古事記や日本書記、そして、神話に書かれている出雲の国譲り、オオクニヌシはアマテラスに国を譲ります。しかし、出雲神話には国を譲っていません。
どういうことでしょうか?
そう、島根の出雲と神話の出雲は別の国だったのです。では、神話の出雲はどこなのでしょうか?
古事記・日本書記の謎《神話の真実を探す》
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0. 神話は畿内からはじまり、邪馬台国は九州から
1.古事記・日本書紀のはじまり
2.邪馬台国の都がどこにあったのか?
3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち 後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
4. 天孫降臨は2度あった
5. 日本の神話 国産み
6. 日本の神話 天照大神と素戔嗚尊
7. 日本の神話 大国主
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3-1. 古事記・日本書紀の成り立ち 前半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)へ戻る
3-2. 古事記・日本書紀の成り立ち
後半(出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある)
■出雲風土記に国譲りなどない。
古事記・日本書記・旧事紀と大きな違いがあるが、すべて天皇記・国記で作られた史書を基準に編纂されております。しかし、古事記が完成した712年に諸国の風土記の編纂が命じられ、733年に出雲風土記が完成します。
その出雲風土記には、
『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』
現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」
と書かれているのです。
『出雲風土記』では、
オオクニヌシが自発的に国を譲ると言っており、大きな宮(出雲大社)を建ててくれたら国を譲るなどということも言っていません。
また、古事記・日本書記では、すべて譲ると言っているのに対して、「ただし・・・」と出雲の国だけは譲りませんと宣言しているのです。つまり、オオクニヌシは出雲の国から去っていないのです。
また、スサノオはヤマタノオロチを退治して、稲田姫と清(すが:須賀)に至って、そこに宮を建てて結婚、大己貴をもうけたと言われております。
ところが出雲におけるスサノオの足跡は簸(ひ)川(現斐伊[ひい]川)の上流と清(すが)(須賀)の二箇所のみしかありません。また、『出雲風土記』には「スサノオのヤマタノオロチ退治」は一切見当たらないのです。
では、出雲風土記は日本書記と呼応していないかと言えば、そうでもありません。
それは意宇(おう)郡母理(もり)郷の郷名由来記事で、「天(あめ)の下所造(したつく)らしし大神大穴持命(おおなもちのみこと)は、越の八口(やくち)を平定し給うて、お還りになった時、長江山においでになって詔して、『私がお造りして領有して治める国は、皇御孫(すめみま)の命(みこと)が無事に世々お治めになる所として、統治権をお譲りしよう。ただ、八雲(やくも)立つ出雲の国は私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて、玉珍(たま)を置き賜うてお守りしよう』。だから、文理(もり)という」とあります。
ここで語られる大穴持の『私がお造りして領有して治める国は……』は、『書紀』神代紀下第九段の一書②にある大己貴の言葉「吾がしらす顕露(あらわ)のことは、皇孫まさに治め給うべし。吾は退りて幽事(かくれたること)を治めん」に、見事に対応しています。『書紀』がなければ、『出雲国風土記』にある皇御孫(すめみま)の命(みこと)がニニギであることは絶対にわからないのです。
出雲風土記には書かれていませんが、出雲の国には多くのスサノオの痕跡が残されております。また、ヤマタノオロチの伝承も残されています。
どうやら、出雲風土記の編纂者がスサノオの存在を意図的に隠したことが判ります。同時に出雲の国譲りが存在していなかったことを隠さなかったことは、編纂者の意地であることが伺えるのです。
続日本紀によれば日本書記が漢文調の文体で書かれているのは官選の国史である為です。対外的なモノということは、日本以外の他国が見ることを前提としております。そう考えると神武天皇の即位が後漢の終り頃から魏の時代ではあまりにも絞まりのない浅い歴史となります。中華においては司馬遷(紀元前91年頃)が『史記』を書き、紀元前2500年頃に建国したと歴史を綴っているのに対して、倭国は卑弥呼と同年代の紀元150年頃が建国では箔が付きません。よって、神武天皇の即位を紀元前660年に改め、各地の伝承を神世の時代として数千年の歴史があるように改編したのであります。
当然、日本書記の完成に近づくと、各地の伝承と国史に齟齬が発生してきます。それゆえ、712年に元明天皇は地方の風土記の編纂を命じたのです。
こうして、1000年以上も続く辻褄合わせが始まったのです。
たとえば、アマテラス、ツクヨミ、スサノオは多くの名を持ちます。
・アマテラス=天照大御神(あまてらすおおみかみ)=天照大神=大日孁貴神(おおひるめのむちのかみ)=大日女尊(おおひるめのみこと)=大日霊(おおひるめ)=大日女(おおひめ)=皇祖神=ヒルコ(日ル子)=卑弥呼=瀬織津姫=撞賢木厳之御魂天疎向津媛命=ニギハヤヒ
・ツクヨミ=月読命=月読尊=月夜見尊=月弓尊=都久豆美命=阿沼美神=瀬織津姫
・スサノオ=素戔男尊=建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)=神須佐能袁命(かむすさのおのみこと)=牛頭天王
このように神々は沢山の名前を持っております。
さて、その中でもニギハヤヒはアマテラスと同一神とは言われません。しかし、ニギハヤヒの正式名称は天照国照天火明櫛玉饒速日命(アマテル・クニテル・ヒコ・アメノホアカリ・クシタマ・ニギハヤヒ
ノ ミコト)であり、天照大神と同じ名を持っております。このニビハヤヒの妻と言われるのが瀬織津姫であり、国津神の女神と呼ばれておりました。
アマテラスが男神か、女神かという議論を別にすれば、
持統天皇の御世において、アマテラスと持統天皇とを重ねることで孫の軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承するのに都合がいいならば、アマテラスを女神に断定するのに戸惑いはなかったでしょう。
すると、その妻である瀬織津姫の存在が不都合になります。こうして、持統天皇の御世から明治に至るまで、祭神瀬織津姫の名が消されていったのです。
それを証明するように、
北海道苫小牧市の樽前山神社では、氏子衆によって「瀬織津姫命」をまつると主張されていたにもかかわらず、明治期になると、明治天皇の「勅命」の名のもとに、祭神が「大山津見神」ほか二神と表示され、瀬織津姫の名が消されております。こんなことを1000年以上もやっているのです。
本来、ツクヨミは月の女神とされています。瀬織津姫の化身はウサギであり、日の神の妻である瀬織津姫も月の女神でした。男神アマテルを女神アマテラスに変わると、アマテルであったニギハヤヒはツクヨミとなり、「もう会わない」と宣言されて封印されたのかもしれません。
また、スサノオの信仰は広く、全国に広がっています。そのスサノオの子である大国主(オオクニヌシ)も多くの名を持っており、
大国主=大己貴神(オオナムチ)=大物主(オオモノヌシ)=大穴牟遅神=八千矛神=ニギハヤヒ
となっております。
しかし、瀬織津姫が大山津見神に改編されたことを見れば、事実は逆なのであります。日本書記に基づいて、元々いた神の名を辻褄のあう神の名に改編することで、神話の信憑性を高めるという作業が永遠になされてきたと考えるべきでしょう。
そう考えると、
1つの神の名に多くの名前があることに疑問がなくなるのです。
しかし、出雲風土記では、存在しない国譲りがあったと書き残すことに抵抗があったのでしょう。では、神話に出てくる国譲りはどこで行われたのでしょうか。
■阿波風土記に国譲りがある。
古事記・日本書記・旧事紀の神話の国産みは、
1.淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)から始まります。
日本書記の一書においてのみ、大日本豐秋津洲が登場しますが、それ以外は淡路島であります。そして、次に古事記では伊予之二名島(いよのふたなのしま)が登場します。
はじめて古事記や日本書記は読む方は、何故阿波なのかと疑問に思った方も多いでしょう。淡路島や伊予は田舎であり、伊勢神宮や出雲大社のような歴史的な聖域とされていません。淡路島にはイザナギの伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)があります。しかし、初詣客数は約1万5,000人と50位以下で100位に入るかどうかの地名度です。
一番ご近所の西宮神社(兵庫県西宮市)は約50万人、反対側の徳島では大麻比古神社(徳島県鳴門市大麻町坂東広塚)が26万人と決して参拝者がいない訳ではありません。
しかし、奈良にある橿原神宮(かしはらじんぐう)が創設されたのは明治になってからであります。
神武天皇を祭る神社
熊本 70、廣島 37、岡山 32、 福岡 16、 宮崎 15、 鹿児島 15、 山口13、福井 12、 長野 10 奈良 6社
大和王朝を作ったとされる初代天皇が即位された奈良で6社とわずかです。
では、イザナギとイザナミを祭る神社に人気がないのかと言えば、決してそうでありません。
三重の熊野本宮大社は全国3000社ある総本山であり、また、多賀大社は古くから「お多賀さん」の名で親しまれ、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集め、全国に二百数十社を持ちます。
イザナギ・イサナミを祭った神社(田村誠一氏著書より)
青森 7 岩手 6 宮城 4 秋田 6 山形 11 福島 4 福島 4 群馬 2 栃木 1 埼玉 5 干葉 9 東京 5 神奈川 6 新潟 3 富山 1 石川 9 福井 11 長野 9 山梨 6 静岡 14 愛知 20 岐阜 22 滋賀 4 三重 1 奈良 2 京都 7 大阪 2 和歌山 1 兵庫 14 岡山 11 広島 5 鳥取 6 島根 10 山口 4 香川 2 徳島 5 愛媛 8 高知 8 福岡 15 佐賀 2 長崎 5 熊本 8 大分 2 宮崎 12 鹿児島 8
畿内は総本山があるに関わらず、その数が少なく。古事記・日本書記に出てくる伊予には、言われの神社が多くありそうですが、逆に少ないという奇妙な結果が出ております。
まるで都合の悪い事実が出て来ないように、その他の神々と習合して隠ぺいでもなされたのでしょうか。
淡路島は国産みで出てくるのに関わらず、その存在が置き去りにされています。
712年に編纂を命じられた風土記には、
1 郡郷の名(好字を用いて)
2 産物
3 土地の肥沃の状態
4 地名の起源
5 伝えられている旧聞異事
などが示されています。『出雲国風土記』がほぼ完本で残り、『播磨国風土記』、『肥前国風土記』、『常陸国風土記』、『豊後国風土記』は一部欠損して残っております。その他の国の風土記も残されていたハズですが、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみであります。
その1つである『阿波国風土記』も逸文が残るのみで、一説には、明治初期まで阿波藩に存在したとの説もあったと言われています。
その逸文は萬葉集註釋いわゆる「仙覚抄」に記載されている主に五節がほとんどなのです。
(1) 天皇の稱號(しょうごう) (萬葉集註釋 卷第一)
阿波國風土記ニモ或ハ大倭志紀彌豆垣宮大八島國所知(やまとのしきのみづがきのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 朝庭云、或ハ 難波高津宮大八島國所知(なにはのたかつのみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云、或ハ 檜前伊富利野乃宮大八島國所知(ひのくまのいほりののみやにおほやしまぐにしろしめしし)天皇 云。
(2) 中湖 (萬葉集註釋 卷第二)
中湖(ナカノミナト)トイフハ、牟夜戸(ムヤノト)ト與奧湖(オクノミナト)トノ中ニ在ルガ故、中湖ヲ名ト為ス。
阿波國風土記ニ見エタリ。
(3) 奈佐浦 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波の國の風土記に云はく、奈佐の浦。
奈佐と云ふ由は、其の浦の波の音、止む時なし。依りて奈佐と云ふ。海部(あま)は波をば奈と云ふ。
(4) アマノモト山 (萬葉集註釋 卷第三)
阿波國ノ風土記ノゴトクハ、ソラ(天)ヨリフリクダリタル山ノオホキナルハ、阿波國ニフリクダリタルヲ、アマノモト山ト云、ソノ山ノクダケテ、大和國ニフリツキタルヲ、アマノカグ山トイフトナン申。
(5) 勝間井 (萬葉集註釋 卷第七)
阿波の國の風土記に云はく、勝間井の冷水。此より出づ。
勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃(すなは)ち、大御櫛笥(おおみくしげ)を忘れたまひしに依りて、勝間といふ。
粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿(ほ)りき。故、名と為す。
〔仙覚抄〕(阿波國続(後)風土記について(1)HPより引用)
下図は「仙覚抄」勝間井の部分。
<s-02-09 仙覚抄>
〔仙覚抄〕(阿波國続(後)風土記について(1)HPより引用)
『阿波国風土記』の(1)に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇の称号が書かれているのは何故なのでしょうか?
古事記・日本書記に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇が阿波出身であるなどとは書かれていません。
『阿波国風土記』の(5)によると、勝間の由来は倭建命が大御櫛笥を忘れた場所と書かれています。この「勝間の井」は義経が名前を聞いて縁起がいいと言った場所で、觀音寺村の舌洗の池と一緒に残されておりますが、その一文が何を意味するのかは理解できかねます。唯一言えることは、『阿波国風土記』に崇神天皇、仁徳天皇、宣化天皇、倭建命も阿波と深い関わりがあったと思わせる一文であるということだけです。
これを裏付けるように、『日本の建国と阿波忌部』によれば、『麻植郡郷土誌』の中に、
阿波風土記曰く、天富命は、忌部太玉命の孫にして十代崇神天皇第二王子なり、母は伊香色謎命にして大麻綜杵命娘なり、大麻綜杵命(おおへつき)と呼びにくき故、麻植津賀(おえづか)、麻植塚と称するならんと云う。
御所(ごしょ)神社、
別名、「瑜伽(ゆうが)神社」(徳島県吉野川市鴨島町麻植塚字堂の本921)
御祭神 大麻綜杵命(おおへつきのみこと) 合祀 伊弉諾命 伊弉冉命 大山祇命 誉田別命 息長帯比売命
大麻綜杵命は、10代崇神天皇の外祖父。
伊加賀色許賣命(伊加賀志神社の祭神)の父君(『先代旧事本紀』による。『日本書紀』では母)にあたる
大麻綜杵命の中から『麻』の文字を抜いた大綜杵命は尾張国葉栗郡の高田波蘇伎神社にも祀られております。この大綜杵命は旧事紀で伊香色謎命の父とされており、大麻綜杵命と大綜杵命が同一人物であることも判ります。
伊香色謎命は第8代孝元天皇の妃、第9代開化天皇の皇后であり、第10代崇神天皇の祖母になります。また、孝元天皇の皇后は欝色謎命(うつしこめのみこと)であり、欝色謎命は大綜麻杵命(伊香色雄命・伊香色謎命の父)の同母姉(妹)であります。一方、旧事紀では、物部連公の祖の出石心命(いずしこころのみこと)の孫であると記載します。
素戔嗚―饒速日―宇摩志麻治―彦湯支―出石心―大矢口宿禰―大綜麻杵―伊香色雄
つまり、物部氏の一族であると主張しているのです。
一方、『麻植郡郷土誌』では、大麻綜杵命は阿波忌部氏であり、忌部氏の祖は天岩戸で活躍した天太玉命ですが、天太玉命に従っていた五神があり、そのうち、天日鷲命が阿波忌部氏、手置帆負命が讃岐忌部氏、彦狭知命が紀伊忌部氏の祖となったといわれます。つまり、大綜麻杵命は天日鷲命を祖とする一族であると『阿波国風土記』は語っているのです。
同時期の伝承の中に、讃岐国の香川郡桃太郎神社には、第7代孝霊天皇の皇子の稚武彦が本津川で洗濯をしていた娘に一目惚れして、その婿となり、女木島に住んでいた鬼を退治したと云う伝説を伝えております。
どうやら欠史八代の御世において、四国において天皇家と忌部氏に深い関係があると判ってきました。
古事記、日本書紀、旧事紀では、瀬織津姫の事も含めて、あまり四国のことが語られておりません。まるで消し去ったようにポッカリと空白地ができています。
一方、『阿波国風土記』には、イザナギ・イザナミの伝説から古事記・日本書記・旧事紀の原型を思わせる箇所が幾つもあります。そして、阿波古事記伝説では、古事記の伝承は阿波にあったと言うのです。
<s-02-10阿波古事記の地名>
古事記には、須佐之男命は、出雲国の肥河(島根県斐伊川)の上流の鳥髪(現・奥出雲町鳥上)に降り立った。箸が流れてきた川を上ると、美しい娘を間に老夫婦が泣いていた。その夫婦は大山津見神の子の足名椎命と手名椎命であり、娘は櫛名田比売(くしなだひめ)といった。夫婦の娘は8人いたが、年に一度、高志から八俣遠呂智(やまたのおろち)という8つの頭と8本の尾を持った巨大な怪物がやって来て娘を食べてしまうとあります。
確かにヤマタノオロチは大俣大蛇とも書き、吉野川の流域に大俣と高志という地名が並んでおり、須佐之男命はヤマタノオロチを倒したというのであります。
■阿波古事記
阿波古事記のあらすじ
はじめ高天原(木屋平)に神様が現れました。イザナギとイザナミの神はオノコロ島(舞中島)に降り、ヒルコ・淡島(吉野川市(旧麻植地区)・善入寺島)を開拓したが、うまくいかなかったので、改めて淡路島から国を広げ始めました。しかし国を広げる途中、イザナミの神は亡くなり出雲国と伯伎国の境の比婆山(吉野川下流と上流の境、岩津にそびえる高越山)に葬りました。
イザナミの神に会いに行ったイザナギの神は、妻の醜い死体を見て黄泉国の軍団に追われて逃げ、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原(阿南市見能林町)で黄泉国のよごれを落とすため海に入り禊ぎをしました。その時に生まれた天照大御神と月読命は、高天原(神山町)に送られ、スサノウは、「海原を治めよ」と宍喰町に送られました。しかし、スサノウは海原を治めず、「母の国根の堅洲国に行きたい」と泣きわめいたので、追い出されました。
スサノウは、母の国(吉野川上流)へ行く途中で、姉の天照大御神に挨拶するため高天原へ登りましたが、高天原で数々の乱暴なことをしたので、姉の天照大御神は、天岩戸(神山町元山)にこもってしまいました。困った多くの神々は、天照大御神を岩戸より呼び出すため祭りをし、そしてスサノウを追放しました。
吉野川流域に下ったスサノウは、高志八俣の大蛇を退治し、スサノウの子孫の大国主命は、後に出雲(葦原中国)すべてを治めるようになりました。大国主命の子供である事代主命が、出雲国を譲ることを承諾したので、出雲(豊葦原水穂国)の高千穂峰へ高天原から天照大御神の孫ニニギノ命が降ってきました。
そして、ひ孫の神武天皇は、鳴門海峡を渡り奈良に出向いて行きました。
(高天原をゆくHPより引用)
この阿波古事記の信憑性がどこまであるか?
阿波古事記は平成12年(2000年)3月1日(水)阿南古事記研究会が発足し、7月10日(月)徳島古事記研究会が発足し、その中から編纂された新しい歴史書であります。
阿波古事記研究会
http://park17.wakwak.com/~happyend/index.html
ここでは伝承として残されていた記録や地名などから、阿波古事記の検証がなされております。実に興味深いことが書かれております。
たとえば、スサノオが与えらえた旧宍喰町の旧宍喰町史に「八坂神社は,鎌倉時代の頃から日本三祇園の一つと称された。」と書かれてあります。日本三祇園とは,京都の祇園八坂神社・広島県福山市の沼名前(ぬなくま)神社・徳島県海陽町宍喰の八坂神社を指しており、徳島県海陽町では宍喰祇園祭やまほこ巡幸が執り行われております。
京都祇園やまほこ巡幸、宍喰祇園祭やまほこ巡幸、阿波古事記の記述が間違っているとすると、宍喰にやまほこが祭られた理由は何なのでしょう。
<s-02-11 やまほこ巡幸 >
その他にも、天津祝詞や大祓詞には、「〔筑紫の日向(ひむか)の橘の〕小戸の阿波岐原(あはぎはら)に~」とありますが、何故に『阿波』なのでしょうか。
筑紫の日向に阿波岐原という地名があるのが不思議なことです。逆に阿波の東海岸には、牟岐・由岐・木岐という地名が残されており、阿波国の"岐"と呼べる地域であります。
イザナギ・イザナミを祀る神社は多くありますが、イザナミを社名とするのはわずかです。その1つが阿波国美馬郡の伊射奈美神社(いざなみじんじや)であります。この美馬郡は阿波古事記でいうイザナミの国、根の国です。
<s-02-12 旧伊射奈美神社の跡>
〔旧伊射奈美神社の跡〕(美馬市HPより)
<s-02-13 母国 根の堅州国>
〔母国 根の堅州国〕(阿波古事記研究会HPより)
旧伊射奈美神社は川の中央にあったようですから、もしかすると舞中島の中にあったようです。ここから東に目を向けると高越山が見えます。
高越山はイザナミを葬った山とされ、その高越山山頂に伊射奈美神社の鎮座地があったとされ、『伊邪那美命(いざなみ)の神稜』であったと言われているそうです。高越山には、高越寺があり、寺の開基は役小角であると言われ、弘法大師が28歳の頃(801年)に修行したと伝えられます。その高越寺の上にあるのが高越神社であり、高越神社の祭神は天日鷲命とされております。天日鷲命は阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神であります。
そして、この吉野川を下ると、ヤマタノオロチを連想する大俣と高志という地名に辿り着きます。そして、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)を連想する天村雲神社(徳島県吉野川市山川町村雲)、櫛名田比売と共に暮らす場所を探したと言われる須賀は、徳島県吉野川市に、前須賀、先須賀、東須賀、中須賀、北須賀、西須賀と多く残っております。
徳島県阿南市長生町宮内にある八桙神社(やほこじんじゃ)の境内の看板には、「長(なが)の国の祖神は、大己貴命(おおなむちのみこと)」と書かれています。阿波では、南方を古代から「長の国」と呼び、北方を「粟の国」と呼んできたそうです。他にも事代主命の事代主神社(徳島県徳島市通町)、建御名方神の多祁御奈刀弥神社(徳島県名西郡石井町浦庄字諏訪)もありました。
<s-02-14 阿波の国の建御名方神社>
<s-02-15 出雲の国の建御名方神社>
(めのや出雲大社店HPより)
もちろん、出雲にも建御名方神社がありましたが、ずいぶんと質素のようです。
建御名方神と言えば、その対となる建御雷神(タケミカズチ)が気になります。
そして、それは当然のようにありました。
建御雷神の建布都神社(徳島県阿波市市場町香美字郷社本18)は、多祁御奈刀弥神社から吉野川を上流に上ったところ、阿波(粟)の国と呼ばれた所に鎮座しております。
他にも木花咲耶姫(このはなさくやひめ)が祀られる「曽我氏神社(そがうじじんじゃ)」(徳島県名西郡石井町城ノ内字前山993)、茅野姫(かやのひめ)が祀られている「鹿江姫神社(かえひめじんじゃ)」(徳島県板野郡上板町神宅字宮ノ北45)、神武天皇・神日本磐礼毘古之命(かむやまといわれひこのみこと)が祀られている「樫原神社」(阿波市土成町樫原山ノ本)、天岩戸である立岩神社の元山、手力男命塚と目白押しであります。
もし、これだけのモノを古事記・日本書紀が成立してから作り、子子孫孫まで伝えてきたとすると、並々ならない努力は最早、人の為す術ではなく、怨念からくる悪魔か、鬼の呪詛そのものです。つまり、神話の元となる事変か、伝承発祥の地のいずれかという訳です。
■出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある
やっとここに辿り着きました。
古事記・日本書記・旧事紀は聖徳太子の時代である推古天皇の御世で天皇記・国記をベースに書かれたものというは間違いありません。この天皇記は『大王記』と称されていたとも言われます。記紀編纂の基本史料となった『帝紀』、『旧辞』も7世紀くらいに成立したと言われ、同じく『書記』の史料とされた『百済本記』(百済三書の一つ)を参考にするくらいですから、6世紀以前の史料は乏しかったと思われます。
ほとんどが口伝であり、編集も困難を極めたことでしょう。
<s-02-08古事記・日本書記・先代旧事本紀の完成年代>
さて、記紀を完成したのは藤原氏が謳歌する時代であり、藤原氏が物部氏や蘇我氏の手柄を自分の手柄にしたように、天皇記を編纂したであろう物部氏・蘇我氏は初代天皇である神武朝から第16代仁徳朝当たりまでの忌部氏(いんべうじ)の活躍した人物を抹消、あるいは自分の系図に書き換えてしまったのでないでしょうか。
もちろん、物部氏・蘇我氏が悪意で歴史を改編した訳はなく、口伝などで曖昧な部分を自分の系図に入れただけなのかもしれません。
6世紀の推古天皇(593年1月15日 - 628年4月15日)の御世の者にとって、初代神武天皇が即位した辛酉年(181年)は、400年も前の伝説なのです。
現代人の私達でいうならば、信長・秀吉・徳川の歴史を紐解くようなものなのです。我々が戦国時代を検証できるのは、様々な記録や日記という歴史文献があるから検証できるのであり、紀元前二世紀から五世紀はこの倭国では紙や木簡で記録をすべて留めるという習慣もない時代でありました。
神武天皇が天下を取り、それを綏靖天皇が継承した程度の伝承は残されていても、安寧天皇(あんねいてんのう)は何をした人だった?
そもそも名前が残されていたのかも怪しい時代なのです。それが6世紀以降、記録を残す文化が中華より入ってきて、様々な伝承が各地で残されたのです。そして、6世紀に編集する上で、阿波(粟)の国からイザナギ・イザナミの伝承がはじまっている程度しか伝承が残っていなかったとするなら、古事記には阿波から国造りが始まったと書かれている理由が見えてきます。
古事記には、
1.淡道(あわじ)の穂(ほ)の狭別島(さわけしま)(淡路島)
2.伊予二名島(四国)粟国,讃岐国,伊予国,土佐国
3.隠伎の三子島 ←伊島(徳島県阿南市)
4.筑紫島(九州)筑紫国,豊国,肥国,熊曾国
5.伊伎島(壱岐島)
6.津島(対馬島)
7.佐渡島 ←沖縄列島?
8.大倭豊秋津島(畿内)
と小さな瀬戸内に浮かぶ島々が記載されています。
<s-02-16 古事記に書かれる日本>
〔古事記に書かれる日本〕(阿波古事記研究会HPより一部改編)
この中で隠岐と佐渡だけは方向から違います。
話は逸れますが、
隠岐島の三子島と書かれておりますが、隠岐島は4島で数も異なります。阿波古事記では、四国の東にある三島からなる伊島と言われております。
また、琉球の歴史は二千年前に天から聖なる島に久高島に上陸し、アマ・ミクは稲の種を持ってきたと言われ、アマ・ミクの長男は天孫を名乗り、王となりました。アマ・ミクの娘は神女となり、王国と兄弟の王を守るために、各地に設けられた御嶽(うたき)を巡り、祈りをささげたと言われ、沖縄に多い名前が高良さん、多賀良、多嘉良があるそうです。また、福岡県久留米市には高良神社があり、祀るのは高木さんたちがおり、高木神に率いられた民が、琉球を経由して列島に上陸したと考えられております。ゆえに高木神の子の名前は、思兼(おもいのかね)と呼ばれ、貴族には、思徳金、思市金、思松金のように、頭と尾ともに付ける風習が残されていました。
琉球王の神号は、
英祖 日子(ちだこ)
察度 大真物(うつまむの)
武寧 君志真物(ちんしまむの)
思紹 中之真物(なかむまむの)
日子は太陽または日神のことで、最上の尊厳を表わすため、王のことを日子と称します。真物(まむの)とは、偉大な傑物の意味であり、大は大物主を意味するのかもしれません。
この察度(さっど)は旧古代琉球王朝の名の1つであり、察度と佐渡がよく似通っております。
これも1つに推測に過ぎず、何の確証もありません。
ただ、日本には同じような地名が多くありますから、隠岐と佐渡は西日本のいずれかの島々の名前である可能性が高いと思われます。
話を元に戻しましょう。
この古事記の地図に出雲の国は含まれておりません。
古事記・日本書記・旧事紀に書かれている出雲の国では、アマテラスに遣わされた建御雷神が国譲りをオオクニヌシに命じます。そして、オオクニヌシは「仰せのとおりこの国をお譲りします。そのかわり、高天原の大御神様の御殿のような神殿を建てていただきたい。」と言って応じました。
これは単なる神話として語られてきたと思われていましたが、近年、古代出雲大社の発掘調査から、巨大な建造物であったことが判りました。
当時の大建造物のおぼえ歌がある「大屋を誦して謂う。雲太、和二、京三」のように、大和国東大寺の大仏殿、京都の大極殿八省(今の平安神宮)よりも大きな建造物があったのです。そのことから神話の出雲の国であると思われていました。
しかし、出雲風土記には、
『我(あ)が造り坐(ま)して命(うしは)く国は、皇御孫命(すめみまのみこと)、平世(やすくに)と知らせと依さしまつり、但、八雲立つ出雲の国は、我が静まり坐(ま)さむ国と、青垣山廻らし賜ひて、玉と珍(め)で直し賜ひて守りまさむ』
現代語の意訳:「私が造り、支配していた国は、天神の子に統治権を譲ろう。ただし、八雲たつ出雲の国だけは自分が鎮座する国として、垣根のように青い山で取り囲み、心霊の宿る玉を置いて(玉を愛する如く、愛し正して)国を守ろう」
と書かれており、オオクニヌシは自ら国を守ると言って、出雲の国譲りは行わしていないのであります。
当然、古代出雲大社を立てたのはオオクニヌシの一族ということになります。
出雲風土記で国譲りが存在しないと言い、古事記の地図でも出雲の国は含まれておりません。つまり、神話の出雲の国と律令制が始まった時点の島根の出雲の国は別の国であったということなのです。
では、神話の出雲の国はどこでしょうか?
古代の神々を祀った神社は日本全国にあり、そこから推測するのも簡単でありません。たとえば、天の岩戸は全国各地にあり、それを基準にすると高天原の候補地も全国になってしまいます。
<s-02-X01 天の岩戸の日本地図>
そこで古事記を頼りに推測を搾ると、伊勢、和歌山、淡路、徳島、宮崎に搾られます。さらに国造りの神話から淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)の周辺と仮定すれば、和歌山、淡路、徳島に搾れる訳です。
阿波古事記に出雲の国譲りが書かれているように徳島を神話の地と考えるのも一興でありますが、和歌山を高天原と考える説もあるのです。
和歌山の高野山付近を古くは『たかの』と呼んでいた風習からこの地域を『高天原』と考えると伊勢が出雲となります。仮定することもできます。
『伊勢国風土記』に伊勢津彦(いせつひこ)は、国津神で風の神であり、元の名を出雲建子(イズモタケコの)命、またの名を櫛玉(クシタマの)命といいます。風土記逸文によれば、伊勢津彦命は大和の天津神に国土を渡すよう要求され、断っていたものの、最終的に追われ、のちに天皇の詔りによって国津神の神名を取って、伊勢国としたと記述されるのです。
そう考えると和歌山も候補と言えるのですが、和歌山や三重には肝心のヤマタノオロチ伝説がないのです。
アワより先に生まれたヒルコの総本山は西宮神社(兵庫県西宮市)なのですから、はやり淡路島近海が候補となります。
すると、播磨国風土記に伊勢野の項にこう書かれています。
「衣縫猪手(きぬぬいのいて)・漢人刀良(あやひとのとら)らの祖は、ここに住むことにした時、社を山麗に立ててうやまい祭った。山の峰においでになる神は、伊和大神のみ子の伊勢都比古命・伊勢都比売命である。そこで伊勢と呼ぶ。」
伊勢野は現在の姫路市林田町上伊勢付近になります。
この付近の伊和神社〔伊和坐大名持魂神社〕(兵庫県宍粟市一宮町須行名407)は、主祭神に大己貴神を祭っておりますが、『播磨国風土記』の記載では、播磨国の神である伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神とみなしております。配神に少彦名神と下照姫神とあり、少彦名神が祭られているのは非常に興味深いものがあります。
少彦名神は大国主と共に全国を回った神であり、鳥取県米子市彦名町の粟島神社、和歌山市の加太神社、島根県玉造温泉の玉作湯神社、愛媛県道後温泉の湯神社、東京の神田明神、茨城県那珂湊市の酒列磯前神社、山梨県甲府市の金桜神社など祭られております。この少彦名神と伊勢津彦神が一緒に祭られているは偶然とは思えません。
伊勢津彦神は『伊勢国風土記』によると伊勢の国神とあり、調べてみると、『伊勢風土記 逸文』に伊勢の国名の由来として、
「伊賀の安志(あなし)の社に坐す神、
出雲の神の子、出雲建子命、又の名は伊勢津彦命、又の名は櫛玉命なり。
此の神、石もて城を造りて此に坐しき。
ここに阿倍志彦の神、来奪ひけれど、勝たずして還り却りき。」
とありました。
陽の伊勢に陰の出雲と呼ばれ、天皇家と同じくらい格式が高いのです。
ゆえに、出雲大社の宮司は天照大神の子の天穂日命を祖とする出雲国造家のみが祭祀を担うことが許されとされており、皇室の者すら本殿内までは入れないというしきたりを守り続けています。
先頃、高円宮典子様が輿入れされ、その記者会見で出雲大社の宮司である千家(せんげ)さんは、
「私の祖先は2000年前の天照大御神の弟です」とおちゃめっぽく自己紹介されました。」
歴史的に見て、天皇家の娘さんが千家に輿入れするのが大変なことなのです。
表の大神主である伊勢と裏の大神主である出雲、その双方に大国主が関わっております。
大己貴神と大国主は同神とされています。
大己貴神=大国主命
すると、伊勢津彦(伊勢都比古命)は大国主命の子であり、タケミナカタも大国主命の子でなります。大国主や素戔嗚の伝説は、畿内から島根の出雲まで広がり、タケミナカタは諏訪湖まで逃亡しております。
さて、古事記で黒く塗られた地図を見た瞬間、もう1つの地図がくっきりと重なります。それは2世紀以降に分布した銅剣・銅矛・銅戈圏と銅鐸圏の分布図であります。
<s-02-17 2世紀以降 銅矛・銅鐸圏>
どうですか?
見事に重なっていると思いませんか。
さらに銅鐸の分布図を古冢(弥生)中期と古冢(弥生)後期の二つに分けた図を見ると興味深い分布の移動が見受けられます。
<s-02-18 大和の空白>
〔大和の空白〕(第三部 説話の考古学『ここに古代王朝ありき』HPより)
銅剣・銅矛・銅戈の文化の前に栄えた銅鐸文化は、古冢(弥生)中期(一世紀前後)の畿内を中心(阿波・播磨・奈良)に栄えた銅鐸圏は、東海・中部・越前・出雲・島根・吉備まで広がっていますが、古冢(弥生)後期(二世紀)になると滋賀・東海に密集しております。
明らかに大和に空白地帯が発生し、畿内西部を中心に銅鐸文化からの乖離が見られるのです。
銅鐸(どうたく)は紀元前2世紀から2世紀頃に栄えた文化であり、弥生時代の分類でいえば、Ⅲ期からになります。
<s-02-19 弥生時代>
〔弥生時代〕(ウィキペディアHPより)
弥生Ⅲ期は、北九州において農機具が激変する時期にあたります。つまり、石製の農具から鉄製の農具に変わっているのであります。一方、畿内においては弥生Ⅴ期まで石製の農具を使っているのです。
遺跡から神話を推測するのは非常に難しい作業であり、正しい推測に行きつくとは限りません。そのことを承知した上で、1つ仮説が申し上げます。
島根の出雲の国(出雲風土記)には、国譲りがありません。古事記の国産みにも島根の出雲の国は描かれておりません。
また、国譲りに登場する建御名方と建御雷之男神の神社分布を見ると、鳥取から丹波に掛けて日本海側に空白地帯が存在します。つまり、島根の出雲から逃げた建御名方の経路は、
出雲~吉備~播磨~和歌山~三重~滋賀~岐阜~長野
以上の経路を使ったのです。大型帆船などない時代ですから、島根の出雲から石川県まで一っ跳びに行くことはできないのです。つまり、島根の出雲の国は神話に出てくる出雲ではありません。
一方、徳島の阿波古事記が真実かと言えば、これも不確かなことが多くあります。おそらく、元々あった神話に古事記・日本書紀の内容が影響して、不必要に編纂が行われていると考えられます。これは信長公記と並ぶ、歴史書の武功夜話が偽書とされる理由と同じであります。
しかし、天の岩戸、イザナミの墓、あまたの神々の神社をすべて有しているのは、伊勢・阿波・出雲・日向の四ヶ所しかありません。しかし、出雲には天の岩戸はありません。日向には古代出雲と思われる場所がありません。古事記・日本書紀に則って、阿蘇周辺を高天原と為し、島根の出雲を古代出雲と考えないと辻褄があません。
しかし、島根の出雲には『国譲り』は存在しないのです。
そう考えると古事記が、国産みで淡路島から始まっているのであれば、高天原もその周辺であって不思議はないのです。
「拾芥抄」(しゅうがいしょう)に阿波國(あわこく)は海國(あまのくに)と書かれていますから、
阿波(あわ)=海(あま)=天(あま)
阿波の国を支配したのは、海人であり、後の天孫族で間違いないのでしょう。
さて、徳島の阿波の中心を流れる吉野川には、阿波古事記にまつわる故事が多く残されております。一方、その海の対岸にある紀の川を上ると、川の名前が『吉野川』と変わります。弘法大師が創建した高野山は、かって『たかま』と呼ばれておりました。
紀伊水道を対称線に引きますと鏡に映したように、東の木の国の紀の川(吉野川)の下に高野山があり、西の阿波の国の吉野川の下に高天原と呼ばれている土地であります。
<s-02-20 吉野川と紀の川の対照線>
弘法大師、空海の生まれは、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県善通寺市)とあります。阿波の高越山はイザナミの埋葬された山と言われ、弘法大師が高越山を修行の場にしたのは、その霊的な土地であったからであります。その高越山と対をなす高野山、弘法大師が高野山に総本山を置いたのには、そう言った深い意味が含まれていたのであります。
そして、この紀の川を遡り、山を越えた先に伊勢があります。
阿波の国、木の国、伊勢の国に同じ民族が住んでいたことだけは、間違いないようです。
さて、この古代阿波の国は良質な水銀が取れることで有名でした。古代人は水銀を辰砂(しんじゃ)と呼び、錬丹術などでの水銀の精製の他に、赤色(朱色)の顔料や漢方薬の原料として珍重されておりました。
特に錬丹術では、不老不死の薬として、秦の始皇帝を始め中国の皇帝や弘法大師も服用したと言われております。
この特産地が吉野川上流にありました。その他にも伊勢国丹生(現在の三重県多気町)などが知られています。
なぜ、こんなに複雑になったかと言えば、イザナギ対イザナミ、アマテラス対スナノオ、百済対新羅、北朝対南朝と対立構造が何重にも上書きされていった為に、歴史を遡ることが複雑になっているからです。
たとえば、
生を司るイザナギ VS 黄泉のイザナミ、
イザナギを父神 VS 祭るアマテラス、イザナミを慕うスサノオ、
アマテラスを祭る物部氏 VS スナノオを祭る蘇我氏
百済と縁の深い物部氏 VS 新羅に縁の深い蘇我氏
百済系の神社である稲荷神社 VS 新羅系の八幡神社
呼んで字の如く百済の百済寺 VS 御音が近く新羅と判る白髭神社(※3)
百済を支援した天智天皇 VS 蘇我氏(新羅)に縁の深い天武天皇
奈良・平安時代、中央の官僚に取り立てられた百済系 VS 地方に残された新羅系
北朝に残った源氏・百済系 VS 南朝を支持した平家・新羅系
という構図がある中で、部族と部族が複雑に絡まって行きます。
時にアマテラスの末裔になり、場合によっては、スナノオの子孫になります。
かの織田信長も当初は藤原の末孫と称していましたが、ある時から平家の朝臣に変わっています。
また、
アマテラス=卑弥呼=神功皇后=持統天皇
など印象操作や戸籍の改竄も行われますから、何が正しいのか判らなくなってしまうのです。
三重県の桑名市(※4)には、タテミナカタとタテミカヅチの神社が多くあります。タテミナカタの一族が一時的にそこに根付き、タテミカヅチの来襲と共に一部がどこかに去っていったことが伺えます。
そのアマテラスに仕えるタテミカヅチは、神武天皇の東征において、自らの剣である『布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)』を高倉命に授けます。
しかし、布都というのは、
布都(フツ)=スサノオ、布都斯(フツス)=ニギハヤヒ、布留(フル)=倉稲魂尊 ウガ(宇迦)
という意味が込められており、タテミカヅチはスナノオの御魂を持って、スナノオの子(子孫)であるタテミナカタを追い詰めていたことが隠されているのです。スナノオの御魂とは、スナノオ(ニギハヤヒ)の一族のことでしょう。
タテミカヅチを祭る神社は播磨に多く残されており、播磨を通って河内・奈良に入ったニギハヤヒと交流も持つことになります。畿内に入ったニギハヤヒの一族は、木の国・伊勢(奈良・和歌山・三重)に勢力を伸ばします。そのとき、タテミカヅチの一族が力を貸していた頃であり、古冢(弥生)後期(二世紀)になると滋賀・東海に銅鐸文化が押し出され、畿内に別の文化を持ったニギハヤヒの一族がやってきたと考えられるのです。
では、ニギハヤヒがどこからやって来たのかを示す手掛かりは、北九州の久留米と畿内の奈良に残されている地名が、
筑前高田⇒大和高田、笠置山⇒笠置山、御笠山⇒三笠山、小田⇒織田、平群郷⇒平群郡、三輪⇒三輪、雲梯⇒雲梯、朝倉⇒朝倉(桜井)、三井⇒三井、浮羽町⇒音羽山、鳥屋山⇒鳥見山、鷹取山⇒高取山などなどと移民の名残りが歴史を物語っています。
<s-02-21 卑弥呼と邪馬台国>
〔卑弥呼と邪馬台国〕(安本美典著 1983 PHP研究所より)
そうすると、何故、ニギハヤヒの一族が久留米から奈良に移住したのかという疑問が湧いてきます。
その答えが気象庁のホームページに乗っている『由布岳 Yufudake』に残されております。
由布岳(北緯33°16′56″ 東経131°23′25″ 標高1,583m)
由布岳では、約2,200年前に規模の大きな噴火活動が発生した。 この噴火活動では、マグマの上昇により山体斜面が不安定になって山体崩壊が発生した後に、池代溶岩ドームが生成し、北東側から西側山麓に火砕流が流下した。
その後、山頂溶岩が出現し、南麓などにも火砕流が流下した。これら一連の噴火で由布岳火山灰が降下した。 その後、断続的に山頂でのブルカノ式噴火が続き、由布岳火山灰を降らせた。
約2,200年前に発生した大規模な噴火によって、湯布院盆地形成が形成されたとあります。そして、由布山に連動して九重山も噴火し、この一帯は断続的に噴火を繰り返したようです。
この紀元前2世紀には、石川県の白山や静岡の富士山も大噴火を起こし、日本列島は火山の活動期に入っていたようです。火山灰などで農作物の被害は甚大でありました。
<s-02-20 紀元前2世紀の噴火における被害範囲>
この紀元前2世紀は人口の激減と民族大移動が同時に起こったのであります。
このような一連の流れを汲むと、1つの歴史が浮かび上がってきます。
<s-02-23 紀元前4世紀頃>
紀元前4世紀から紀元前2世紀に掛けて、中華で多くの王朝が生まれ、殷・周の文化が春秋時代を経て、倭国に多く流入しております。「燕の鉄は倭人が運ぶ」などと評されているように、縄文・弥生時代を通じて、倭国は巨大なネットワークが形成されており、北部大陸からアスファルトなどが輸入され、日本列島を降って出雲などに運ばれ、逆に沖縄や宮崎のめずらしいが貝殻が北海道まで運ばれて、夫人たちの装飾品となっていました。
そんな中で、貴重な水銀を産出する『アワの国』は、強い影響力を持つようになり、周辺に多くの同盟国を持ってゆくことになります。
弥生時代前期から中期の銅鐸の分布は、淡路島を中心に播磨と阿波の国などが多く含まれており、海族(あまぞく)に広がっていたことを現われています。
<s-02-24 紀元前2世紀前>
紀元前2世紀前に、海族は周辺の部族を取り込み、大陸へ道を勢力下に治めていたのかもしれません。もし、旧邪馬台国というものが存在するなら、その首都がアワの国であり、その巫女がアマテラスと呼ばれていたかもしれません。アマテラスのアマは天と書きます。
天=海=アマ
つまり、アワの国の海族が天族でありました。
海族はツクヨミとスサノオの一族を取り込み、あるいは追い出して、古事記にある淡路・伊予・九州などを勢力下に治め、倭王と称されるまで勢力を伸ばしました。
<s-02-25 紀元前2世紀頃>
紀元前2世紀に入ると日本列島は火山活動の活動期に入り、富士山や白山、そして、由布山や九重連山が次々と噴火しました。火砕流などが周辺を飲み込み、火山灰などが農作物を枯れさせ、火山灰などで太陽光が遮られて為に起こる凶作期も訪れます。
日本列島で人口の激減が起こり、長野県当たりの中部から南北へ移住も起こったでしょう。
そして、由布山や九重連山の噴火もはじまります。
九州北部と列島中部の火山噴火の違いは、噴火して甚大な被害を出したことは同じですが、九州北部ではそれが連続して起こり、一時的な被害ですまなかったという点です。
つまり、一時的な人口減少では収まらず、100年近くも人が住めない土地と化したのです。その為に九州北部から民族大移動を行う必要が起きたのです。
九州北部に住む海族は日本海側を移動し、出雲から因幡の国に移ります。出雲風土記に書かれている出雲周辺以外の土地を譲るとされる出雲の『国譲らず』が発生します。オオクニヌシの一族とアマテラスの一族が緩やかな融合が進み、出雲の国は大陸との交流を強めることになり、強力な国家が誕生した訳であります。
さて、北九州の少し内陸部、久留米周辺から大分に住む部族はから古事記に書かれている航路にそって避難します。つまり、周防灘の姫島から安芸、三島、吉備、河内の難波碕に到着します。ニギハヤヒの伝承では、ニギハヤヒの一族は天磐船に乗ってきたとあります。その後、ニギハヤヒは河内国草香邑から生駒山を目指し、土着していた長髄彦(ながすねひこ)の祖先などと融合します。長髄彦の名を古事記では、那賀須泥毘古と表記しております。この那賀を使っている町は、徳島県を流れる那賀川(なかがわ)の那賀町と和歌山県の旧町名である那賀町があり、その地から移ってきた。須一族(スサノオ)の末裔ではないのでしょうか。神武の東征で熊野の高倉命もニギハヤヒの子孫であったようにこのニギハヤヒの一族と一緒に随行してきた三十二人の将軍、五人の部の長、五人の造の長、二十五部隊、船長・梶取などの名が近畿一円に広がっています。北九州の地名と奈良の地名が往々にして重なるのは、昔を懐かしんで名付けた場合と移住してきた一族名がそのまま地名になっているからなのです。
さてさて、北九州でも阿蘇に近い一族は山を越えて日向に避難します。古事記・日本書紀に書かれているニニギの天孫降臨であります。阿蘇から高千穂を通る道は、古代の交通の要所でありました。ニニギの子孫は『ウエツフミ』「竹内文献」『神伝上代天皇紀』などの古史古伝に書かれている高千穂三朝(日向三代)のニニギ・ホホデミ・ウガヤフキアエズ王朝を完成させていったと思われるのです。
そして、この同じ紀元前2世紀には、徐福を始め、秦国に国を滅ぼされた多くの民や王族が海を渡って倭国に渡来します。彼らの渡来によって倭国に銅の精製や採掘の技術、蚕の養殖から織物の技術など最新の知識と技術が入り込んできました。
同時に、共同体しか存在しなかった倭国に『国家』という概念も運ばれてきます。部族の首長でしかなかった部族長が王を名乗り、小王国が乱立し、倭国大乱の助長が始まっていったのであります。
また、ここには書いていませんが、火山噴火で避難した候補地に朝鮮半島南部もあります。こちらは最短で100km近くの海峡を渡らなければいけないので大量の部族民を運ぶことはできません。しかし、大船団を組めば、数百単位の移住もできないこともなく。また、少数であっても何度も行き来すれば、それなりの避難民が海を渡ったことでしょう。
火山が鎮火すれば、彼らは大陸や半島の政変によって逃れてきた難民と共に海を渡り返して倭国に再渡来するパターンも考慮しなければなりません。
また、倭人(海族)勢力は、大陸東部の海岸である斉から燕、渤海・黄海を渡って朝鮮半島海岸の全域、対馬海峡を渡って西日本まで伸びていた巨大な国家だったのですが、倭人(海族)は国家という概念を持たず、相互互助という共同体でありました。大王やシャーマンと呼ばれるカリスマ的存在がリーダー役を行っており、中央集権的な命令形式ではなく、首長が集まって談合によって同盟体制が維持されていたのです。それが紀元前から紀元後の漢の時代で崩れてゆきます。そして、相互互助という体制のみ残し、1つ1つが独立し、力による再統合が行われて小王国が乱立してゆくのです。その小王国は朝鮮半島(辰国)に留まらず、西日本まで及びます。そして、朝鮮半島では馬韓・辰韓に吸収され、弁韓(後の任那・加羅)から日本海岸沿いの小国を統合して邪馬台国が連合国として再結集することになってゆくのです。
さて、西日本から畿内に残ったスナノオの一族は民族大移動してきた海族(天孫族)と融合してゆきますが、それを嫌った一族は再び逃亡の旅に出ることになります。播磨でタケミカヅチに追い出されたタテミナカタは伊勢の国(三重県)の北部(桑名市、いなべ市)当たりに定住しますが、再びニギハヤヒの一族に連れられたタケミカヅチに追い出されて、信濃の国(長野県)の諏訪まで逃れて、モリヤという一族と戦います。モリヤに勝ったタテミナカタはモリヤ達と融合して諏訪王国を創ってゆくことになったのです。
<s-02-26 紀元後2世紀頃>
紀元後2世紀の倭国は、小国が乱立していました。
その中の奴国は後漢の光武帝に使者を遣わして、冊封されて金印を綬与されたという記録が残っております。奴国を名乗る国は多く残されており、どれが冊封された奴国なのかは皆目見当もつきません。
その候補の1つが日向のニニギ王朝であり、後に狗奴国ではないでしょうか。
九州に残ったニニギ王朝は、由布・九重連山の噴火が収まると逸早く、北九州に立ち戻って奴国を建国し、大陸との交易を本格的に再開します。交易が盛んになると、他国に避難していた部族たちも戻ってきます。
当然、奴国と衝突し、紛争が激化して、小さな小競り合いは倭国全体に広がって倭国大乱へと発展してゆきます。
『魏志倭人伝』によれば、
「其の国もまた元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで、一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが、夫は無かった。」
と記されております。
この70~80年間(2世紀後半)の大乱で奴国は、滅んだのか、あるいは分裂したのか。それは定かではないのですが、邪馬台国と争った狗奴国も、また『奴国』の名を持った国なのです。
いずれにしろ、北九州を中心に西日本で邪馬台国が成立し、女王『卑弥呼』の下で連合国が生まれていったのです。
邪馬台国の候補地は、糸島市を中心とした北部九州広域説、あるいは筑後国山門郡説、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群などがあります。また、因幡にアマテラスの仮宮があることから因幡説、畿内では奈良県の纏向遺跡と箸墓古墳を候補に上げています。そして、阿波古事記からアワの邪馬台国説も出ております。
魏志倭人伝を参照すれば、解読方法によってすべて候補地となり、今後の発掘調査の進展を待たなければ解決しないでしょう。
但し、その他の発掘物の状況証拠から類推するに、2世紀の鉄の分布を見れば、鉄器すら整っていない畿内が卑弥呼の邪馬台国であるハズはありません。鉄の普及は、1世紀にかけて北九州に普及し、石器が消滅します。それに比べて近畿に鉄器が普及するのは3世紀以降となります。意図的に近畿へ鉄が流れないようにしているのが見受けられるのです。
邪馬台国は、北九州北部を中心に朝鮮半島南部に国々(後の任那・加羅諸国(からしょこく))を内包しておりましたから、それを受けいれていない東日本(近畿を含む)と西日本の文化圏では鉄の分布という形で軋轢が見え隠れしているのです。
魏志倭人伝によれば、狗奴国は邪馬台国の南部に位置します。
邪馬台国の南部が意味するところは、三国志の魏・呉・蜀の対立関係と深く結び付きます。倭国の南部、つまり、薩摩(鹿児島)は倭国の南の玄関口となり、呉国と沖縄列島を結んで繋がっています。邪馬台国畿内説を唱える学者の中でも狗奴国に薩摩が含める方が多いのは、呉国との関係があるからです。魏国が邪馬台国を厚く遇するのも敵対する呉国を牽制する為であり、そう考えると卑弥呼のいる邪馬台国は阿波や宮崎である可能性が限りなく小さくなります。
逆に邪馬台国畿内説で狗奴国が奈良の南部にある和歌山の熊野から尾張までと仮定すると、魏国が邪馬台国に対する関心は小さくなり、卑弥呼を厚遇する意味が薄れてきます。
阿波の国が狗奴国である可能性も捨てきれませんが、もし、阿波が狗奴国であるとするなら、阿波から薩摩まで西日本を南北に二分する巨大な勢力を保持していることになります。すると、次に紹介する神武の東征を許した理由が見受けられなくなります。
仮に狗奴国の都が阿波であっても阿波の国と日向の国の国力は同等か、日向の国が勝っていたと考える必要が生まれてきます。
<s-02-27 紀元後3世紀頃>
紀元後2世紀の倭国大乱を経て3世紀には邪馬台国が成立し、魏国が公孫氏を滅ぼすと、景初二年(238年)12月 に卑弥呼は難升米らを魏に派遣して朝議を行います。そして、正始八年(247年)に倭は載斯、烏越らを帯方郡に派遣、狗奴国との戦いを報告します。それに魏は張政を倭に派遣し、難升米に詔書、黄幢(こうどう)を授与しました。黄幢とは、小型の吹流し(ふきながし)の「黄色い旗」のことで 『黄色い鯉のぼり』のようなものです。これは皇帝の権威と武威の象徴であり、魏国の皇帝が認めている証明になるのです。
日本的に言えば、錦の御旗を持っている官軍の証のようなものなのです。
さて、一方の神武の東征がいつであったか?
これは最初の「1.古事記・日本書紀のはじまり」でも説明しましたが、即位の辛酉年(241年)が最も可能性の高いと思われます。日本書記では東征に4年間以上も掛かっておりますから、日向を狗奴国と仮定しますと卑弥呼が魏国に使者を送った当時は、日向・薩摩の2ヶ国ないしは豊の国(大分)に入った頃です。神武の東征によって豊の国・東筑紫の国・安芸の国・吉備の国・畿内と次々と手中に収めてゆき、魏国に援軍を求めたと符号が合います。もちろん、古事記の東征では16年以上も掛けておりますから、卑弥呼が援軍を求めた頃は、神武たちは吉備の国に滞在している頃に当たります。
ピンクの邪馬台国連合に下(南)に、狗奴国の領土が次々と広がってゆき、邪馬台国の苦戦が目に浮かびませんか。
しかし、神武の東征には多くの不思議なことがあります。
その1つが伊予の国の越智族が簡単に味方に付いたことです。伊予の国は国産みでは「愛比売(えひめ)といひ」とあり、この愛媛の『え』は「兄」と言う字であり、意味は「姉」という意味です。当然、弟は『おと』の字が当てられ、意味は「妹」です。つまり、愛比売の妹(次女)は『乙姫(おとひめ)』様なのです。姫の名が当てられるくらい織物が盛んな土地で当時は先進的な地域だったのです。
同じく、阿波の国も水銀と銅を産出する先進的な地域でしたが、神武の東征では、亀に乗る水先案内人(海族)としてのみ登場します。
現在の四国は東京から遠く離れた田舎というイメージでありますが、古代の四国は先進的な技術を持つ先進国であり、経済的に豊かな地域だったのです。その四国が神武の東征では、ほとんど取り扱われていないのです。
そもそも日向のウガヤフキアエズ朝に東征を唆したのは塩土老翁です。塩土は潮(シホ)ツ霊(チ)(潮路を掌る神)とも呼ばれ、航海・海路に関係深い神として祭られています。老翁の容姿は、浦島太郎が玉手箱を開けた後の「老翁」にそっくりであったとされ、『万葉集』では、「墨吉」(すみのえ)の人との記述があることより、その翁を住吉明神として住吉大社で祭られております。この浦島太郎を迎えたのが竜宮城の乙姫であり、導いたのは亀に姿を変えられた神女の瀬織津姫と伝えられ、その瀬織津姫はニギハヤヒの妻とされます。ニギハヤヒの別名は天照国照彦火明櫛玉饒速日命と称され、『天照』の名を持つことよりアマテラスと同神とも言われています。
この瀬織津姫を祭っていたのが大三島でありますが、593年に瀬織津姫に変わって三島明神(現大山積神)が、津の国御島(現在の高槻市)の日本で最初の三島神社(山祇神社)である三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)(※5)より、この大三島瀬戸へと鎮座されたと伝わっております。
この伊予の大三島大山祇神社(※6)の祭祀を行う伊予越智氏は、孝霊天皇の第3皇子伊予皇子の子、越智王子にはじまる伊予の小千国造(越智国造、くにのみやつこ)からはじまるという説もありますが、大山積神(おおやまつみのかみ)の子孫である乎知命(おちのみこと)を祖先とするとも言われます。
一方、浦島太郎伝説(※7)は、全国各地に広がっており、その真偽はすべて明らかにできそうもありません。その伝承の1つである『浦島太郎』の作者とされる飛鳥時代の貴族である伊余部
馬養(いよべ の うまかい)は、持統天皇3年(689年)に書物の編集を担当する撰善言司となり、律令選定の功労により、馬養の子が功田6町と封戸百戸を与えられたと残されております。その伊余部氏は尾張氏の一族で、天火明命(ニギハヤヒ)の流れを汲む天香語山の子孫であり、少神積命の後裔とされております。しかし、伊余部氏という名は、珍しく系図から見つけることはできません。むしろ、『伊余』は、伊予の国か、伊余国造を連想させ、忌部氏(いんべうじ)に連なる者と思われます。
忌部氏は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に随伴して天降った五伴緒の一人で、天太玉命(あめのふとだまのみこと)の「太」(うず)の氏族であります。天太玉命の弟が天忍日命(あめのおしひのみこと)で、「犬」の氏族である大伴氏の祖になります。
その忌部氏は全国に広がり、主に拠点として阿波・讃岐・紀伊・出雲・筑紫・伊勢などがありました。
【古語拾遺 天中の三神と氏祖系譜】
天太王命(あめのふとだまのみこと)と曰す。[斎部宿禰(いみべのすくね)の祖なり。]
太玉命の率たる神の名は、
天日鷲命(あめのひわしのみこと)[阿波国の忌部等の祖なり。]
手置帆負命(たおきほおひのみこと)[讃岐国の忌部の祖なり。]
彦狭知命(ひこさしりのみこと)[紀伊国の忌部の祖なり。]
櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)[出雲国の玉作(たまつくり)の祖なり。]
天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。[筑紫、伊勢両国(ふたくに)の忌部の祖なり。]
中でも讃岐は、浦島太郎伝承の地の1つでもあり、また、かぐや姫(※8)のモデルになったと言われる大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)を輩出しております。
何の縁か判り兼ねますが、弘法大師空海様の生誕の地でもあります。
かぐや・姫は、その名前からアマノ・カグヤ・マ(天香語山)とカグ・ツチの両神の名が浮かびますが、讃岐忌部氏に関連するならば、父が彦火明命(ひこほあかりのみこと)、母が天道日女命の子である天香語山の事でしょう。天道日女命の父は大己貴神の女(むすめ)であり、夫の彦火明命はニギハヤヒを同神とされます。
彦火明命を祭る海部氏は、彦火明命を主神としては籠神社を祭っております。しかし、そもそも籠神社の祭神は瀬織津姫でありました。
つまり、
彦火明命=ニギハヤヒ=アマテラス
天道日女命=瀬織津姫=月読命
なのであります。
海に関係する一族は、太陽神よりも潮の満ち引きを司る月の女神を信仰しておりました。つまり、忌部氏も海部氏も海に関係する一族は、瀬織津姫を信仰していたのであります。
天香語山の娘、かぐや姫を向かえた讃岐忌部氏があっと言う間に栄えたという隠語と思われるのです。
しかし、かぐや姫と讃岐の国を関連させる特別なモノはありません。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、また、さぬき”という国名の由来は、矛竿をつくり貢物としたので竿調国(さおつきのくに)と言った竹を連想する国であったというくらいなのです。
さて、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)に奉祀される豊受大神は、伊勢神宮外宮の社伝(『止由気宮儀式帳』)によると、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事が安らかにできないので、丹波国の比沼真奈井(ひぬまのまない)にいる御饌の神、等由気大神(とようけのおおかみ)を近くに呼び寄せなさい」と言われたので、丹波国から伊勢国の度会に遷宮させたと言われております。
『丹後国風土記』逸文には豊宇賀能売命は、丹後国の比治山の頂の真井に降った八人の天女の一人で、和奈佐老夫と和奈佐老婦が衣を隠したため天に帰れず、地上に留まり、
十年間老夫婦のもとで薬酒を醸して冨をもたらしたが、 老夫婦に追い出され各地をさまよって奈具の村に鎮まったとあります。
伊勢の内宮と外宮を1つと見られますが、それよりも格式の高い内宮の別宮に荒祭宮(あらまつりのみや)〔三重県伊勢市宇治館町にある内宮(皇大神宮)の境内別宮〕があります。荒祭宮の祭神は天照坐皇大御神荒御魂(あまてらしますすめおおみかみのあらみたま)であり、創建は垂仁天皇26年10月と伝えられ、内宮の正殿と同時に建てられたと言われます。そして、皇大神宮に準じた祭事が行われ、神饌の種類や数量は正宮とほぼ同等であり、神宮式年遷宮も正宮とほぼ同時期に遷宮されるという格別のはからいがなされております。では、天照坐皇大御神荒御魂とはどんな神なのでしょう。
鎌倉時代に編纂された伊勢神道(度会神道)の根本経典、神道五部書(しんとうごうぶしょ)の中の一書に「倭姫命世紀」があります。
その荒祭宮に関する記述に、
荒祭宮一座〔皇太神宮荒魂、伊弉那伎大神の生める神、名は八十枉津日神なり〕一名、瀬織津比め神、是也、御形は鏡に座す。
内宮、荒祭宮に祭られているのは、天照坐皇大御神荒魂で伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の禊によって生まれた八十枉津日神で、またの名を「瀬織津姫」であると記されているのです。
八十枉津日神=瀬織津姫???
八十枉津日神とは、大禍津日神(おおまがつひのかみ)と共に禍(わざわい)をもたらす悪神です。妻の伊邪那美命に追われ、黄泉国から現世へ逃げ帰った伊邪那岐命が、死の国の穢を祓うために橘小門の阿波岐原で禊ぎをしたときに、最初に生まれたのが、八十禍津日神と大禍津日神でした。
元も伊勢神宮は、第11代垂仁天皇の第4皇女、倭姫命(やまとひめのみこと)が、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)の元となる瀧原宮を創建されたと伝えられております。
瀧原宮には、男性太陽神の天照巫皇大御神御魂(あまてらしますすめおおかみのみたま)天照大神が祭られ、左の瀧原竝宮(たきはらならびのみや)には、女性水神の瀬織津姫が祭られておりました。
しかし、7世紀後半(第21代雄略天皇22年)、現在に近い形態の祭祀に変えられると、男性太陽神は外宮多賀宮に豊受大御神荒御魂と名を変えて遷され、瀬織津姫も天照坐皇大御神荒魂と名を変えられて荒祭宮に移されました。
<s-02-28 天照大神は時代と共に、男神となり、女神となる>
つまり、第11代垂仁天皇の御世以前までは、瀬織津姫は月の女神として信仰されていたのであります。
猿田毘古神は邇邇芸命の天孫降臨の道案内を終えるとアメノウズメ(天鈿女命)を娶って伊勢に鎮座しておりますから紀元後2世紀頃の伊勢を支配していたのは、猿田毘古神(さるたひこのかみ)の一族でありました。
猿田毘古神は、その容姿から塩土老翁神と同一神とされております。
つまり、
浦島太郎=塩土老翁神=住吉明神=猿田毘古神
そして、浦島太郎を竜宮城で出迎えてくれた
瀬織津姫の妹=乙姫
日向、伊予、住吉、伊勢が塩土老翁によって繋がりました。
神武天皇はニギハヤヒの正妻である瀬織津姫の一族の協力を得たことで、神武天皇が畿内に入るのは容易と思われていたのですが、長髄彦らの思わぬ抵抗に遭い、苦戦を強いられた訳であります。しかし、同じニギハヤヒの子孫である熊野の高倉命が味方に付いたことにより、神武の東征は成功します。
この神武の東征をプロデュースした塩土老翁こと住吉明神は、『帝王編年記』によれば、神功皇后に欲して渟中椋(ぬなくら)の長岡の玉出峡(たまでのお)の地に求め、住吉の地における鎮祭年を神功皇后摂政11年として住吉大社を創建しております。
つまり、紀元後2世紀頃の住吉明神は、まだ津の国に住んでいなかったことになります。浦島太郎が讃岐に縁浅からぬようでありますから、讃岐・阿波の人であった可能性は高いのであります。
住吉明神、つまり阿波・讃岐の海族(後の忌部氏)は小国が乱立して分断気味の倭国の流通を安定させる為に神武の東征を利用したと考える方が妥当なのであり、その目論み通りに忌部氏は全国に勢力を広げました。
しかし、時代は移り、大伴氏や物部氏が台頭すると、ニギハヤヒ・瀬織津姫は神功皇后と挿げ替えられ、忌部氏も歴史の表舞台から去ってゆきます。それと同時に阿波の神話も消えてゆき、残された『阿波古事記』は、正しい伝承とは言い難いものとなっています。
しかし、
出雲風土記に国譲りなどなく、阿波風土記に国譲りがある
のように、様々な事象が、畿内(阿波・讃岐・摂津・和泉・河内・大和・紀の国)にイザナギ・イザナミ神話の発祥地があることを告げていてくれるのです。
4. 天孫降臨は2度あった。へ
【参考資料】
<s-02-X01 天の岩戸の日本地図>
■天の岩戸
滋賀県米原市弥高 - 平野神社。
京都府福知山市大江町 - 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。
滋賀県高島市 白鬚神社 - 岩戸社。
奈良県橿原市 「天岩戸神社」 - 天香久山の南麓。
三重県伊勢市 伊勢神宮外宮 - 「高倉山古墳」。昭和時代に入山が禁止された。
三重県伊勢市二見町二見興玉神社 - 「天の岩屋」
三重県志摩市磯部町恵利原 - 恵利原の水穴
岐阜県各務原市「手力雄神社」「史跡めぐり」
兵庫県洲本市先山 - 岩戸神社。
岡山県真庭市蒜山 - 茅部神社の山の上方。
徳島県美馬郡つるぎ町 - 天の岩戸神社の神域にある。
山口県山口市秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、玉祖命の神社に近い。
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字岩戸 - 天岩戸神社の神域にある。同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。
沖縄県島尻郡伊平屋村「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。
■岩戸
千葉県袖ヶ浦市坂戸市場 坂戸神社(袖ヶ浦市)天岩戸のかけらという伝承の岩、天磐戸の石碑がある。
長野県長野市戸隠 戸隠神社には、岩戸が落下してきた伝承がある。
岐阜県郡上市和良町 戸隠神社。天岩戸のかけらという伝承の岩がある。
奈良県奈良市柳生 天石立神社。この地まで飛ばされてきたという岩がある。
火産霊神社(福井市手寄町)
<s-02-X02 イザナミの墓>
■イザナミの墓
島根県松江市八雲町日吉 岩坂陵墓参考地(いわさかりょうぼさんこうち)
広島県庄原市から島根県仁多郡奥出雲町境にある 比婆山(ひばやま)
島根県松江市東出雲町揖屋 揖夜神社 横屋の比婆山
三重県熊野市有馬町130 花の窟(はなのいわや)神社
徳島県吉野川市 高越山(伊射奈美(いざなみ)神社)
徳島県三好郡東みよし町 新田神社(加茂谷川岩陰遺跡)
愛媛県上浮穴郡 上黒岩岩陰遺跡
■イザナミを祭る九州の神社
福岡県直方市 多賀神社
宮崎県宮崎市 江田神社
宮崎県都城市高崎町東霧島 東霧島神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町三ヶ所 三ヶ所神社
宮崎県西臼杵郡五ヶ瀬町鞍岡 祇園神社
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字向山 向山神社
宮崎県西臼杵郡 高千穂町岩戸 落立神社
宮崎県西臼杵郡 高千穂町押方 嶽宮神社
宮崎県宮崎市阿波岐原町産母 江田神社
熊本市東区 沼山津神社
熊本市北区和泉町 赤水白山比咩神社
熊本県嘉島町井寺 浮島神社 (嘉島町)
■九州の大国主の墓・神社
宮崎県西都市三宅西都原 尾八重神社 西都原古墳群
宮崎県児湯郡都農町川北 日向国一之宮都農神社
宮崎県宮崎市田野町甲 田野天建神社(旧田野神社の大国主尊(オオクニヌシノミコト)、旧田野大宮大明神の百済王(くだらおう)天建神社の天児屋根命(あめのこやねのみこと)の三神を合祀)
宮崎県北諸県郡三股町大字 御崎神社
宮崎県西諸県郡高原町後川内 霞神社
福岡県遠賀郡岡垣町手野 大国主神社
熊本県熊本市北区植木町鐙田 鐙田杵築神社
熊本市北区西里硯川町 川東大己貴神社
長崎県壱岐市郷ノ浦町大原触 大国主神社
鹿児島県日置市吹上町中原 大汝牟遅(オオナムチ)神社
山之口町 南方神社 建御名方命(たけみなかたのみこと)
(熊本県山鹿市志々岐 志々岐阿蘇神社)
■鹿児島県・宮崎県の建御名方の神社
鹿児島県鹿児島市清水町 南方神社
諏方大明神社(南方神社)
鹿児島県薩摩川内市中郷町 諏訪神社
鹿児島県肝属郡南大隅町根占川南 諏訪神社
鹿児島県南さつま市加世田小湊 八幡神社(南方神社合祀)
鹿児島 県 薩摩 川内 市 樋脇 町 市比野 諏訪神社
宮崎県都城市山之口町花木 南方神社
宮崎県宮崎市芳士 諏訪神社
宮崎県児湯郡川南町川南 阿諏訪神社
■九州の主な建御雷之男神(タケミカヅチ)の神社
鹿児島市春日町 春日神社
大分県日田市 月隈神社
春日神社(大分市)
春日神社(北九州市八幡西区)
宮崎県延岡市恒富町 春日神社
山王神社(長崎市)
■九州で素戔嗚尊が八岐大蛇を斬ったと伝承される場所
熊本県天草郡五和町 鬼の城
福岡県北九州市小倉の紫川の上流 平尾台
■黒髪山の大蛇退治
佐賀県武雄市 黒髪神社上宮
■大国主に関わる神々の神社
八十神、オオナムチが求婚を申し出た姫 八上比売(やかみひめ)
売沼神社(鳥取県鳥取市) 八上比売
都波只知上神社(鳥取県鳥取市) 八上比売
島御子神社(長崎県対馬市) 八上比売
・オオナムチを殺した八十神
・オオナムチを山で木の罠に掛けて殺してしまいます。(母の嘆願によって生き返ります)
・木の国(=紀伊国)のオオヤビコの元にオオナムチは逃げてきます
八十主神社 香川県仲多度郡多度津町 祭神: 大国主大神、大国主命(大己貴命)
・オオナムチを助けた姫、刺国若比売(サシクニワカヒメ)・蚶貝比売(キサガヒヒメ)
赤猪岩神社(あかいいわじんじゃ) 鳥取県西伯郡南部町 刺国若比売
出雲大社の摂社天前社(伊能知比賣神社)蚶貝比売
岐佐神社(静岡県浜松市西区)蚶貝比売
加賀神社(島根県松江市島根町)キサガイヒメ命
法吉神社(島根県松江市法吉町) ウムギヒメ命
<s-02-X03 三重県の神社>
■三重の建御名方の神社
大西神社 いなべ市北勢町阿下喜276 建御名方神・下照姫命・譽田別命
丸山神社 いなべ市北勢町川原 412 建御名方神・天兒屋根命・佐々木高綱公
小原神明社 いなべ市北勢町小原一色 54 建御名方命・菊理姫命・豊受大神
多喜諏訪神社 いなべ市北勢町向平 408-1 建御名方神・火産靈神・大山祇神
八幡神社 いなべ市員弁町下笠田 147 譽田別命・天照大御神・建御名方神
鳥取神社 員弁郡東員町大字鳥取 1457 天湯河桁命・大日霎貴命・建御名方命
諏訪神社 桑名市多度町北猪飼 476 建御名方神・大山津見神・帯中津日子神命
古濱神社 桑名市多度町御衣野 2024 建御名方神・大山津見神・天之菩卑命
諏訪神社 桑名郡木曽岬町大字新加路戸 38 建御名方神
廣幡神社 三重郡菰野町大字菰野 2770 譽田天皇・建御名方神・事代主神
諏訪神社 四日市市諏訪栄町 22-38 建御名方命・事代主命
白髭神社 四日市市大字泊村 825 猿田毘古神・建御名方神・建速須佐之男神
諏訪神社 伊賀市丸柱 1545 建御名方命・大日霎貴命・天兒屋根命
日置神社 伊賀市下柘植 2260 大日霎貴命・健御名方命・健速須佐之男命
小宮神社 伊賀市服部町 1158 呉服比賣命・建御名方命・大山祇命
猪田神社 伊賀市下郡 591 猪田神・依那古神・建御名方命
諏訪神社 伊賀市諏訪 1616 建御名方命・八坂入姫命・建速須佐之男命
参考(建御名方命を祭神にしている神社数、宮崎県14社、鹿児島県121社、大分県8社、熊本県34社、福岡県27社、佐賀県10社、長崎県7社、高知県7社、愛媛県11社、徳島県23社、香川県4社、山口県9社、広島県12社、岡山県23社、島根県20社、鳥取県9社、兵庫県36社、大阪府4社、京都8社、奈良県1社、和歌山県16社、滋賀県16社、三重県22社、愛知県44社、岐阜県70社、静岡県85社、神奈川県76社、東京都31社、埼玉県86社、群馬県101社、栃木県11社、千葉県96社、茨城県42社、山梨県184社、長野県463社、福井県18社、石川県75社、富山県65社、新潟県888社、福島県67社、山形県76社、宮城県20社、秋田県46社、岩手県19社、青森県9社、北海道5社、沖縄県0社)
■三重の建御雷之男神の神社
春日社 桑名市多度町小山 1018 建御雷之男神・慟立久船戸神・大山津見神
野志里神社 桑名市多度町下野代 3073 天照大神・建御雷神・天兒屋根命
春日社 桑名市多度町力尾 2140 建御雷男神・天兒屋根命・経津主神
春日神社 桑名市大字稗田 393 建御雷男之神・齋主神・天兒屋根命
春日神社 桑名市大字大貝須 302-12 建御雷之男神・天兒屋根命・斎主神
能部神社 桑名市大字能部 1073-1 建御雷男之命・大比霎貴命・素盞嗚命
井手神社 三重郡菰野町大字永井 338 大日霎貴尊・建甕槌神・品陀別尊
福王神社 三重郡菰野町大字田口 2404 武甕槌神・天火明饒速日命・天照大神
春日神社 伊賀市川東 613 武甕槌命・経都主命・天兒屋根命
大村神社 伊賀市阿保 1555 大村神・武甕雷神・天押雲神
比々岐神社 伊賀市北山 1426 比々岐神・武甕槌神・事解男神
種生神社 伊賀市種生 1278 武甕槌神・健速須佐之男命・紀友雄
鹿嶋神社 伊賀市霧生 2587 武甕槌神・天押雲神・経津主神
宇流冨志祢神社 名張市平尾 3319 宇那根大神・武甕槌神・経津主神
積田神社 名張市夏見 2162 武甕槌命・天兒屋根命・経津主命
上山神社 うえやまじんじゃ 熊野市神川町神上 374 速玉男命・事解男命・武甕雷命
参考(武甕雷命を祭神にしている神社数、宮崎県0社、鹿児島県15社、大分県2社、熊本県2社、福岡県8社、佐賀県0社、長崎県14社、高知県2社、愛媛県15社、徳島県3社、香川県3社、山口県4社、広島県3社、岡山県21社、島根県15社、鳥取県1社、兵庫県99社、大阪府3社、京都4社、奈良県4社、和歌山県18社、滋賀県42社、三重県22社、愛知県10社、岐阜県23社、静岡県18社、神奈川県19社、東京都10社、埼玉県8社、群馬県6社、栃木県36社、千葉県41社、茨城県329社、山梨県22社、長野県9社、福井県9社、石川県52社、富山県5社、新潟県13社、福島県49社、山形県29社、宮城県57社、秋田県39社、岩手県13社、青森県17社、北海道6社、沖縄県0社)
■日本海の建御名方の神社
諏訪神社 新潟県十日町市北新田731 建御名方神
諏訪神社 新潟市東区牡丹山3-14-38 建御名方神
諏訪神社 新潟市中央区山二ツ5-4-20 建御名方神
諏訪神社 新潟県糸魚川市寺島591 建御名方神
諏訪神社 新潟県燕市水道町1-4-14 建御名方神
竹尾諏訪神社 新潟市東区竹尾3-20-14 建御名方神
諏訪神社 新潟市江南区平賀220 建御名方神
諏訪神社 新潟市東区海老ケ瀬709 建御名方神
諏訪社 新潟市中央区笹口186 建御名方神
諏訪神社 新潟市秋葉区川口7 建御名方神
諏訪神社 新潟県長岡市土合3-4-8 建御名方神
(新潟県県の建御名方神の神社888件)
諏訪社 富山県富山市坂本2925 建御名方神
(富山県の建御名方神の神社65件)
安田春日神社 石川県白山市北安田町1041 建御名方神
静浦神社 輪島市大沢町宝来74 健御名方神
(石川県の建御名方神の神社75件)
諏訪神社 京都府綾部市西坂町嵩松54-1 建御名方神
諏訪神社 京都府綾部市物部町荒山54-1 建御名方神
諏訪神社 京都府綾部市物部町荒山54-11 建御名方神
諏訪神社 京都府綾部市志賀郷町大畑44-3 建御名方神
〔日本海側で建御名方神の神社は、綾部市のみ〕
(京都府県の建御名方神の神社8件)
(兵庫県の建御名方神の神社36件、日本海側はなし)
諏訪神社 鳥取県米子市諏訪890-1 建御名方神
諏訪神社 鳥取県東伯郡琴浦町八橋1681 建御名方神
一ノ宮倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754 建御名方神
(鳥取県の建御名方神の神社9件)
伊賀武神社 島根県仁多郡奥出雲町佐白116 武御名方神
鎌倉神社 島根県雲南市大東町上久野269 武御名方大神
野代神社 島根県松江市浜乃木2-10-30 建御名方命
若宮神社 島根県出雲市十六島町99 建御名方之神
熊野神社 島根県出雲市本庄町278 武御名方神
(島根県の建御名方神の神社20件)
■日本海の建御雷之男の神社
春日神社 新潟県上越市本町 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神
春日神社 新潟県上越市本町 天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神
(富山県の武甕槌命の神社13件)
建石勝神社 富山県魚津市吉島2972 武甕槌神
(富山県の武甕槌命の神社5件)
鹿島神社 福井県越前市大谷町5-52 建御雷之男神
鹿島神社 福井県丹生郡越前町新保11-36 建御雷之男神
鹿島神社 福井県福井市西別所町25-1 建御雷之男神
鹿島神社 福井県福井市畠中町25-17 建御雷之男神
鹿島神社 福井県吉田郡永平寺町市荒川28-7 建御雷之男神
鹿島神社 福井県吉田郡永平寺町藤巻48-7 建御雷之男神
金津神社 福井県あわら市春宮2-14-64 武甕槌命
春日神社 福井県坂井市三国町新保18-16 武甕槌命
安波賀春日神社 福井県福井市安波賀町15-13 武甕槌尊
犀川神社 石川県金沢市中央通町16-1 武甕槌命
安田春日神社 石川県白山市北安田町1041 武甕槌命
鹿島神社 石川県鳳珠郡穴水町鹿島ハ9 武甕槌神
須須神社奥宮 石川県珠洲市狼煙町カ74 武甕槌命
須岐神社 石川県金沢市東蚊爪町ホ100甲 鹿島坐健御賀豆智命
(石川県の武甕槌命の神社52件)
(日本海側の京都県の武甕槌命の神社0件、県全域でも4件)
楯石神社 兵庫県豊岡市日高町祢布446 武甕槌命
三柱神社 兵庫県豊岡市城崎町今津475-1 武甕槌命
鷹野神社 兵庫県豊岡市竹野町竹野84-1 武甕槌命
兵主神社 兵庫県豊岡市竹野町芦谷小155 武甕槌命
(兵庫県の武甕槌命の神社99件、日本海側は豊岡のみ)
鹿島神社 鳥取県倉吉市伊木567 建御雷之男神
(鳥取県の武甕槌命の神社1件)
鹿島神社 島根県出雲市武志町673 建御雷之男神
田原神社 島根県松江市奥谷町121 建御雷之男神
松崎神社 島根県松江市春日町339 武甕槌神
奥宇賀神社 島根県出雲市奥宇賀町1388-14 武御雷之男命
春日神社カ 島根県松江市手角町371 武甕槌神
古森神社 島根県雲南市木次町寺領1421 武甕槌神
許豆神社 島根県出雲市小津町477 建御雷之男神
多氣神社 島根県松江市上宇部尾町332 武甕槌命
(鳥取県の武甕槌命の神社15件)
■カグツチ
火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。
静岡県浜松市天竜区春野町領家 秋葉山本宮秋葉神社
京都府京都市右京区嵯峨愛宕町 愛宕神社
大阪府堺市中区深井清水町 野々宮神社
静岡県熱海市伊豆山 伊豆山神社
愛知県豊橋市下地町宮前 豊麻神社
大阪市東区渡辺町 陶器神社
滋賀県甲賀郡信楽町 陶器神社
※3)白髭神社
浅草寺は百済仏であり、土師中知という土師氏も百済系です。羽曳野市、「近つ飛鳥」の河内のほうの飛鳥に行きますと飛鳥戸神社というのがあって、百済の混伎王(こんきおう)を祭る神社も百済系であります。
逆に、全国に沢山の白髭神社がありますが、浅草の白髭神社は由緒書きを見ますと、近江の白髭神社を勧請したものとあり、近江の白髭神社は新羅系の渡来氏族が祭った神社であります。それと一緒に祭られているのが猿田彦という国つ神です。
この白髭神社の本社に高麗神社があり、その高麗神社は高句麗から彼らが渡来した者が祭った神社であり、その系図、朝鮮では「族譜」(ジョクポ)は鎌倉の中期の1259年に焼けてしまって一部しか残っておりません。その副本には高麗、高麗井、駒井、井上、新、神田、新井、丘登、岡登、岡上、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、中山、武藤、芝木の各氏が集まって編纂したと書かれております。
『続日本紀』には、716年に「千七百九十九人の高麗人をもって高麗郡を置く」と記されております。
※4)桑名市
桑名市の由来は、桑名の祖と言われる「桑名首(クワナノオビト)」にある。
桑名首は、天久々斯比乃命(アメノククシヒノミコト)という神様であり、天目一箇命(アメノマヒトツノカミ)と同一神とされる。
天久々斯比乃命の父は、天津彦根命であり、アマテラスの子供です。
さて、天目一箇神は「播磨国風土記」の託賀郡(多可郡)の条に天目一命の名で登場し、
実際に桑名市には「播磨」という地名があります。
桑名市の由来は、『和名抄』には「久波奈」と書かれており、静かな湾とされ「ク・ワ・ナ」と呼ばれたとされます。
この桑名は揖斐川河口であり、東海道の宮(熱田)と桑名間を海上七里渡しの伊勢湾海運の中継港として栄えました。
※5)三島鴨神社(みしまかもじんじゃ)
三島鴨神社の社伝によれば、第16代仁徳天皇が茨田堤を築くにあたって、淀川鎮守の神として大山祇神を百済から遷り祀られたという。
『伊予国風土記』逸文によれば、伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神は、またの名を「和多志の大神」といい、仁徳天皇の御世に百済より渡来して津の国の御島に鎮座した。
三島鴨神社、大山祇神社、三嶋大社は「日本三三島」だという。また、『万葉集』には、柿本人麻呂の下記の二つの歌が収録されている。
三島江の 玉江の薦を 標めしより おのがとぞおもう 未だ刈らねど
三島菅 いまだ苗なり 時またば 著ずやなりけむ 三島菅笠
境内社に、八幡宮、唐崎神社、三社(大将軍社・厳島神社・竃神社)、國廣大明神がある。
秋祭が10月第4日曜日、春祭が4月20日。
古くは、『日本書紀』神代上にある事代主神が三島溝樴姫に通ったという故事に基づき、三島溝樴姫を祀る溝咋神社と同日に神幸を行なっていたという。
※6).大三島大山祇神社
大山祇神社の境内に立つ『乎知命御手植の楠(おちのみことおてうえのくすのき)』には、乎知命は饒速日尊(ニギハヤヒノミコト)の十代目に当たり、七歳の時に応神天皇より伊予国小市の国造に任ぜられたともあります。大山祇神社の境内にある由来には、祭神である大山積神は天照大神の兄神で山の神々の親神に当たり、天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の后となった木花開耶姫(このはなさくやひめ)の父とされていると『伊予風土記』に書かれてあると掲示されているのです。それが全国に一万社余りある大山祇神社の総本山であります。
※7).浦島太郎伝説
8世紀の初めに成立した『日本書紀』「雄略紀」の雄略天皇22年(478年)秋7月の条の記述に出てきます。
(雄略天皇)廿二年(中略)秋七月。丹波國餘社郡管川人瑞江浦嶋子乘舟而釣、遂得大龜、便化爲女。於是浦嶋子感以爲婦、相逐入海、到蓬莱山歷覩仙衆。語在別卷。
同じく8世紀に成立した『丹後国風土記』には、
與謝郡日置里此里有筒川村此人夫日下部首等先祖名云筒川嶼子爲人姿容秀美風流無類斯所謂水江浦嶼子者也是旧宰伊預部馬養連所記無相乖故略陳所由之旨長谷朝倉宮御宇天皇御世嶼子独乘小船汎出海中爲釣経三日三夜不得一魚乃得五色龜心思奇異置于船中即寐忽爲婦人其容美麗更不可比嶼子問曰人宅遥遠海庭人乏詎人忽來女娘微咲對曰風流之士獨汎蒼海不勝近談就風雲來(中略)
嶼子即乖違期要還知復難會廻首踟蹰咽涙徘徊于斯拭涙歌曰
等許余蔽尓久母多智和多留美頭能睿能宇良志麻能古賀許等母知和多留
神女遥飛芳音歌曰
夜麻等蔽尓加是布企阿義天久母婆奈禮所企遠理
等母与和遠和須良須奈
嶼子更不勝恋望歌曰
古良尓古非阿佐刀遠比良企和我遠礼婆等許与能波麻能奈美能等企許由
後時人追加歌曰
美頭能睿能宇良志麻能古我多麻久志義阿気受阿理世波麻多母阿波麻志遠
等許余蔽尓久母多智和多留多由女久母波都賀米等和礼曾加奈志企
読み下し:與謝郡日置里、この里に筒川村あり。ここの人夫(たみ)日下部首(くさかべのおびと)等が先祖は名を筒川嶼子といひき。人となり姿容秀美(かたちうるは)しく風流(みやび)なること類なかりき。こはいはゆる水江浦嶼子といふ者なり。これ旧宰(もとのみこともち)伊預部馬養連が記せるに相乖くことなし。故略(およ)そ所由之旨(ゆゑよし)を陳べむ。長谷(はつせ)の朝倉宮に御宇(あめのしたし)らしめしし天皇の御世、嶼子獨り小船に乗りて海中に汎(うか)び出で、釣すること三日三夜を経て一の魚だに得ず、すなはち五色の龜を得たり。心に奇異(あや)しと思ひて船の中に置きて、即ち寐(い)ねつるに、忽ちに婦人(をとめ)と爲りき。その容美麗(かたちうるは)しく更(また)比(たと)ふべきものなかりき。嶼子問ひて曰く、人宅遥遠(ひとざとはろか)にして海庭(うなばら)に人なし、詎人(なにびと)の忽ちに來れるぞといひき。女娘(をとめ)微咲(ほほゑ)みて對(こた)へけらく、風流之士(みやびを)獨り蒼海(うみ)に汎べり、近(した)しく談(かた)らむとするこころに勝(た)へず、就風雲(おとづれ)來つと曰ひき。(中略)
嶼子すなはち期要(ちぎり)に乖違(そむ)きて、還りても復(また)會ひ難きことを知り、首を廻らして踟蹰(たたず)まひ、涙に咽びて徘徊(たもとほ)りき。ここに涙を拭ひて歌ひしく、
常世邊に 雲立ち渡る 水の江の 浦島の子が 言持ち渡る
また神女遥に芳音(よきこゑ)を飛ばして歌ひしく、
大和邊に 風吹き上げて 雲離れ 退き居りともよ 吾を忘らすな
嶼子更(また)戀望(こほしさ)に勝へずして歌ひしく、
娘(こ)らに戀ひ 朝戸を開き 吾が居れば 常世の濱の 波の音(と)聞ゆ
後時(のち)の人追ひ加へて歌ひけらく、
水の江の 浦島の子が 玉匣(たまくしげ) 開けずありせば 又も會はましを
常世邊に 雲立ち渡る 絶ゆ間なく 言ひは継がめど 我ぞ悲しき
室町時代に成立した短編物語『御伽草子』によると、
絶望した太郎が玉手箱を開けると、三筋の煙が立ち昇り、太郎はたちまち老人になった。その後、太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かい、太郎と乙姫は再び巡り会って夫婦の神になったという。
その他にも
◇古事記も日本書紀の浦島モデル
(海幸彦・山幸彦神話より)
◇丹後半島の浦島太郎伝説
・京都府与謝郡伊根町の浦嶋子
浦嶋神社
淳和(じゅんな)天皇は浦嶋子の話を聞き,小野篁を勅使として天長2年(825年)に浦嶋神社を創建し「筒川大明神」として嶋子を祀っています。
・京丹後市網野町の浦嶋子
碑文
「皺榎(しわえのき)
この樹には浦島太郎について次の民話が伝承されてゐる
ここは水の江の住人浦島太郎の終焉のの地で太郎の舘跡なりとの説がある 太郎が龍宮より帰へりて玉手箱を開くに忽ち老翁となる
驚愕(きょうがく)せる太郎はその顔の皺(しわ)を毟(むし)り取ってこの樹に投げつけたりと
依って今日猶(なお)この榎はその樹皮に醜き皺をなすなりと云ふ」
◇丹後国「風土記」逸文
『丹後の国風土記』によると,与謝郡日置(伊根・筒川・本荘から経ヶ岬までの広い地域をさす)に筒川村(現在の伊根町筒川)があります。ここに日下部首(くさかべのおびと)等の先祖で名を筒川嶋子(つつかわしまこ)という者がいました。嶋子は容姿端麗で優雅な若者でありました。この人は水江の浦の嶋子という人のことです。
◇四国香川県荘内半島の浦島太郎
香川県の形は右を向いている亀に似ていると言われます。亀の尾にあたるのが三豊市のある荘内半島です。香川県で高松市,丸亀市に次いで3番目に人口が多い三豊市は2006年に三豊郡仁尾町,詫間町など7町が合併してできた新しい都市です。荘内半島の付け根にあたる海岸の埋め立てが進み,港も整備されました。この荘内半島に,浦島太郎と関係のある地名がいくつもあります。
◇愛知県武豊町の浦島太郎
愛知県知多郡武豊町に伝わる昔話には,この町が浦島太郎の故郷であると書かれています。武豊町にある富貴は「ふき」と読みますが,この読みは昔の「負亀(おぶかめ)」という地名から生まれたものです。負亀の音読みは「ふき」です。また,この地には現在も「浦之島」というような地名があります。
◇鹿児島の浦島太郎
薩摩半島の最南端にある長崎鼻,開聞岳が眼前に迫るこの地に浦島太郎の話が伝わっています。岬にある龍宮神社には豊玉姫(乙姫様)が祀られています。「竜宮城は琉球なり」とも伝えられているのです。
◇寝覚の床と浦島太郎
寝覚の床(長野県木曽郡上松町) 、寝覚山臨川寺が参拝者に配布しているパンフレットには、浦島太郎は竜宮からもどってからどこをどう歩いたかわからないけれど、この山にたどり着いたことになっています。
◇岐阜県中津川市坂下町の乙姫岩
岐阜県中津川市坂下町の木曽川に「龍宮乙姫岩」と呼ばれる岩があります。伝説によると,この岩には乙姫様が住んでいたそうです。
◇岐阜県各務原市の浦島太郎
岐阜県各務原市に前渡(まえど)というところに、市杵島神社には弁財天が祀られています。その弁財天の由来記に濃洲鵜沼の里伊木山東北木曽川の辺に龍宮ヶ城(犬山城の北方にありて現在龍宮池と称す)あり 此の下流に龍宮ヶ淵あり 附近に太郎(生れは信州上松の在に「寝醒の床」あり 其の在所と伝へらる)と云える一猟師あり、(省略)世に浦島太郎とは(太郎が安芸の厳島の浦に住めること七百三十四年故に後世に至り浦島太郎と名付)玉手箱に因む伝説は是れが抑もの起源なりと伝へらる 当神社は福徳寿の守護神であらせられるが 特に延命と夫婦縁結びの神として参拝者多く 縁結びの古奇大木の実存するは崇敬者の賞揚の的となっている。
◇横浜の浦島太郎
神奈川県横浜市に浦島太郎を見つけました。東神奈川駅を降りて,京急線の線路沿いの道を南西方向滝の川に向かって歩きます。やがて,右に寺が見えます。門には大きく慶運寺と書かれています。そして,「龍宮伝来 浦島観世音 浦島寺」と書かれた石碑があります。この石碑は亀の背に乗っているのです。
◇沖縄の浦島太郎
ウサン嶽(オサン御嶽:うたき) 、 沖縄の浦島太郎は「穏作根子」という名前です。「おさねし」と読みが書かれていますが,地元の人は「うさんし-」と呼んでいます。
◇万葉集の浦島太郎
高橋虫麻呂の歌
「春,霞がかかる日に住吉の海で釣り船を見ていると,はるか昔のことが思い出される。水江の浦の嶋子が鰹や鯛を釣って7日,この世と常世の境を越えてしまいました。そこで,海の神の娘である亀姫と会いました。二人は常世で結婚し,暮らしました。3年ほど経って,嶋子が「しばらく故郷に帰って,父母に今の生活を話してきたい。」と妻に言ったところ,「またここで暮らしたいのなら,決してこれを開けてはいけません」と櫛笥(くしげ:玉手箱)を渡された。こうして水江にもどった浦嶋の子だったが,3年の間に故郷はなくなり見る影もなくなっていた。箱を開ければ元に戻るかもしれないと思って開けたところ,常世の国に向かって白い雲が立ちのぼり,浦島の子は白髪の老人になってしまいました。そして,息絶えて死んでしまいました。」
※8)『竹取物語』のかぐや姫のモデル
『古事記』に垂仁天皇の妃として記載される、大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)の娘「迦具夜比売命」(かぐやひめのみこと)が指摘されている(「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもあるか。また、同音の「綴喜」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する)。大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させるが、現存する原文には「さかきのみやつこ」か「さるきのみやつこ」であり「さるき」では意味が分からないので「さぬき」と変えて「讃岐神社」が奈良県広陵町にあったから述べているにすぎない。本来の「讃岐垂根王」の「讃岐」は、四国地方のことであり畿内になく遠い存在と言えよう。『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。
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