介入で、呼び出されれば行くが、親身になって相談にのってくれる警察官はいない。いや、できないのだ。

私は不安に思う。

警察への協力する市民は年々減少している。警察に関係すると無用な時間が掛かるからだ。それに対して、市民への協力体制が希薄だ。むしろ恨みを買っていると言ってもよい。信頼が崩れかけているだ。

町の人間とそれ以外の人間を見分けることのできない警察官に、町を守ることができるのだろうか?

誰が見ても不審者とわかる人以外(これも少し怪しい)、不審者が見分けられない警察に、地域が守れるのだろうか?

普段から不信を植え付けている警察に、地域と協力できるのだろうか?

町を守ろうという意識のない。地域と共有感を持とうとしない。何も考えない警察官はサラリーマンと同じではないか?

時間から時間まで仕事を行い。給料を貰う。サラリーマン警官に我々の未来を守ることができるのだろうか?

今、現役の中堅が退職した警察はいったいどうなってしまうのか?

不安としか言いようがありません。

PS.その中堅警官からのアドバイス

警官に質問されたとき、自分に不利になる言葉はしゃべらないで下さい。

「聞いてしまった以上、どうすることもできない。」

今の若手の警察官には、人相や態度からその人がどんな人か考えない。聞かなかったことにしよう、見なかったことにしようという配慮がないのでようです。つねに、機械的に作業を進める。

つまり、警察官と話すときは自分に都合の良いこと以外は話さないのがいいということでしょう。

裁判で自分に不利なことは話さなくてもいいと聞いたことがありましたが、これからは警察もそうだと勉強させられました。中堅の警察官もご苦労が多いようです。

2008年7月15日 (火)

竹島は韓国領?

中学の教科書に政府は14日の会見で竹島の日本国領土との明記を避けた。

予想通りの反応である。

国内的には日本国領土といいながら、不法占領を非難せず、何ら対抗処置をすることなく外交を続けている。日本、偉いサン方の頭の中では日本国領土なのだろう。

しかし、国際的に見てどうだろう。

不当占領に抗議せず、相手国に譲歩して、教科書にすら明記しない。

これを領土の譲渡と見られる行為ではないだろうか。

また、実行支配という意味では、1952年、李承晩ラインによる侵略による搾取と以後の調停と取られかねない日本の態度である。

正当なことをはっきりと主張し、ぶつかいあい、それから譲歩を引き出す。

韓国の歴史教育では江戸時代から第二次世界大戦後までの間違った歴史がいまだに繰り返し教えられている。この是正がまず日本がやらなければならない問題である。

可能な限りマスメディアを利用し、日韓の歴史感の是正こそ第一歩である。

教授同士が密室で協議していてはいけない。

韓国の主張を受け入れるか?入れないか?

これは日本国民の問題である。日本の歴史がおかしいと思えば、受け入ればいい。韓国の歴史がおかしいと思えば、断固拒否である。

経済的な国交断絶も覚悟する必要がある。

要するに、国内と海外に対するダブルスタンダードを取る日本政府の態度が問題なのだ。

2008年7月 3日 (木)

青パト

今日は大阪市の現状を1つ

児童無差別誘拐・殺傷などの事件を受けて、青色パトロールという青い点滅灯をつけた車がパトロールをしている。

それほどの効果は期待できないが、市民で子供たちを護っていこうという現れである。

しかし、これに水を差すの警察である。

学校への通学路には歩行者専用道などもある。当たり前の話だ。

この青パトが歩行者専用道の通行許可書を毎週申請にいかなければ発行しない。これが警察の対応である。

言いたくないが警察がしっかりしていれば、青パトなど必要ない。つまり、警察のだらしないことが元凶なのだ。その自主防衛の自治体に非協力的な態度をとるというのはどういう了見だろうか?

抗議の末、4回分を一括発行まで譲歩させた。それでも1ヶ月分だ。

本来なら、自治会を集めて、どういう風に児童の安全を図るか、警察の役割と自治体の協力の分担をはっきりさせ、相互交流を深めていくべきところだろう。

実際、自治体は自治体、警察は警察、中々うまくいかない。

中には、「青パト自体をやめてしまおう。」という声を出始めている。

困ったものである。

ちなみに、警察と自治体がうまく連携できない1つの理由に、防犯の存在がある。

防犯とは、自治体組織の1つで地域の防犯を担当している。しかし、警察は自治体を通さずに防犯を召集したり、活動を指示することがある。これも自治会にとってうれしいことではない。

また、夏祭りなどの道路使用も警察は協力的とはいえない。夏祭りを拡張しようとしても道路の使用許可で問題になるのは必至だ。

これは警察の話ではないが、夏祭りの自治体が出す屋台や、正月の餅つき大会などのイベントにおいて食品の提供を自粛するように通達がきている。

食品衛生の観点から気持ちは判らないでもないが、お祭りで、「たこやき」、「お好み焼き」、「フランクフルト」、「カキ氷」などが消えてしまって、夏祭りの意義があるのだろうか?

また、餅つき大会で作ったお餅は食べないで下さいと言えというのだろうか?

どうも行政という組織は、文化や情緒というものを理解できないらしい。

食品安全の為に、視察や条件の強化はいたしかたないとしても、文化を否定するような行為は避けてもらいたいものだ。

2008年6月25日 (水)

居酒屋タクシーの一時停止?

国土交通省が一時的にタクシーの禁止を打ち出した。

このことは評価したい。

しかし、今後のことの対策を打ち出さないのがお役所仕事と非難したい。

国会期間は再び徹夜が必要という考え方から、タクシー解禁になる。

そもそも、国会への議案提出を自分でできない大臣と国会議員が問題である。

ぎりぎりまで資料を提出しないシステムも問題である。

子供の頃にお母さんんなどに言われたことはないだろうか?

「予習と復習は毎日やりなさい。」

普段からの体質がこの問題を呼んでいると私は考える。

夏休みの最終日に徹夜で宿題を片付ける学生が日本の官僚と大臣と議員の実情である。

となれば、問題解決は簡単である。

官僚は普段から資料の提出をすべて提出すること。

大臣と議員は個人の政策集団を持ち、全体の把握をしておくこと。

この2つで残業はほとんどなくなる。

今回の地震などの突発的問題だけになる。

2008年6月14日 (土)

G8財務省会議

今日はG8が大阪で行われている。

中ノ島という島の中で行うのは悪くないが、大阪の中央で行う必要があるのだろうか?

会議の後に大阪駅周辺または御堂筋を下って心斎橋・なんばを紹介するなら意味はある。また、同日に周辺でCO2削減の技術展覧会などを催すなどを平行して行わなければ意味を成さない。

展示などのことを考えるならATC近辺で会議を行うことを提唱する。警備の面で9.11の心配を除けば、格段に簡単になる。もちろん、中ノ島でも航空テロに対しての対策はできない。真上を伊丹空港への着陸機が飛んでいる。

さて、何らかの対策を打てるとも思わない会議が何を提示するか楽しみだ。

究極的的には脱石油社会と各国の自給率UPを提言するに留まるだろう。実際、それ以外に対策はないのだ。

この1・2年で急激に脱石油社会への変革を成し遂げなければ、日本の国有財産が目減りして、方向転換ができなくなることを危惧している。

脱石油技術はそのまま日本の産業として、世界に販売できる商品である。

次の世界は車の販売でなく。脱石油技術の販売世紀になると私は推測するのだが、日本の政府のスピードは10年くらいの移行期間を持って、今から検討するという悠長なことを言っている。

溜息がでる。

2008年6月 5日 (木)

厚生省の発表って何?

高齢者医療が紙面を賑わっている。

7割という言葉で政治家は動いている。政治家は支持基盤があり、本来はその意見を国会に取り上げる仕事だ。

官僚の資料を地元に持ち帰って反応を見る為に週に1度、お蔵帰りをしている。新幹線が無料なのもその為だ。

地元の支援者や、自治会長に手伝ってもらって実態調査をするのもよいだろう。

政治家は官僚の持ってくるペーパーを読むようになったのはいつからだろうか?

読むだけなら、議員はいらないな!

国会も開催されないので相当の人件費が節約できる。

政治家のみなさん、

自分の仕事を官僚にしてもらった時点で政治家じゃないですよ。

自分の目で、足で、実態を把握することを忘れないで!

という、今日のつぶやきでした。

2008年5月28日 (水)

地球環境と温暖化対策

近年、地球環境が大きくクローズアップされているのは非常に良いことだと考えている。しかし、温暖化対策と地球環境がイコールではないことを認識されているだろうか?

私は地球環境の対策に積極派であり、化石燃料に一極依存に警鐘を鳴らすものである。温暖化対策も賛成論者であるが、2つを同じものと考えていない。

地球環境の改善は環境対策であり、生活改善を念頭においている。しかし、温暖化対策は経済活性化対策であり、抜本的に地球環境改善には繋がらないと考えている。

二酸化炭素(CO2)が地球温暖化の原因と備えているのはIPCCであるが、地球の存在する地球環境を考える40以上のグループの1つでしかない。しかし、これがもっともポピュラな団体として紹介され、しかもIPCCは驚くことに地球温暖化の原因が「『人間』が排出した二酸化炭素」の可能性が高いとしか言ってはいない。それを元に二酸化炭素をどうこうしようというのは暴論の域に達している。

これに対して東京工業大学教授丸山茂徳(まるやましげのり)氏によれば、地球の磁場の影響で「地球の寒冷化」が懸念されるといっている。詳しい話は別の機会にすることにして、相対する“温暖化”、“寒冷化”の科学的見解が存在し、結論を得ていないのが現状である。

つまり、二酸化炭素(CO2)削減が温暖化防止に役立つかどうかはまったく判らない状態である。これでは環境対策とは言えない。

氷河が溶け出していると騒いでいるが、10世紀のグリーンランドは名前のように緑の大地であり、氷河に包まれた世界ではなかった。ということは1000年単位で温暖化と寒冷化が繰り返し起こっていると考える方が妥当であろう。

つまり、二酸化炭素(CO2)削減は地球環境対策にならない。これが結論である。

しかし、エナルギー環境の一極集中、化石燃料に依存しすぎることへの懸念は多く持っている。また、シーレーンなど輸送のリスクを考えれば、社会環境に左右されない為にも、エネルギー依存の分散を急ぐ必要がある。

そういった意味を含めて、このCO2削減案を私は好意的に受け取っている。

さらに、私が懸念し続けた地域間格差、都市部と地方のバランスを取るために地域活性化とエネルギー一極依存打破という一石二鳥であるのが二酸化炭素(CO2)環境税である。

京都議定書に基づく二酸化炭素の売買は、新しい産業を生み出したと考えるべきである。つまり、地方(特に農産・山間部を多く持つ県)の農業と林業の活性化に役立つと考えているからである。農業と林業に援助金を増額することは農業保護という観点から世界的に敬遠されてきた。それをどうどうと行えるのである。農業と林業という一次産業が復活することは労働人口の受け皿を作ることになる。また、都市部から地方への税の移譲をスムーズに進行できるというメリットもある。

どう考えての都市部の方が二酸化炭素を多く排出するからだ。それに対して農産物における草や木々はその二酸化炭素を吸収する。二酸化炭素の排出と吸収に金額を載せることで都市部から地方へ税移譲が可能になる。

ヨーロッパ各国もこれを推進しているので反対意見が日本を襲うこともない。

また、新しいエネルギーへの移譲も急がなくてはならない。当面は太陽エネルギーを利用した太陽電池と太陽の熱でお湯を沸かすソーラーシステムを各家庭・ビルディング・工場への設置を促進するのが得策であろう。

ハイドロメタンなどの事業化などは石油高騰によるコスト高によって解消されつつある。

ソーラーカーへの移行に石油メジャーの抵抗を考えれば、電動機付き車椅子とママチャリーの電動化によって活路を見出すのが理想であろう。

つまり、4人乗りの電動機付き車椅子を許認可制するのである。ミニバンの小型化と考えればいいだろう。将来的には大型を検討しておけば、スムーズに移行できるであろう。

抵抗勢力として、石油メジャーにはあくまで車椅子・自転車であると言い張り、国内自動車メーカーには事業開始の資金を提供させ、後の参入を容易くしておくことがよいだろう。また、国土交通省や警察は免許制度の導入を織り込むということで権益が発生させ、妥協させるのが妥当な線であると考えられる。

しかし、回りくどい政策ではなく。素直な政策でまっすぐな日本を目差すことが理想である。抵抗勢力や既得権益まで考えなくては、今の日本では何1つ、前に進まないのが現状であるのが悲しい。

2008年5月25日 (日)

政治家の資質

“李氏、冠を乱さず”と言われるように疑わしいことをしてはならないということわざです。

元来、政治家というものは民衆の代表であり、ある意味で奉仕者である。ちょっと権力志向が強い奉仕者であります。

お上意識が強い日本においては権力者、又は知恵者と誤解されることが多く、全権委任する傾向が非常に強い民族です。

これは非常に楽な生き方であり、“あの人に任せておけばだいじょうぶ!”と責任を転嫁して生きてゆくことができるからです。それは民衆が自らの力で勝ち取った権利ではなく、当てられた権利だからであると考えています。

江戸・戦国以前は地頭と官人との間に対等な関係が存在し、“お上意識”というのは中央のみで、自らの土地は自らが護るという意識が根強く。豊臣の刀狩や家康の“士農工商”という身分制度はその力を削ぐものでした。

江戸300年は日本の民衆の気質を作るには十分な時間であったと言えます。

明治維新は武士による民権運動であり、民衆は再び権利を取り戻します。しかし、その意識を強く持っていたのは武士であり、その旧武士によって支えられたと言って過言ではありません。

太平洋戦争に敗北し、再び大衆としての権利を与えられます。これも勝者であるアメリカからです。この400年余り、民として権利を与えられるばかりで自ら勝ち取るという努力をしてこなかった。それが今の日本の現状であります。

大衆は英雄を求める。何もしないで自分達を楽にさせてくれる指導者を求めています。あのヒトラーこそ、大衆の英雄であり、ドイツの民主が生んだモンスターです。

今、日本もその危険な罠に陥ろうとしています。

強い指導力、強い実効性などと政治家の資質をいう方々がいらっしゃいますが、私はその危険性を危惧します。

政治家に必要なものは、誠実な態度、嘘を言わないこと、大衆こそが主人であることを理解できることであると考えます。

現時点では、大衆こそが主人であると訴え、その方向を共に考える人材ということになります。

しかし、大衆はそれを求めていません。自らの死刑執行にサインしていることも気づかずに声援を送っているのです。

政治家は俳優でも、歌手でも、スターでもありません。我々の代表であり、我々が選ぶものなのです。

私は自らに死刑執行のサインする機会がある民主主義を愛しています。少なくともまったく知らないところで決まっていく独裁政治や王政よりは愛しています。

“大衆は豚だ。”、“民主主義とは、豚を飼うシステムだ。”と罵りを受けないように努力してゆくしかありません。

2008年5月21日 (水)

腐敗する日本(6)

すべてを腐敗してゆく!
小泉総理は竹下産業・財務大臣を腹心に行政改革を断行した。私も小泉自民党総裁戦では応援させてもらった。しかし、総理大臣になると彼の主張は一変した。信頼と信用を一切持たない総理と私は評価している。道徳も仁義もない力だけが正義という世界を創造した。結果として、日本に最後に残っていた恥という言葉を一掃し、我が物顔で暴走する経済人を発生させた。官僚は不正を不正でない法律を改正し、自らの横領を堂々と行うようになっていった。日本の番人である司法も行政不介入を決め込み、その身の安全を図る。それが小泉時代であった。結果として負の遺産を多く発生させ、次の者に押し付けて逃げ出した。安部・麻生コンビは日本の再生を図ろうとしたが、官僚の抵抗によって撃沈した。その流れに乗って出てきたのが福田総理である。医療不正・年金・ガソリン等溢れる出す問題に、野党の反対で巻き起こる自衛隊・暫定税率・日銀総裁問題を併発した。
どうやら官僚や議員の皆様は、状態の維持を望んでいるようである。物価の上昇で国民が苦しんでいる現状で、増税を平気で叫ぶ議員・官僚はすでに平行感を失っている。
経済を知らない彼らが日本を崩壊の道へ導くのは当然の回帰である。
第2次世界大戦の勝者であるソ連は自由競争による経済の活性化を行えずに崩壊した。日本も経済の活性化に寄生することで阻害している。現在のシナリオでは、貧富の差を拡大することによる日本再生か、経済崩壊による破産の2つしかない。阪神大震災のおり、暴動が1つもなかったという良心は崩壊してゆくだろう。米騒動のような暴動が起こることは現状のままでは防ぎようがない。世界は再び動乱期へと移行してゆく。
あなたは他者を蹴落として、生き延びることができるだろうか?
それとも立ち上がって、すべてを清算することができるだろうか?
いずれにしても困難な道しか残っていないようだ。

余談だが!
文芸春秋6月号に、自民党の与謝野馨・麻生太郎両氏の政策提言”大きな政治”を読んで残念に思った。
腐敗する日本(6)は書くつもりはなく。(5)で終わりの予定であったが、これは追加である。
比較的経済が判っていると思っていた麻生氏が与謝野氏を持ち上げている。
増税そのものを反対とは言わない。
しかし、現在の官僚構造を残しつつ増税するのは、穴の開いた鍋に水を注ぐのと同じである。
現在の不正や不備を洗い出し、大きく構造を改革する必要がある。
特に議員の判断に国民の目が届くようにすること、官僚の昇進を変革に失敗したもの、何もしないものを降格し、、変革に成功したものを優遇する実績重視に変更することと、給与の一部を30~50年間人質として預かる制度を創設する必要がある。今、成功しているように見える改革も10年のスパンで見れば失敗かもしれない。その責任を取れとは言わないが、全体責任として政府に預けているお金で補填する制度は必要である。

しかし、政治の世界は当然の感覚が通用しないらしい。
国民的人気の麻生氏より、官僚にとって都合のよい与謝野氏と中川氏が有力らしい。今回の対談は事実上の麻生氏の敗北宣言とも言える。ま、長い目で見れば、与謝野氏を総理にして、次を狙う方が近道ということであろう。もちろん、チャンスがあれば、直接狙うだろう。
しかし、しかしだ。経済不況を起こしている時点で、これ以上の改革はできない。増税も必要であるなどという官僚にとってありがたい人が総理候補に名前が上がるとは、国民というものをどこまでも無視してくれると言いたい。
日本というかたちを考えない。政・官・財の皆様は自分の欲だけにひたむきな方々だ。これで日本が崩壊しないほうが不思議だ。

ところで!
最近、常々思うことだが、地域住民で政治立候補者の討論会を企画できないだろうかと考えてしまう。
立候補するにあたって障害となるのは知名度の低さだ。
数~数十回の討論会を行い。その人の経済論・政治感・政策を論議し、最終的に優勝者を推薦者とするような討論会ができないだろうかと考えてしまう。
テレビ局や新聞社がつけば、予算的には問題なくなるが、地方の議員の数を考えれば不利である。
やはり、地域の応援が必要である。

あくまで例である。
インターネットで立候補予定者を集い、経済論・政治感・政策を課題ごとにネットで議論してもらう。討論会支援者には1票(3票)を持ってもらい本選出場者を選んでもらう。5人から10人の立候補者を各地域の会場に呼んで議論を行う。同じ議論が行われないように議論内容にテーマを設けておく。また、時間は討論を半分、質問応答に半分を当てるのが良いだろう。もっとも質問がない場合の用意はしておく。会場に来た方は1票の権利を持つはがきを渡す。こうして、来客者と支援者の1票の最高点を獲得した人物を推薦者として立候補必要費を無料で貸し出す。
最終的には、自民党・民主党・その他の党の推薦者の参加を呼びかけ、会場の討論を公約として約束してもらうように署名させる。
少なくとも討論に参加した議員は政治・経済・諸問題について勉強することになり、無知で議会にいくことは避けられる。また、国民の政治意識を向上できる。

さて、さて、どうやって実現するか?
これが私の悩みである。

2008年5月19日 (月)

腐敗する日本(5)

教育こそ国の要
戦後60年間、日本の教育は迷走を続けている。
近年、安部首相になってこのままではいけないと考えたのはいいのだが、文部省がこうあるべきと指図するのはお門違いだ。
司馬遼太郎の回想の中で戦争に負けたことにより、今までの価値観が一変し、自信を失ったと書かれている。そして、日本人を見つめ直す意味で歴史を検証し、それを小説にされた。その中で日本人としての自信を取り戻していったと書かれている。
しかし、戦後作られた教育システムは理念・思想において欠如したままである。また、ゆとり教育などと言って、教師が堕落したのでは本末転倒である。
本来のゆとり教育とは、土日を利用してピクニックや自然公園での植物等の観察、地域の探索等々様々な活動をする時間に割り当てなければならなかった。夏ならスイミングも良いだろう。冬なら野球、サッカー、バレー、スキー、剣道、柔道、相撲等のスポーツでも良いだろう。個人的には頭脳スポーツと呼ばれる将棋や碁を奨励したい。
いずれにしろ、詰め込み授業と呼ばれた教育を見直し、その他の分野を伸ばすことは非常に良いことだと思われる。
しかし、実際はそうはならない。
受験システムを変えなければ、その余分な時間は塾に割り当てられるだけである。教師はマニュアルが強化され、上司への報告書類が多くなり、肝心の子供との時間が減っていった。何を考えているのだろうかと常々思っていた。
仮に受験システムの一部を改正し、国公立に入学する際、スポーツ点や言論点、芸術点、頭脳スポーツ点が加点されるとなっていたらどうだろうか?
各部門で全国大会に出場した者に50点が加点され、金・銀・銅にはさらに100・50・30点が加点されるなどとなっていたらどうだろうか?
野球で50点、美術で50点(二年連続で計100点)、囲碁優勝で50点+100点、合計300点が加算される。
センター試験が700点であれば、加算され1000点になる訳だ。東大・京大であっても2次を頑張れば入学できることになる。
もちろん、そういうシステムが良いと言っている訳ではない。
ただ、教育改革というのであれば、受験システムに手を付けない改革は改革の名に値しない。結果として、ためだめ日本を構築したと言わざる得ない。
落ちこぼれを助ける為に、補修をした新米教師が先輩教師に叱られる。
「君がすると、私まで迷惑が掛かる。」などと言われる。教師が生徒の面倒を見ないなら教師ではない。しかし、似非教師が日本に蔓延っている。
そういった教師に育てられた親が常識を知っている訳がない。
60年間のツケが日本のモラルを破壊する。
学力を教えるのではなく、常識を、道徳を、生きていく知恵を教えるのが教師である。教師とは人間を教える特化した専門職のことである。子供と接触しているがゆえに、子供にしつけを教えることが優秀な人材でなければならない。
学力を教えるだけであれば、親の方が優秀な場合も多々存在する。教師のすべてが東大卒ということはありえない。
しかし、教師は勉強を教えるものだと勘違いしている教師・親・文部省の役人がいる。
勉強を教えるだけであれば、学校などすべて潰し、塾のみにすればよい。効率的である。
いずれにしろ、道徳を教えることからやり直すことが必要である。

本当のゆとり教育
私はゆとり教育の賛成論者である。ただ、飛び級も必要であり、後追い級も必要だと考えている。
仮にテニスが優秀な子供がいたとする。テニスの適齢期は15~18才と言われており、5才から始めなければならないと言われる。5才で才能があると思われる児童には本人の希望でテニス中心の授業構成が出来るゆとり教育が必要である。児童の学力に応じて後からサポートする体制が必要なのである。追いつく為には飛び級も必要である。
また、数学が得意な子供が10才で大学に入学しても良いのではないだろうか?
また、年齢に応じて、社会教育をする機会があるのがよいと考えている。
小学低学年程度なら土日は社会見学である。
小学高学年程度なら林間学校・(サマー)キャンプ・体験学習である。
食事を用意してくれる林間学校ではない。寺など掃除、まかない、蒔き割りなど厳しさを教えてくれる1週間程度の学習がよいだろう。仕事をしない場合は食事抜きなどの厳しさを知らしめることが重要だと考える。
次に、サマーキャンプは無人島などでの自給自足生活がいいだろう。住まいと米を別として、水、火、塩、調味料、食料を取る努力などの文明を忘れる1週間の経験が必要だと私は考える。あることが当たり前だという考え方を一度は正す必要があると考えている。
最後に田舎での暮らしである。1ヶ月程度、夏休みすべてといっていいだろう。卵を取り、作物を耕し、川で魚を取り、山で山菜を取る。時には神社で夏祭りを楽しむ。自然との共存、一度は体験しておくと人間の深みが増す。そして、最後のとりはにわとりや牛の解体である。我々が何を食べているのか?
それを教える必要がある。気分が悪くなる子もいるだろう。トラウマになる子もいるだろう。しかし、我々は何かを食さなければならない。そのことを教えることはとても重要だと考えている。
中学生程度以降はそれぞれの進むべき道をその余暇に当てることが望ましい。
いずれにしろ、ゆとり教育とは教師が子供を指導するという特化した能力を育て、継承してゆくものだと私は考える。
少なくとも勉強を教えるだけの存在では意味がない。
今、ゆとり教育が否定され、詰め込みが復活しようとしている。
本当にそれでよいのだろうか?
少なくとも現在の先生がゆとりの教育よりはマシではあるが、それが正しいとは思わない。また、違う答えもあると考えている。

いずれにしても、子供をどう育てていくかを真剣に議論した答えに間違いはない。

なぜなら、間違ったと感じるものはすぐに過ちを正してゆくものだからだ。

一方、地位や名誉、威信などをこだわる人が考える子供の未来は歪んだものになってゆく。今、教育現場で子供のことを真剣に考える教師が、関係者が、どれほどいるのだろうか?

私はそこを問いたい。

現在の日本は私の父や母、祖母が作った日本である。

未来の日本は子供たちが作ってゆく。

今、私達が真剣に子供のことを考えなければ、私の考える未来は存在しない。

子供たちが日本の未来なのである。

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